第七話 【少女の決断】
儀式場が見える小高い丘の上で、俺たちは三人で固まっていた。
森を挟んで見える位置に陣取ったため儀式場まではかなり距離があるが、結界内なら転移は自由に使えるので目視の距離くらいなら大したものではない。
何かが起こればすぐに対応できるようにだけしておいて、俺たちはこれから行う作戦会議を進める。
「――って流れで行くつもりなんだけど、問題はない?」
「大丈夫よ」
「私も問題ありません」
吸血鬼の少女を助ける為の作戦の確認に、結愛とパトリシアさんは頷いた。
作戦とは言ったが、実際に作戦の要となるのは俺たちではなく吸血鬼の少女だ。
俺の我が儘はあくまで吸血鬼の少女をあそこから引っ張り出すことで、その先は全て少女次第。
そう考えると、俺のやろうとしていることは中々にまずいのでは……?
「ここに来て後悔しても遅いんじゃないかしら?」
「……やっぱりそう思う?」
薄々気付き始めたことを、結愛にズビシと指摘された。
尤も、指摘されたとて何かを変えるつもりもないわけだが。
「ま、後悔なんてどんな道選んでもどうせするんだし、だったら今後悔しない道を選んだらぁよ」
「やけくそじみてるわね。葵くんらしいと言えばらしいのかもしれないけれど」
「だろ?」
「微塵も褒めてないわ」
結愛に呆れられた。
ついでにジト目も頂戴した。
不思議と心地いい。
決してМ気質なわけではない。
決してだ。
「パトリシアさんはやっぱり不服?」
俺と結愛がガヤガヤやってる間も、パトリシアさんの表情は優れなかった。
心ここに在らずというか、何か別の物事に意識を奪われているというか。
いつもは一歩引いた場所で俺と結愛のやり取りを冷ややかな目で見ていたから、その違いにどうしても意識が向く。
結愛の『せっかくだし』の一言で今この場に来てもらっているのだし、蟠りを残したままではいたくない。
そのためにはまず話し合いをするべきだ。
なんて言うと話し合いの場を設けられなかった事情でもあったように聞こえるが、そもそも結愛と一緒にいる居心地の良さに感けてそれ以外のことを蔑ろにしてきたツケを払うだけ――つまるところは自業自得だ。
「――いえ。葵さんの作戦に不満などありません」
「そう? ならいいんだけど……ほら、俺ってパトリシアさんに嫌われてるじゃん? だからここいらできちんと話し合って清算しときたいなぁ……なんて思うんだけど」
「……時間はあるのですか?」
「儀式は月が頂点に行ってからだからね。まだちょっとだけ、余裕はある」
夜が来てからしばらく経つが、月が真上へ昇るまではまだ数十分ある。
それだけあればこれまでの清算くらいならできるだろう。
「……では、お言葉に甘えさせていただきまして……私には、葵さんがわからないのです」
「わからないって言うと?」
「私が、共和国で、初めてお会いした葵さんを、覚えていますか?」
「……覚えてるよ」
きちんと思い出している、の方が言葉としては正しいか。
共和国で結愛と似た人を見つけたという報せを受け、俺は見つけた当人であるムラトたちの案内で共和国へと赴いた。
そこでコージと会った翌日、あの公園で眠ってしまった日。
あの日、眠る前に、俺は結愛と会っていた。
組合で結愛と再会し、そしてフレッドたちと抗争になった。
経緯は……まぁ神聖国での再々会を思い返せばわかりやすいか。
あの日起きたらしい組合でのいざこざの犯人は、どうやら俺だったらしい――と、それは今はいいとして。
本題は、その時に既に仲間だったパトリシアさんを覚えているかという話。
あの時のパトリシアさんは、俺の凶行に怯えていた。
怯え、恐れ、アヤさんの陰に隠れていた。
あの場で結愛と関わりのありそうな人物の行動、表情、言葉は、全て記憶した。
はっきりと、覚えている。
「私が葵さんに抱いた第一印象は、“怖い人”でした。人の話を聞かず、周囲を顧みずに暴れる……そんな暴君のような印象です」
「……まぁ、うん。俺がパトリシアさんと同じ立場なら似たようなことを思っただろうね」
言い訳をさせてもらうのなら、ひと月近くも行方不明で、生死すら不明だった家族が、五体満足で健康そうな状態で見つかって。
嬉しさに感極まっていたら結愛自身に『誰?』と言われ、挙句見ず知らずの人間が複数人で結愛を守ろうと立ちはだかってきた――つまるところ神聖国で結愛と再々会した時と同じ状況が展開されたわけで。
嬉しさやら疑問やらでパニクってたところにフレッドが結愛を許嫁だとか抜かしやがったからもう結愛が洗脳でもされたんじゃないかと勘違いして、結愛を奪い返そうと戦いを挑んだ。
もちろん、冷静に考えてみればその可能性は薄いし、何なら話し合いに持っていくこともできなくはなかっただろうから、マジでこれは言い訳にしかならない。
ならないし、何ならパトリシアさんには関係のない話だしな。
「神聖国で再会を果たした時も同じでした。共和国の時ほどではありませんが、それでも怖さはあった」
