第一話 「魔獣の初陣」 後編
無駄に細かいですので、休憩を挟んで読んで下さい。
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アナントル半島の北西部から狭隘な陸地がのび、天然の掛け橋となって大陸の西側へと続いている。北のオローグ海と西のミルザ海を繋ぐ海峡もあるが、バズース大橋により交易商人や旅人たちは大陸の東西を歩いて渡ることが可能であった。
バズース大橋を中心に成り立つ街スタンブレは、ゆえに、交易の都となり得た。
大陸は広く、旅する手段を選ばぬと言うのであれば、いくらでも道はある。オローグ海より北の交易路、南のカップラス海を行く航路。スタンブレを通過せずに大陸を行き来するなら、その二つが主な交易路であった。
しかし、北の街道は厳寒な土地柄で、歩いて行くには季節が限られる。盗賊やゴブリンなどの危険も多く、北の大帝国アヴェールの道中と言えど安心はできなかった。
対し、カップラス海の航路は安全性において他を圧倒する。が、船の所有者はたいていが豪商や貴族であるため、一度の航行に使われる金額が莫大であった。旅から旅へと暮らす者たちやしがない行商人が手の出せる道程ではない。
よって交易の都スタンブレは、多くの異人種と異文化が集まるようになっていった。
街道ごとに異文化の華が咲き乱れ、雑多な人間と物が溢れかえり、様々な文書や言語が飛び交った。見たことのない動物がいれば、味わったことのない香辛料があり、聞いたこともない叙情の詩が聞こえてくる。急ぐ旅路でない者は、この都での滞在を延期し、あるいは永住の土地とした。
“華やかなるスタンブレ”。
それが、五十余年前までの交易の都であった。
「ドランチスカ歴二〇五年……か。キーツシリクが攻めてきたのは」
ユキア姫に護衛を依頼されたゴーボリ隊三百人は、即席の―――草原の議場の一角に陣を敷いている。公妹殿下の親衛隊の陣から離れ、万が一のときは遊撃隊として戦いに臨むことになる。
歩兵ばかりの集団に遊撃など務まるはずもないが、それも「戦にならぬ戦」であるための太平楽なのだろう。あるいは、外見も中身もお堅い親衛隊の不機嫌さが露呈した仕業であるかもしれない。「姫のご厚情とはいえ、下端どもが親衛隊の陣に参入とは」と。
そうした雰囲気が親衛隊から感じられたが、目くじらを立てて対抗心を燃やす者はゴーボリ隊にはいなかった。
もとい、気にするような余裕はなかった。
隊長のゴーボリは眼前のキーツシリク兵を睨みすえ、微動だもしない。彼の部下たちも同じく、いつも以上に表情を険しくしていた。平時、武功を挙げる機会は少なく、破格の名誉である王族の警護に臨む士気の高ぶりが窺える。たたきあげ独特の気迫は、炎が揺らぎ立っているかのようであった。
対照的に、ユウヒとシナはとくに気負いもせず、のんびりと会話をしていた。
尊卑の念が薄く、しゃちこばる性格でもないユウヒは、ときどき軽い毒を吐く老兵にドランチスカの歴史を教授されている。
「えーっと、今がドランチスカ歴二五七年だから……五二年前か」
「俺が坊主くらいの頃だ。あのときのドランチスカ独立・解放戦が、俺の正式な初陣だったな」
「へえ、十六歳か……。ん、五二年……? シナ爺さん、もうすぐ七十歳なのか!?」
「……まだ、六八だ。ってか、見りゃ分かんだろ、この白髪頭をよ」
手櫛で白くなった頭髪を撫でて、シナは咳払いをした。ゴーボリ以下、周囲の人間に刺々しい視線を受け、ユウヒは声を抑える。
「……で? その頃のスタンブレは、まだドランチスカ統治下だったんだろ? なのに独立って、おかしくないか?」
