第一話 「魔獣の初陣」 前編
甘かったり辛かったり。残酷だったり、そうでなかったり。執筆している自分すら先の見えない小説になりそうです。無駄に長いので、目を休ませて読んで下さい。
1
「あらかた逃げ散ったんじゃないか? ゴブリンどもは」
赤褐色の頭髪を掻きあげて、ユウヒは溜め息を吐いた。
やや長めの髪だが質は固く、撫でつけられても勢いよく汗を弾き、動物の体毛さながら元に戻っていく。髪質に同じく、気質も剛直らしい若き兵士は、返り血にまみれても泰然とし、息を整えつつ周囲を窺った。
ユウヒは隣に立つ、遠くを眺めている老兵―――シナに話しかけたのだが、すぐに返事はこなかった。短いが苛烈な戦闘後ともあって、いつのまにか重傷を負っていたのだろうか、と視線を向ける。
だが、シナに自失してしまうような怪我はなく、むしろ無傷であった。ゴブリンの返り血もなく、刀身にさえ血がついていない。
まさか日和見して戦わずにいたのでは、と邪推したユウヒは、先刻とは違う言葉を重ねようとして、
「……いんや、戦時下の魔物はしつこいんだぜ、坊主」
先んじた老人が、ぽつりと返答した。ついでに、鎧の首下から取り出した、血まみれの懐紙を開いてみせる。心術も老巧らしく、ユウヒの邪推にも答えを示していた。
ばつが悪くなったユウヒは苦笑をたたえ、シナの視線を追う。
いましがた追い払ったゴブリンとは違う群れらしい一団が、広大な丘陵の一角に現れていた。くすんだ赤銅色の小さな身体が丘の上に並んでおり、少年と老人を物色しているのか、やけに高い鼻を振りまわして騒いでいる。
ゴブリンに見下されて良い気分になるわけもなく、
「ちっ。……来るなら、さっさと来いよ!」
怒鳴り、ユウヒは風変わりな長剣を一振りした。やや細身で厚みがあり、鍔は小さく、柄が長い。槍にも似た武器は、所有者に劣らず鮮血に染まっていた。
それだけの出血を強いられたゴブリンたちは、彼らの足元で累々と死体をさらしている。この状況で「来い」と挑発されても、威嚇以外のなにものでもないだろう。
丈の短い草を踏みしだきながらユウヒが丘を駆けのぼっていくと、ゴブリンたちは文字通りに飛びあがって、方々へと散っていった。
猛々しく鼻を鳴らすユウヒに、のんびりと追いついてきたシナが笑いかける。あまり質のよい笑みではない。
「さすが、“トローンの魔獣”だな。……なぁ、坊主。しばらく血まみれでいてくれると助かるんだが?」
「冗談じゃない、臭くて鼻がおかしくなりそうだってのに」
いままで頓着していなかったのは、戦闘による気の高ぶりがあったからだろう。それと知り、あえて「血を拭うな」と言うのには、いまの姿が高い威嚇効果をもたらす、とシナは言いたいわけである。もちろん冗談だが。
冗談ではなく、本気で賞賛しているのは、言葉の前半にあった。併せて、あてこすりの響きも含まれている。
「それと、シナ爺さん、その渾名はやめてくれ。“魔獣”なんて呼ばれて、喜ぶ奴はいないだろ」
物騒な通り名のわりに、本人は至極もっともな見解を持ち、賞賛とは受け取らないことを知っていたからだ。
アナントル半島を治める、ドランチスカ高原王国。
北はオローグ海、南にカップラス、西にミルザ海がある。三方を海に囲まれた国であるが、峰の連なりが随所に見られ、全体的に標高が高い。高原王国と名付く所以であった。
霊峰と呼び声高い山々が数多くある、ドランチスカ。なかでも南沿岸部に沿うように横たわる山脈は人々の心を掴んでいた。
山脈の名は、トローン。西端はアナントル西南部の山岳地帯に始まり、東大陸へと延びて、隣接する半砂漠の国ビウロンの北方に東端を置く。しかし、極めて長大な山脈というわけではなく、他を圧倒する高さを誇るわけでもない。
それでも霊峰の一つに列せられるのは、北と南でそれぞれに気候を分かち、恵みをもたらす分水嶺であるからだった。