「……そうでしょうね」
神聖国でも似たようなことになったわけだしな。
大地さんと真衣さん――結愛の両親がいなければ、共和国の時の二の舞になっていた可能性は否定できない。
いや、ラディナたちが近くにいたとはいえほぼ確実にそうなっていただろうな。
ともあれ、パトリシアさんが抱いていた俺への印象はまぁ想定通りの最底辺。
むしろここまで初対面の印象を悪くできるものだとすら思う。
「ですが……ここまで、曲がりなりにも一緒に旅をしてきた葵さんの印象は、そこまで悪いものではありません。結愛様を心の底から慕っていて、結愛様に関わりのある人や……分かり辛いですが他人を思いやる心も持っていて……敢えて避けるように振舞っていた私にも気をかけてくださるような人でした」
「……あぁ、あのコイン。でも結局助けには行けなかったし……」
獣人の国で、住民と一緒に逃げるグループにいたパトリシアさんへ、一枚のコインを渡した。
魔力を流せば俺の持つコインと連動し信号を出す仕組みのもの。
それ以上でもそれ以下でもなく、パトリシアさんがピンチになったらすぐに助けに行けるようにするためのものだ。
だが結局は、あの魔人との戦いに手一杯でその信号に気づくことすら出来なかったわけだが。
「コインもそうですがそれ以外にも。あなたのことは嫌っていても……いえ。嫌っているからこそ、あなたをよく観察して、あなたという人間を把握しようと努めていたのです」
「……なるほどね。つまり、パトリシアさんの言う“わからない”ってのは――」
「はい。第一印象の葵さんか、今私と話している葵さんか……どちらの葵さんが本当の葵さんなのか、それがわからないのです」
パトリシアさんの言い分に、なるほどと納得する。
確かに、その二つの選択肢で迫られたら困惑するのも無理はないだろう。
なまじ、パトリシアさんは俺の殺意を直接対面で向けられているから、第一印象はより根強く心に絡みついているだろうしな。
さて、どう答えたものか……。
パトリシアさんの持つ第一印象と今の印象は、どちらも俺という人間が持っているもの――パトリシアさんの言葉を借りるのなら“どちらも本当の葵さん”だ。
俺の二面性とでも言うべきものだから、どちらも間違いなく俺という人間なわけで。
二面性とは言ったものの、本を正せばどちらも『結愛を大切に思う気持ち』があるが故の行動だ。
根本的な部分は何一つとして変わっていない。
それを説明して理解してもらえるのか。
理解してもらえたとして、それでこの話が終わりになるのか。
「葵くん」
「うん?」
「パティが望む答えじゃなくて、葵くんの言葉で答えてあげて」
「俺の、言葉……」
結愛は、どう答えるべきか悩んでいた俺へ優しく告げてきた。
心を見透かしたような言葉だ。
でも不思議と、胸の中にスッと入ってきた。
結愛の言葉ならどんなものでも受け入れられてしまうのは、果たしていいことなのか……。
それはそれとして――
「パトリシアさん。さっきの答えだけど……ごめん。どっちも俺だ」
パトリシアさんの質問に対して、俺は俺の言葉で答える。
この答えでどうなるかなんてものは、少なくとも今は考える必要すらなかったんだ。
本当のことを伝えて、どう受け取るかはパトリシアさんに委ねる。
「……どっちも、ですか」
「そう、どっちも。暴れた俺も誰かを想う俺も、どっちも俺という人間なんだ」
「……そんな対極のような性格だと、そういうことですか?」
「うーん、それは違くってね。元々、俺にとって結愛が大切ってのが根底にあって、共和国の時は結愛が騙されてると勘違いしたから、助け出すために暴れたんだよね。で、結愛は君たちや見ず知らずの人を大事にするでしょ? だから、俺も結愛が大事にするものを大事にするんだよ」
「……そんな、自分以外の他人に意思を委ねるなんてことをしているのですか?」
「そんなって言うけどさ。誰しも大なり小なり他人に意思を委ねたりするもんでしょ。俺の場合、その比率が馬鹿みたいに傾いてるってだけで」
自分の意思百パーセントで生きていられる人間なんて、本当に数えるほどしかいないだろう。
人間が生きているのなら、いずれどこかで他人に意思を委ねることはある。
なんなら、当人すら気づかぬ間に誰かに意思を委ねていることだってあるはずだ。
そもそもの話、俺はこれを悪いことだとは思っていないしな。
「俺は俺で、これからも変えるつもりはないよ。だから、パトリシアさんが結愛を害そうとしたのなら、俺はまたあん時と同じで敵対する。周りも顧みず、結愛の為に暴れるよ」
「……」
心からの言葉。
結愛と敵対し――いや、例え結愛と敵対はしなくとも、結愛に何かしらの危害を加えようとするのなら、俺は敵対者と戦う。
敢えて威圧感を出して。
出てるかわからない殺気も交えて、パトリシアさんに告げる。
もちろん、パトリシアさんはそんなことはしないだろう。
でも、どちらも俺だとわかってもらうには、こうやって言葉と態度で示すのがいい――はずだ。
