第三話 「魔都の狐、魔窟の狼」 後編
遅れた……おおいに遅れた。すみません……。
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過去、神聖キーツシリク帝国は、ドランチスカ高原王国に対して二度の大規模な軍事行動を起こしている。ドランチスカとペイルバネスを滅ぼした、「第一次討魔神軍」が、一度目のそれである。その後、ドランチスカは半年ほどでキーツシリクの支配を跳ね除けて再び興国したが、ペイルバネスは神聖帝国の支配下のままであった。
それから八年が経過し、「第二次討魔神軍」が開始される。兵力差は、前大戦の「メラスナー平原の殲滅戦」後に似た様相で、キーツシリク十万対ドランチスカ五万だった。
だがこの戦いは前大戦と違い、終始ドランチスカ優勢のまま終結する。
トローン山脈以南のドランチスカ貴族や騎士たちが無傷のまま敗残兵となってしまっていたことが、要因の一つである。「第一次討魔神軍」の時下、キーツシリクの急襲に混乱し、交錯した情報は信憑性に乏しく、南方の諸将は為す術もなくただ自領を守るしかない状況だったのだ。
前大戦に参戦できなかった南方の騎士たちは戦意を高揚させて出陣、弱兵と謗られるドランチスカだが、その士気の高さには、尚武の国アヴェールさえも驚嘆したかもしれない。
理由はもう一つある。そして、それが「第二次討魔神軍」勃発の原因でもあった。
第一次大戦の大義名分は「魔に仕える者どもを討ち果たし、神の威光を示す」だった。どんな思惑があってそんな大義名分が生まれたのか、ドランチスカ人には一向に理解できないことである。現在でも分かっていない。
しかし、第二次大戦のそれは、ドランチスカ人にも経過や思惑を知ることができた。
「異郷の地に魅入られ縛られた、哀れにして敬虔な信徒たちに、真の愛を。神の御前に導き、立ち返らせん」
つまりは、裏切ったキーツシリク帝国軍を討伐するという意向である。
「第一次討魔神軍」の際に反旗を翻した帝国軍は、当然ながら故郷に帰ることができない。そこで彼らはキーツシリク敗戦の混乱に紛れて特使団を派遣、自分たちの家族や親族をドランチスカに呼び寄せた。そして半数近くが成功を収めている。
また、“スタンブレ事件”を境に、キーツシリクを見放すキーツシリク人が増えていた。農民、商人、果ては聖職者その人まで。身分階級を問わず亡命の人波は続いた。「神懸りの国」と元キーツシリク人に言わしめた国が、およそどのような状況であるのか余人にも容易く想像できる。「神懸りの国」と完全に決別するには、ちょうど良い時期だったのだろう。
ドランチスカ側は、しかしながら彼らを拒絶する理由などない。キーツシリク教会軍と違い、敵対していたときの帝国軍は、まっとうな軍略と正々堂々とした軍力でドランチスカを打ち破ったのだ。しかも、最終的には第一次大戦終結の決定打となった彼らである。確かに怨恨はあるものの、同じ土地で暮らす住人として許容されていた。
煩わしい故郷に別れを告げ、新たな地の人々に迎え入れられた矢先、自分たちのせいでドランチスカが侵されようとしている。
このことに奮起しない元キーツシリク人はいなかった。ドランチスカ内での役職、地位、身分、そのすべてに関わらない。彼らも起ち上がったのだった。
前大戦に参加できなかった南方のドランチスカ騎士と、安寧を脅かされた元キーツシリク軍人。血気も盛んな新奇のドランチスカ軍が、聖職者が首脳である「討魔神軍」などに遅れをとるわけもない。前回、凄惨な戦火に巻かれたスタンブレは、キーツシリクの侵攻を想定して半ば要塞化、さらに橋頭堡としてドランチスカ軍を支えた。
ドランチスカ歴二一三年、初夏。
スタンブレの西、メラスナー平原で両軍は激突した。
「第二次討魔神軍」は夜明けとともに始まった。だがその戦役の名に沿わず、機先を制したのはドランチスカである。天地人の理を得た彼らは、朝日を背負い、高揚するままに雄叫びを上げ、メラスナー平原を驀進していった。