夏場、トローン山脈以南の沿岸部は酷暑に見舞われるが、北の内陸部は湿潤な涼気を漂わせた。転じて冬場は、内陸部には豪雪と寒風をもたらし、南方を温暖な空気に包みこむ。
「一国に、二つの世界」を出現させるとして、トローン山脈は人々に崇拝に近い感情を抱かせていた。
また、トローン山脈は交易の要所でもあり、網の目のように交易路が敷かれている。商人だけのためではなく、避暑や避寒に峠越えをする旅人のためにも、トローンの交通の利便性は高く望まれ、幾多の街道と宿場が設けられた。
人が集まれば金銭も落ちる、ここで利益をあげている商人や税収を得るドランチスカは、賛嘆を表さずにはいられない。
そして、もう一つ。これは、敬う気持ちよりも畏れが強く出ていた。
ゴブリン、オーク、オーガー、数多の魔物はもとより、やたら好戦的な動物が存在している。山牛、山狗、猪獣など、他の地域なら魔物ほど脅威ではない生き物が、トローン山脈に限って危険な獣と化していた。
その獣たちの頂点に立つのが、赤熊であった。完全武装の騎士を二周りも大きくしたような巨大さ、小剣並みの牙、槍の穂先のような爪。
赤熊を指して、人々は“トローンの暴君”、“赤い獣王”と呼んだ。気質がどうであるかは、その二つ名を聞けば想像に難くないだろう。出会えば最期、血に飢えた彼らを前に、せめて荷と荷を引く馬を生贄にして逃げるしかなく、それでも生還の可能性はかなり低い。
だが、赤熊は恐れであり、畏れとは違う。また別の理由があった。
その赤熊に、短槍一本で立ち向かう狩人がいるのである。
彼らは“トローンの暴君”の毛皮を鎧とし、大きな頭を兜、大きな手足を行縢にして身にまとう。赤熊と戦っている場面を見れば、親熊と小熊のじゃれあいと思われるかもしれない。そこまで酷似した格好をするのは、狩人たちが、赤熊を強さの象徴と捉えているからであるらしい。たった一人で、短槍一本で赤熊を仕留めることができれば、仲間内で一人前と認められるのだと言われている。
余談ではあるが、腕に覚えのある者が「狩人にできるなら」と赤熊討伐に挑んでいる。そして、帰ってくる者は少なく、生還しても身体のどこかを欠損している有様であった。
トローン山脈という厳しい環境が、魔物を凌駕する生き物を創りあげた。その事実が人々に畏怖の念を抱かせ、その獰猛な動物たちの王たる“赤い獣王”さえも倒す狩人の一族は、より深い畏れを込めて“トローンの魔獣”と呼ばれるようになっていったのである。
ユウヒは、若いながらも一人前と認められた、“魔獣”たちの一員だった。
2
戦時下の魔物はしつこい。シナの言をまたず、だれもが分かっていることだった。
ゴブリンの性質は、「熱しやすく、冷めやすい」である。彼らは山野にひそむ盗賊に似て、目の前を通りがかった人間を襲う。人を喰らうことはないが、持つ物すべてを略奪しようとする。食べ物、武具、さらには工芸品の類、彼らが生きていくに必要かどうかなどに関わらない。流麗な長髪であれば、それも強奪の対象となり、二目と見られない惨たらしい死体が発見された例もある。
熱狂的に略奪を行うゴブリンどもは、しかし、戦える者と見えたとき、明らかに尻込みする。十数体に群れる彼らだが、味方が一体でも倒されると恐怖を伝染させて、あっさりと逃げ散ってしまうのだった。
オーガーなど、やや好戦的で人を喰らう魔物の対処は面倒だが、基本的には同じである。適当に撫ででやれば、さしたる害を被らずに済んだ。
「……だが、戦は魔物の士気まで上げやがる。普段と違って、狂暴さに磨きがかかるんだ。陣の後ろに兵站があるから、なおさらな。気合を入れて臨めと言ったはずだ」
髭面で赤ら顔のゴーボリ隊長が、苦々しげに語った。口もとは引きつり、こめかみが小刻みに動いている。もともと赤い顔も、いまや黒と言ってよく、どれほどの失意が心情にあるか計り知れない。
