第十話 【成功と失敗】
たくさんの意識が存在する広大な海で、綾乃葵という意識はぼんやりと思考する。
なぜここにはたくさんの意識が存在するのか。
なぜそのたくさんの中に自分がここにいるのか。
ここは、どこなのか。
その思考は、鮮明になるどころかより一層朧げになっていき、意識の中へと溶けていくようだった。
海に流れた川の水が、海の水へと取り込まれるように。
少しずつ、少しずつ、たくさんの意識との同一化を始める。
自分の中の大切な何かが失われるような不安と、周りと同じになれるという安心とが綯い交ぜになり、より一層思考が鈍る。
このまま流れに身を任せ、ここの意識と同じになれれば天国に上るような感覚が味わえる気がした。
普段の自分ならありえない行動をしていると自分でもわかっているが、疲れ切った今の自分にそれを拒否するのは酷く億劫で、その疲労も思考を鈍らせる一因だ。
それがわかっているのに、葵はその沼から抜け出そうとは思わなかった。
まるで呪いのように、その意識たちが葵の意識を束縛する。
さながら、昔話などに出てきそうな死へと誘う妖怪のように。
瞼を閉じて、全身の力を抜き、意識の海へと身を委ねる。
それはまるで、冬の寒い朝に毛布に包まり二度寝をするような心地よさがあって。
起きなきゃという意思は、毛布のぬくもりと眠気の前には無力で。
そんな日に、いつも葵を起こしてくれたのは――
「――」
どこかで、声が聞こえた。
聞き覚えのある、安心感を与えてくれる声だ。
この声の持ち主に全てを託せば、うまく事を運んでくれる、そんな根拠のない自信をくれる声。
もうしばらく、聞いていない声。
「――葵」
いや、葵の知っているものとは、少し違う。
その声は知っている声よりもいくらか大人びていた。
しかしその声は、自分のことを呼んでいた。
「――綾乃葵!」
水の外から水の中に声をかけるような、濁っている声。
それでも自分のことを呼んでいるとわかる声。
俺のことをフルネームで呼んでくる相手は、どれくらいいただろうか。
いや、そんなことを考えるのも面倒くさい。
今は、この夢のような微睡の中で、しばらくの間、休んでいよう。
「結愛を――お前の世界を救うんだろう! アヤノ・アオイ!」
瞬間、葵の意識は覚醒する。
体の内側から何かに押し上げられたかのような感覚に陥り、体をガバッと起こした。
体に異常はない。
体の内側から押し上げられた感覚はあっても、実際に体の中から何かが飛び出た様子もない。
そのことに安堵しつつ、葵は周りを見渡そうとして――
「ようやくお目覚めになられましたか、葵様」
「……ああうん。おはよう……でいいのかな?」
その声に釣られ、右を向く。
ラディナが、少しだけ心配そうな声音で、葵に言葉をかけてきた。
それに、一瞬だけ反応が遅れ、葵は言葉を返す。
「はい。まだ日が昇って数時間というところですので、おはよう、で問題ありません」
「そっか。それはよかった。それで、あのあの子は無事?」
自分の認識が間違ってなかったことに安堵するのもそこそこに、葵は先ほどの魔術陣の渦中にいた銀狼のことが気になった。
葵が途中で気を失ってしまった以上、あの魔術陣が正しく効果を発揮していない可能性がある。
というか、葵が想定した効果は発揮できていない。
だから、何か悪いことが起こってしまったのではないか、と不安になったのだ。
しかし、葵の心配も他所に、ラディナはジト目とでもいうべき、胡乱な視線を葵に向けた。
結愛に私の気持ちも考えてる? と本気半分冗談半分で言われた時の表情にそっくりで、何かをやらかしたことだけは理解できた。
「えっと……俺なんか間違えた?」
「……いえ、葵様は魔術陣の行使の最中、魔力切れで倒れられてすでに二日が経過していますので、心配だったこちらの気持ちも汲んでくれないか、と思ったのですが、そもそも人は、自分がどれだけ眠ったか、という認識はできないので無茶なお願いでした」
「まぁうん。その通りだな。にしても俺、二日も寝てたのか」
「はい。このまま意識を取り戻さないのではないか、と心配でした」
「……心配、してくれたんだ?」