ドランチスカの騎士は喜々として敵陣に馬を乗り入れて槍を振るい、元キーツシリク人は決意を胸にかつての同郷人を剣で斬り捨てた。土煙と血煙が朝日を鈍く光らせるほどに立ち込めて、叫喚がそこかしこで上げられている。剣と槍と戦槌を、思惑と欲と信念を、メラスナー平原に存在する―――または存在していた―――人間たちはぶつけ合い、凌ぎ合い、潰し合う。戦闘は苛烈を極め、まだまだ激しさは増すかに見えた。
しかし、たった半日でメラスナー平原の会戦は終息する。十万対五万という兵力差にも関わらず、キーツシリク軍はろくに戦いもせず後退をくり返し、ついにはメラスナー平原から撤退してしまったのだった。
勢いに乗ったドランチスカ軍―――主にドランチスカ騎士たち―――は、三日で進軍路の途上にある数々の砦を落とし、五日目には掃討戦へと移行した。順調と言うよりも、拍子抜けしてしまうほどに弱いキーツシリク教会軍を追い詰め、ついにはキーツシリク東部の要衝フロウディフに王手をかけた。
メラスナー平原より西の原野は、起伏が少なく、だが往々に突出した岩山が存在する。濃く緑化した草原にそびえるその上に、城塞フロウディフはあった。言うまでもなく、その姿形を見るだけで攻城戦が長引くであろうことは推して知れた。
加えて、堅固な城塞には“フロウディフの竜騎士”なる高名な将がいる。「第一次討魔神軍」には参戦していなかったが、彼の戦ぶりは遠くまで響くほどの有名であり、キーツシリクには稀な、戦上手な猛者であった。ドランチスカと相対したことはないが、北方の帝国アヴェールとは何度か矛を交えている。負けはしなかったが勝ちもせず、しかし尚武の国との互角の戦いを繰り広げた彼の名はドランチスカに広がっていたのだった。
そんな“フロウディフの竜騎士”を前に、ドランチスカ軍は色めき立つ。これまでのような弱いキーツシリク軍と違い、彼は生粋であり戦上手な軍人、一筋縄ではいかないだろうと気を引き締めてフロウディフ攻城戦へと取り掛かる。
前記したとおり、「第二次討魔神軍」はドランチスカ優勢のまま、そして意外な結末を迎えることになる。
その結末へと導いたのは、“竜騎士”。
名を、ウェルセークと言う。
神聖キーツシリク帝国は「第一次討魔神軍」以後、深刻な分裂状態に陥っている。その兆候はかなり以前から窺えていたが、第一次大戦の予想だにしない敗走が助長させたようであった。
キーツシリクの統治は形骸化、各地方領では有象無象が野心を持って起ち上がり、形骸さえ打ち砕く勢いで群雄が乱立した。領主公を殺害して家臣が成り上がった地域や、盗賊などの無頼の輩が支配する地域、民衆が暴動を起こして統治者も官僚も排された地域など、もはや野人の跳梁跋扈の体である。
そうした背景もあり、いつになく熱狂的で欲望に駆られたドランチスカは、キーツシリク領土を少しでももぎ取ろうと斬り込んでいく。玉座に就いて間もない若き“ドランチスカの鳥獣王”も、戦勝の勢いによって支配欲を高めていた。
そんな折り、一人の青年兵士は冷静に状況の推移を見守り、やがて女王陛下に進言する。
「本来、蛇と鷹は相容れぬ敵同士、互いに狙い狙われの間柄。しかしながら相手は“竜騎士”であり、陛下は“鳥獣王”であります。野生に在らぬ理性を持つ者同士、ここは融和を進めることが上策かと」
あるいは諫言とも言えたかもしれない。青年兵士の含んだ皮肉に、“鳥獣王”の雷喝と拳が対価として払われた。
すごすごと歩み去っていく青年兵士の背中を見送り、しかし女王スズカは戦勝の熱を追いやることに成功していた。
少し歯噛みしながらも、彼の言うことが最上であることに気づいた彼女は進軍を停止。城塞フロウディフを囲みながらも投降は呼びかけず、和平を呼びかけた。その際、ドランチスカ軍のだれもが女王陛下の正気を疑ったらしいが、おおっぴらに声を上げる者もいなかった。
後に記される年代記は「先見の明、千里眼を持つ“鳥獣王”なればこそ」とスズカを讃えている。当時こそ騎士たちに疑惑の目を持たれもしたが、間違った判断ではなかったということである。
