エピソード3 父と母
エピソード3 父と母の話
私の父と母はお見合い結婚で、所謂政略結婚に近い結婚だった
母方の曾祖父が一代で作り上げた成り上がりの財を
祖父が元華族の祖母を嫁に貰うことで面目を保ち
見合いの席では「何もせず編み物をしていてほしい」と言われたのに結局豆腐作りは全て祖母がやっていたという結婚生活はまるで私の両親を見ているようで、血は水よりも濃いものだと思い知らされる
そして、その跡継ぎ問題と面目は母と父の代となっても変わらなかった
母の家が前述通り一代でなしあげた財を豆腐屋という形で更に大きくしたのが母の両親、私にとっての祖父母だった
そして、なしあげた祖父母が次に求めたものが跡継ぎである
母には姉が一人いたが、学生時代に既に結婚しており、
本人も豆腐屋なんて辛いばかりの仕事なんてしたくないと専業主婦で過ごしていたらしい
勿論母だってやりたくはなかったそうだが、
祖父母の家にとって「お姫様」は母ではなく母の姉だったのだ
これは母から聞いた話しかないのでどこまでが事実化はわからないが、おそらくある程度はあっているだろう
なんせ私達兄弟が小学校で私立に入るとき(我が家は兄弟3人共小学校から私立に入った)、
まだ入学式を終えていないのだから小学生にすらなっていない子供に直接
「○○(母の姉)の子供が公立なのにお前達が私立にいくなんて生意気が許されると思うな」
と告げるような祖父母だったのだ
母の姉の子供(つまり私にとっての従兄弟)よりも良い服を着れば生意気だと怒られる、そんな祖父母だったのだ
そう思い返せば母の言葉もそう間違いはないんだろうし、そもこの手記こそが私の主観でしかないんだから、まあ、仕方ない
そんな祖父母が求めたのは、母の婿となり豆腐屋を継がせるに辺り
「余計なことを行わない人間」かつ「婿に入れるにあたって恥とならない家柄の人間」だった
昭和も終わりの頃の出来事だと話して誰が信じてくれるんだろう
もっともそこまで無理を通して見つけた跡継ぎも結局は家を飛び出して豆腐屋を廃業する羽目になるのだから世の中なんてそんなものなのかもしれない
父の家へと話を移せば、父の実家はとある田舎の元大名であり、
父の数代前の当主が博打で全てを失ったというような、ここでもまた血は水よりも濃いことを実感させてくれる生粋の博打好きで商売ベタで、周りの農家の方に田畑を貸してその地代でなんとか生計を立てているような家庭であった
平成の世に地代を現金ではなく米で支払っている図を見たことがあるだろうか、私はある
つまりそのくらい、田舎なのだ
週刊少年ジャンプが毎週水曜日に発売されるくらい、遅れれば金曜日になるくらい、そんな田舎なのだ
父方の祖母はよく「世が世なら私もごちるちゃんもお姫様だったのよ」と言っていた
大名筋は祖母の方だったので最後までその気位を忘れることはない人だった
私は、祖父母と会話した記憶が殆どなく、
父の実家に行けば以前書いたように嫌がらせに合うので行きたくはなかったが
それでも私はこの祖母を好きだったと記憶している
そんな家の五男だったか六男だったか七男だったか、
もうそれすらわからないけれどとにかく下から数えたほうが早い順に生まれた父は
中学を卒業後すぐに母の地元であり私の地元、横浜へと出稼ぎ、いやむしろあえてこう呼ぶとしよう
丁稚奉公に、来ていたのだ
15歳から丁稚奉公に出てきていた父と母が出会うのはそれから14年後、お互いに29となる年のことだった
お見合いは一回だけだったそうだ
綴り書きを見て気に入った母方の祖父がそのまま話を進めて、二人はたった一度お見合いをして次にあったのは結婚式だったという
なんて、こう書くと誇張が過ぎるけれど、一度のお見合いのあと二人が顔を合わせたのは結婚式の日取りや座席などを決める業務確認のためでしかなく、
それもみな両祖父母が全て決めていき、
母が自分で選んだのはウェディングドレスだけだったと、今でもよくこぼしている
二人のお見合いから結婚式まではたったの2ヶ月しかなく、招待も何もがてんてこ舞いだったらしい
なんでそんなに性急にと訪ねたとき母は
「その日を逃すと次は6ヶ月後だった、父(私にとっての祖父)に6ヶ月もかけたらお前は嫌がって結婚をやめるからだと言われた」
と、時には冗談として、時には愚痴として何度も何度も教えてくれた
6ヶ月間、付き合うだけで嫌になる相手との結婚がどうなるのかなんて火を見るよりも明らかで、そんなことは子供にだってわかりそうなもので
結婚式後そのまま向かった新婚旅行を終えて初めて二人で新居に足を踏み入れるその日
父は、家に帰らず父の兄弟の家へと麻雀をしに行った
そうして始まった夫婦生活の中で私が生まれるのは、それから更に8年ほど経ってからとなる