第二話 【嬉しい誤算と想定外】
「えっ、その子もしかして……!」
「うん、まぁその、精霊……だね」
結愛たちのもとへと合流した俺が声をかけるより早く、小野さんが俺の肩の上あたりを飛んでいる精霊に気がつき声を上げた。
嬉しそうとも意外とも取れる明るい笑顔で、ふよふよ浮いている精霊を指差している。
小野さんの声につられるようにして、佐伯さんと木村さんが精霊に近寄り、気の赴くままに触ったり突いたりする。
自分の数十倍は優にある人間に囲まれ、体を自由に弄ばれるのは、さしもの精霊でも思うところがあるのだろう。
「この時代の人間は礼儀というものを知らないのか」
「多分、初めて見る精霊に興奮してるだけだと思うから……」
眉を顰め、不満さを隠さず、されるがままに弄ばせながら小さくボヤいた。
シルフのボヤきに小さくフォローを入れる。
「綾乃くん綾乃くん」
小野さんが手招きしながら俺の名を呼ぶ。
未だシルフが佐伯さんと木村さんの手中にあるが、俺にはどうにもすることができないと諦めて、小野さんの元へと向かう。
「どうやって精霊と出会ったの?」
「んーと……シルフ――あの精霊ね。が、俺に気がついて――って感じだね。十中八九、精霊側の気紛れだと思うよ」
俺の場合は、初代勇者という接点があった。
その接点がなければシルフは話しかけてすらくれなかっただろう。
それに、シルフが俺を見つけてくれなければ契約以前の問題だったのは間違いない。
「やっぱり、偶然に任せるしかないのかな?」
「一応、ダメもとでシルフにも聞いてみるよ」
可能性は限りなく低いだろうが、精霊との契約に関して何かしらのプラスに働くかもしれない。
端から無理だと決めつけて可能性をゼロにするのは勿体ない。
「シルフシルフ」
未だ佐伯さんと木村さんに弄ばれているシルフを手招きして呼びつける。
俺の呼びかけにシルフが気が付いて、二人の包囲網をスルッと抜け出してこちらに飛んできた。
おもちゃを奪われた、みたいな反応をする二人に目で謝罪して、シルフへと視線を転じる。
「もう少し早く助けてもよかったんじゃない?」
当たり前の抗議に、完全にこっちに非があるので素直にごめんと謝罪する。
俺の謝罪に、不貞腐れたというよりは『謝るくらいなら初めから行動に移せばいいのに』とでも言いたげな表情を見せる。
しかし、その表情もすぐに溜息とともに消し去った。
「それで、何か用?」
「ああうん。シルフって、他の精霊に取り次ぎとかできる?」
「どういうこと?」
「あーっとね――」
シルフの協力を得られる可能性にかけて説明を行った。
人類が置かれている状況から、ここに来た目的、そして召喚者が目指す展望まで全て。
静かに、何も言わずに俺の説明を聞いてくれたシルフは、『ふーん』と一つ頷いた。
「それならウィンディとノームにも協力させるわ」
「えっ?」
シルフには水と土の精霊からの協力は得られなかったことは説明したはずだ。
けれど、さも当然のように一度協力を断られた相手から力を借りようと言ったことに、思わず驚きの声を漏らしてしまった。
それを不思議に思ったのか、シルフは『何か不味いことでも言った?』とでも言いたげに眉を顰めた。
「いや、それはできなかったって――」
「それはそうよ。精霊は気紛れだもの。でも私からのお願いは、無下にはできない」
「……そう、なんだ?」
何か訳アリのようなニュアンスが感じられるが、もしあの二柱の協力が得られるのであれば好都合だ。
弱みでも何でも、今の俺たちには力が必要なのだ。
精霊と契約し、その上で地力を鍛える。
もしそれができたのなら、俺たち人類サイドの底力はかなり増すだろう。
「じゃあ、私は一度、ウィンディとノームに会ってくるわ。あなたたちは湖畔で固まっておいて」
「あ、おう。わかった。頼む」
俺の返事の途中で、シルフは虚空へと溶けていった。
精霊と言う存在は未だ不明な点が多く、今のも何をしたのかはわからない。
勇者と契約した二柱の精霊も、存在は視えても終始目には映らなかったから、精霊のデフォルトの能力のようなものなのだと推測はできる。