「ま、あくまで敵対したらって話だから。そうならない限り、俺はパトリシアさんがこれまでの旅で見て来てくれた俺でいられるよ」
これも間違いなく本心だ。
俺も場所を弁えず暴れたいわけじゃないし、そもそも注目の的になるのは御免だ。
注目されると時間を奪われるからな。
やりたいことは沢山あるのだ。
そんなのに付き合っている暇はない。
「俺の答えはそんなところ。納得――はできなくとも、理解はしてくれた?」
「……はい。なんとなく、葵さんという人間が少しわかった気がします」
「そっか」
懸念していた蟠りも、多少は解消されたみたいだ。
パトリシアさんも、どこかスッキリした表情をしているように見える。
「じゃ、作戦まで待機ってことで。くれぐれも吸血鬼にはバレないようにね」
「了解です」
待機と言ったが、これと言ってすることもないし、この場でボーッとするなり瞑想するなりしかすることもない。
吸血鬼にバレないようにしなければならないから、魔力を使った鍛錬もできないしな。
「葵くん、ハッタリ上手くなったんじゃない?」
「……何のこと?」
少し離れた位置にパトリシアさんが行ってから、結愛は俺の傍へスススと摺り足で寄ってきた。
かと思えば、ニヤニヤとしたり顔でそんなことを言ってくる。
「さっきの、周りを顧みず暴れるって発言のことよ」
「それが何か? おかしなことを言ったつもりはないけど」
「へぇ~? ふ~ん?」
「……なんだよ」
「いやねぇ? 私が大切にしてる周りを顧みずに暴れるなんてできるのかなぁって」
「……」
「ねぇねぇできるの? 周りを顧みずに、暴れられるの?」
「よーし。そろそろ時間だし行ってくるかな。二人はここで待機しといてね」
これ以上何かを言われる前に、葵は転移でその場から脱する。
残された形になった結愛とパトリシアは、顔を見合わせて小さく笑った。
* * * * * * * * * *
「鬼ごっこしようぜ。朝が来るまで耐えられたら俺の勝ちだ」
俺は儀式の準備で奔走している吸血鬼たちへ、真正面から乗り込んで堂々と宣言した。
乗り込むついでの確認も済ませているから、俺の気分は上々も上々。
あとは、俺の作戦を完遂するだけだ。
「これは葵様。船に乗られて勇者様とご一緒に共和国へと帰られたはずでは?」
「残念ながらあれはフェイクだ。といっても、勇者には内緒で勝手に行動してるだけだから完全にフェイクってわけでもないんだけどな」
「左様でございますか。ではなぜ、ここへ来て、その子を攫おうとしているのか。その理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「簡単な話だ。俺はこの子に死んでほしくない。だからあんたらの邪魔をする」
実は、次の儀式はもう少し――数日か一週間ほどは時間を空けると思っていた。
少女の体がいくら再生するからといっても、そうポンポンと欠損させるわけがないだろうと。
だから、今晩に儀式があると知った時はかなりビビったものだ。
尤も、知った時には三時間ほどの時間があったのと、結愛が宥めてくれたから冷静にいられたが。
「その子は――」
「あんたらが何をどう言おうと、俺はこの子を生かすと決めた。あんたらと真っ向からぶつかることもな」
「……我々と、敵対すると?」
アンジェリーナさんが怒気のようなものを孕んで言う。
すると、その言葉で意志が統一でもされたかのように、吸血鬼たちの意識がこちらへ向く。
負の感情を孕んだ視線は少ない。
が、意識が魔力ごとこちらを向いているのをはっきりと感じる。
何百の意識が向けられるのは、途轍もなく居心地が悪い。
エルフに囲まれたときとはまた違う威圧感とでも言うべき感覚だ。
「敵対はしないが邪魔はする。嫌なら殴ってでも止めてみせろ。それができなきゃ俺の勝ちだ」
吸血鬼の少女を引き寄せて、お姫様抱っこの要領で抱える。
驚き唖然として言葉の一つも発せない少女に笑顔を向けてから、堂々たる不敵な笑みをその場にいた吸血鬼たちへと振りまく。
「よーい、ドンだ!」
言うだけ言って、俺は脚に力を込めてその場から逃げる。
鬼ごっこの開始だ。
「待て!」
「ッ――追え! 追え!!」
後ろで吸血鬼たちが騒ぎながら追ってくるのを感じる。
そりゃ儀式の要をぶんどられて挙句逃げているわけだから十分に納得できる言い分だ。
尤も、今の俺はことこの儀式に関しては他者の迷惑を顧みずに我が儘を押し通すと決めている。
だから止まってやるつもりは毛頭ない。
森へと入り、一分ほど駆けてから、前に結愛の姿を捉える。
「頼むよ」
返事を聞かず、ただ作戦を遂行してくれるという信頼を押し付けて転移で飛ぶ。
魔力を限界まで消して飛んだから、探すのは苦労するだろう。
そもそもあの場には足止めとして結愛がいるし、俺の“魔力操作”の練度があれば転移の残滓から探すのも難しいだろうしな。
これでしばらく時間を稼げる。
