第二話 「黒猫たちの学び舎」 前編
長くて細かいので、適度に休憩しながら読んで下さい。
1
果てなどないかのように広がる原野は、緩やかながらも起伏が多く、潅木と喬木の森林がまばらに群生していた。緑野の絨毯は濃淡鮮やかに、加えて自生する色とりどりの花々も彩を添えている。冬から目覚めたばかりの植物たちは一気に萌生し、春を謳歌し始めていた。
色濃くなる季節に向けて、まだまだ成長していくだろう自然の住人たちの中を、黄ばんだ土をむき出した道が縦横に走っている。旅から旅へと暮らす者が踏みしめて作った、いわゆる交易路であった。
もとは粗悪な道であったが、現在は草原の隆起を極力避けて作られ、道幅も広く、地均しされてもいる。簡易の宿駅も存在し、交易の国ドランチスカはトローン山脈のみならず、アナントル内陸部の交通の利便性にも心砕いていた。屯道兵の駐在所も数多く設置されており、そのため道中の治安は良く、盗賊や魔物の襲来などほとんどない。
ゆえに、この時期のドランチスカを旅する者の歩みは遅くなった。日差しは柔らかく、吹く風も心地よい。蒼穹を行く雲一つ一つを眺めながら歩く余裕さえある。普段は寡黙に歩き続ける商人旅団も、どこか浮かれた様子で笑い声を上げて、さながら物見遊山の一行であった。
が、なかには例外もいた。
「ふうぅ〜……」
商人旅団の最後尾で、赤髪の少年―――ユウヒは深い溜め息を吐いた。隣を歩く藍色の少女レイネも小さく溜め息を吐く。
前者は失望の色が濃く、後者は呆れの感情がにじんでいた。
「……こっちまで気が滅入るからやめて」
黒曜石のような色の瞳に睨まれたユウヒは、しかし再び溜め息を吐いた。春の陽気はまだ弱いとはいえ、彼は愛用の“赤い獣王”の毛皮を身に着け、数歩歩くたびに襟元の毛並みを揺らしている。さらにうつむき加減で歩いているため、“トローンの暴君”と酷似した赤い髪は毛皮に埋もれてしまい、どこからがユウヒでどこまでが毛皮なのか分からなくなっていた。
深く赤い瞳のユウヒに色は出ず、やはりレイネも再び溜め息を吐いた。彼女はミーミル学園指定の黒い外套を羽織っている。装飾は多少あるものの、やはり質素な印象はあり、場合によっては喪服にさえ見えた。いま、ずいぶんと消沈したユウヒを隣にしているためにそう見えている。
前方の商人旅団のなかから、年若い笑い声が響いてきた。おそらくは商人である父の跡を継ぐ少年のものだろう。ドランチスカの陽気は過酷であるはずの商人の旅を、楽しい父子の旅行に変えている。
対し、一向に楽しい旅にならないユウヒとレイネ。恨めしげに、そして羨ましげに声の元を眺めていた。
戦にならぬ戦―――『草原の議場』に派遣されたミーミル学園の学徒は、兵事学科のユウヒたち幹部候補生五十数名と、魔法学科のレイネである。
ユウヒたちは明日のドランチスカを守る将兵の卵、たとえ矛を交えずとも、その雰囲気を味わうだけで充分有益な派兵と言える。実際には、ユウヒ以外は味わう前にゴブリンどもに叩きのめされているが。
魔法学科のレイネは、自身の望んだ職種が従軍医であったため、今回の派兵に志願したのだった。そこに、「ユウヒが行くなら……」という少女らしい想いがあったかどうかは定かではないが、なんにせよユウヒの前線参入と同じくらいに人々を驚愕させた事例であった。
藍色の髪と黒目がちの瞳で、動物的な愛嬌があるレイネ―――彼女の性格に愛嬌があるかどうかは人の好みであろう―――。魔法の技術も高く、学園では“ミーミルの黒猫”と呼ばれる才女であった。
だからこそ従軍医など……と彼女の能力を惜しむ者も多かったが、レイネはその声に心変わりしなかった。
魔法学科の学徒の一般的な進路は、魔法学研究員や宮廷学者、そして野良の知識人―――俗に言う、冒険者だった。ユウヒの所属する兵事学科とは異なり、自らの将来にある程度の自由が利き、ただ肩書きが欲しいからと入学する者も多い。自由な気風が強く、奔放で利己的な人種が集まる学科と言えた。
とはいえ、レイネのように医者を志す学徒もいる。医者に限らず、ミーミル学園の教師となり、あるいは文盲率の高い地方で私塾を開き、ドランチスカの発展を望む者も少なくない。