「簡単な話じゃねぇかよ、分かんねぇか?」
……突如、国境を越えてドランチスカに侵攻してきたキーツシリクは、スタンブレの西に広がるメラスナー平原に陣を展開した。迎え撃つべく、ドランチスカも十万の大軍を派兵、メラスナー平原に布陣した。
しかし、このときのキーツシリクはドランチスカと矛先を交えるつもりはなかった。
西の海ミルザの先にはバールックという半島があり、ドランチスカの友邦ペイルバネス連合国がある。キーツシリクの目的はペイルバネスの制圧だった。メラスナー平原に展開された陣は陽動だったのである。
ペイルバネスを陥落すれば、ミルザ海、及び迂回して南の海カップラスからドランチスカに攻め入ることができる。ドランチスカとペイルバネスが連携してキーツシリクに対抗すれば厄介だったのだろう。ドランチスカをメラスナー平原に誘い出し、その間にドランチスカの援軍を期待できないペイルバネスを落とす考えだった。
そして、それは現実となり、ペイルバネスは瞬く間に陥落、ドランチスカは北西、西、南西から猛攻を受けることになってしまう。
メラスナー平原に軍のほとんどを出兵させたドランチスカは、慌ててアナントル半島の西・南西沿岸部へと軍を配置し直すも、時すでに遅く、ミルザ海・カップラス海から侵攻してきたキーツシリクの上陸を許してしまった。
さらに、軍容の薄くなったメラスナー平原のドランチスカ軍は、自国の歴史と周辺諸国に類を見ないほどの大敗を喫した。四方を包み込まれて鏖殺、十万人が五万人に削減されたとはいえ、生き残ったドランチスカ兵は一人もいなかったのである。
阻む者もなく、北西から進軍してきたキーツシリクはドランチスカの王都ウィグリムへと到達した。沿岸部へと転戦を命じられた五万のドランチスカ兵がいたものの、キーツシリク水軍の攻撃に釘付けにされてウィグリムの救援に駆けつけることもできない。
ドランチスカ軍は翻弄され続け、全力を出し切ることも適わず、王都ウィグリムは陥落。
ドランチスカ歴二〇五年、春。
こうして、ドランチスカは滅びた。
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「……え、滅んだのか?」
「ああ、一応な。当時の国王がメラスナー平原の殲滅で戦死、世継ぎの王太子殿下も王都ウィグリム陥落後に処刑されてる。王妃や殿下の弟妹は殺されなかったが、他の王族も含めてバラバラに幽閉された」
王族の血は絶えた。それを知り、ドランチスカの諸侯は抵抗をやめ、キーツシリクの軍門に下った。アナントル半島の各所で規模の小さい抵抗戦があったものの、キーツシリクは征服から統治へと体制を移行させていった。
しかし、ここでキーツシリクの足並みが乱れてくる。
シナの言う「悪名高いキーツシリク」の所以は、ドランチスカに侵攻してきた大義名分に表れている。
「魔に仕える者どもを討ち果たし、神の威光を示す……だとさ」
「なんだ、それ。むちゃくちゃだ」
それは内治外征の実権のほとんどを聖職者が握っている、“神聖”キーツシリク帝国の常套手段であった。
確かにユウヒの言う通り「むちゃくちゃ」なのだが、キーツシリクに限らず、攻め寄せる国の大義名分などこじつけが当たり前なのである。キーツシリクにしてみれば、それを建前に豊かなアナントル半島を治めたかったのだろう。事実、王都を攻め落とし、王太子と重臣数名を処刑した後は、これといった粛清はなかった。ドランチスカ国民への暴力や掠奪もなく、ただ淡々と経営改革を進めていた。