尤も、原理は全く以って不明だ。
魔術にしては反応がなさすぎる。
考えてもわかるようなことではないのだろう。
今はとりあえず、シルフにやっておいてと言われたことをしておこうと、一旦集合と伝言して回った。
* * * * * * * * * *
「いやー……何度思い返しても凄かったねぇ、あれ」
「もう日菜ちゃんまたぁ? それ何度目よぉ?」
小野さんが、もう何度目かわからない感想を零す。
それに俺と同じ感想を抱いた佐伯さんは、楽しそうに小野さんを小突いた。
「いやでもだって、実際凄かったじゃない?」
「まぁそれはそうだけどぉ……あんな光景、初めて見たしぃ」
「小さい頃、おじいちゃんの家の近くで、実際に森の中でホタルが光ってるのを見たことあるけど、あれと同じくらいに綺麗だった」
言葉数が少ないという印象があった木村さんが珍しく、長文で感想を述べた。
ホタルが光る様を実際に見たことがあるのなら、確かに似たような印象を覚えるだろうか。
たしかにあの光景は、写真や映像でしかホタルが光る様子を見たことがない俺でも、真っ先にホタルが一斉に光る光景を脳裏に思い浮かべた。
それほどまでに、あの光景は綺麗だった。
「できればもう一度、見れたらいいなあ」
「本当にねぇ」
「うん。本当に」
シルフが水の精霊と土の精霊を呼びに行った後、言われたとおりに湖畔へと集合した召喚者一行は、シルフ、ウィンディ、ノームの三柱の精霊が呼び出した数多の精霊たちの光に飲み込まれた。
もう夕暮れ時と言うこともあり、淡く光る小さな精霊たちの群れは、鮮やかに森を彩り湖に色を落とした。
たった三色で構成されたその群れは個性を示すかのようにそれぞれが少しずつ違っていて、当事者であるはずなのにただの傍観者へと成り下がった俺たちを魅了した。
ひとしきり、俺たちにその光景を見せた三柱の精霊は、『気になったところへ』と短い号令をかけた。
それに伴って、夕暮れの朱にふわふわと浮いていた精霊たちは、各々の意志を以て散った。
一直線に迷いなく飛翔する精霊もいれば、迷うように旋回する精霊もいて、スッとその場に溶けていく精霊もいた。
そして、言葉を交わせない――しかし己の意志を持った精霊は、多くの召喚者たちと契約を交わした。
短くではあるが、確かに言葉を交わした俺とシルフの時とは違う、とても静かな契約だった。
号令を受けて飛んだ精霊たちが、自分の主と決めた人間の周りを飛んで、差し出した手や頭に乗った。
それを人間側が受け入れると、スッと契約を結んだ人間の体に溶けていった。
まるで、そこが自身の棲家であったかのように、何の迷いもなく自然に。
シルフ曰く、あれが普通の精霊との契約らしい。
そもそも、言葉を交わせる精霊の数自体が少ないらしい。
つまるところ、俺がシルフと交わした契約は例外だったようだ。
「確かに、あの光景は人生で一番綺麗だったって言っても過言じゃないくらいに綺麗だったけど、そんなこと言ってたらせっかく契約してくれた精霊が拗ねちゃうんじゃない?」
あの時の光景を思い返しては感想を述べる三人へ、二宮が悪戯な笑みを浮かべて言った。
それを受けて、好き好きに言っていた三人は“それが現実になったら”を想像したのだろう。
少しだけ身震いしながら、けれど口を尖らせて反論する。
「そんなことないよ?」
「そうだよ翔くん。まだ出会って一週間しか経ってないけど、そう簡単に切れるほど薄い関係じゃないよぉ?」
「うん。私たちは信頼しあってる。二宮くんは違う?」
三人がそれぞれ、己の言い分で二宮に抗議する。
一つの発言に三つの反論をぶつけられ、二宮でも部が悪いと判断したのか肩を竦めて『ごめん』と口にした。
「俺も同じだよ。この子たちのことは信頼してる」
一人だけ、精霊を視覚化した状態のままでいる二宮は、四色の精霊たちに手を添えながら呟いた。
召喚者の中で唯一、火の精霊との契約も果たした二宮は、差し出した手の周りを嬉しそうにクルクルと回る精霊たちを、優しげな瞳で見つめている。
「そもそも翔が精霊を視覚化してるから毎度毎度思い出しちゃうんだよ?」