その視線の先には、立つ者、座り込んでいる者、横になっている者、様々な姿勢で耳を傾けている若者たちがいる。統率できない無頼の兵士、というわけではない。ほぼ全員が身体に包帯を巻きつけ、何らかの怪我を負っていたのだ。負傷者のあいだを、医療部隊の女性兵士が慌しく動き回っている。
と、横になっている者の一人が意識を失ったらしく、呼びかける声が響き、ゴーボリの苦言を遮った。
「……役立たずの惰弱者どもめっ、最近の学徒は魔物とも戦えんのか!」
髭面の隊長は、とうとう怒声を張り上げ、踵を返して幕営へと向かっていった。
短気な彼にしては、今回の爆発は遅い方だった。ゴーボリの傍らに立っていたシナは、荒々しく歩き去っていく後ろ姿を見送り、幕営の人だかりに消えたことを確認して、軽く溜め息を吐いた。
「ま、分からんでもないがね」
隊長が去り、緊張を解いた若者たちを見やって、シナ。落胆の色をこれでもかと表す彼らに、かける言葉もなかった。もとより、ない。
負傷者たちは、国立の学園に在籍する学生であり、卒業後、軍役に就く者たちである。それも、おそらくは幕僚の地位に。
野心家な平民、太平楽を並べる貴族とが入り混じった若者たちだが、そのだれもが気位が高く、扱いにくいことこの上なかった。ややもすると怒りがちなゴーボリは煙たい存在だが、このときばかりはシナも同情したものである。隊長が言ったように、話を聞かず、自信過剰なままで、兵站を狙ってきた魔物たちと対峙したのだから。
惨たる結果に、今頃はゴーボリが上層部に絞られていることだろう。自分の統率する部隊の失敗であれば、粛然と責任を負うこともできるだろうが、血気に逸る学徒兵の指揮を押し付けられたうえに、この状態である。やり場のない思いが渦巻いているに違いない。
魔物の討伐に参加して、怪我らしい怪我がなかったのは、ゴーボリの補佐役である副隊長のシナと、負傷者たちと同じ幹部候補生のユウヒだけであった。
「……と。どこいったんだ、坊主は」
ゴーボリの説教中、消沈した若者たちに混じって話を聞いていたはずなのだが、姿が見えなくなっていた。居丈高な候補生のなかにあってもユウヒはしおらしく、真面目な学徒であった。煙たい隊長の小言とは言え、話の途中で抜け出すなど考えられない。
周囲を見渡していたシナは、本陣から派遣された医療部隊の天幕内が、ずいぶん騒がしいことに気がついた。
「バッカやろうっ、ただの痣に魔法なんか使うな!」
「薬はただじゃないの、いいから大人しく座りなさい」
悲鳴を上げつつ天幕から転がり出てきたユウヒに、藍色の長い髪を丁寧に編んだ少女が掴みかかっていた。詰襟の白い布鎧を着た衛生兵は、静かに、だが有無を言わせぬ口調でユウヒを諭し、彼の腕を抱え込んで天幕に引き入れようとする。
「こんなの、ほっといても治る! 魔法はいやだ!」
「棍棒で殴られても、破傷風は発症するわ。あとで大変なことになったらどうするの」
駄々をこねるような、哀願の姿勢になった“魔獣”。しかし少女の方は頑として受け入れず、ユウヒを半ば引きずるようにして天幕へと連行していった。
「レイネ嬢ちゃんにかかっちゃ形無しだな、坊主は」
にたにたと人の悪い笑みを浮かべながら、シナも医療部隊の天幕へと入った。
“トローンの魔獣”と呼ばれるユウヒ、中背だが、身についた筋肉は隆々としている。着痩せする体質で、外見からは分からないが、赤熊を担げるだけの膂力があった。衛生兵の少女―――レイネを振り払えないわけがない。
「なに笑ってるんだよっ、シナ爺さん! シナ爺さんからも言ってやってくれよ!」
「『副隊長』でしょう、ユウヒ。気安いにもほどがあるわよ」
二人を見て、シナは他意もなく微笑んでしまった。ユウヒをからかってやろうという気持ちは消え、少年と少女のやり取りを眺めていたい気分になった。