会話をしていくうちに、意識が鮮明になってきた。
二日も眠っていた影響か、寝覚めはいいはずなのに、あまり頭が回っていなかったようだ。
感覚も同時に鈍っていたらしく、今更ながら、ラディナが葵の右手を握ってくれているのを認識した。
必要最低限以外、葵の体に触れようともしてこなかったこれまでのことを考えても、その異常とも取れる行動に少しだけ驚いた。
葵の視線が右手に向き、そこに握るようにして添えられている自分の両手があることを認識して、ラディナはそっとその手をどけた。
「私の使命は葵様を生かすことです。このようなところで死なれては困ります」
「なるほどね。じゃあこれは聞いていいのかわからないんだけど、なんで俺の手に手を重ねてくれてたの?」
「葵様が魘されていらっしゃるように見えたので、私が辛かった時に、母がしてくれたことをしたまでです」
「……そっか。ありがとね、ラディナ」
どうやら、葵のことを心配してのことだったらしい。
少し邪な思考が混じっていた自分のことを恥じる。
「それで、あの子は無事?」
「はい。そちらにいらっしゃいますよ」
そう言えば、と葵が本来聞きたかったことをもう一度訊ねると、ラディナは葵の反対側、左側に視線を向けてそう言った。
そちらを見て少し下に目線を落とすと、ベッドの脇の床上にちょこんと座っているソウファがいた。
その隣には、梟のアフィもきちんと座っている。
「体調はどう? 問題ない?」
「はい。アオイ様のおかげで何も問題はありません! むしろ、いつもより調子がいいくらいです!」
「そう。それはよかった。アフィもどこも問題ないようだね?」
「ああ。じゃなくて、はい。アオイ――様のおかげで、ソウファも助かった。礼を言う――ます」
「ぎこちない敬語だな。無理に敬語にしないでいいぞ」
「そ、そうか? いやしかし命の恩人に敬語じゃないのは失礼じゃないか? です」
「んーまぁそうだな。じゃあラディナの口調を真似ればいいんじゃないか? 敬語じゃなくていいよって言ってるけどずっと敬語だし」
どうやら、加護の影響からは脱せたようなので、ひとまず安心だ。
梟の方も、敬語が不自然ということを除けば問題はないようで安心した。
なにせ、葵が魔力切れを起こしたということは、葵に魔力を注いでいた人達からの供給が途絶えたということで、それは供給している側の魔力も尽きた、ということに他ならないからだ。
魔力切れで起きる現象としては全身の倦怠感や頭痛などがあり、それを無視して魔力を使い続ければいずれ死に至る。
後遺症が残ることは滅多にないがゼロというわけではない、と本で読んだので心配だったが、どうやら杞憂で済んだようだ。
「それで葵様。魔力切れで倒れた影響は何かありましたか?」
「うん。あるよ。今から話す。騎士団の人たちは?」
「まだ援軍が到着しておらず、町の警備と結愛様の捜索に穴をあけるわけにはいかない、と私たちに葵様を任せられました」
「てことは騎士団の人たちも無事なんだね。それがわかったらいいや。じゃあ――」
葵はラディナの言葉で、表情を真剣なものにする。
それを受けた、一名と二匹も、同じように居住まいを正す。
「まず、俺の魔術陣の効果は、君にかけられた銀狼の加護の効果を、俺に譲渡する、というものだ。でも、俺の魔術陣は行使するにあたって想像以上に魔力を食ったらしくて、俺とラディナと騎士団三名の全魔力でも足りなかった。ここまでは大丈夫だよね?」
「はい」
「魔力が足りなくて、俺は魔術陣を最後まで行使し続けることができなかった。魔術陣の大部分は問題なく発揮できて、予定通り、ソウファに継承された銀狼の加護は俺に譲渡できた。ちょっと想定外だったのは、俺とソウファの間に、物理的――ではないけど、繋がりができた。なんていえばいいのかわからないけど、これは少なくとも、悪い方向へ働くものじゃないと思う」
言葉の内容を確認するように、ソウファの方を向いて話す。
それを聞いたソウファは、その通りです、と言うように頷いた。
それを見て葵も頷き、話を続ける。
