第三話 【望む未来】
久しぶりに見る真っ白な空間。
帝国にいた間も、神聖国に来るまでの道中でも見ることのなかった空間だけに、やけに懐かしさを感じる。
『久しぶりね』
「ああ、久しぶり――だ、な……」
そんな空間に、例の如く白装束の女性が立っている。
そう思って振り向いた先にいたのは、葵の想像とは全く違う女性が立っていた。
まずパッと見の印象が違う。
今までの白装束とは打って変わり、黒に近いスーツを身に纏っている。
白装束の印象がミステリアスだったのに対し、今の印象はサラリーマンだ。
女性の持つ凛々しさも相まって、デキる女性感をヒシヒシと感じる。
しかし、そんなことは眼中になかった。
「結愛……?」
そう言葉にして、しかしすぐに頭を振る。
確かに、目の前にいる女性は結愛に酷似している。
双子かと錯覚してしまうくらいには、本当に似ているのだ。
けれど、服装意外に明確に違う部分がある。
「お前……本当に初代勇者か?」
『ええ。声も忘れた?』
「……いや、声は間違いなくあんただってわかってる。けど、お前の顔を見たのは初めて――」
そこまで言って、それは勘違いだったと思い出す。
だいぶ前、共和国で初めてこの空間に招致されたときの最後の最後で、その顔を見た。
その時も今と同じで、結愛だと勘違いした。
ただ違う点を挙げるとすれば、あの最後の一瞬に見せた顔も声も間違いなく結愛だったと言うことだ。
「どういうことだ……」
『今日ここに来てもらったのは他でもない。今のあなたを救うために来てもらったわ』
「……お前もか」
初代勇者の身勝手な物言いに、呆れたように呟いた。
つい今まで思考していた内容が消し飛び、この状況を強制的に作られたことへの怒りが湧いてくる。
「俺の状況を知ってるってことは、さっきのラディナとの会話も知ってるだろ」
『勿論だ』
「ならほっといてくれ。少なくともあんたに何かを言われて変わるようなものじゃない」
『これでも人の心理には詳しい。それこそ人の心は手に取るようにわかる。使い方次第では、今の君の状況を打破できると――』
「余計なお世話だ。俺に何を期待してるか知らないけど、これは俺自身で解決する」
嫌悪を言葉でぶつけ、初代勇者を引かせる。
この空間から逃れられずとも、この話題からは離れられるはずだ。
『そっか――その言葉が聞けて良かった』
「……は? 何を言って――」
『場は作ったよ』
初代勇者はそんなことを呟いた。
それの意図を理解する前に、初代勇者は葵ではない誰かへと声を投げる。
『ああ。感謝する』
落ち着いた若い男性の声だ。
ただその声からは爽やかな感じを全く感じ取れない。
威圧感と底知れぬ闇を孕む声だ。
そこにいるだけで恐怖を感じ、脚が竦みそうになる。
そんな圧を存在するだけで撒き散らす雰囲気を持った男。
「お前――」
『よう。こうして対面するのは初めまして、だな』
不敵な笑みを浮かべ、警戒を露にする葵に見せつけるように隙だらけで姿を見せる。
否、隙だらけに見えて、実のところは全く違う。
たとえここで全力で飛び掛かっても、一瞬のうちに床に這い蹲ることになる。
倒しにかかったはずなのに、逆に倒されている。
その情景がありありと目に浮かぶ。
『どうしたよ。そんな警戒して。別にお前を取って食おうとしてるわけじゃないぞ?』
「急に自分と同じ顔したヤツが現れたら誰だって警戒する」
『そりゃそうだな。けどお前は以前からオレと――いや、お前は覚えてないんだったか』
仕方ないな、とでも言いたげに瞳を伏せたのは、葵と同じ顔をした人間だ。
違う環境で育った双子、と言う説明を受ければ納得できるくらいには似ている。
背丈も喋り方も動きの癖も、声音さえも似ている。
纏う雰囲気こそ別人のそれだが、それでも原型は変わらない。
「誰だ……お前」
『姿見りゃわかると思うが……まぁそんなことよりも、だ』
こちらの質問には答えるつもりがないのか、葵の顔をした男は話題を変える。
『お前、これからどうするつもりだ?』
「……どうする、とは?」
『決まってるだろ。結愛のことだよ』
その名前を聞いて、心臓が締め付けられるのが分かった。
名前を耳にするだけで胸が締め付けられ、呼吸が浅くなっていくのを感じる。
『結愛に忘れられ、自分を失うほどにショックを受けたお前はこの後どうするんだ、って聞いてるんだよ』
「そ、れは……」
『なんだ。まだ気持ちの整理つけられてないのか』
納得――諦めると言った感情が、言葉に込められている。
まるで、綾乃葵はそこで立ち止まるよなと嫌な意味で理解されているかのような。