ユウヒ劣勢の口論は幕を閉じ、結局、魔法による治療をすることになった。彼女の堅苦しさはゴーボリ以上に煙たく、ユウヒは苦手意識を顕わにしているが、本気で拒絶もできなかったようだ。
レイネの華奢な手が患部―――素人目に見ても、ただの痣なのだが―――であるユウヒの腕に当てられ、蛍火のような光が漏れでてきた。
「イエリエス、イエリエス……、……オレアトク」
人語ならぬ呟きのあと、繊手を引くレイネ。黒目がちな双眸を近づけて患部を診察し、完治したことを患者に伝える。
「熱っちぃー……」
ぼやいたユウヒの腕に、レイネの手形と思われる赤い痕が残っていた。腫れものの色ではなく、湯に浸かっていたかのような赤さである。やがて消える、魔法の痕跡の一種であった。
「……また熱出たり、喉渇いたり、身体痒くなったりするのか?」
「応急処置の魔法だから、そんなことにはならないわ。でも、水分だけはしっかり摂って」
魔法は万能ではないことが窺える会話である。
回復魔法自体は万能であると言ってよい。だが施される側、つまり患者の方にも負荷がかかった。ユウヒが言っているように、魔法による治療を受けた者は、なにかしら身体の異常を訴える。
それは、人間が持っている自然治癒力が魔法によって促進された証拠であり、そのつけでもあった。重大な異常ともなると、脳や臓器の機能が停止したりもする。本来ならば、多くの栄養と時間とをもって完治されるべき怪我が瞬く間に治ってしまうのだから、負荷もかかろうというものである。
極端な話、「重傷者を一瞬で完治させる」などと俗説で言われていることは不可能であった。重傷を完治できても、あとのつけを払いきれる体力など残っていないからだ。
それでも、傷の具合と患者の体力、その二つに気を付けていれば、魔法による治療は様々な利点を生み出した。なにより、医療機器や薬品が要らないという魔法の強みは、怪我人が続出する戦場にこそ生かされている。
「レイネ嬢ちゃん、他の奴らはどんな具合だ?」
ぶつぶつと文句を言っているユウヒを押しのけ、聞くまでもないことだが、シナは藍色の少女に話し掛けた。「他の奴ら」とは、ユウヒ以外の学徒兵のことである。
「重傷者二名、命に別状はありませんが、手術が必要です。他の方は、強めの魔法で治療してもいいでしょう。ただ……」
「身体は治っても、気持ちは萎えたまま、ってか」
「自信家が挫折したときの落ち込みようは、見るに耐えませんね。僭越ながら、兵站警備を中止して、戦線を離脱させることをお勧めします」
「はっは、手厳しいねぇ、レイネ嬢ちゃん。……まぁ、上層部もそれを決定してるだろうがな」
ひとしきり笑うと、シナはユウヒに顔を向けた。まだ彼は治療された腕をさすり、ぶつぶつと言っている。よほど魔法の治療がいやだったらしく、身体のあちこちをまさぐりながら異常がないか調べていた。
「坊主、どうするよ? おめぇは心身ともに元気だろ」
「どうするって、なにが? 学徒兵が退くのなら、それに従うよ」
「仮にも、幹部候補生だろうが。いまなら、正規の軍隊に混じって行動するだけで、一目置かれるんだぜ。うえの覚えもよくなるってモンさ」
「あー……そういうことか」
この会話のあいだに、レイネが何度か肘鉄を喰らわせてきた。「気安い」と小声で語りかけてきたが、どちらにもさして痛痒を感じず、ユウヒは幕の天井を眺めて考えこむ。
「あとで、色々と陰口叩かれそうだしなぁ」
「気に病むトコじゃねぇだろうよ、それは。……なんていうか、坊主は野心ってモンがねぇよな」
「……それが魅力でもあるんですけどね」
ぽつりと漏らしたレイネ、拾ったシナと目が合うと、わずかに顔を赤らませて任務へと戻っていった。