だが、聖職者たちは違った。想定されていた戦のほとんどが終了した頃になって、彼らはキーツシリク教会軍を率いて乗り込んできた。先のキーツシリク軍―――純粋に軍人から成る帝国軍―――と異なり、破壊と暴虐を撒き散らしたのである。
「まず、その矛先が向かったのが……」
「“華やかなるスタンブレ”、か」
「おおよ。実際に見てねぇが、聞いた話だけでも胸クソ悪くなったぜ」
教会軍の行動は残虐を極めた。武器も持たぬ、抵抗もできぬ人間を片端から斬り捨て、貫き、叩き潰し、馬蹄で踏みつけた。女、子供、老人の区別なく殺戮をくり返し、ときにはバズース大橋から海峡へと投げ落としたり、火を放った家屋に閉じ込めたり、ひたすら殺人を愉しんでいるかのようであったという。
「教会軍曰く、異教徒は、異教徒の街は、異教徒の文化は、魔の理から成るもの。魔は灰燼に帰すべし、その上に“神”が正しき理を芽吹かせるであろう……とか言ってたらしいな」
「……なんだよ、その理論……」
ふつふつと怒りが湧いてきているユウヒは、剣呑な視線をキーツシリクの陣営に向けた。
並んだまま動きを見せないキーツシリク軍の上に、彼らの軍旗がはためいている。翼を広げた鳥のような、両手を空に向けたような、奇怪な紋様であった。シナの話を聞いた後では、その奇怪さもより怪しく見えた。
奮然とするユウヒに対し、当時の経験者であるシナは淡々と語り続ける。
「……それから、ドランチスカ独立・解放戦が起きた」
“スタンブレ事件”の報せがアナントル半島を駆けめぐり、戦慄と恐怖と怒りを抱いたドランチスカの民たち。各地で決起し、処刑されずに幽閉されていた王家の人間を救い出した。それによって、服従の意思を見せていたドランチスカの将校も立ち上がり、再びドランチスカ軍が集結したのであった。
王都ウィグリムの南、トローン山脈の北部にある城塞都市ミーミルを拠点に、ドランチスカ独立・解放戦は勃発した。
開戦直後からドランチスカ劣勢であった。無理もない話で、再集結したドランチスカ軍は四万、キーツシリク軍は後続の教会軍を含めて二十五万である。
負ければ、今度こそドランチスカは滅びる。しかし、奮戦の甲斐なくドランチスカ軍は数を減らし、救い出した王族も一人また一人と敵の刃にさらされていった。
やむなくドランチスカ軍はトローン山脈に身を潜め、遊撃戦へと変えていった。が、消極的な戦法はキーツシリク軍にさしたる打撃も混乱も与えられず、ひたすら窮地に追い込まれた。
拠点にしていたミーミル城塞都市にキーツシリク教会軍十五万が居座り、山狩りが開始された。もはやドランチスカ軍は盗賊扱い、相手が相手であるだけに和を講ずることもできない。
ドランチスカ王家の最後の一人、内親王スズカは自ら剣を手にして玉砕を覚悟していたという。
人手が足らず、初陣ながらもスズカ王女の側仕えであったシナは、彼女の覚悟に応えて、迫ってくる教会軍へと突撃した。
「その後のこたぁ……鮮やかすぎて、よく覚えちゃいねぇんだよな……」
「鮮やか、ってなにが?」
剣を振りかざして木々の並ぶ斜面を駆け下り、眼前に迫るキーツシリク兵に斬りかかろうとして―――。
赤い動物が落ちてきた。
それが飛び退いたとき、シナが斬りかかろうとしていたキーツシリク兵は、胸から血潮をふき上げて斜面を転がっていった。呆然とするシナの周囲に、いくつもの赤い動物が飛び回り、走り、短槍を閃かせていた。草を刈るように、その言葉通りにキーツシリク兵はなぎ倒されていった。
しばらくして、その場に残されたスズカ王女やシナたちは、ようやく現状を掴み始めていた。
「ありゃあ、“トローンの魔獣”だったんだ」
「へ!? 俺たち?」