「それで、まぁ魔術陣の効果が発揮できたからそこまではよかったんだけど、最後まで魔術陣を完遂できなかった影響で、銀狼の加護の制御が完璧にはできなかった。能力的な面は、俺とソウファの間で共有してるから制御できるんだけど、問題は俺の中に移った銀狼の加護に蓄積された五千年の記憶だ。これが、完全に制御しきれなかった」
「……すると、どうなるのですか?」
「今俺の中には、俺が生まれてから十六年分の記憶と、銀狼の加護に蓄積された五千年の記憶がごちゃまぜになってる。ごちゃまぜって言っても、俺の記憶が消えたわけじゃないからそこは大丈夫。でも、五千年の記憶が相当不可になって言るっぽくて、今も思考の大半をそっちに割いてる。一応、記憶の部分に該当する加護を魔力で封じ込めるようにすれば、思考はできるようになる。ただしその場合、俺は“魔力操作”の一部分をそっちに割かなきゃいけなくなる。つまり俺は、今まで通りに動けなくなる」
「……その記憶は制御することはできないのですか?」
「多分できないと思う。少なくとも今の俺に、記憶の制御なんて芸当はできないから、時間をかけてどうにかする、ってことはできない。だから、俺はこのままだ。“魔力操作”の練度が今の倍くらいになったら、今とさほど変わらない程度で動けると思うけど、そうなることは多分ないだろうから、結論はできないね」
「……」
葵の説明を聞いて、ラディナは押し黙った。
ラディナは葵の“魔力操作”の練度の高さを知っているからこそ、説明通り、無理があることをわかっているのだろう。
そして、左に座るソウファもアフィも、申し訳なさそうにしていた。
「二人とも、そんな顔しないで。元々、どっちかが死ぬ可能性があったんだから、どっちも生きて、しかも普通に暮らす分には何も問題はないんだからさ」
「……しかし、葵様は今後人と魔人の続けてきた大戦に参加為されるのでしょう? それではかなり厳しいものになるのではないでしょうか?」
「ラディナから聞いたのか? まぁ確かに、それはあるだろうけど、なにも戦えなくなるってわけじゃない。元々、“魔力操作”は魔術と“身体強化”を使うときにしか使ってこなかったわけだし、俺は魔力量が凡人より少ないから魔術を頻発できない。“身体強化”に使える分だけの“魔力操作”は残ってると思うから、そこまで気にすることじゃないよ」
「でも……」
「大丈夫。俺は今は一人じゃないから、助けてもらいながらでもできるよ。ソウファもアフィも被害者なんだ。気にすることはないよ」
ソウファはやはり黙る。
自分を助けるために誰かが犠牲になってしまったと考えたら、確かに申し訳ない気持ちになるのはわかる。
葵も、もし自分の為に結愛が何らかの制限を負うことになったら、結愛がどれだけ気にしないで、と言っても申し訳なさは残るだろう。
なら、葵が今ソウファにしてやれることは――
「――じゃあさ、俺の弱くなってしまった部分を、二人が補ってくれない?」
「……え?」
「申し訳ない、命を救われた恩を返したい、って思うなら、俺とラディナについてきて、色々と手伝ってくれないかな?」
「……」
葵がそう提案すると、ソウファとアフィは顔を見合わせた。
その様子はまるで、呆気にとられる、というよりは、拍子抜け、という言葉が当てはまりそうだ。
ほんの数秒、顔を見合わせていた二人は、ゆっくりと葵の方に向き直った。
「……そんなことで、よろしいのですか?」
「もちろん。俺ができなくなった部分は、二人がいれば余裕で補えるでしょ?」
「それはおそらくできると思います」
「うん。なら、それをしてくれると助かるよ」
「……わかりました。私は、葵様の為に精いっぱい働きたいと思います」
「俺も――いや、私も、葵様の為に力を尽くそう」
「無理して敬語にする必要ないよ。葵でも綾乃でも、好きなように呼んでくれ」
「――わかった。じゃあ俺は、葵って呼ばせてもらう」
「なら、私は主様、と」
「ちょっとソウファさん? その呼び方は候補にないよ?」
「? しかし好きなように呼んでいいと……」
「あー……まぁいっか。俺たちは呼び捨てにさせてもらうね。詳しいことは、ご飯食べながら話すよ」
お腹が空いたわ、と葵はお腹を擦りながら、そう言った。