だが、従軍医となると話は違ってくる。戦場に出れば否応なく敵の矛先に晒され、いつ命を落としても不思議ではない職業だった。とても魔法学科の学徒が選ぶ職業とは信じられなかったのである。
彼女と親しい者がその意思を確認したとき、
「人の強さは、力だけじゃない。人を支える手も、強さの一つ」
遠回しで、しかし聞く者によっては直接的な回答であった。
かくしてレイネは『草原の議場』へと参戦、魔法による治療がどれほどの利潤を生み出したかは言わずもがな、であった。ゴブリンに敗退した幹部候補生たちには気の毒だが、彼らがいたからこそレイネの魔法による治療が功を奏し、準備されていた薬品や医療機器が手をつけられずに済んでいる。
従来の医療部隊の他に知る者は少なく、いまはレイネの存在にありがたみを知る者も少ない状況ではあったが、兵士の質の底上げを画策しているユキア姫が、それに気づくのは後々のことになるだろう。
まずまずの成果に、めったに笑うことのない“ミーミルの黒猫”はわずかに笑みを浮かべて満足していた。加えてユウヒ以外の幹部候補生の早期撤退、つまりミーミル学園への帰路はユウヒと二人きり―――商人旅団と同行しているのは学園規律上の問題―――。
その辺りは歳相応で、気恥ずかしくも、やはり嬉しさが勝っていたレイネであったのだが。
2
自分から話し出すまでは、理由を聞かずにいよう。
そうレイネは考えていたが、何十回と溜め息を聞かされているとさすがにうんざりして、声高に問い詰めたくなってくる。常日頃から冷静沈着、冷厳無比、理路整然とした物腰のレイネは努めて平静に尋ねることにした。
「議後、公妹殿下が召喚なさったそうね。……なにかあったの?」
「……停学処分」
「そう……、……うそ」
回文になったレイネはユウヒの顔を凝視した。
兵事学科は魔法学科に比べてはるかに規律が多く、しかしながらなにかと秩序を乱して停学を受ける者が多い。血の気をたぎらせる者が集まる学科である、仕方がないと諦めに似た風潮があり、警備兵は日がな一日、内側に目を光らせている始末である。気性の荒い兵事学科を、魔法学科の学徒は蔑視して「子犬どもが、今日も遠吠えか」と嘲笑する対象であった。
例外なく、レイネも兵事学科の学徒には良い印象を持っていない。多くの者が粗暴で、魔法学科の学徒に因縁をつけてくることが多々あったからだ。他ならぬ彼女も、“ミーミルの黒猫”と名指された人間である。目を付けられることは必然だったのだろう。彼女に不愉快な感情を呼び起こす対象となり、幾度となく身の危険を感じる場面に遭遇していた。
そんな折り、ユウヒがレイネの前に起った。掃除用具の剛毛箒片手に。
真剣を持った数人の学徒と激しい格闘。その果てに多少の切り傷を負いながらも勝利したが、当然、停学処分を受けた。
「正しいことをしても、暴力は暴力。処分は妥当」
“魔獣”らしからぬ、また自身を襲った兵事学科と同じ学徒とも思えぬ言葉に、レイネは軽い衝撃を受けていた。
その後、らしからぬ少年との交流を始めたレイネ。気づいたことは、“トローンの魔獣”という物騒な通り名のわりに力を誇示せず、それどころかできるだけ争いから身を遠ざける傾向があるということ。知識はないが知恵はあり、意外に勤勉で微妙に紳士な人と為りが、ユウヒという少年の人物象となった。少し持て余し気味になる感情はこの頃から始まったのだが、それはさておき―――。
ユウヒが停学になったのは、レイネを庇って戦った事件のみである。自ら事を起こして処分されるような人間ではなかった。
「陣中で粗相したの?」
「やめてくれよ、子供じゃあるまいし。……理由は知らない、いきなり殿下に『卒業は見合わせる』って言われた」
「……厳密には、停学じゃないわね。けど……」
停学と同じことであろう。卒業を見込まれていたユウヒは、兵事学科で取得できる単位はすべて取っている。しかも取る必要のない科目の単位まで取得しているものだから、学園内ではなにもすることがなく、ただ無為に過ごさなければならなかった。
なぜそんなことになったのか、おそらくユキア姫以外に知る者はいないだろう。とつとつと愚痴り始めたユウヒによれば、シナもゴーボリも驚いていたと言う。
ゴーボリはともかく、シナはドランチスカ王家三代に仕えた忠臣、ささやかながら―――やや毒気も含ませつつ―――次のように上訴してくれたらしい。