若さに羨望を抱きつつ、シナは微笑みながら彼女を見送った。怪我とは言い難いユウヒをむりやり治療したり、素行の悪さを指摘したりするのは、その想いかららしい。堅苦しい性格だが、その辺りは年相応であった。
少女を焦がす少年は、それに気づいた風でもなく、うんうんと悩み続けている。
3
「だいたい、今回の戦は、戦にならないって話じゃなかったか? 居残る意味もないような気がするんだけど」
「ああ、ならねぇよ。ならねぇから、うえは兵士のやる気を見る余裕があんのさ」
ユウヒは残留を決定し、シナがゴーボリ隊長にその旨を伝えた。現在、ゴーボリの指揮する三百人の歩兵集団に加わっている。
ドランチスカ軍の総数は十万、ゴーボリ隊など一角ですらないが、幹部候補生であるユウヒの参戦は、陣営全体を驚かせた。学徒兵の出陣は珍しくもないが、兵站警護に止まっていれば、である。矢面に立つことなど、これまでの記録を紐解いても事例は見当たらないだろう。丁重に扱われるべき幹部候補生であるから、尚のこと。
「“トローンの魔獣”が、人間相手に武を競えるのかね……」
驚きとともに、ひがみにも思える、そんな声が周囲で囁かれていた。“トローンの魔獣”は畏怖されているが、同時に忌避されてもいる。道理も通じるし、とくに好戦的な一族ではないものの、生活が自然に根付いたものであるために、蛮族と見ている人間が多かった。
自ずと耳にしたユウヒだったが、平然と聞き流している。「陰口を叩かれるのでは」と言っていた彼だが、それほど気にはしていなかった。いまはもう戦線を離脱した幹部候補生たち、気位だけは一端な彼らのなかで、決して短いとは言えない学園生活を過ごしてきたのだ。ひがみやそねみなど、聞き飽きている。
「ほれ、坊主。あれが悪名高い、西の帝国キーツシリクの軍隊だ」
ゴーボリの部隊を含めた第一陣、騎兵一万と歩兵二万は、ゆるやかな丘陵に壁の如く並んでいる。ユウヒたちはちょうど小高い丘の上に整列したため、敵国キーツシリクの陣容が窺えた。
彼らも丘陵に沿って立ち並び、銀色の波頭を連ねている。長槍や長柄の斧が太陽に煌めき、「銀の穂波」と言われる所以をユウヒは見た。聞いた話と実際に見るとでは、理解のしやすさも違うな、と本筋から離れたことを考えている。
「……肝が据わってんな、坊主。初陣の奴ぁ、この光景を見て、たいていすくみあがるもんだがよ」
「あ? ああ、そうだな。あれとぶつかるって考えると、少し怖い気もする」
そう口にしたが、ユウヒの顔色や態度には、微塵も恐怖がなかった。若者にありがちな「血気に逸って武者震い」、それもない。どこまでも澄んだ瞳で敵陣を眺めていた。
「大物か、バカか……。前者であってほしいもんだな」
呆れたような目で少年兵を見つめ、シナは独白した。望んで“赤い獣王”の前に立つような人種である、人間などいくら集まろうが関係ない、と思っているのかもしれない。もしそうなら、彼は後者ということになる。
幸い、ユウヒは常識を持った“魔獣”であった。
「なぁ、シナ爺さん。キーツシリク兵は強いのか?」
「……弱くはない。だが、将が戦上手じゃねぇ。数に恃んだ突撃しかしねぇな。少なくとも、俺が経験したキーツシリク戦はそんな感じだったぜ」
「数、ね……。このだだっ広い草原で、他にどんな戦い方ができるんだ?」
寡黙で屈強な兵士たちに囲まれても、ユウヒは感化されるということがないらしい。黙然と整列しているなかで、学業に勤しむ“魔獣”は歴戦の老兵に教えを請う。時と場合を考慮しろ、とはだれも言わない。ユウヒが幹部候補生であることはみなが知るところであるし、戦端が開かれぬ戦でもある。耳を澄ませば、そこかしこで私語はあった。
「第一に機動力、つまり騎兵だな、これが戦況を左右する要になる。側面や後方に回り込んで攻撃できたら、まぁ、勝敗は決したと思っていい」
「騎兵を警戒して、防御を固められたらどうするんだ?」