「さて。いきなり掻っ攫ってごめんな。大丈夫?」
「――ぁ。はい。だ、大丈夫、です」
「それはよかった」
少女を地面へと降ろし、目線を合わせてから問かける。
お姫様抱っこの時にかなり気遣って走ったが、初めての経験なので至らなかった可能性を考えての問いだ。
少女の様子や言葉から、そこまで心配をするほどのものでもなかったらしい。
「さて。強引に連れ去っておいてなんだけど――」
「その前に一つ、いいですか?」
「もちろん」
俺の目的と手段。
作戦の全てを話しておこうと思ったが、先制――いや牽制される形で少女は言葉を発した。
少女の言は一言一句聞き逃すわけにはいかない。
例え、体の持ち主である少女が生み出した人格だとしても。
「私は、言葉にせずともあなたに関わらないで欲しいと、そう言ったつもりです」
「ああ」
「この子は、あの日の夜にあなたから聞いた話を咀嚼して、きちんと理解した上であの場に――儀式場に足を運びました。“神憑き”が魔王軍の手に堕ちた力だと知った上でなお、それを理解した上で活用する方が人類にとって利益になりうると考えて、です」
「うん」
「この子の――“神憑き”のすべきことは今も昔も変わりません。この身を犠牲にして人類を大戦の勝利へと導くための一因となることです」
「そうだね」
「――あなたは、その邪魔をしたんです。その自覚は――」
「あるよ」
もちろん、自覚はある。
当然だ。
自覚がないなんて方がおかしい。
「――自覚があるならなぜ来たのですか!?」
滔々と頷いていた俺に、少女は怒鳴るように声を荒げる。
何度か会話をして初めて見せる少女の怒り。
それは――
「この子は! あなたが教えた“神憑き”の可能性に打ちのめされて! 『それでも』って無理してあの場所に行ったんです! 無駄になるかもしれない、意味がなくなるかもしれない、そんな恐怖に耐えながら! この子は自分の果たすべき役割を果たすために……!」
この子は怒っているんだ。
“神憑き”の真実を知り、その上でと選んだ絶望の道を行く少女に。
身勝手に、我が儘で希望の光を灯した俺へ。
体の持ち主である、か弱く、でも強い少女の為に怒っている。
わかっている。
絶望の道しかないと知り、けれど通れる道がそれしかなく、覚悟を決め、その絶望の道へと足を踏み入れた矢先に、どこかの誰かが別の道を用意して手を差し伸べた。
見方によれば、手を差し伸べた側の俺はいい人に映るかもしれない。
けれども、こと少女たちにしてみればそうは映らない。
俺が動いたところで、少女を取り巻く運命は変わらないし、“神憑き”という呪縛はそうそう簡単に引き千切れるものではない。
俺が差し出した希望の道は、ありもしない楽観的な妄想を耳元で囁くだけの、余計なことをする奴でしかない。
掴み取れる可能性の限りなく薄い希望を与えるのは、上げてから落とすのと全く同じだ。
「……ああ。それも知った上で、俺はここにいる」
「ッ! なぜですか!? あなたは私たちを揶揄いにでも来たのですか!? この子の覚悟を踏み躙りにでも――ッ!」
少女の怒りは留まることを知らない。
俺が言葉を発するたびに怒りという炎へ薪がくべられる。
際限なく燃え盛り、俺が何をしても鎮火することはない。
そういう火だ。
『緊急事態です。“神憑き”の少女が、召喚者、綾乃葵の手によって奪われました。森の中で潜伏しています。手段は問いません。少女を無事に確保してください』
突如として、どこからともなくそんな言葉が発せられた。
言葉の主は恐らくアンジェリーナさん。
拡声器でも使ったかのようなくぐもった声で分かり辛いが間違いはないだろう。
「……結界を通じたアナウンスです。アンジェリーナさんは結界の維持と管理をしていますから、機能の拡張や改変はできずともこのくらいはできるんですよ」
「なるほど。転移したのに森の中にいると断定できたのはその応用か」
吸血鬼がこの結界の中で暮らしやすくするためだけでなく、結界内で何かが起こった際に吸血鬼を補助するための機能が盛り込まれているというわけだ。
全く、便利な結界だな。
「いずれ掴まります。早々に諦めて、この場から去ってください。今ならまだ、冗談で済ませられます」
「……無理じゃないか? 堂々と敵対宣言じみたことしちゃったわけだしさ」
「私がどうにか言って矛を収めるよう言いますから」
先のアナウンスで少しだけ冷静さを取り戻したのか、少女は俯き淡々と告げた。
こんな無意味なことは止めろと言われ、あまつさえ俺のことまで考えてくれている。
本当に、この少女は優しい。
ああ。
だからこそ――
「止めるつもりはない。君も聞いてたろ? 君を生かすと決めたって」
「いい加減に――」
「――あ! こっちだ! いたぞ!」
俺の言葉で再燃しようとした少女の怒りは、遠くから聞えた声によって遮られる。
結愛の足止めを抜けたわけじゃなさそうだ。
結愛がそう簡単にあの量の吸血鬼を逃がすとも思えないしな。
ってことは別動隊か?