「畏れながら、殿下。学徒兵ユウヒは、礼を失することなく護衛の任を務め上げました。兵站警備では武技冴えわたり、魔物ども十数体を屠る猛者ぶり。また、学の不備を自覚し、勤勉なること、他の学徒に類を見ぬと思われます」
そもそもユキア姫自身がユウヒに護衛を依頼し、またその理由が兵站警備の戦果によるものであった。シナに言われるまでもなく、自身のしたことは気分次第で人の扱い方を変える、貴人の暴虐であることは幼い姫君も分かっていただろう。
苦言を呈されたユキア姫は、だが微塵も表情を変えず、「もう決まったこと」といつになく高飛車に返して馬首をも返し、ユウヒたちの前から立ち去っていった。
「なんなんだろうな、まったく……。なんていうか、おれ、馬鹿みたいだ」
襲いかかって来たゴブリンどもを風変わりな剣でなぎ倒し、シナに色々と教授されつつキーツシリク軍を遠望した。五十余年前のキーツシリク教会の残虐さに奮然とし、ドランチスカ劣勢の戦局をひっくり返した“トローンの魔獣”の武勇に高揚した、それらすべてが馬鹿馬鹿しく感じてしまっていた。
なんのためにトローン山脈から出てミーミル学園に入学し、なんのためにドランチスカの将兵になろうとしたのか……。
「……それ、ユウヒ。原点に聞いてみれば、もしかしたら」
溜め息が愚痴に変わっただけの、吐露され続けるユウヒのぼやきを殊勝に聞いていたレイネは、はっとして返した。
それはそのまま、“魔獣”が里に下りてきた理由であったからだ。
大人十人分に及ぶ城壁から望む緑野もまた、絶景であった。
トローン山脈と対を成す、北方の山脈カスタモの山影が霞みながらも窺える。あちらの向こう側、オローグ海と大帝国アヴェールはまだ厳寒な冬であろう、形に成りきらない雲がカスタモ山脈の上に登りつめ、波頭のように砕けつつ天空の青へと消えていた。
トローンもそうだが、カスタモがあるからこそアナントル半島は、ドランチスカは一足早い春を満喫できるのだった。内陸部は地形上盆地になり寒さと降雪量が極端な面もあるが、冬を越えれば周囲の山々から川が流れ込み、肥沃で豊かな土地となる。
冬が明けきらぬうちから農耕者たちは動き始め、各々が持つ畑へと出向いていた。なにを栽培するかは決まっているが、国の方針で微妙に違ってくることもあるし、昨年耕作した土地は休ませたり、別の種類の作物を植えたりもする。
そうした計画のもと、実際に畑を見て微細の調整に入るらしい。城壁から少し離れた農耕地で数人の男たちがなにやら話している姿があった。楽しげで、あまり仕事に絡んだ話をしているようには見えない。やがて方針が決まったのか、道なりに植えられた糸杉の間を歩き去っていく。次に来るときは、牛や馬、農機具を携えてのことだろう。
「いやー……、平和だ」
その光景を見ていた一人の青年が、大きく伸びをしながら声をあげた。青みを帯びた銀髪はところどころ跳ね上がり、碧眼を収めた目蓋はまだ眠そうに重い。寝起きの様子であったが、すでに太陽は中天に達している。
こういった人種は魔法使い、または見習い魔法使い―――魔法学科の学徒であることが多い。例に漏れず、青年は魔法学科の生徒であった。
青年はいままで見ていた大平原に背を向け、胸壁に身を預けた。
自ずと目に入るトローン山脈のすそ野と、それに張り付くようにして成り立つミーミルの街並み。
二階建て、平屋建て、あるいは楼閣まである豪邸―――様々な家々が、密集とは言えないまでも所狭しと立ち並んでいた。それらすべての家が赤い瓦屋根と白塗りの壁を用いている。
街路樹も多く見受けられ、造園樹として設けられた樹木も目立っていた。ミーミルは山際の扇状地に造られた都市、山に近付けば次第に家よりも木々の方が多くなってくる。
そして、原生林の群れる山中に建つミーミル学園。
以前は軍事拠点であったミーミルは、いまもその名残が残っており、学園というにはいささか度の過ぎた頑強な塀が敷地を囲んでいる。青年がいる城壁とは比べる対象にもならないが、乗り越えようとするにはそれなりの苦労があるだろう。
敷地内の建物は、さすがに砦の風を拭い去っていた。だが、砦の堅牢さの代わりに学び舎の厳格さが現れているかといえば、じつはそうでもない。講堂といった主だった儀式を行う建物はともかく、それ以外―――教室の棟や寄宿舎など―――は下界の家と同じような質素な造りであった。