「おお、坊主の爺さん世代だろうな。それまで、どんな戦だろうと関与しなかった“トローンの魔獣”が、どういうつもりか敗色濃厚な戦に初陣ときた」
「鮮やか」なのは、その後の経緯にも言えた。
虫の息だったドランチスカ軍は、なぜか参戦した“トローンの魔獣”の援軍で息を吹き返し、山狩りの教会軍を阻み続ける。さすがに打って出ることはできなかったが、十五万ものキーツシリク教会軍の進攻を停滞させる奮戦ぶりであった。
そして思いがけない恩恵をもたらされた。
王都に駐屯していた帝国軍十万が、にわかに反旗を翻したのである。理由は様々あるだろうが、なんと言っても“スタンブレ事件”が腹に据えかねていたのだろう。彼らは教会軍と違い、支配して富を徴収するのが目的だったのだから。
それ以前から聖職者たちの横暴に不満を抱いてきたらしく、“スタンブレ事件”で我慢の堤防から不満の水が溢れだし、十五万の教会軍を相手に奮戦するドランチスカ軍五千―――ほとんどが“トローンの魔獣”―――の勇姿が決壊を促したのだった。
数で勝る教会軍だが、腹背を攻め立てられて一気に形勢は逆転した。十五万が五万に満たない人数に討ち減らされ、主だった聖職者は処刑された。キーツシリクへと逃げ延びた者も少なくないが、今日明日で報復戦を挑めるほどの力もなく、一応はキーツシリク教会軍の脅威を一掃することができたのだった。
このとき、ドランチスカ歴二〇五年、冬。
キーツシリクが攻め込んでから、わずか十ヶ月後のことである。
6
老獪な教師シナによる、ややこしい歴史の授業にユウヒが頭を捻っているとき、草原の議場には役者が揃っていた。
ドランチスカ高原王国国王ラオニー三世の代理、公妹ユキア姫。
神聖キーツシリク帝国東部、ボンボラド地方領主ウェルセーク老公。
神聖キーツシリク帝国東南部、バールック半島ペイルバネス地方領主リューゲル公。
「……相も変わらず、ラオニー陛下は慎重であらせられるな」
「リューゲル様も、相変わらず皮と肉のお好きな方。兄王は余分な脂肪はついておりませぬが、若く、女の身であるがゆえ、わたくしの方が美味しゅうございますよ?」
「ぶっ……ははは! ユキア殿下は少々、香辛料が効きすぎているのでは? 余人の喰える皮と肉ではございますまい」
渋い顔つきで壮年の男性リューゲルが口を開くと、やや赤味を帯びた金髪を揺らしてユキア姫が返した。童女とは思えぬ言葉と振る舞いに、白髪頭を後ろへと撫でつけた老人ウェルセークは笑い声を上げる。
ウェルセークの物言いに、リューゲルは何か感じるものがあったらしく、渋い顔を険悪なものに変えた。
「ボンボルド領主公、いまの言は……!」
「ほれ、それだ。いちいち目くじらを立てては、交渉も会議もないのではないか、ペイルバネス領主公。第一、余人が喰えぬ、というもの無理もない話よ。嬢ちゃん好みは俺以外におるまい」
「ペド具合もよろしいようですね、ウェルセーク様?」
とりあえず表面上はにこやかに、ユキア。心身ともに楽しんでいるらしいウェルセークは、手痛く返されても呵呵と笑い飛ばす。やり込められたリューゲルは苦々しげな面持ちで、いまにも馬首をめぐらせて議場を後にしそうな雰囲気であった。
「……さっさと始めようではありませんか」
「せっかちだの、リューゲル卿」
「異論はございませんわね、ウェルセーク様? ただ、ドランチスカ側からご報告を申し上げることはとくにありません」
そう言ったユキアは、傍らに控えていた官僚の手からいくつか書簡を受け取り、野原には不釣りあいな豪奢な円卓へと並べた。