「――俺にとって、結愛は全てだった」
『…………』
男がこちらを理解しているのが気持ち悪かった。
だから敢えて、己の心を曝け出す。
そうすれば、言ってもいないことを理解されることはないからだ。
男は何かを言おうと口を開き、しかし何も言葉にせずに黙って話を聞く姿勢をとった。
「人見知りを改善させてくれた。いじめられた時も誰より献身してくれた。同学年との遅れを取り戻すのも手伝ってくれた。多くの分野で活躍して、その度に俺の目標になってくれた」
多才で努力家。
その原動力はどこからくるのか知らないが、いつも葵の先に立ち、葵を導いてくれた。
当人は導くなんてことを微塵も考えていないだろうが、結果的に指針となり、成長の始めには常に結愛がいた。
「得意じゃない勉強を頑張れたのも、好きでもない運動を頑張れたのも、全部全部全部――結愛がいてくれたからだ」
今の葵は普通とは違う。
勉学は学年で上から片手で数えられる位置にいるし、運動も本気を出せば上位に食い込める。
専門でやってる人には敵わないだろうが、良い勝負はできるだろうくらいの実力は持っているつもりだ。
その領域に、葵は努力で辿り着いた。
勉強も運動も、最低限の才能はあっただろう。
だが他を圧倒できるほどの才能もなければセンスもなかった。
あったとすれば、他人から学ぶ能力に長けていたことくらい。
その活かし方を師範に教えて貰うまで、ただひたすらに努力を積み重ねてきた。
全て、結愛を目標として。
「この世界に来てからもそうだ。結愛がいなくなって、見つけ出すために、困っていれば助けられるようにって、沢山の人から沢山のことを教えて貰った」
ラディナを通じて、この世界の常識や国のことや、今の葵の最大の武器となる“身体強化”、そして何より信頼を教わった。
ソウファとアフィは己の過去を想起させ、奮い立たせてもらったし、仲間の大切さも教えて貰った。
ナディアからは数少ない才能の使い方や生き様、そして己の魂を。
ソフィアからは今まで要らないと切り捨ててきた友情――関係の大切さを。
全て、大切な思い出。
そのどれもが、最終的には結愛の為にと培われてきたものだ。
「教えて貰ったことを飲み込んで、時には自分なりに解釈して、全部自分でこなせるようにって努力した」
“身体強化”も“魔力操作”も、狭く深いの才能を伸ばしてきたのも、全て結愛の為になるからと信じてきたからだ。
どこまで行っても、誰と関わっても、綾乃葵という個人の人生の根底には終始、板垣結愛という存在がいる。
それが嫌なわけじゃない。
そのおかげで生きてこられているのだから、嫌であるはずがない。
『でも、状況が変わった』
「――ああ、そうだよ」
黙って独白を聞いていた男が、口を開く。
的を得たそのセリフに、見透かされた嫌悪を露にしつつ同意する。
「笑えるよな。結愛の為にしか生きられなかった結果が、忘れられたことで枷になる。培ってきた全てが無意味になって、価値がなくなる」
結愛に守って欲しいと、お願いされたわけじゃない。
これまでの十六年と少しの間、結愛を指標にして生きてきたのは十二、三年ほど。
結愛の為にと生きてきたのに限って言えば十年弱。
それだけの人生の中で、結愛の為にと行動し生き続けてきたのは、単なる葵の身勝手――我が儘だ。
「因果応報――いや、違うか。自分の行動の全てが最初っから意味のなかったってだけのことだもんな」
それをなんて言うのかは知らない。
勝手に結愛に期待して、勝手に裏切られた気持ちになって、自棄になって塞ぎこんでいる。
なんて馬鹿馬鹿しくて、愚かなのか。
本当に、救いようのない人間だ。
『お前は過去に、結愛を追い続けると言ったそうだな?』
「無理だったけどな」
『お前を待っている奴らがいる。今も、お前のことを想ってくれているぞ』
「ああ。でも、俺はもう戻れない。こんな現実を、すぐには受け入れられない」
『ラディナや――あいつらは仲間だろう? 相談でもただ愚痴るでも、話してみる気はないのか?』
「こんな話、されたところで迷惑なだけだろ」
『……なるほど。結局お前は、変わってないんだな』
男はずけずけと踏み込んでくる。
最初こそ警戒し、嫌悪感があったが、もうそれを表に出すのすら億劫になってきた。
自分で理解し言葉にすることで、つい数時間前に起こった出来事を現実のものとして受け止め始めてしまったからだ。
仮定――想像で済ませたままにしておければどれほどよかったか。
でももう後戻りはできない。
人間は、今を生き未来に進む。
過去には戻れない。
