かえらない時間
くたびれたスーツを着て、白髪まじりの頭――その人物はどう見たところで、ごく平凡な中年サラリーマンでしかなかった。
顔立ちもどこにでもいそうで何の特徴もない。ただひどく疲れた表情をしている、という印象だけがあった。
その日の会社帰りに立ち寄った、行きつけの居酒屋――男とはそこで意気投合し、一緒に酒を呑んでいた。
こちらもすでにアルコールがずいぶんと回っていたため、男とどんな話をしたのか覚えていない。男の名前、年齢、職種も分からない。
覚えてはいないものの、それなりに会話は弾んでいたように思う。楽しかった記憶がかすかに残っているからだ。
「ああ、そうだった。あなたに、これを――」
別れ際、そう言って男が取り出したものは高くも安くも見えない、これまた何の変哲もない腕時計だった。
「どうぞ、これを――」
差し出されるまま、つい俺は受け取ってしまった。
「普通の腕時計ではありませんよ。針を戻せば時も戻り、針を進めれば時もまた進む――そんな腕時計です」
もちろんそれは、男の冗談だと思った。センスのかけらもない冗談だったが。
ちょうど新しい腕時計が欲しかったところだ。ただでもらえるものならもらっておこうという軽い気持ちで、俺はその腕時計をありがたく頂戴することにした。
それがまさか、あんな取り返しのつかない事になるなんて――。
気がつくと、俺はテーブルの上に突っ伏していた。どうやら酔い潰れて寝てしまっていたようだ。
一緒に呑んでいた男の姿はない。もう帰ってしまったのだろう。それにしても俺を放置していくなんて、薄情な男だ。
左腕にはもらったばかりの腕時計がはめてある。その文字盤を眺めたとたん、酔いが一気に冷めていくのが分かった。
慌てて店を飛び出し、駅までひたすら走る。改札をくぐり、ホームに続く階段を駆け上がった。
ホームに着くと、最終電車が無情にも遠ざかっていくのが見えた。
「しまったなぁ……」
舌打ちをして、頭をぼりぼりと掻く。あとは駅前でタクシーでも拾うしかない。
ホームの階段に向かいかけたとき、俺はふと男の言っていたことを思い出した。
「……」
ちらと、腕時計を見る。
これっぽちも信じていない。ただ何となしに竜頭をつまみ、回して――針を二分だけ戻してみた。
「何してんだろうなぁ、俺は」
自分のしていることに呆れて、今度こそ引き返そうとして――電車が、ホームに到着した。
「え?」
終電はもう行ってしまったはずだ。だがそれは紛れもなく俺が乗ろうとしていた電車だった。狐につままれたような、というのはまさにこのことだろう。
釈然としない気持ちのまま、目の前の電車に乗り込む。
ついには体にまだ残っているアルコールのせいだと結論づけて、俺は納得した。
だがそんな考えが間違いだと知ったのは、次の休日のことだった。
テレビで取り上げられたこともある人気のラーメン店に出かけて、俺は行列の最後尾に並んだ。
待つのにうんざりしてきた俺が、そこで今度は針を進めてみると――行列に店の入り口がもう間近にあった。
これは本物だ――このとき、俺はようやく確信をもった。
それからの俺は仕事に遅刻しそうになったとき、嫌みな上司のねちねちとした説教の際にはたまに利用するようになっていた。その他には、特に代わり映えのない日々を送っていた。
ある休日、俺は妻と幼い息子をつれて遊園地へと遊びに出かけた。
たまには家族サービスをと考えてのことだったが、高速道路に乗ったとたん酷い渋滞に巻き込まれた。
前も後ろも、気が遠くなりそうなほど延々と終わりの見えない車の列が並んでいる。ラーメン店でのこともそうだが俺は忍耐力がなく、待つという行為が苦手だ。
「パパ~まだぁ~?」
後部座席から飛んでくる息子の抗議の声が、俺を更に苛立たせる。
「まだかかるって言ったばかりでしょ? いいから大人しくしてなさい」
妻の声もまた、苛立ちを隠せずにいた。だが叱ったところで小さい子どもの我慢が長続きするはずもない。
だがそれより不安なのが。息子が便意を催さないかだ。ここでトイレに行きたがるなど考えられる限りもっとも最悪で、恐れる事態だ。
「くそ……」
二人に聞こえないよう口の中で小さく悪態を吐き、ハンドルを握る自分の手を見た。当然、左腕にはめた腕時計が視界に入る。
「はぁ……」
またこいつの出番か――そう思いながら竜頭を引いて、回した――針を進めたのは、一時間。
「これで、よし……と」
そして俺を取り巻く時間も、一時間進む。これで渋滞の悩みは解決される。
そのはず、だったが――。
一時間進んだ直後――俺の全身を激痛が襲った。
「っ……!」
あまりの痛みに、まともに声すら出せない。おそらくどこかの骨が折れているに違いない。息をするのも難しい。
頭の中では疑問符が飛び交っていた。何が起きた? 俺はどうなっている?そうだ――妻と息子は? 二人は無事なのか?