山中の赤と白のなかで、一際大きく真っ白な建造物が青年の目にとまる。いまだ目覚めきらない目蓋が少しずつ下りていき、ついに閉じられて、青年自身までもがその場にへたり込んだ。
「……ああ、朝まで頑張ったのに、論文が終わらない……!」
どうやら切羽詰った状況を思い出して鬱屈してしまったらしい。青年が目にしたのは図書館であり、彼の言葉の通り、朝まで白紙を相手に筆記具で格闘を繰り返していた。
学園を名乗るだけあり、その図書館が収める書物の量は半端ではない。通常、国立図書館が所有する書物は四万から五万。ミーミル学園の図書館が保有するのは、確認済みの部分だけで八万、いまだ分別されない未読の書物を含めれば十万を下らなかった。
青年は未知の魔法機器の開発を目指し、整理されない書庫へと出向いて未確認の書物を漁りつつ、学園長に提出する議論書を作成していた。しかし、内容にあった書物はなかなか見つからず、論文の構成がまとまらない。独学で発見した調書を用いて論文の作成を試みるも、既存の調書との食い違いが多く、やはりまとまるものではなかった。
ゆえに、ふて腐れて仮眠、目覚めて城壁に上り現実逃避、しかし変わらぬ実状。そんなところである。
へたり込んだまま唸り続ける青年の傍らに、そっと忍び寄る影が一つ。
「あのー……、スメラ先輩? 論文の提出は……」
「はぁあ! 学園長の手先め、哀れな学徒にさらなる苦難を持ちかけようというのか!」
「えぇ!? いや、ぼくは魔法機器開発委員として、その……っ」
突然の奇声とやたら真に迫った科白を放つ青年―――スメラに、“学園長の手先”は怯えて後退った。
光の加減で青く見える黒髪と濃い緑色の瞳を揺らし、一見すると童女にも見える少年はなんとか言葉をつむぐが、もぐもぐと尻すぼみになる。
「……冗談だよ、ミオ。完成には程遠いが、もうすぐできる」
「どっちなんですか……」
飄々と素に戻ったスメラ、口の端を上げて微笑する。彼の言葉の前者と後者、どちらに対する言葉か、少女のような少年―――ミオは胸を撫で下ろしつつぼやいた。
弄られる体質のミオは、スメラによく可愛がられる。さっきのように居丈高に接したり、よく分からない言い回しをされたり、混乱させられることがしばしばあったのだ。それを楽しんでいる風のスメラを前に、ミオの気が休まることはなく、引っ込み思案な性格に輪をかけておどおどとしてしまう。
「提出はすぐだ。一年くらい、あっという間さ」
「……もういいですよ、それは。それより……」
あどけなさを顔いっぱいに残した少年は、表情を改めてスメラを見返した。このときばかりは、ミオをからかってばかりの青年も真摯に事情を聞く。
「学園長ツブラ・ファンが呼んでいます。論文の提出はしなくても良い、ただちに我が下へ……だそうです」
「ふん……? 一応、卒論なんだがな。提出しなくても卒業させてくれるのかな?」
真摯な顔つきが、少し違った感情を交えた。輝いたわけではなく、影が差したわけでもない。
言うなれば、人格が代わったような。
3
「あれ? 殿下、なんでここに?」
「……っ、ユウヒ!」
帰還報告のために学園長の執務室を訪れたユウヒは、部屋の中央、長椅子に座する人を見て驚いた。もっと驚いたのは、一緒に報告にきたレイネ。尊卑の念が薄す過ぎる少年に、であるが。
ユウヒに停学処分を言い渡したときと変わらぬ様子で、微塵も表情を動かさず、やや高飛車なまま背筋を伸ばしている。煌びやかな鎧は脱しており、姫君らしく白を基調とした礼装に身を包んでいるが、頑なな姿勢はいまだ心に鎧を着けている表れらしい。
「……私とツブラ・ファンは、これから大事な話をします。帰還報告は後日、改めて伺ってください」
“魔獣”の言動に気分を害した風でもなく、片手を上げて二人の学徒兵を黙らせて、ユキア。
隣りの少女に倣って膝をついていたユウヒは小首を傾げた。もちろん、「大事な話」とは自分に関することなのか、という疑問もある。
それ以上に気になったのは、幼い姫君の視線の強さである。その瞳の奥に輝き見えるのは、微かな敵意、いや怯えであろうか。ともかく、“トローンの魔獣”と、なんのてらいもなく誉めて讃えた頃のユキアが嘘のようであった。