しかし正しかったのか、と問われれば、当のスズカ本人さえ首を傾げるだろう。
四十四年前に、スズカとウェルセークと、ごく限られた人間しか知らない約束が今、履行されようとしていた。
5
数えで十七歳、まだ誕生日を迎えていないので十六歳であるユウヒ。どちらにせよ若すぎる狩人は、しかし神童と呼んでも過言ではないほどの膂力と体力に恵まれている。
類を見ない逸材を友とし、臣下としたスメラ―――国王ラオニーもまた、“鳥獣王”より千里眼を継承した神童と讃えられた。
幼い頃から聡明で、物事の成り立ちや表裏を正しく理解する、読みに長けた子供であった。現在、公妹ユキアが画策している兵士の増強は、もともとラオニーが発案したものである。「急激な軍備拡大は、周辺諸国の不安と疑心を掻き立てる」と、穏やかに流れる小川の如く瀞々と進めてきていたのだ。
およそ十年ほど前から―――、ラオニーがわずか九歳の頃からである。
「……必ず、あの子は関わってくる。あのとき、軍備増強の策を聞かされたときから、そう思っていました」
ドランチスカの弱兵ぶりに憤慨した、子供ゆえの蒙昧さから立案されたものではないことをスズカは覚っていた。
弱兵、と周辺諸国にそしられることは多々あったが、「第二次討魔神軍」時下、ドランチスカは快進撃を繰り返したのだ。相手方の激しい弱体化など、さまざまな理由があるものの、易々と負ける国ではないということが証明されたわけである。現行のままでも軍備は充分だった。
それでも増強を強く推したラオニーは、
『近い将来、隣国キーツシリクは完膚なきまでに瓦解します。そのとき、諸国がなだれうってもぎ取りにかかるでしょう。乗り遅れるわけにはいきません』
そう言ってスズカや臣下たちを仰天させた。
ラオニーの言は、特別特異であったわけではない。キーツシリクの衰退ぶりを知る者なら、だれでも予想しえたことである。だが、混乱に乗じた奪い合いに参加するとは考えていなかった。
ドランチスカに住まう者、あるいは状況を知る者ならば、血生臭い争奪戦に乗り出さずとも国力が衰えることはないと信じていたからだ。事実、アヴェールやビウロンなど周辺諸国に比べてやや狭い領土であるが、大陸・海上貿易の交流点であるために他国を凌駕する富国となっている。
衰退したキーツシリクの領土をわずかばかり手にしたところで、さらなる栄華が約束されるわけでもない。神童と呼びつつも、陰ではラオニーを嘲笑する臣下が多かった。または、戦を好む鬼子と忌む者もいた。「第二次討魔神軍」からそれまで、長い年月が過ぎたとは言い難い。しかし、やはり飽和する者が多くなり始める時期であったようだ。
周囲がラオニーを危険視するなかで、スズカや一部の側近たちは理解を示した。ゆえに軍備強化を認可したのだが、周囲が危惧するところとはまた違った点で、スズカはラオニーを危ぶんでいた。
「シナ、あなたの言う通り、ラオニーには独断専行のきらいがあるようですね。ユキアとともに事に当たると考えていましたが……」
「内治に関しましては、陛下は陰ながら殿下に助言などを行い、仲睦まじく手を取り合っているようですが……。こと外征の話となると、陛下は一人ひた走るようですな」
シナの言葉が指す外征の話とは、『草原の議場』での一件であった。ユキアは“トローンの魔獣”をキーツシリク人の前に連れて行き、彼らの敵対感情に火をつけてしまった形になったのである。
そうなることを予期できなかった彼女を責めることはできない。いかんせん、キーツシリク人の倫理観はドランチスカ人に理解できるものではなく、そのとき実際にユキアは呆れて物を言えなくなっている。
ともあれ、ユウヒがキーツシリクの感情を逆なでする存在であることを教えず、キーツシリクが感情のままに行動するように仕向けたのが、ラオニーである。「一人ひた走る、独断専行」と言われたのは、その後のユキアがユウヒに無期停学処分を下しているところから明らかであろう。公妹殿下はなにも聞かされていなかったのだ。