「言ったろ、機動力が要だって。防御を固めるにしたって、陣全体をまんべんなく守れるわきゃねぇ。動き回って、相手をひっかきまわしゃ、それでまずは成功さ」
「……そのあと、歩兵を投入する?」
「ご名答。第二に重要なのは、歩兵の質と装備。ぶつかりあいに、策もなにもありゃしねぇ、突っ込んで武器を振りまわすだけの戦いだからな。丈夫な鎧、丈夫な剣、丈夫な身体と、それさえありゃいい」
シナの独学なのだろうか、ユウヒが習った用兵学とは少し違っていた。だが、血の通った話は、幹部候補生にとって、よい肥やしであったようだ。屋内での勉学よりも、すんなりと頭に染み込み、いくつもの質問が浮かび上がっていた。
「敵も騎兵を用いて、歩兵も充実していたら?」
「第三の要を生かさなきゃならねぇ。それが、将のうつわって奴さ。戦況を読んで、兵を巧みに動かせるか。騎兵をどう動かして、歩兵をどの時点で投入するか。他にも考えなきゃいけねぇことは、たくさんあるぜ?」
言い終えて、シナはにやりと笑って肩をすくめる。言外に、ユウヒを哀れんでいた。もちろん、質問を繰り返すことに、ではない。
勤勉な少年は、いずれ指揮官となる人材であり、どの程度の部隊を預かることになるかは分からないが、少なくとも自らの判断で数百の生命を左右する軍位を得るだろう。
俺ならそんな重圧はごめんだな、と副隊長に甘んじている老兵の目は語っていた。
キーツシリク軍を遠望しつつ、シナに用兵術を教授されていたユウヒは、にわかに湧きあがった鬨の声に身を硬くした。
周囲を見れば、兵士たちが陣の後方に向けて武器を振りまわしている。なにごとかとユウヒも振り仰いでみたが、林立するたくましい腕と銀光の束で窺うこともできない。
上背のない少年は目視することを諦め、すなおに副隊長に尋ねた。
「だれか、えらい指揮官でも来たのか?」
「おお、そりゃあもう、どえらいさ」
そう茶化すならたいした人物でもないか、と思っていたユウヒが目にしたのは、装飾過多な戦車であった。四頭の馬に引かれたそれには、完全武装の騎士が三人と御者二名。
そして、きらびやかな鎧を着した一人の少女が乗っていた。
「……あれは、国王陛下の……」
「おう、公妹殿下ユキア様だな」
「たしかにどえらいな……」
シナは身分のことを言っていたのではなかった。
戦場に姫君が、しかもユウヒよりも年下であるはずの童女が現れたのは、ただごとではない。
本来、この戦場にあるべきは、ドランスチカ国王ラオニー三世のはずである。とくに武を好む人物ではないが、激励の来臨は王者の義務。ゆえあって臨めぬとしても、年端もいかない公妹を遣わすことはないだろう。
少年は首を捻り、その様子を横目で見ていたシナは、苦く笑いながら回答する。
「坊主、ユキア姫が戦場にいらっしゃるのは、恒例なんだぜ」
「……は? 戦のたびに、姫が来てる……らっしゃるのか?」
正規の軍列に並んだことがないユウヒに知る由もなかった。
「戦にならない戦」は、ここ数年続いている。キーツシリク帝国が出兵を繰り返すのは、いわゆる武力外交であり、その内容は、政治や経済での軋轢の緩和などを旨とした会議であった。
対し、ドランチスカも軍容を整えて相対する。「あくまで話し合い」とはいえ、矛先をそろえた国の外交手段に、無防備で赴くなど愚の骨頂であるし、第一に、ドランチスカはキーツシリク帝国より独立した国であった。完全に信用していない、が正しい。
なんにせよ、両国が兵士を並べても、戦うことは本意ではなかった。ゆえにユキア姫が国王代理として官僚を率い、キーツシリクとの間に設けた即席の議場に出席できたのだった。
それでも年若い姫君を送り出すのは、納得し難いことであるが。シナの言った「どえらい」とは、国王に対する皮肉だったのかもしれない。
その国王の思惑など知ったことではないユウヒは、いささか間の抜けた質問をした。