それらはドランチスカ国内の情勢、流通や経済、軍備規模など事細かに―――さすがに機密事項まで掲載してはいないが―――記されてあった。ドランチスカが独立・解放されて以来、それがキーツシリクの干渉を避けるための手段として用いられている。
当初こそ、「敵に手の内をさらすような真似を」と猛抗議が相次いだが、キーツシリクがどのような策を弄したのか、独立後のドランチスカ王国の女王スズカを納得させてしまっていた。そして、現在まで慣例となっているのである。
もちろん、情報を提示する義務を果たした以上、ドランチスカ側もキーツシリクに権利を主張することができる。
装飾過多な戦車から降りたユキアは、円卓に同じく、豪奢な椅子を用意させた。鎧姿なのに、ふわりと音もなく座ると、
「では、ペイルバネス領主公、ボンボルド領主公。キーツシリク南岸地帯と内陸東部の情報を提示して頂けますか?」
「……殿下もせっかちですなぁ」
「畏れながら、公妹殿下。報告することはない、とおっしゃられたが……、あの者の説明は聞いておりませぬ」
リューゲルは戦場に使われる床几に腰掛け、訝しげに、というより詰問に近い口調で声をあげた。
問われ、ユキアは初めて歳相応の顔つきで小首を傾げた。周囲の官僚たちを見上げてリューゲルの言わんとすることの意味を問い、しかし、彼らも顔を見合わせている。
質素だが大きな背もたれのついた椅子に座った老人、ウェルセークは理解していた。
「あー、懐かしくも腹立たしい顔がある……。生きてやがったか、あの若造が」
言葉の後半に物騒な響きがあったが、それを語るウェルセークの表情は柔らかである。
官僚や親衛隊にウェルセークと面識のある若い者などいただろうか、とユキアは振り返った。
目にしたのは、ゴーボリ隊。その副隊長シナ。
祖母スズカの頃からドランチスカに忠誠を誓う老兵であり、本人が出世を望まず、いまだ副隊長止まりの兵士。その気になれば、一軍の将さえ務められるだろうと祖母は苦笑して言っていたことを思い出した。
年齢的には合う。
「古参の兵士、シナですね……。彼は先々代よりの忠臣、いまになって説明とは?」
「いや、それはわたしの個人の話。リューゲル卿の言う人物は、そのとなりでしょう」
シナのとなりには、ユウヒがいる。
幹部候補生としてミーミル学園に入学し、卒業後は上位階級の軍に配属される、未来を嘱望された少年。相手がゴブリンとはいえ、ほとんど無傷で圧勝した戦士。兵の扱いが上手いかどうかは不明瞭であるが、勤勉であるらしく、それなりの将になれるだろう。
それほどまでに有名であったのだろうか、ユキアはリューゲルを見返した。
「ドランチスカの鎧に身を包んでいようとも、あの赤髪と風変わりな武器を見紛えるはずもない」
遠くユウヒに向けられていた視線がユキアへと移り、苦々しげに口を開いて、だが途端に表情を緩めた。穏やかに、ではなく哀れんでいるかのような。
大人びた童女は機微にさとく、リューゲルを見る目に険を滲ませた。言葉にせず説明を求める彼女、しかし目をそらした壮年の領主公に答える気はないようだった。
いよいよ柳眉を逆立てたユキアは問い詰めようと口を開く。
「いちいち目くじらを立てては、交渉も会議もない。そう申しましたぞ、殿下」
老人は青い瞳で見つめ、ユキアに身を引かせる。横目でリューゲルを睨みつつ、顎を撫でながら彼の代わりに答えはじめた。
「リューゲル卿の言わんとすることは、あー……、“トローンの魔獣”は我々キーツシリクにとって、本当の“魔獣”である……。そう言いたいのですよ」
「本当の……“魔獣”?」
「左様です、ユキア殿下。知っておられましょうか、五十余年前のドランチスカ独立・解放戦争のことを。その際、ドランチスカ側を勝利に導いたのは、彼の者たちでした」
