【戦略的撤退】
薄暗い森の中に、靄のようなゲートが展開されている。
ともすれば森の薄暗い背景と同化してしまいそうなゲートの傍に、数人の男女が地べたに座り込んでいた。
「……おい、カスバード。アレ、何なんだ?」
「私も正確なことはわからない。ただ一つだけ言うのなら、アレは我々の手に負える相手ではないと言うことだ」
お父様の名指しの質問に、三位様は己の知る限りの情報を落とす。
しかし、その情報に聞いた当人であるお父様は少し不機嫌そうな顔をする。
「んなこたぁわかってるさ。気配だけであの存在感なんだ。実際に戦うことがあっても遠慮する」
彼我の実力を正しく理解できるお父様だからこそ、人類最強の二つ名に驕らずそう判断する。
不機嫌を顔に出したのではなく、今は勝てないとわかっているからこその悔しさが滲み出ていただけのようだ。
それを理解したのか、三位様は意外だと表情と態度に出す。
「……私はドミニクのことを戦闘狂だと思っていたが、どうやらそう言うわけでもないようだね」
「勝てない勝負はしない主義でね。常勝の秘訣さ。それよりアンナ。アレについて何か知らないか?」
二人の会話を黙って聞いていた私は話を振られ、思い当たりを探る。
“アレ”とは間違いなく、葵様から発せられた全てを飲み込むかのような気配のことのはず。
「すみません、お父様。この世界で一番長く葵様とともに居ましたが、アレを見るのは初めてです」
「そうか……じゃあやっぱりカスバード。正確なことじゃなくていい。わかるだけのことは話してくれ」
「……そうだな。何も知らないよりはマシか」
自分に言い聞かせるようにして、三位様はそう呟いた。
そうして聞かされたのは、初めて三位様が葵様と戦った時の話。
私が気絶し倒れた後、葵様からアレが発露した。
その時は、異常な気配と圧倒的な実力で三位様たちを圧倒したが、最後は油断か必然か。
ナイルの魔眼で心臓を穿たれ、葵様は死んだ。
結局、葵様はなぜか生きていたが、ともあれその時のアレですら、それほどまでに強かった。
だが、つい先ほどのアレにはそんなものと比較するのも烏滸がましい、次元の違う気配があった。
それこそ、人類最強が震え、逃げることを許してしまうくらいのプレッシャー。
「理由はわからないが、綾乃葵自体も強くなっている上に、アレまで強化されていると来た。しかもあの時とは違い、どうやらアレは綾乃葵の制御下にあるようだった。もしアレを完全に御された場合、本格的に勝ち目はなくなる」
「カスバード。あんたの魔眼は魂を視れるんだろ? それから視た感じだとどうなんだ?」
「間違いなく最強格だ。宰相様や魔王様と同等か、それ以上」
お父様が魔王軍のトップに君臨する宰相と魔王の実力を正しく知っているかはわからない。
ただ二位様の発言の重みはしっかりと受け取れたようで、驚きと嬉しさが顔に張り付いた。
「それはまた……ちなみに俺やお前、俺が大戦で戦った二位は、比較してどのくらいだ?」
「私が勝手につけているランクだと一つ下。瞬殺はされないまでも、確実に勝つことはできない」
「恐ろしいな……勝つことを前提に戦うなら、どれだけの戦力が必要になる?」
お父様の言葉に、三位様は眉間に皺を寄せて考える素振りを見せる。
腕を組み、唸りはしないものの首を捻って彼我の実力差を分析しているのだろう。
「……低く見積もって私と君、そこに十魔神の中から二、三名は必要になるな」
「宰相と魔王のコンビならどうだ?」
「勘違いしている――というかさせてしまったようで悪いが、宰相様は戦闘能力がずば抜けて高いわけではないんだ。だから、魔王様とペアを組みアレと対峙したところで、確実に勝つ保証はない」
「カスバードの視た魂だと宰相と魔王は同格なんだろ?」
「基本的には、魂の質の高さは実力と比例する。しかし何事にも例外はあるんだ。宰相様の場合、生きている年月が長すぎるがゆえに、魂の質が高まっている。もちろん、十魔神に匹敵する実力があることは否定しないが、戦闘に置いて魔王様と同格とは言えない」
三位様の説明に、お父様は納得したように頷いた。