『もう、結愛は追わないのか?』
「俺に、そんな資格はない」
今まで結愛を追い続けていた。
けれどここに来て、たった一つの出来事を受けて、その決意が揺らいでいる。
そんな浅い覚悟しかしていなかった奴に、それを続ける資格なんてない。
そもそも、追い続ける意味すらなくなってしまったのだから。
『――都合がいいか』
目の前の男はそう呟いて、前に――こちらへ一歩を踏み出す。
言葉を理解する暇を与えてもらえず、男は言葉を続ける。
『お前、まだこの世に未練あるか?』
「……未練?」
『そうだ。過去にできなくて、でもこの先でしてみたいこと。あるいは純粋に興味があって、手を出してみたいこと』
急に問いを投げかけられ、少し考える。
そして導いた結論は――
「――ない。もう何がどうなっても構わない」
『――たとえ、魔王が復活してもか?』
「魔王が復活するなんて当然のことだろ? 今までの九回の大戦でも倒しきれなかった奴を、俺が初めて倒しきるなんてこと、できるわけないだろ」
五千年も前の人物でありながら、現在においても多大な影響力を誇るほどの実力者だった初代勇者でさえ滅しきれなかった存在。
それを劣化した能力しか使えず、初代勇者ほどの実力もなければカリスマ性もない存在そのものが劣っている葵がどうこうできるわけがない。
そんな当たり前を嫌味のように尋ねられても、怒りの感情は湧いてこない。
もう、そんな気力もなくなっていた。
『なら、オレにお前の体を寄越せ』
「……どういう意味だ?」
唐突な発言に、首を傾げ疑問を呈す。
『そのままの意味だ。お前が人生を捨てるというのなら、まだ未練も執着もあるオレに貸して欲しいんだ。一時的でも、あるいは恒久的でもいい。何ならそっちの方がありがたいが』
「そうだな。せっかくなら、有効活用してくれるほうがいい」
『考えたのか?』
「考えた。考えて導き出した結論だ。お前にとっては嬉しい展開だろ?」
『そうだな。不気味ではあるが……今のお前に算段も何も見えないな』
「そんなことを考えるような力はない」
どうだっていい。
今までの人生にも、これからの人生にも価値がなくなった。
ならば、誰かに使ってもらおうと大した差はない。
どうせ綾乃葵は、いなくなったも同然なのだから。
『じゃあ契約をしよう。期間はどうする?』
「全部任せる」
『……じゃあ、期間はお前の魂が生き続けている間。オレはお前に未来を与え、お前はオレに体を差し出す。で、いいな?』
「ああ」
『なら、手を合わせよう。形でも同意を示すにはもってこいだ。それで契約成立とする』
男は手を差し出す。
その手に自らの手を合わせれば、男の言った条件で契約が組まれる。
仕組みも何も理解していないが、初代勇者と関係があるのならきっと拘束力のある契約なのだろう。
アニメや漫画で見たような、強制的に縛りを加えるような契約。
尤も、強制力があろうがなかろうが、どうせ“死ぬ”ことに変わりない身には関係のないことだ。
『……どうした?』
一度だけ、天を仰ぐ。
特に意味はない。
強いて言えば、最後に見ることになるだろう風景を、目に焼き付けておこうとでもしたのだろうか。
「――白いな」
『お前の心の中とでも言うべき空間だからな』
「そうか」
初めての情報が出てきたが、別にどうだっていい。
最後くらいもっと派手な場所でも良かったと思うが、根が陽ではない以上これくらいがちょうどいいのかもしれない。
こうして風景を見て何かを考えるのも最後かと思うと、存外、感慨深いものがある。
だけど、まだこうしていたいと思うことはない。
それが結論だろう。
「手を合わせりゃいいのか?」
『ああ』
最後に確認だけして、一歩を踏み出し男へ近寄る。
差し出された手の届く範囲へと立ち入り、己の手を無造作に持ち上げその手に合わせる。
同じような色の、同じような形で、同じような大きさの手が、ぴったりと重なる。
手を合わせた瞬間、もうすぐ“死”が訪れるのだと悟った。
色々な情景が脳裏を過る。
結愛に人見知りの直し方を教えて貰った。
結愛に人と仲良くなる方法を教えて貰った。
結愛に恋のことを教えて貰った。
結愛にいじめから立ち直らせて貰った。
結愛に遅れた勉強を教えて貰った。
結愛に、結愛に、結愛に、結愛に、結愛に。
『――――俺が結愛を守る』
結愛が、泣いている。
あの結愛が。
勉強ができて、運動ができて、友達も多い結愛が。
多くの人から愛され、悲しみとは無縁のところにいそうな結愛が、泣いている。
そんな結愛を――悲しみに暮れている結愛を、力強く抱きしめている。
誰が?