自分の国の歴史は一通り勉強しているユキアは、敵国の老将に言われるまでもなく知っていたが、殊勝に頷いた。
なんらかの理由があったのか定かでないが、キーツシリク教会軍によって窮地に立たされた女王スズカの内親王時代、彼女の活路を開いたのは“トローンの魔獣”であった。反旗を翻した軍人から成るキーツシリク帝国軍とスズカたちを結びつけ、教会軍を一掃させた影の功労者とも言われる。
そこまで思い出して、ユキアは息を飲んだ。
「貴方がたにとって“トローンの魔獣”は、その、……気持ちの良いものではないのですね」
他になんと例えればよいのか分からず、ごく簡単な言葉になった。だが、キーツシリク人にしてみれば、そんな言葉では推し量れぬほどの忌嫌が胸中にあるのだろう。ウェルセークはともかく、リューゲルの反応を見る限り、ユウヒたち“トローンの魔獣”を悪鬼の如く考えていることは明らかであった。
国王ラオニー三世の代理は、ユウヒを連れて来たことは軽挙だったと悔やみ、半面、馬鹿馬鹿しさに呆れかえっている。
キーツシリクが敗走した原因は、“トローンの魔獣”の参戦よりも、帝国軍が寝返ったことにあるだろう。まっとうな史家なら、あるいはおおまかに推移を知る者ならそう結論づける。
キーツシリク教会の横暴さが、敗戦の責任転嫁にも及んでいたか。ユキアは外交官として恐縮するべきか、ドランチスカ王族の一人として笑い飛ばすべきか、判断に迷った。
結局は何の言葉も出せず、敵ながら情けない、という表情が出ていたようだった。
「……そんなお顔はなさらないでくだされ、我々とて理解はしております。ですがキーツシリク教会に依存する者ほど、その考えに染まり、彼らを悪魔の化身と忌んでおるのです。ご存知のとおり、キーツシリクの民のほとんどが教会の教えに従う者たちなれば……」
ドランチスカへの敵対感情は、未だに最高潮ということらしい。ドランチスカ独立・解放戦より現在まで、二度の大戦と無数の小競りあいが起きている。最近はこれといった武力衝突もないが、油断はできない状況に改めてユキアを慄然とさせた。
“トローンの魔獣”は平時無害である、そのことをキーツシリク全土に広めてもらうよう打診しようかとユキアは思案する。簡単なことではないだろうが、そうでもなければドランチスカの軍事力向上に支障をきたすことになるのだ。
祖母スズカの時代に比べ、ドランチスカはずいぶんと強兵になったが、周辺諸国と比較すればまだまだ弱兵の集団であった。キーツシリクはもとより、いまは友好な関係のアヴェール大帝国も脅威にならないとは言えない。諸国を凌駕する富国ドランチスカであるが、それを軍備拡大に費やせば様々な問題が浮上するだろうし、なにより軍事力の―――兵士の質の底上げにはならなかった。
土台から強靭にしていく。そのために、ドランチスカ軍隊に“トローンの魔獣”を起用することになったのだ。
ユウヒは試験段階、初めの“魔獣兵士”なのである。
しかし、ユウヒに対するリューゲルの感情は、「気持ちの良いものではない」どころではないようだった。単純に悪意を抱いているだけではなく、また別な思惑が渦巻いているのが目に見えた。
「……少々、お言葉が足りませぬな、ボンボルド領主公」
床几から立ち上がり、リューゲル。どこか挑発的にユキアとウェルセークを見下ろし、再びユウヒへと視線を飛ばす。
「彼の者の参戦、これはキーツシリクへの宣戦布告。……キーツシリク教会が、どうしてどうして、悪鬼を前に奮い立たずにおられましょうか?」
―――第二話「黒猫たちの学び舎」前編に続く
では、また一ヵ月後くらいに……。