「……独立? ドランチスカが? そんなことがあったのか」
「おいおい、幹部候補生。自国の歴史ぐらい、しっかり勉強しておけよな」
「キーツシリクが二回、ドランチスカに侵攻してたってのは知ってるけど……」
「そりゃ独立後だ」
熱心だがものを知らない生徒に、老獪な教師は短く答えた。
珍しく軽口もなく簡潔に答えられて、ユウヒは訝しげにシナを見やった。これもまた珍しく、生真面目な表情をたたえて背筋を伸ばし、さながら老将といった体でたたずんでいる。
まもなく、理由が明らかになった。
「公妹殿下の御前である! ゴーボリ隊、拝跪せよ!」
いつのまにかユキア姫の戦車がユウヒたちの目の前にあり、完全武装の騎士が声高に告げた。三百人が一斉に膝をつき、精悍な兵士たちはうやうやしく頭を垂れた。
他の隊より低くなった人間たちのなかで、一瞬遅れて跪いたユウヒは、目の端でシナを睨む。気づいていて教えなかったのは、ユウヒの反応を楽しむためだったのだろう。老兵の口がわずかに歪んでいるのが見えた。
「……来る年、ミーミル学園を卒業する学徒兵が参戦した、と聞き及びましたが」
「学徒兵ユウヒ、御前にまかり出よ!」
ユキア姫に問われたゴーボリは、自らの隊をかえりみて声を張り上げた。当の本人は突然のことに口を開け放して呆然としている。一応、貴人に対する礼儀作法を習ってはいたが、慣れない動作はとっさにできるものではないらしい。
「……中腰のまま進んで、隊長に並べ。なに言われても、はいはい言ってりゃいい」
シナが正気づかせ、ようやくユウヒは動き出した。もともと尊卑の念が薄いユウヒは、作法を実施するに忍びなく、シナの言葉通りにしかできないわけだが。
「兵站警備の折り、ふがいない戦果のなかで一人、果敢に立ち向かったという話を聞いています。さすが、“トローンの魔獣”ですね」
「……は」
どこか演技じみている姫君だが、賞賛は本物だったようだ。シナのようにあてこすりもなく、本気で“魔獣”の名を名誉ある称号と捉えているらしい。少し返事が遅れたユウヒの心中に気づいた様子もなく、ユキア姫は淡々と言葉をつむぐ。
「その勇猛さをもって忠臣となられることを期待します。このたびの出兵で、さらなる武功を挙げることはできませんが、……せめて我々の警護をお願いしたいと思います。いかがですか?」
この問いに「はいはい言ってりゃいい」、わけではないことはユウヒにも分かる。ゴーボリを無視してすすめられる話ではく、わずかに顔をめぐらせて窺うと、彼は小刻みに頭を上下させていた。
「……謹んで、お受けいたします」
越権行為にはならないと判断し、ユウヒは精一杯うやうやしく答えた。
「ゴーボリ隊、進軍準備! 公妹殿下を守りまいらせよ!」
いつもどこかに怒気を孕ませている赤ら顔の隊長は、喜々として大声を張りあげた。王族の警護は、軍人にとって誉れ高いことなのだろう。後にゴーボリは、「学徒兵を率いて、初めて良いことがあった」と漏らしている。
三百人の喚声があがり、甲冑の音を響かせて、銀光が空に突きあげられた。姫の戦車に、親衛隊である重厚な鎧をつけた騎馬と歩兵が続き、そのあとをゴーボリ隊が追う。華やかさがまるでない一団だが、精悍さにおいては劣らない。隊長をはじめとしたたたきあげの兵士たちである、これ以上の名誉はないと、士気も盛んであった。
姫を追って息巻く集団のなか、ユウヒの隣りを走る老兵は意味ありげに笑っている。
「戦わずして、一部隊に功を挙げさせたか。居残って良かったろ? 幹部候補生」
それは皮肉なのか、すなおな感嘆なのか、ユウヒには分かりかねた。
ただ、功を挙げるにも様々あるものだな、と戦いを能くする“魔獣”は感心している。相変わらず勉学の一環として考え、シナの言葉を及第点と受け取っていた。
―――「魔獣の初陣」後編に続く