「俺のせいか……」
小野さんの理不尽気味な言い分に、二宮は困ったように眉を顰めた。
そんな仲睦まじい光景を後ろにしながら、二度目となる道を歩く――いや、道を征く。
前回は全力ダッシュだった上、一人だったのでペース配分などは気にせずいられたのだが、今回は違う。
召喚者の中から代表で二宮と小野さんと佐伯さんと木村さんの四名。
勇者一行から勇者と結愛、結愛の世話役としてパトリシア、結愛の両親である大地と真衣の五名。
それに、教皇から託された使者二名の計十一名を連れている。
人数が増えれば当然ペースは落ちるし、まして俺一人でも一日二日で辿り着ける距離ではない。
「しっかし、思ってたよりもハイペースで来れてるな」
「そうなのか?」
ただの独り言を聞きつけて、勇者が俺を覗き込むようにして聞いてくる。
意識を全く向けていなかったから多少驚きつつ、否定する意味もないので素直に頷く。
「十一人も連れて、しかも全力疾走ができないとなればひと月は余裕でかかると思ってた」
「それ聞いたときは耳を疑ったよ。天の塔って連合国の向こうにあるんだろ?」
「ああ」
「他国へ向かうのに馬車を使わないって言うのは、何度聞いても頭おかしいとしか言えないな……」
呆れたように、勇者はボヤいた。
確かに、長距離を移動する時の俺はそうしてきた。
だが天の塔へ向かうときに馬車を利用しなかったのは、きちんとした理由がある。
一つは、走る方が早いから。
“身体強化”込みの全力ダッシュなら、馬車に揺られるよりも早く移動できる。
結愛に忘れられたという精神的な苦痛のせいで、馬車を借りるという選択肢が頭から吹っ飛んだというわけでは決してない。
「あとできょーこー様? にお礼言わないとだね!」
「そうだね」
ソウファの言った通り、こうして楽に早い旅路を征けているのは、ひとえに教皇様が貸し出してくれた馬と馬車のおかげだ。
二頭の馬が十人乗りの馬車を引き、教皇様の使者が御者を担ってくれている。
御者の腕がいいのか、馬の性能が高いのか、あるいはその両方か。
普通の馬なら七日ほどかけて進む距離を三日足らずで踏破するほどの脚を持っていた。
森の中を歩いているので、馬車は近くの街道に従者の一人とともに待たせている。
ともあれ、あの馬のおかげでこうして楽ができたのは間違いない。
次に会う機会があれば、好みの食べ物でもご馳走しようと心の中で感謝とともに呟いた。
「それはそれとして葵くん。これから行くのは天の塔なのだろう? 何か対策などはしなくていいのかい?」
「問題ないですよ、大地さん。あの塔で行うのは試練……言い換えれば試験みたいなものですが、そのほとんどが内面を視るものですので対策と言う対策がないんですよ。なので正確に言うのなら、しないのではなくてできないんですよ」
「そうなのか……」
俺の説明に、納得しきれていないような複雑な面持ちで大地さんは頷いた。
尤も、それ以上の説明を求められても可能な限りの説明をしたから無理だ。
俺の説明を理解してくれたらしい真衣さんが、噛み砕いて大地さんに説明しているのに期待するしかない。
「あ、もうすぐ着きますよ」
目印などがあるわけではないが、“魔力探査”で位置を確認しながら進んでいた天の塔を“魔力感知”で捉えられたので伝える。
雲すら貫く高さを誇る天の塔は、森の中にいるとはいえまだ視界に捉えられない。
初代勇者が残した天の塔に侵入することができなくなる縛りは既になくなっているが、天の塔が見えなくなるのはどうやらその縛りとは関係がないらしい。
認識阻害の結界があるのだろうが、それを張ったのは神様か天使のどっちかだろうか。
そんなことを考えつつ歩みを進めていると、生い茂っていた木々が不意に消え、視界が開ける。
開けた空間が俺たちを待ち構え、その中央には黒い石材で作られた天を貫く塔が聳え立つ。
「これが天の塔……」
「おっきい……」
十人全員が視線を上に向け、感嘆の声を漏らす。
天の塔の大きさと存在感に圧倒されているのだろう。
その気持ちはとてもよく理解できる。
感動しているその余韻にまだ浸らせてあげたいが、生憎と時間があるわけではない。