『結愛の前からいなくなったりしない。俺がずっと、結愛の傍にいる。必ず、守り続けるから』
やめろ。
できもしないことを宣うな。
口だけの人間なんてどこにでもいる。
『俺が絶対に、結愛を――』
うるさい。
黙れ。
『――葵』
黙ってくれ。
頼むからこれ以上は見せないでくれ。
もう嫌なんだ。
未来はわかってる。
こんなことは空想だ。
子供の幼稚な想像に過ぎない。
結末は変わらない。
変えられない。
だから、もう――
『自分が苦しみたくないだけだろ?』
「――そうだよ」
『これ以上、結愛に忘れられた苦しみに耐えたくないから、逃げるために必死なんだろ?』
「――――――それの何が悪い!」
感情が、爆発する。
「当たり前だろ! なんでこんな苦しい思いをしなきゃいけないんだ! 俺はただ頑張って生きてきただけなんだよ!」
そうだ。
結愛が生きる指針をくれた。
目標になってくれた。
生きたいと、死にたくないと必死に足掻き、藻掻き続けてきた。
「苦しいのは嫌だから! 苦しみとも、悲しみとも無縁の結愛を追い続けた! そうすれば幸せになれるって! 結愛と同じ場所にいれば、結愛が幸せにしてくれるって信じてた!」
縋るしかなかった。
齢六歳で人を信じられなくなった葵が唯一信じられたのは、家族と結愛だけだった。
その中でも結愛は、いじめられ引きこもりになった葵を献身的に支えてくれた。
そこには罪悪感があっただろうが、それでも当時の葵にはそれが全てだった。
もう傷つきたくないからと、関わりがなければ傷つかずに済むからと。
どれだけ突き放しても諦めることなく、葵の為にと身を粉にしてくれた結愛に、縋るしかなかった。
「結愛が世界の全てだったんだよ! 結愛が、俺の全部だったんだ!」
依存してた。
葵が結愛を求めれば、結愛は必ず答えてくれた。
生来の優しさと罪悪感が、結愛を葵と言う個人に縛っていた。
それでも、結愛がいなくなれば葵は生きられない。
だから、何も知らないフリをして縋ってた。
「でも状況が変わった」
葵の支えだった結愛。
その結愛の支えであった結愛の両親が、行方不明になった。
葵の生きる指針が、目標が生きる意味を失いかけていた。
結愛が生きられなくなれば、葵も同じ道を辿る。
僅か二年で新たな指針を見つけられるわけがない。
「無意識のうちに結愛を支えた。結愛がいなくなれば俺は死んじゃうから」
結愛が両親を失って、悲しみに暮れていた。
子供は両親がいなければ生きていけない。
いずれ結愛はどこか遠いところに引き取られるだろう。
そうなれば、綾乃葵は死ぬ。
己の生存本能が、それを許さなかった。
「だから自分が死なないために、結愛を死なせないように立ち回った!」
結愛を支え、両親と言う心の支えを葵へと移す。
互いが互いを支える共依存の形を作った。
そうすれば生きられると、己の本能が無意識でその状況を作り出した。
でも――
「小さい頃はそれでよかった。そんなことを考える暇もなければ頭もなかったから。でも大人になるにつれて、自分がしてきたことがどれだけ異常なのかを理解するようになった」
結愛の為と嘯いて、全ては自分の為に行動していた。
結愛の弱みに付け込んで、自分を守っていた。
大義名分は結愛の為だと、己すら騙して。
「結愛に縋ってたのは本当だ。結愛に忘れられて悲しかったのも、傷ついたのも本当だ。でも、心のどこかでは、これでよかったと思ってたんだ」
今まで結愛を利用してきたことを償える。
例え自己満足でも、葵が作った共依存から結愛が抜け出し、自分の人生を生きていけるのなら、ここで死ぬのも悪くないと思った。
そうだ。
最初から、解決するつもりなんてなかったんだ。
結愛に忘れられるという出来事は、心のどこかで望んでいた贖罪を果たせる道の一つだったんだから。
『いい加減、本当のことを言おう』
子供が言う。
世界の広さを、怖さを知らないような、子供が。
『共依存とか贖罪とか、都合のいい言葉で事実を隠すのやめようよ』
「……何を――」