かくいう私も、初めて聞く魂についての説明と、付随して少しばかり判明した魔眼の概要を理解できた。
「じゃあやはり、綾乃葵との戦闘はアレを出さないように留意して戦うか、即座に撤退が無難か」
「そうなる。ただし、アレが我々の目的の邪魔になるのなら、どれだけの犠牲を出してでも排除せねばならん」
「……お父様」
三位様の言葉に不安を覚え、私は二人の会話に割って入る。
私が魔人側につく為の条件として提示した“綾乃葵の生存”が守られない可能性を、目の前で提示されたからだ。
「わかっている、アンナ。心配しなくていい。そうだろ?」
「可能性ではな。魂が別物である以上、アレの排除に成功しさえすれば、綾乃葵を生かしたままにすることだってできるはずだ」
「……それならよいのですが」
「大丈夫だ。俺が必ず、アンナの約束を守らせる」
お父様は私の頭を優しく撫でて、柔らかな笑みで言った。
記憶にある中で初めて父親に頭を撫でられた私は、なぜか懐かしい気持ちを抱く。
その正体はわからないが、心地の悪いものではないのは確かだ。
「お、来たか」
「……悪い。失敗した」
開きっぱなしのゲートから姿を見せてすぐ、ばつが悪そうに顔を歪め謝罪したのは、葵様と同じ召喚者の一人で、葵様と浅からぬ因縁のある相手。
「隼人様が謝罪する必要はありません! 私がもう少し強度を上げられてさえいれば――」
「――足りない部分を補うのが俺の役目だ。それを果たせなかったのは俺で、お前はよくやってくれてたよ、ノラ」
中村隼人。
確か、召喚者の中で葵様に次ぐ実力者と言われていた男性。
恩寵もかなり戦闘に向いていたはずだ。
「気に病む必要はない。ついでで問題ない事柄だったからな」
最後にゲートから出てきた蒼の髪と瞳を持つ浅黒い肌の女性――ライアン様へと三位様は視線を向けた。
三位様の視線を受けて、ライアン様は恭しく頭を下げた。
それを見届けてから、落ち込む素振りを見せる中村様に励ましの言葉を投げた。
中村様だけではなく、隣で同じように肩を落としているノラにも語り掛けているように聞こえる。
「しかし、あんたがしくじるなんて珍しいな?」
「イレギュラーが現れました」
「ああ。綾乃が来て俺たちの邪魔をしたんだ。妨害を防げなかったのは俺の責任だから、ノラを責めるのは止めてくれ」
「さっきも言ったが、気にしなくていい。それよりも、イレギュラー……綾乃葵が王国に来たと、そう言ったか?」
「あ、ああ。いきなり現れて、ノラが掛けた洗脳を一目で見破っただけじゃなく、俺ですら気づかないうちに洗脳を解かれた」
中村様の説明に、三位様は不思議そうな表情を隠さなかった。
無言で眉をハの字に曲げて、中村様だけでなく隣に姿勢正しく佇む、私と同じ制服に身を包んだノラと呼ばれた側付きへと視線を転じた。
責めるような鋭い目つきではなく、確認を取るような柔らかな視線を受けて、それでもノラは申し訳なさそうに視線を落としながらも頷いた。
その首肯は中村様の発言を肯定するもので、より一層、三位様の困惑を深めることとなった様子だ。
「君はドミニクが勧誘したという召喚者で間違いないか?」
「……? ああ、その通りだが……」
「一つ、聞いてもいいか?」
「なんだ――でしょう?」
中村様はまだ魔人との接し方を決め切れていないのか、少し口調がおかしいながらも答えた。
そのぎこちなさを気にも留めず、三位様は「ふむ」と一つ頷いて、中村様を観察するように凝視した。
「えっと……何か、まずい格好でもして――ますか?」
「……いや、純粋に、なぜ異世界の者でありながらこちら側に与するのかと、疑問に思ってな」
「ああ、それなら単純に、同じ召喚者の中に倒したい奴がいるから――です。味方にいると、どうしても周りが五月蠅いだろうし、自分とあいつの意見を真っ向からぶつけられるチャンスなんて、この先の長い人生で見てもそう回数のあるものじゃないだろ――と判断して、ドミニクの勧誘を受けました」
「なるほど。要はドミニク殿と同じ、自身の目的が合致した、ということか」
納得したのか、三位様は少し笑いを含んで頷いた。