思っていたよりも動きが早いが、結界のせいか?
まぁとにかく――
「――ほい。失礼するよ」
「ッ! やめてください!」
再び逃走するためにお姫様抱っこをすると、少女はその小さな体で必死に抵抗してきた。
既にお姫様抱っこの形を取ったこの状況で、且つ少女の非力さでそれを解くほど、柔な鍛え方はしていない。
多少走りづらくはあるが、その程度だ。
「何度でも言うよ。俺は君を生かすと決めた。だから君を連れまわすのはやめないし、君を離すつもりもない」
「ッ、どうして! どうしてそこまでこの子に固執するのですか!? この子が“神憑き”だからですか!? 戦力として魅力的だからですか!?」
「何の話だ?」
「“神憑き”は吸血鬼の中でも特に秀でた実力を持っているのはあなたも知っているでしょう!? それが目当てなのですか!?」
「君を助けなきゃ、俺の気が済まないからだよ」
「――は?」
簡単な話だ。
少女という存在を知って、どうなるかという結末を知った状態でのうのうと暮らせるほど、俺は楽観的ではないというだけ。
少女の未来の為だとか、結愛ならこうするだとか、そんなものは後付けの理由に過ぎない。
俺が、少女を助けたい。
たったそれだけの、単純で、簡単な理由だ。
「君がたとえ吸血鬼の中で落ちこぼれだと言われるような存在だったとしても、俺はおんなじことをして君を助けるよ。あ、舌噛まないようにね」
俺の腕で胸の中へと抱えられた少女は、唖然としたまま何も言わない。
だから追撃するように言葉を紡ぐ。
偽りのない本音を。
「君が“神憑き”だとか、他の吸血鬼よりも才能があるだとか、そんなことはどーだっていい。君が可哀想だから、見るに耐えないから助けるとかでもない。俺がここで君を見捨てたら夢見が悪いからってだけ」
「――そんなこと、なのですか? そんな、自分の為だけに、この子を……?」
「そうさ。そんなこと、自分の為だけにだよ――っと」
後方から飛来した足止めのための魔術を躱しながら答える。
そもそも――
「始めっから言ってたろ? 我が儘を押し通すってさ」
「――ッ!」
自己中心的だとか利己的だとか、何を今更。
端からそうだと割り切って――いや、開き直ってここへ来た。
そこを突かれたところで痛くもかゆくもないし、なんなら肩を竦めて呆れをくれてやる。
「――あーあー苛烈になってきたねぇ!」
拘束のための弱い魔術では当たるどころか掠りもしないとわかり始めたのだろう。
魔術の威力がどんどんと大きくなっていき、森林が悲鳴を上げ始める。
自然を大切にとかそんな冗談を言ってられるような余裕もなくなってきた。
攻撃を躱す、奴らの手から逃れるだけなら余裕だが、一番大事な少女との対話ができなくなる。
本末転倒もいいところだ。
だから――
「――頼むよ、パトリシアさん!」
「はい!」
この速さで別動隊に補足されるのは想定外だったが、どうにか足止め地点その二へと誘導できた。
そこで待機してもらっていたパトリシアさんへ後ろから追っかけてきている吸血鬼を任せ、俺は再び少女を抱えて転移する。
転移先はまたもや森の中。
さっきまで居たのと同じ森ではあるが、この島の北に広がる森はかなり広い。
しばらくは時間を稼げるだろう。
少女を降ろし、片膝をついて目線を合わせる。
「……どうして、ここまで――?」
「君を助けたいから」
「……わたしは、こんなことを――」
「ようやく会えたね」
「……」
体の持ち主の少女が生み出した人格は、自分のことを常に『この子』と呼称した。
それは少女が生み出した人格が、体の持ち主の少女とは違うということを理解し、受け入れていることの証であると同時に、他人に対してどちらが体の主導権を握っているかを理解させる指標ともなる。
「ずっと、君と話をしたかった。正直焦ったよ。儀式場に行けば最初から君と話せると思ってたからさ」
儀式は体の持ち主の少女が行っていると聞いていたから、想定外に実は少しだけ焦っていたりした。
顔や表情、態度に出せば負けだと思い隠し通していたのが功を奏したのかな?