「感動してるとこ大変申し訳ないんだけど、そろそろ動かない?」
「え、あ、うん。そうだね。えと……私たちはここから神聖国に引き返して、みんなを連れてまたここに戻ってくればいいんだよね?」
「そう。頼むね、小野さん」
「任せて!」
ふんす! とやる気を満たす小野さんと、そのすぐ傍で同じように気合を滾らせる二宮と木村さんと佐伯さんの三名。
一回で全員をここに連れてこられれば良かったのだが、神聖国は現在進行形で人手不足だ。
首都カノンが壊滅し、その復興に人員を割かねばならないのだから当然だが。
ともあれ、ここにいない召喚者には首都復興支援組と、地力トレーニング組の二組に分かれてもらっている。
天の塔への案内は、小野さんたち召喚者四名と教皇からの使者の片割れがいるので俺がいなくても問題はない。
「で、オレたちが天の塔に挑めばいいんだよな?」
「ああ。戦力強化のために、しっかりと攻略してきてな」
小野さんたちが召喚者を呼びに行く間に、勇者たちには天の塔を攻略してもらう。
純粋な戦力強化のために、是非との第八の試練まで突破して欲しいところだ。
「じゃあ、私たちは行くね! またね、綾乃くん」
「うん、また」
小野さんは手を振って、再び森の中へと足を踏み入れていった。
天の塔への滞在時間は僅か一分程度になってしまったのは非常に申し訳ないが、次ぎ来た時はぜひ堪能していってもらいたい。
尤も、試練に挑めば堪能も何もなくなるだろうが。
「じゃあえっと、試しに誰か入ってもらってもいいか?」
「そう言うことなら、僕が行こう」
真っ先に名乗りを上げたのは大地さんだ。
凛々しい面立ちで、堂々と一歩前に出て宣言する。
娘である結愛の前でいいかっこをしたい、というわけではなさそうだ。
「あなた、結愛の前で格好つけようとしなくていいですよ」
「ちちちち違わい! そんなんじゃないわい!」
「……」
どうやら、俺の読みは完全に間違っていたらしい。
ただ純粋に、結愛の前でいいかっこをしたかっただけだったようだ。
その内心をバラされたからか、大地さんへと向ける結愛の視線が心なしか冷たくなっているような気がする。
「じゃあ後、失敗するかもしれませんがもう一人入っていただけると……一度にどれだけの人数が入れるかわからないので」
「そう言うことなら、私も一緒に行くわ。大地にだけは任せていられないもの」
「何おう!」
「あ、塔に触れて魔力を流してください。そしたら入り口が生成されますので」
あーだこーだと大変微笑ましい言い合いをしながら、大地さんと真衣さんが天の塔へと歩み寄る。
言い合いをしながらも俺の話を聞いていたのだろう。
二人一緒に天の塔に触れて、青白い光の入り口を生成してから足取りを揃えて仲良くその入り口を潜った。
それを少しだけドキドキしながら見つめていると、入り口がスーッと消えていき、黒い石材で統一されただけの塔へと元通りになった。
それを確認し、俺は勇者へと目配せする。
「入れる人数の確認だったね。じゃあ、今度はオレが行こう」
「任せた」
スタスタと迷いのない足取りで天の塔へと向かい、これまた何の躊躇いもなく黒い石材へと手を伸ばす。
天の塔に触れ、魔力を流した途端、つい今しがたみたばかりの青白い光の入り口が生成される。
「先行ってるな」
一度だけこちらに振り向いて、そう告げてから躊躇いなくその入り口に消えていった。
先ほどの二人もそうだが、青白い光の入口へと入るのをもう少し躊躇ってもいいと思う。
俺の時は急いでいたからそこにまで気は回らなかったが、こういう状況であれば少しは躊躇いが生まれると思うのだ。
俺が臆病なだけと言われたら何も言えないわけだが。
「消えたましね」
「ですね。ってことはまだ行けるのかな? じゃあ次――」
入り口が消えたことを確認し、パトリシアが小さく呟いた。
それを拾い、俺も小さく零しながら『どうせ入れるなら全員入れちゃえ』と言葉を紡ごうとした刹那、“魔力感知”が異様な気配の接近を感知した。