「あの子は……、なにを考えているのでしょうか? もはやもうろくした頭ではなにも予見できません、シナ」
「なにを仰られますやら、“鳥獣王”? スズカ様がもうろくしたというなら、わたしなど、とうに心の臓が錆びついて土の肥やしになっているはず」
「……どれだけ私を化け物扱いすれば気が済むのです?」
「“鳥獣王”は神獣、強いて言えば化け物。気が済むも済まないもありませんが……」
「シナぁ……?」
再び現れた“鳥獣王”の片鱗に、かつての側仕えの老武人はそっぽを向いてはぐらかした。先刻は柄にもなくうろたえていたが、なんとなく始末のつけ方をさとったらしい。要はスズカの良識を利用した、ということである。若かりし頃の彼女にもそれがあったなら、自分の心的外傷も少なくて済んだだろうに、とどうでもよいことを考えたりもしている。
ふと、その先に人影を認めたシナ。ユウヒがよく知る、人の悪い笑みを浮かべた老武人はスズカに向き直った。
「なにを考えているのか、説き伏せ、聞き出してみてはいかがですか」
三白眼になっていたスズカは何事もなかったかのように表情を戻し、そちらへと顔を向けて孫を出迎える。温かな笑みを湛えながらもどこか硬くなってしまうのは、歩み来るラオニーの神妙な顔つきを見たからなのかもしれない。
「ラオニー……」
「憩いの時間に失礼します、お祖母さま。……かねてよりの懸案、ついに履行のときを迎え、決着がつきます」
息を飲み、目を閉じたスズカ。神童が動き始めた、これから先はもはや止めることは不可能になる。いや、現時点でも掣肘さえできない。止めるならば、十年前だったのだ。
シナの言う通り、せめて彼の思惑だけでも知ろうと、かつての“鳥獣王”は口を開く。
だが、それを見越したかのように銀髪の青年は先んじた。
「シナ、待機任務は解除された。ドランチスカ第三師団は進軍準備に取り掛かっている。ゴーボリが探している頃だろう、すぐに向かってくれ」
この言葉で、スズカはすべてを把握した。
「……武を以て、竜騎士との約束を果たすつもりですか!? 彼はそんなことを望んでは……!」
「ドランチスカ年代記に曰く、『“竜騎士”は語る、志成らざりし時は、所有するすべてをドランチスカ王家に差し出す。その契り、血書にて認めん、と。“鳥獣王”は応える、血を以て捺印し、我も血書に従わん。ここに和睦を超えた戦士の契り成るなり、と』……」
慌てふためく祖母を尻目に、銀髪の孫は朗々と年代記の一説を語った。
四十四年前、スズカとウェルセークの交わした約束は、そのまま年代記に収められていた。しばしば年代記は、装飾に過ぎることがままある。ラオニーの語った一説もまたその類であろうと、真実を知らぬ者たちは考え、ことさら目を剥くようなことはなかった。折しも、キーツシリクの支配を跳ね除け、武の女神たる“鳥獣王”スズカが台頭していた時代である、無理からぬ過美装飾であろうと考えられていたのだ。
だが、現実はそのまま、真実だった。
「失礼ながら、陛下。この老骨めの愚問をお聞き届けくださいますか?」
「……申してみよ」
絶句して固まってしまったスズカに代わり、いまだ彼女に側に控えていたシナがラオニーへとにじり寄る。細く長い眉の片方をわずかにはね上げ、ラオニーは老武人に顔を向けた。どこか苦々しい表情であるところを見ると、ややシナが苦手と感じているようだった。
「年代記が示す歴史、それが真だとして、どこに“竜騎士”と戦をせねばならない理由がございましょう? 彼の者がキーツシリクの統一に失敗したこと、音に鈍くなりつつある我が耳にもしかと聞き届いております。なれば“竜騎士”は失意に沈み行く廃人同然、戦を仕掛けるにも値せぬと思われますが……」
「……そこらの若人よりか膂力があるくせに、言葉はまず皮と肉で出来ているのだな、シナよ」
彼は一つ咳払いすると、以前ツブラ・ファンに見せたような表情を持って、二人の老人に相対した。やや切れ長の目は温か味を消し、代わりに冷厳さを蓄え始める。