『はっきり言って。好きな人を取られて苦しいだけだって』
「――俺は、好きなんかじゃない。ただ家族として――」
『僕でもわかる気持ちを、なんで俺が理解できてないの?』
「――黙れ」
『俺が言葉にしてきたことは全て、事実なんだろうけど、でもそれは本当のことじゃないでしょ?』
「黙れよ!」
俯き怒鳴る。
拳には力が入り、爪が皮膚に食い込む感覚が鈍い痛みを広げていく。
『黙らないよ。俺が事実から目を逸らすってんなら、僕がそれを叩きつける』
「余計なことはするな! もうこれでいいんだよ……! 全部――これで全部終わるんだ」
『終わるわけない。いい加減、目を醒まして。自覚して受け入れて』
視界に子供は入ってくる。
視線を逸らそうとして、顔が動かないのを理解した。
なら目を閉じればいいと瞼に力を入れるが、こちらも微動だにしない。
己の体が言うことを利かなくなった。
『その苦しさから逃げて何になるの? 好きな人を諦めて、“自殺”なんて安易で無意味なもんに縋って何になるの?』
「――――辛い思いをするのは嫌だ」
『逃げてるだけじゃ始まらない。時には立ち向かう必要もあるよ』
オッドアイを見つめてくる黒の瞳は、こちらの思惑なんか全て見抜いているかのように深く深く、飲み込んでいく。
感情も思考も、全てが飲み込まれ、言葉と言う形で返還してくる。
『“誰かの為に強くなれ”』
「――」
『俺の根底にあった結愛の、更に奥底にあった言葉だよ。わからないはずないよね?』
父親が観ていた昔のテレビのオープニング曲。
その歌詞の一部。
もうすっかり忘れていた、綾乃葵の根幹を成す言葉。
『俺は確かに強くなったよ。それは認める』
この世界で考えても、綾乃葵は確かに強くなった。
地球でも、虐められていた頃から考えるとかなり成長している。
自他ともに認められるほどの成長。
『だけどまだ先はある。ここが終着点なんかじゃない』
「――これ以上、辛い思いをしろって?」
『俺の生きる道は俺が決めろ。だけど少なくとも、僕ならそうする』
子供から、何も逸らすことは許されない。
だから自然と考えさせられる。
どうするべきなのか。
どう、したいのか。
『進む道が辛いとわかっていて、そこに躊躇なく行くのは難しいよね』
そう。
そうなのだ。
茨の道だとわかっていて、傷を恐れずに突き進める人間は少ない。
その少数派に、綾乃葵はいない。
『でも、人生はそういうものだよ。傷つき癒される。どう足掻いたって、その命運から逃れられない。人間だけじゃない。生物はみんな、そうやって生きてる』
「――けど、他の動物はこんな苦しみを味合わない。自殺って概念は人間にしかないって言うし」
『他の動物のことは知らないけど……でも人間として生まれたんだからそういうものだと受け入れるしかないだろうね。でもさ――』
子供が手を伸ばす。
眼前へピッと人差し指を立てた状態で、指の奥から瞳を覗いてくる。
『――未来を思い通りに変えたいのなら、突き進むしかないんだよ。今いる道がどれだけ険しくても、例え茨道でもさ。過去は変えられない分、今を頑張って、未来に繋げるしかないんだよ』
「……この辛さを乗り越えた先には、何があるのかな」
『そんなの僕は知らない。言ったでしょ? 思い通りの未来を掴み取りたいんなら、頑張るしかない。俺は、前進しかできない能無し、でしょ?』
一回りも二回りも年下の子供に全てが見透かされている。
紡ぐ言葉の全てが不思議と心に刺さる。
なぜ、どうしてと考えても、きっと答えは出ない。
そういうものだと割り切って、前を向いて進むしかない。
そうだ、俺は――
「――なぁ」
手が触れ合っている。
色も、形も、大きさも。
全てが似通っている手と手が、触れ合っている。
『どうした?』
「俺がさ、未来を変えるために頑張るって言ったら、お前はどうする?」
『曖昧だな。もっと具体的に言ってくれよ』
「……そうだな。簡単に言うなら――」
男へ向けていた視線を天へと向けて、その白い空間を眺める。
さっきまで居た白い空間よりも広く、そして深い。