何がツボに入ったのかは不明だが、それを探る前に中村様が手を挙げた。
「俺からも、一ついいですか?」
「構わないぞ」
「そっちのメイド服の子……綾乃の側付き――ですよね?」
「うん? ああ。その通りだが?」
「……なぜ、ここに? 綾乃も、ここにいるんですか?」
警戒を態度と声音に宿し、中村様は訊ねてきた。
中村様の目的は、さっきの発言からして葵様と戦うこと。
その為に、魔人側に寝返ったのだと言っていた。
だが葵様が魔人側にいるのなら、中村様の寝返りはまるで意味を為さなくなる。
中村様にとっては、敵同士だからこそ意味のあること。
その前提が覆される可能性を、私から感じたのだろう。
「違いますよ、中村様。私は私の為に、この場にいます。葵様は必ず、私たちの敵として立ちはだかってくれます」
「……そうか。それならいいんだ」
私の言葉で納得してくれたのか、中村様はホッとしたように胸を撫で下ろした。
それを見てから三位様へと向き直り、頭を下げる。
三位様に向けられた質問に、横取りする形で答えてしまったことを謝罪するためだ。
「許可なく発言してしまったこと、また三位様に向けられた質問を奪ってしまったこと、謝罪します」
「構わない。こと、この質問に関しては、君の方が回答を提示するには適任だったからね」
朗らかに笑って、三位様は手を振った。
初対面の印象とは随分と違う。
もっと荒々しく、知性の中に隠せないほどの獰猛さを持っている人だと思っていたが、あれは戦闘字のみに見せる姿なのだろうか。
「さて、そろそろ移動しようか。この場に留まっていた理由はなくなったわけだしね。ライアン、転移の準備は?」
「できています」
「よろしい。では行こうか。――ナイル、大丈夫か?」
「ん? ああ、問題ない」
これまでずっと、木の幹に体を預け、目を瞑って休んでいた五位様は、三位様の呼びかけを受けて立ち上がる。
ライアン様は、その五位様の立ち振る舞いを一睨みしてから、ここへ来た時と同様に手を持ち上げてゲートの準備をする。
「お父様」
「どうした?」
ゲートが完成するまでの僅かな時間で、ずっと気がかりだったことを聞いておく。
心配や不安を表情と態度に出さないように細心の注意を払いつつ、身長の高いお父様を見上げる形で言訊ねる。
「お母様は、今どうしているんですか?」
お父様は、一国の主でありながら魔人側についた。
そのせいで、帝国という一つの国にどれだけの影響が出ているのかはわからない。
武力至上主義をモットーとするお国柄ゆえに、国の頂点が魔人側に寝返ったことで帝国の国民全体も魔人側についたのか。
あるいは、お父様の行動を奇行と見做し、しかしどうすればいいのかわからずに困惑の最中に在るのか。
前者でも後者でも、どのみち生粋の帝国人ではないお母様がどうなったのかがわからないのは、心の底から不安だ。
「まだ言ってなかったか。すまんな、気が回らなくて。アンナは最近やっと再開したばかりだから、余計に不安だよな」
「……はい。それで、その……お母様は無事なのですか?」
表情や態度には見せていなかったつもりだが、状況を鑑みれば私の心情を推測するものそう難しいことではないのかもしれない。
バレてしまったものは誤魔化しても仕方がないので、素直に頷いて続きを促す。
「安心していいぞ、生きてはいるからな。それに、もっと面白いものを見せてやれるぞ」
「面白いもの……ですか?」
私の問いに、お父様はニヤリと悪戯な笑みを浮かべた。
お父様の物言いに少し不穏なものを感じつつ、そこを詮索するのはなぜか躊躇われたのでその次に気になった言葉を反芻する。
その言葉に頷いて、しかし内緒だと言わんばかりに人差し指を立てて口に添える。
「着いてからのお楽しみな。さ、行こう、アンナ」
「――はい」
エスコートでもするようにお父様は手を差し出してきた。
伸ばされた手を断らず、素直に手を乗せてから、ライアン様が用意してくれたゲートを潜る。
二度目のゲートを通じた転移の感覚に身を委ねつつ、私は私の目的のためにどう動いていくかのプランを、遅まきながらも頭の中で着々と練り続けた。