出て行け、と言われたユウヒだが、にじり寄りつつ公妹殿下の顔を見上げる。
「姫。姫、我はシナのような忠臣ではありませんが、奏聞をお許しください。そして何卒、我が愚問に応じて迷いをお払い下さいませ。なにゆえ我を遠ざけますか、忌避なさいますか?」
シナが諫言したあと、密かにユウヒはそう言うように指示されていた。古参の兵が曰く、「公妹殿下、なんか隠してやがる。あの人のこった、ちょいと母性本能をくすぐってやりゃあ、洗いざらい話すと思うぜ。……俺の経験上な」とのことである。一体どんな経験であるのか、『母性本能をくすぐる』とは古老のよく知るスズカ女王の孫だからと言うことなのか、ユウヒには分からない。
とにもかくにも、普段ユキア姫に謁見することなどできない赤髪の少年には実行しか残されていない訳だが―――。
急に畏まった口振りのユウヒに、レイネは少しの間だけ目を瞠って驚いていたが、すぐにシナの顔を思い出して得心顔になった。あらましはユウヒの愚痴から把握している“ミーミルの黒猫”、あの軽い毒を持つ老人が“魔獣”にさせようとしていることに気がついたのだ。
しかし得心顔もそこまで、続く表情はどこか浮かないものだった。理由はすでにユキア姫の反応が物語っている。
「う……っ、そんな目で……」
がらにもなく口ごもるユキア姫、組み合わせた自分の手を見てぶつぶつとなにごとか呟いていた。
ユウヒは『学の不備を自覚し、勤勉なること他の学徒に類を見ない』。それは当たっているが、間違いでもある。彼は確かに不勉強であるが、勉学に励む理由は、それではない。
ただ、好奇心旺盛なだけなのだ。『草原の議場』でのユウヒを見れば瞭然、知らない物事を目の当たりにすれば質問をくり返す。彼と交流を始めた頃のレイネも、魔法学科のことについて多くの疑問を投げかけられた。
さらに、こういった人種は得てして純真なものである。神秘的威厳とは違うが、生真面目なユウヒに問われた人間は、なぜか丁寧に答えてやらずにはいられなくなった。思い当たるふしのあるレイネは、彼の意識しない特技を快く思っていなかった―――年頃の少女が持つ、特有の潔癖性とも言える―――。
果たして『母性』とやらを刺激されたらしいユキア姫は、仮面のようであった先刻までの表情を和らげ、しかし愁いを帯びた碧眼をユウヒに向けた。
「……緘口令が布かれています。そちらの学徒は退出を……」
「えっと、畏れながら、殿下。魔法学科学徒レイネは、学科が違いながらも、我が師と呼べる存在でありますからに、まげてご寛恕を願います。師とあらば、我が行く末を気に掛けるものゆえに」
決して流暢とは言えぬ上奏だった。しかもレイネの同席を願い出るなど、不敬罪に問われても不思議ではないことをユウヒは口にする。
気が気でないレイネだったが、心配する気持ちをユウヒが汲んでくれたからこその願い出であろう、にわかに心臓が活気づいた。気づかれていた、ということにも気づいて動悸が一段と激しくなったが。
逡巡するそぶりを見せたユキアだが、レイネの名を呟いてなにかに思い至ったらしい。熟れた果実色の瞳から、緑を内包する黒い瞳へとユキアは見つめなおし、一つ頷いた。
「一を聞いて十を知る才媛、“黒猫”レイネ。貴女もまた、“魔獣”と同じく改革者でしたね。……医療部隊での報告はまだ伺っていませんでしたが」
童女であることを忘れさせるような笑みを浮かべて、ユキア。
なぜかは分からないがレイネはぞっとして、下げた頭をより深く下げた。公妹殿下の言葉から察するに、異例の従軍医であることを知っており、それなりに目を掛けられていたと考えるべきところなのだろうが……。
「良いんですか? で、緘口令の内容は」
レイネの同席を許されて安堵したユウヒは、勢い込んでユキア姫に詰め寄った。さすがにユキアも眉間にしわを寄せ、レイネはすかさず肘を打ち込んだ。やはりどちらにも痛痒を感じなかった“魔獣”は、わずかな緊張を孕ませつつ、幼くも聡い姫君の言を待つ。
ややあって、公妹殿下は緘口令であることに強く念を押し、桜色の唇を開いて、キーツシリク帝国との会議の内容を話し始めた。
―――第二話「黒猫たちの学び舎」後編に続く
今度はいつ投稿するとは言いません(笑
できるだけ早く投稿するようにします……
では。