まぁ何はともあれようやく話ができる。
「わたしは、こんなことを望んではいません」
「そう?」
「そうです。わたしがここで油を売っている間にも、人類の皆さんへの迷惑になりかねない」
「儀式は早まったんでしょ? ならここで多少の遅れがでても問題ないどころかむしろ都合がいいんじゃないの?」
「……わたしの準備の問題ですよ」
「ならなおさら君をあそこへ戻すわけにはいかないね」
この子の心を擦り減らせてまであの儀式を続ける理由はない。
こんなことを天秤にかけるのもおかしいが、少女の心と得られる情報は圧倒的に心の方が重い。
続けさせるメリットは一切ない。
「それに、君は『こんなことを望んでない』って言うけどさ。それは本心じゃないでしょ」
「……何を根拠に、そのようなことを仰るのですか?」
「簡単な理由だよ」
さっき、結愛を囮に転移した時。
俺たちの所在地がバレたのは、俺たちを発見した吸血鬼のセリフからして目視であって、“魔力感知”ではない。
俺は潜伏のために魔力を限界まで消していたから、俺が“魔力感知”で見つけられないのは当然として――
「君が人間より優れているはずの吸血鬼の“魔力感知”に引っ掛からないのはどうして?」
「――ッ」
普通に過ごしていて魔力を消すなんて行為は無駄でしかない。
練度が高くなければそもそも扱えないし、使えるとしても慣れていなければ相当に神経を使う。
そんなことを、あの状況で、無意識的にしていたのはどうしてか?
簡単な理由だ――
「君が、心の奥底ではこの誘拐を否定していないから、でしょ?」
「――そんなことはありません。わたしは――」
「ここでなら、“仮に”の我が儘だって言ったっていい。君の人生なんだ。大事な場面で自分の気持ちに嘘を吐く必要はないんだよ?」
「……わたしが儀式にいなければ、人間の皆さんに迷惑をかけてしまう。この子が言ってくれたように……。他人を見捨ててまで生きていたいとは――思えません」
胸の辺りをギュッと握って、少女は苦しそうに言葉を紡ぐ。
少女の優しさは本物で、今の言葉に嘘も偽りもないだろう。
少し早いが仕方ない。
「――君をそう簡単に説得できるとは思ってなかった。でも、そこまで頑ななら、きっとこれ以上俺が何を言ってもあまり意味を為さないだろうね」
「……理解、していただけましたか」
「ああ。だから、次で最後にする。これが終わったら、儀式場に戻るでもなんでも好きにするといい」
説得が難しいなんてことはこんなことを始める前から重々承知していた。
だから今の俺の言葉は事実ではない。
少女の本音を引き出すための駆け引きの一つ。
「――わかりました」
俺の言葉を聞いて、少女はほんの一瞬だけ迷うような素振りを見せて頷いた。
その一瞬を認識できた。
なら――
「君が最後に――死ぬ前にしたいことを、聞いておきたい」
「……死ぬ前にしたいこと、ですか?」
「君はもうすぐ、遅くても一年以内に人生の幕を引く。だから、その前にしておきたいことを言って欲しい。俺が君を連れてそれを体験していきたいし、君が生み出した子に聞かせて、可能な限り叶えてもらうためにさ」
「そんなことでいいのなら……」
よくわかっていないという顔をして、少女は頷いた。
可愛らしく悩む素振りを見せて、ポツポツとしたいこと、してみたいことを話していく。
「図書館にある本を、全て読んでみたいです。少しずつ読破してはいますが、まだ面白そうだと思ったタイトルの本が何冊もありました」
「いいね。ついこの間整頓したばかりだから、少ない時間で見つけられると思うよ」
「美味しいものを、もっと食べてみるのもいいかもしれません。時間ができた時にこっそり寄ってたお店は、シーズンごとに新作のお菓子を出すんです」
「期間限定のお菓子かぁ。最後の晩餐は甘いものってのも悪くないかもしれないね」
「この島の外にも出てみたいです。知識でしか知らない国の文化に触れて、もっと見聞を広めてみたい」
「国ごとに違う特色があるし、今までの歴史でもなくなった国との違いとかを見てみるのも面白そうだ」
「どうせ島の外にでるなら、多くの人と知り合いになってみるのもいいかもしれません。わたしの知らない価値観や色々なお話を聞くのも楽しそうです」
「人間の国なら魔獣とかと戦ってる人もいるだろうからね。瀕死になった経験とかも聞けるかもよ?」
「他にも、魔術を学んだり、友達とくだらないことで駄弁ったり、恋愛をしてみたり……」
少女の言葉は、どんどんと尻すぼみになっていく。
初めは楽しげに、顔をあげて話してくれていたのに、今は落ち込んだように俯いている。
「……もっと、ずっと、やりたいことはあるんです。今挙げた以外にも、たくさん」
まるでできないかのような言い方をする。
いや、言い方をさせたが正しいか。
少女に残りの人生が少ないことを理解させ。
『やりたいこと』として挙げたものに対して、否定せずに最期を意識させる言葉を掛けて。
そうして――
「時間があるなら! まだやりたいことはたくさんあったんです! もっと長く生きられるなら! 吸血鬼の長い寿命を使って多くのことを!」
感情が爆発した。
今まで溜め込んでいたものを解き放つように。