やがて紡がれだした言葉は、やはり断定的で、独裁的なものであった。
「血書を持ち出したところで、彼の者が戦をする気であること、戦に果てようとすること明らかであろう。このこと偽りと申し立てても、貴方がたにとって建前でしかなかろう? なにせ彼の時代を、敵味方に分かれていたとは言え、共に過ごした仲なのだから」
居住いを正し、ラオニーはスズカに向き直る。
「これよりドランチスカ第三師団は、キーツシリク東部ボンボラド地方、要衝フロウディフの攻略に取り掛かります。併呑、合併の報をいち早くお祖母さまにお届けに参ります、何卒、心平らに……」
6
なぜ、そうなるのだ。
レイネは溜め息を吐き、こめかみを押さえた。近頃、めっぽう熱くなるようになった頭を振り、深呼吸を繰り返して放熱を試みる。しかし、一度目を開ければ、整然と並び立つ医療部隊が視界に入った。
半ば諦めかけた藍色の少女だが、年下の姫君に何度目かの確認を行った。
「殿下……。なぜわたしが、部隊長を務めなければならないのですか」
「『草原の議場』での勲と言いましたが? ……正規の軍隊ですので兵站警護も兼ねますが、そちらは別の者に任せますから、治療に専念するよう」
「そうではなく……」
論点がずれている、とレイネは言葉を続けようとしたが、やがて口を閉ざした。ユキアは確かにラオニーの妹だった。論点がずれていることなど百も承知で答弁していることが、彼女のうそぶいた表情から窺える。
彼女は、ユウヒと違ってミーミル学園の卒業は確定していない。まだ学徒の身分であり、仮に戦場に出ることとなっても、あくまでミーミル旗下の学徒兵としてであった。それなのに正規の軍に編入されたとなると、学園とドランチスカ王家の間に軋轢が生じる。いわば、なわばり意識が云々、という話である。
ラオニーにしてもツブラ・ファンにしても絶対的な権力者というわけではなく、なにかするごとに配下たちの、一応の同意が必要になる。たいていの場合は二つ返事で政策などが施行されるが、一言の断わりもないまま独走すれば要らざる不和を呼ぶ。
レイネの件は、ミーミルとドランチスカ、双方と、また双方に、縦横の亀裂を走らせることだと言えた。これまでも何度か、学園の運営員と王家の官僚が押し問答しており、その内容は例に漏れず、組織にありがちな縦割りゆえの言い争いである。あるいは上層部、下層部からの連絡がないための状況認識不足、果ての水掛け論だった。
ともかく、ユキアのやろうとしていることは臣下たちにくさい面をさせることになる。加えて、レイネ自身の人格も疑われることになりかねない。抜き身を晒して街を歩けと言われているようなものなのだ。
やはり、受けるべきではない。承諾しかけていたレイネだったが、毅然とした表情でユキアと向き合った。
レイネが従軍医を志したのは、ユウヒの存在によるところが大きい。とは言っても、やはり彼女にも、自らの将来や出世には興味がある。要するに野心に似た願望である。
自分の魔法はどれほどのものなのか、持ちえた才はどこまで通用するのか。人の上に立ちたいと切に願っているわけではないが、役に立てるならそれも良い。
軍に入隊し、功を挙げることが出世への近道―――。それは単に力自慢の猛者どもに限られた話ではなく、レイネのような魔法使いや知略に富んだ学者などにも当てはまることなのである。前者は従軍医や高位軍職者の身辺警護、後者は軍師職や幕僚に。軍内で立身するに必要なのは、優れた能力だけなのだから。
だが正規の手順を踏まえずに立身出世しても、賛美以上に非難と妬みを受けることになる。評価されたことは素直にうれしいが、いきなり部隊長では腰も引けた。ドランチスカよりもミーミルに帰依する傾向のあるレイネは、その点からも、ユキアの申し出は断わるべきだと判断したのであった。
「公妹殿下、やはり私には時期尚早……」
「レイネ! 聞いてくれよっ、俺、ゴーボリ隊の副隊長だってさ!」
間の悪さはスメラに感化されたのか。額に手を当てて溜め息を漏らしたレイネは、そんなことを考えた。