尋常でない速度を以て吶喊してくるその気配に警告を飛ばす間もないと判断し、背後を振り向いて右手を突っ張り力を込める。
「何も聞かずに踏ん張って耐えてくれ!」
大声でそれだけ告げて、既に解析と使用方法を理解している防御系の天恵――“愛の天恵”を展開する。
俺の右手の甲に存在する魔紋と同じ赤色の膜が展開される。
厚さ数十センチの膜は、某〇ー・アイアスにとてもよく似ている。
が、そんなことに気を回る間もなく、急速接近してきた気配がその膜に衝突した。
鼓膜が破けるほどの爆音を鳴らし、膜は突撃してきた気配をしっかりと受け止める。
受け止めたとはいえ、膜は今にも引き千切れそうなくらいに撓んでいる。
「誰だお前……!」
「そこを退け人間。用があるのはそこの娘だ」
突撃してきた強面の男性の形をした何者かは、視線を結愛に向けて宣言した。
その一言で、気配が今まで出会ってきた種族のどれとも違うという違和感が吹き飛んだ。
結愛が狙われている。
その事実を理解して、急速に頭が戦闘モードに切り替わり、同時に闘志が沸き上がる。
「――じゃあ尚更退けねぇな」
過去の俺は、結愛を失った。
けれど、俺はその未来を打ち砕き、こうして未来を改変できた。
その未来を、ここで手放すわけにはいかない。
「……そうか。貴様に恨みはないが、邪魔をするのなら死ね」
一瞬で目の前から消えた男に対し、俺は結愛へと手を伸ばし転移を実行する。
五メートル上空へと転移した俺は、男が寸分の狂いもなく結愛のいた場所を腕で貫いているのを確認し戦慄する。
“鬼闘法”込みの“身体強化”の動体視力、反応速度を以てしてもギリギリの戦いを強いられる。
一瞬でも判断が遅れれば、男の目的である結愛は確実に殺されるだろう。
「空間転移か……厄介だな」
腕を回してコキコキと音を鳴らす男が小さく呟いた。
男の追撃に警戒しながら離れた場所へと着地して、改めて左手でしっかりと結愛の左手を握りながら、右手で『無銘』を正眼に構える。
近くにいるソウファやパトリシアには見向きもせずに、俺と対面する形で向き直った男は何かに気が付いたようにハッとした表情を作る。
「お前、召喚者か?」
「……俺のことを知ってるのか」
顔や気配で気が付くのなら、もう少し早い段階で気が付いていただろう。
ならどうしてこのタイミングで俺が召喚者であることに気が付いたのか。
その思考に至ったところで、目の前の男の殺気が膨らんだのを肌身で感じた。
殺気だけで圧死しそうなほどに強烈なそれを撒き散らしながら、男はゆっくりと一歩を踏み出す。
「貴様が魔人に寝返ったという召喚者か。丁度いい」
「あ? 待て、何言って――」
「喋る必要はない。この場で貴様は必ず殺す」
言葉にすら乗っている殺気を前に、俺は生唾を飲み込む。
自然と両手に力が入り、相反して指先が冷たくなっていくのを感じる。
目の前に立つ男はおそらく、今まで出会ってきた中で一番強い。
人魔大戦で戦った魔王なんて比較にならないほどに、圧倒的な実力を持っている。
このまま戦って勝てるのか、という疑問が脳裏を過り、その不安が思考を鈍らせる。
どうしようもない悪循環に陥っているという自覚はあっても、そこから抜け出す意志力が足りない。
何か一つ、ほんの一手何かがあれば――
「――!」
震える左手に、そっと手が添えられた。
不安で震え凍える俺の左手を、結愛の右手が優しく包み込む。
「私がいるから」
「――……ハッ」
結愛の一言に、小さく笑みが零れた。
なんで急にこんな強い奴が来たのかとか、本当に今の俺で勝てるのかとか、色々な不安が飛び交っていた脳内を、結愛の一言がゆっくりと、優しく侵食していく。
たった一言。
好きな相手からの信頼と、思いやりの籠った一言だけで、不安も緊張も何もかもが消え去った。
「あんたが誰かなんて知らないけど――」
結愛の手を握り直し、『無銘』を握り直し、真正面でこちらの隙を伺う男を見据えて笑みを浮かべ、大きな声で宣言する。
「俺たちであんたに打ち勝って、あんたの間違いを正してやる!」
冷徹な、光の浮かばない黄金の鋭い瞳は、その言葉によってより鋭く細められ。
それが開戦の合図となった。