ストッパーがなくなった今、新たにそれを与えない限り流れが止まることはない。
「今まで制限されていた分を取り戻すみたいに! 世界を旅して色々なものを見て! 聞いて! 体験してみたい!」
これが少女の本心だ。
心理誘導なんてものをしたのは初めてだし、どこかで見たり聞いたりした付け焼刃の知識すらない。
俺がした誘導なんて、大したものではなかっただろう。
なんなら、意味はまるでなかったかもしれないな。
それでも、少女の本心は表にでてきた。
心の内に――奥底に留めていたものがとめどなく溢れ出る。
「でもできないんです! わたしは“神憑き”だから……! わたしが我が儘を言えば多くの人を困らせるから……! わたしの気持ちは封印しなきゃダメなんです!」
「――それは違う!」
俺が言葉を発せば、新たなストッパーとなる可能性はある。
俺の想定を超えて膨らみ爆発してくれた少女の感情を、堰き止めてしまう一因になりかねない。
だが同時に、こここそが真の意味で少女を解き放つ分水嶺でもある。
「君が与えられた役割は、確かにこなせば誰かの助けになるものだ。君自身がそれを望んで得たわけではなくとも、君が迷って悩んで考えて、その果てに、苦しみながら出した答えが今の君の行動なら、それを止める権利は俺にはない」
最初から自分のやりたいことをやれたのなら、これ以上のことはない。
大抵の物事は環境だったり、周りに流されてだったり。
自分の意思とは関係のないとこがスタートの場合が多い。
趣味や好きの延長線で仕事を選べる人間は、限られた奴しかできないことだ。
それを目指しても、途中でできないと挫折させられたり、諦めてしまう。
大多数は、そんなものだ。
「そう思っているのなら、わたしを止めるなんてことは――」
「でも――ッ!」
初めは嫌々だっていい。
嫌でも続けていくうちに、やりがいや楽しさを見出せたのなら構わない。
結果論だと言われるかもしれない。
でも、切っ掛けなんてそんなものでいい。
「『やらなきゃ』って使命感で自己犠牲を続けるのは違うだろ! 『誰かを助けたい』、『誰かの力になりたい』。俺が止める権利を持たないのは、そんな本心からの想いだ!」
「ッ――そもそも! わたしがどんな未来を望むかをあなたに止められる権利はありません! 知らないんですか!? わたしも生きているんです!」
「生きてることを主張したいんなら死のうとなんてしてんじゃねぇよ!」
他人の生き死にを決める権利が俺にない?
そんなことは百も承知だ。
この世界は中世ヨーロッパ風の異世界よろしくの命が軽い世界じゃない。
基本的人権と似たものがちゃんと存在している。
だから、少女の言うことは間違いなく正しい。
「始めっから君の言う権利がないのは知ってんだ! でもその上でここに! 君を説得しに来たんだ!」
「――なんで……! なんでそこまでするのですか!? たった数回しか会ってないだけのわたしなんかに――! わたしの人生にっ、どうしてそこまで関わろうとするのですか!?」
「そんなもん決まってんだろ!」
顔をあげ、全力で少女に視線を送る。
苦しそうに両手を胸の前で握りしめている少女へ、全力で。
少女の紅の瞳に、俺が映っている。
不安に揺れ動く、今にも泣きだしそうな瞳が、俺を見据えている。
だから全力で少女の目を見据え――
「君は! もう俺の人生に関わってんだ! 今更、終わりも終わりに関わりに来たとか思ってんなら大間違いだ! もうとっくに! 俺たちは関わってきたんだよ!」
どんな小さな関係でも。
たった数度の逢瀬だけの間柄でも。
関わりを持ったことに違いはない。
大なり小なり違いはあっても、関わったという事実に間違いはないのだから。
「それにな。俺は、君を助けると決めてここへ来た。ここまで口論してきてんだ。賢い君ならわかってるだろ?」
「……あなたの諦めの悪さを、ですか?」
「そ。君が折れるまで俺は諦めないし、吸血鬼との鬼ごっこだって続ける。俺はこの世界に来てから数日くらいなら睡眠せずとも生活できるんだぜ? そんな俺と根比べしたいってんなら止めはしないけどな」
使命感や責任感で、そもそも届いていなかった俺の声は、今ようやく少女に届いた。
その結果が俺にとっていい方向に転ぶかどうかはわからない。
もし、これでも少女が“神憑き”として生きていくと決めたのなら、その時は――
「なんて、馬鹿なこと考えてんじゃねぇぞ、俺」
言葉には出さず、口の中で罵倒する。
そんなことができるのなら、初めからこんなことはしていない。
我が儘を押し通すと決めたのだ。
初志貫徹。
それができなきゃ結愛とパトリシアさんに顔向けできないしな。
「君の人生だ。どうするかを決めるのは、最終的には君自身。でも――」
俺が伝えたかったこと。
結愛とパトリシアさんを巻き込んで、吸血鬼に堂々と邪魔する宣言をして、年甲斐もなく鬼ごっこをして、多くの吸血鬼に迷惑をかけてまで伝えたかったこと。
それは――
「――君がいなくなって悲しむ奴がいる。誰かの人生に君って存在がいることは、忘れないでくれ」
見ず知らずの人が亡くなる。
それはどんな世界でも起きている。