相変わらず公妹殿下の御前に立とうと態度を改めない“トローンの魔獣”は、まるで遊びに加えてもらえる子供のように溌剌としている。据え頭巾の赤熊の頭がユウヒの背中で踊り、こちらも熊と言うより犬の顔に見えた。
全身で喜びを表す同じ年代の少年に、しかし少女は厳しく睨みつける。普段から冷厳な彼女のそれは、ユウヒを我に帰らせるには充分すぎる一瞥であった。
「な、なん……。……あ、公妹殿下」
そういうことか、と表情で語ったユウヒは居住いを正してユキアに頭を下げた。
レイネは逆立てた柳眉を戻し、視線も戻す。機会は逃してしまったようで、幼い姫君は“魔獣”に身体を向けていた。
「副隊長と言っても、権限はほとんどありませんよ? それに、古老の兵シナを監査官に任命しました。“トローンの魔獣”の真価が問われる一戦となるでしょう、気を引き締めてください」
「シナ爺さんも来る……、じゃない、来るんですか。座を奪ったみたいな感じだったけど、とりあえず良い感じなんですね」
ほとんどなにも分かっていないに等しいユウヒに、レイネは眩暈を覚え、ユキアは苦笑した。監査官と言えば、万人が良い目で見ることのない役職である。いくら信頼の置ける者がそうなったのだとしても、多少は険を滲ませるものなのだが。
少女たちの微妙な反応に“魔獣”は首を傾げ、だがすぐに顔を輝かせる。
「ミオも、なんかすごい部隊に配属されたって聞い、聞きましたけど?」
「“アンタリエの銀鯨”は、兵站部隊の隊長……。通常、簡易の野営施設や進軍路の整備などを手掛ける兵です。こちらは腕力よりも、その……」
財力が物をいう部隊。そう口に出来ないユキアの心情は推して知るべし、とにかく、ミオの名家の名がおおいに役立つ部隊であった。ドランチスカ王家に『白帆の森』アンタリエ屈指の豪商が投資しているという証明になるのだ。多額の遠征費を手にするための演技、というわけである。
ユキアの言葉と違い、体力が第一の仕事をするのだが、あくまで表立ってのこと。有力な貴族・豪商の子息は、まずこの部隊での隊長、監督をすることがドランチスカ王家への仕官の―――あるいは御用商人の―――第一歩となる。
ある意味、ユウヒの言う「すごい」は当てこすりともなるが、もちろん彼にその意思はない。
「……お、噂をすれば。ほら、レイネ、ミオが指揮してる。投石器やら丸太やら、いろんな資材が運ばれてく!」
もはやユキアのことなど見えていない様子で、ユウヒは草原を駆けた。
彼の一挙一投足を医療部隊の兵士たちは戸惑いながらも面白おかしく眺めており、レイネは態度を変える必要がないと感じた。なので素直にユウヒの後を追い、丘陵の端に並び立った。少し遅れて、ユキアは二人の間に立つ。
「……これが、戦に向かう戦士たちの……」
「ええ……。あのときの陣触れなど児戯です」
「勇壮って言葉は、こういうときに使うんだろうなぁ」
この三人は見ていた。『草原の議場』でのドランチスカ軍の整然とした軍列を。
あのときは寡黙さが屈強な軍隊の体を表していた。そこかしこで私語が見られたものの、全体的に黙然とした素朴な力強さが感じられていた。
だが、それはあくまで一例であるらしく、いま眼下に広がるドランチスカ第三師団は、騒がしいほどに高揚し、鬨の声を今か今かと待ちうけていた。銀の穂波は風によらず絶えず蠢き続けて、血肉を欲する触手の如き危険な印象を与え続けた。
喧騒もまた、勇猛。どこか危なげな軍隊ではあったが、これほど頼り甲斐のあるものはない。ユウヒたちはそう思い、顔を見合わせる。
「“トローンの魔獣”、“ミーミルの黒猫”。国王陛下を、我が兄を、よろしくお願いします」
「……微力ながら」
「ぶん取ってきますよ!」
音高く鳴り響いたレイネの平手とともに、ユキアは進発の号令をかけて、ドランチスカ第三師団は足音も高く歩み始めた。
ドランチスカ歴二五七年、初夏のことである。
―――第四話「背徳の竜騎士」前編に続く
ようやく戦の話に突入できそうです。稚拙ながらも頑張ります。……なるべく早く。