けれど、圧迫感はこちらの方が酷い。
重く、苦しく、この場にいるのを拒絶されているかのように錯覚しそうになる。
「結愛は死なせない。あんたにできなかったことは、俺がちゃんと果たしてやる」
『――……貴様。どこでそれを知った』
初めて男を見た時と同等――否、それ以上の殺気が肌を刺す。
大気ごと押しつぶされているんじゃないかと錯覚する。
魔王なんて比じゃないレベルのプレッシャーだ。
けれど、怖さはない。
「図星だな――なんて言わないよ。そもそも始めっから答えを導くピースをあんたはくれてたんだから。だろ? 未来の俺」
『……』
威圧感はそのままに、目の前の男の――未来のアヤノアオイが射殺すような視線でこちらを見てくる。
それに体でお道化てみながらも、心は平静を保つ。
「あんたがどうしてここにいるのかも、俺の体を使って何をしようとしてたのかも知らない。知るつもりもない。でも一つだけ言っておく」
合わせていた手を放して、変わらず半端ない眼力を向けてくる黒い双眸へオッドアイを向ける。
「結愛は俺が幸せにする。だからあんたは、俺に都合良く利用されてくれ」
『――……お前はオレより弱い』
「だろうな。疑似的な殺気しか出せない俺とは違ってお前のそれは多分本物だろうし」
『お前は全ての攻撃を無力化できないし、全方位から一斉に攻撃を貰えば全てを凌ぐことはできない』
「ああ。全方位爆破なんてされたら手も足も出ないな」
『そんな弱い奴が、結愛を守れると?』
「違うよ。守るんじゃない」
アヤノアオイの言葉を首を振って否定する。
両手を開き、掌を見つめる。
「昔の俺は、結愛を守らなきゃって思ってた。でも違ったんだよ」
顔をあげ、変わらず視線を向けてくるアオイへ向き直る。
「過程なんてどうだっていい。結局は最終的に、俺も、結愛も、幸せになってりゃいいんだ」
『……だから、弱いお前では――』
「できるよ」
アオイの言葉を遮る。
覚悟を決めた。
そのことをわかりやすく示すための、示威行為。
「俺と結愛ならできる。もう俺は、一人じゃない。だから、できる」
『……』
アオイは何も言わない。
ただ黙り、ジッと葵を見つめてくるだけ。
十秒。
黒い双眸は葵を捉え続けた。
『次はない』
「ああ。お前の特権を、おそらく俺は使えないだろうな」
『お前が守り切れなければ、それで終わりだ』
「それは俺の人生の話? それとも世界の話?」
『……忠告はしたぞ』
それだけ言って、アオイはスッと白に溶けていった。
まるで初めから存在などしていなかったかのように。
「ごめんね。せっかく引き合わせてくれたのに」
『それはいいよ。それより、目覚めたの?』
「一瞬の覚醒、って表現が正しいかな。魔王戦の時みたいな」
あの時と違うのは、その記憶を確かに保持しているという点。
「あの時よりも短かったから、表面しか読み取れなかった。多分、あいつに触れてたから発動したのかも」
『そっか。じゃあ乗り越えた報酬として、私から一つアドバイスしようか?』
「それは嬉しいけど、でも要らない。どうせすぐに見つけるから」
『――へぇ……そこまで読み取れたの?』
「ああ。だから心配無用だ。俺はあんたの目的も何も知らないけどな」
笑って、初代勇者に背を向ける。
その様子を見て、初代勇者は顔を綻ばせる。
『行くんだね』
「ああ。もう行く」
やるべきことは多い。
いつアレが起こるかわからない以上、今は時間が惜しい。
「じゃ、世話になった」
『私にできるのはこのくらいだから』
謙遜するように、初代勇者は言った。
けれど、それがどうしようもないくらいの本心だと言うことは、なんとなくわかった。
なぜそう思ったかはわからないが、でも感謝してるのは本当だ。
この空間に来なければ、永遠に答えの出ない悩みで頭を抱えていただろうから。
ならどうすればいいか。
そんなもの、決まっている。
空間から消える直前、振り向いて儚げな笑顔の初代勇者に向けて言う。
「感謝してる」
それだけ告げて、その空間から抜け出した。