でも、知らないのだから悲しむことはない。
思いを馳せることも、ほとんどないだろう。
でも、見知った人が亡くなったら。
関係にもよる。
関わってきた深さにもよる。
それでも、悲しむ奴はいる。
それを、わかって欲しかった。
「俺と一緒に来るなら、さっき言ってたしたいことは全部できるよ? 想像もしてないような経験だってさせてやれるかもしれないしな」
「……もしかして、今のわたしはあなたの手のひらの上ですか?」
「さぁどうかな? もし仮にそうだとしたら、君の選択は変わるの?」
「理知だけで物事を決められるわけではありませんから。感情次第では、相手が正しいことを言っていても納得できないものですよ」
「……仰る通りで」
道理も道理。
納得で頷く機械と化すくらい、ぐうの音も出ない正論。
俺以上に人生経験を積んでいると勘違いしそうだ。
「……いや? 長命種だしもしかしたら――」
「――決めました」
「うん。聞かせて」
ずっと黙って聞いていた少女は、ようやく口を開いた。
俺の言葉を聞いて、その小さな身に宿した賢さで色々と考えたのだろう。
先程の不安に満ちた瞳はどこへやら。
決意と覚悟に燃える瞳がだけがそこにある。
回しかけていた思考を止めて、少女の言葉を待つ。
「わたしは――」
言いかけて、一度言葉を切る。
大きく息を吸い、今度は大きく息を吐く。
胸のあたりに手を当てて、心を落ち着けるように深呼吸を繰り返す。
何度かの深呼吸を経て、少女は改めて俺へと視線を向け――
「わたしは、儀式場に戻ります」
「……そっか」
少女は選択した。
俺の言葉を聞いた上で。
“神憑き”として生きることを決めたのだ。
なら――
「じゃあこれから、君と俺との勝負だな」
「いいんですか? わたしは吸血鬼の中でも類まれな才能を持っているんですよ? それにあなたはこの島の吸血鬼全員と鬼ごっこの最中。この条件でまともに張り合えると?」
「やってみなきゃわからないさ。それに鬼ごっこの方は優秀なレディースがバックについてるんでね」
「――そうですか。では、わたしが勝ったならあなたも儀式場に来てもらいますね」
「俺が勝ったら君は俺の旅の仲間になってもらうぞ」
「どちらに転んでもわたしは損をしない。上手く立ち回りましたね」
「本当に上手い立ち回りができたなら、今ここで君と対峙なんてしてないよ」
軽口を叩ける。
それだけでも大きな進歩だと言えるのだろう。
だけど、俺の目的はそこじゃない。
「生まれて初めての全力……存分に味わってくださいね」
「君の方こそ。俺の本気、受け止めてくれよ?」
少女は笑う。
不敵に、大胆に、獰猛に。
そして、楽しそうに。
互いの進退を賭けた勝負の、始まりだ。
* * * * * * * * * *
「――そちらから出向いてこられるとは……心変わりでもあったのですか?」
「もしそうだったならどれだけよかったか」
アンジェリーナさんの問いに、溜息をつきながら答える。
本当に、心変わりでこの儀式場まで戻ってきたのなら、どれだけよかったか。
「……その様子から察するに、その子と戦ったのですか?」
月明かりは、満月に近いこともあって視認が容易なくらいに明るい。
だから、顔にできた軽い傷くらいならよく見えたのだろう。
言われて痛みがぶり返しながらも、俺は肩を竦めて答える。
「ええ。結果は見ての通り。あなたたち吸血鬼と鬼ごっこを続けてる方が何十倍もマシでした」
俺の言葉を聞いて、お姫様抱っこをされている少女はクスクスと笑う。
少女が喜怒哀楽の感情を表に出している。
それが意外だったのだろう。
アンジェリーナさんは分かり辛く驚きを表情に出した。
それも、すぐに引っ込んでしまったが。
「多少の遅延はありましたが、あなたが戻ってきてくれたのならよかったです。これで問題なく、儀式を進められる」
「ああいや。そうじゃなくてですね」
「……まさか、私を説得しに来たのですか?」
正気か? と神経を疑うかのような目を向けてくる。
“ド”がつくほどのМなら身震いして喜びそうな視線だ。
整った顔立ちと切れ長の目も相まって、アンジェリーナさん自身の自覚がなくとも完成度は非常に高い。
生憎と、俺はМではないので興奮はしないが。
「その通りですよ。“俺が”、ではありませんが」
少女を降ろしながら、俺はアンジェリーナさんにそう伝える。
そう。
俺は俺がアンジェリーナさんを説得するためにここへ来たわけじゃない。
アンジェリーナさんの説得は、少女の説得以上に難しいと判断したから、俺は吸血鬼との鬼ごっこを断行したのだから。
なら、誰がアンジェリーナさんを説得するのか?
そんなものは、言わずともわかるだろう。
「おばあちゃん」
「……」
続柄で、少女はアンジェリーナさんを呼んだ。
これまで、儀式の生贄と儀式を管理する側として一線を引いて接してきた二人の間では、あり得るはずのない光景。
それが何を意味するのか、アンジェリーナさんは即座に察しただろう。
目つきが険しく、鋭くなる。
恐さすら感じるその瞳を真正面から受け止めて――
「――わたし、アンジェリカ・K・レオは、葵さんたちと旅に出ます」
一切臆することなく、少女は自分の言葉を伝えた。