苦労して首を曲げて、俺は助手席を向いた。
妻はそこに座っていた。前方のトラックが積んでいた鉄骨に頭を砕かれている。絶命しているのは一目で分かった。
「……」
次に後部座席を振り返った。息子の姿もちゃんとそこにあったが、割れた硝子の破片がいくつも体に突き刺さっていた。もちろん、死んでいる。
なぜかは知らないが、どうやら事故にあったのは間違いない。
車外に広がる景色は、まさに地獄としかいいようがない。どこを見ても破損、横転、炎上した車ばかり。 どの車のものとも知れない残骸があちこちに散らばっている。
そして聞こえてくるのは助けを乞う声、泣き叫ぶ声、苦痛に呻く声――。
これが、あれから一時間後の光景なのか? 自分が見ているものを信じられない。
「は、りを……」
そうだ、早く針を――時間を戻さなければ。
この地獄からすぐにでも逃れたくて、俺は左腕をあげる。
「……ぐっ!」
少しでも体を動かすと走る痛みを、歯をきつく食いしばって耐えながら腕時計の竜頭を回していく。
そうしてやっとの思いで針を戻し終え、引き出した竜頭を押し込み――、
「…………」
次の瞬間にはもう、痛みはすっかり消え失せていた。
「あなた、どうしたの?」
声がして、我に返る。隣には心配そうにこちらを見つめる妻の顔があった。
「……」
バックミラーごしに後部座席を見れば、シートにおもちゃを散らかして遊ぶ息子がいた。
戻ってきたのだ――ほっとして、息を吐く。ハンドルを握る手が汗ばんでいるのが分かる。
ふいに背後からクラクションが鳴って、慌ててアクセルを踏んだ。
「何よぼーっとして、しっかりしてよ」
妻の声がしていたが、返答している余裕はない。俺の頭の中はこれから起こる惨事のことでいっぱいだった。
今からおよそ一時間後に、この高速道路で玉突き事故が起きる――妻も息子も、死ぬ。
こんなところにいてはいけない。次のインターチェンジはまだだろうか?
一分一秒がおそろしく長く感じて、焦りも増していく。そのためようやくインターチェンジが見えて、一般道へと降りてきたときの安心感といったらなかった。これで俺たち家族が、事故に巻き込まれることはない。これでいい。もう済んだことは忘れて、あとは今に専念しよう。
遊園地に着いてからの俺は、家族との時間を思いきり楽しんだ。事故のことは意識の外に追いやっていた。
その後、疲れを感じた俺はベンチで一休みしていた。妻は息子をトイレに連れていっている。
ふと気になって、スマートフォンで俺たちが乗っていた高速道路について調べてみた。
事故はやはり起きていた。あの一時間後に。
「……」
『玉突き事故』、『十一人の死傷者』という文字がまるで俺を責めているように思えた。俺だけが事故が起きることを知り、俺たちだけが助かったことを。
俺は間違っていない。間違っていないはずだ――誰だって自分の家族の命を優先する。
俺はやがて発生する事故から、大切な家族を守ったのだ。責められる筋合いはない。
それなのに、なぜだか胸が痛くて仕方がない。俺は罪悪感を覚えている。
俺は分かっていた。俺はあの場所にいた自分たち以外の人々を見殺しにしたのだと。
本当は事故を避けるのではなく、事故を防ぐべきだったのだと。 それは、俺にしかできない――そう思うのは傲慢だろうか? 救えたはずの、より多くの人を救いたいというのは過ぎた考えだろうか?
スマホには大破したトラックの画像が載っている。事故原因はこのトラック運転手の飲酒運転によるものらしい。
このトラックを、俺は知っている。どこかで見たのだ。どこかで――。
顔をあげると、遠くに妻と息子の姿が見えた。手を繋ぎ、こちらに向かって歩いてくる。
息子が小さな手を振る。それを見て、俺も手を振り返す。
確かに俺は、二人を助けた。だが俺は夫として――父として、彼らと胸を張って向き合えるだろうか?
大多数の人々を見殺しにした、罪の十字架を背負いながら。
答えは、すでに出ていた。俺は腕時計の竜頭を、再び弄る。
一時間、二時間、三時間――針を回し、時間が遡る。
俺の視界は遊園地から車内へと、一瞬で切り替わった。
自宅からほど近い国道を、車は走っている。まだ高速道路に乗る前だ。出発したばかりで、妻も息子もまだ機嫌が良い。
「……あなた、さっきから何きょろきょろしてるの?」
訝しげに話しかけてくる妻――今の俺は、よほど落ちつきなく見えているに違いない。
俺は車を走らせながら、あのトラックを――事故を引き起こした原因である飲酒運転のトラックを、目を皿のようにして探しているところだった。
人の命が懸かっている。絶対に見落とすわけにはいかない。
どこだ、どこで見た? 確かにどこかで見たのだ。高速に乗る前、確かに。
時間が経つにつれて、だんだんと焦ってくる。見たと思ったのは俺の気のせいだったのか?自分の記憶に自信がなくなっていく。それでも諦める訳にはいかなかった。ぎりぎりまで粘るつもりだった。
「……?」
そのとき――視界の隅に、何か気になるものが映った。思わず後ろを振り返る。
「危ないわよ! よそ見しないで!」
妻が金切り声で抗議するも無視して、俺はUターンできそうな場所を探して、元の道を引き返す。
「どうしたの? なんで戻るの?」
妻の声を右から左へと聞き流す。
やがて左手にコンビニが見えてきた。その手前にある駐車場の、右から二番目のスペース――そこに、あの大型トラックが停車していた。
俺はハンドルを左に切って車を駐車場に入れ、大型トラックの隣に停める。
相手の運転席には、頭を丸めた四十代後半ほどの男がいた。
男の手には、コンビニで買ったのか缶ビールがあった。それを今、口につけている。
白昼堂々と悪びれもせず飲酒をする男に、怒りがわいた。
自分さえ良ければいいとそれでいいという、周りをかえりみないその行動が何人もの命を奪ったという事実を思うと我慢ならなかった。
「ちょっと待っててくれ」
俺は運転席のドアをあけて外に出る。
「待って! ダメよ、逆恨みされたらどうするのよ!」
妻が俺の腕をつかんで引き留めた。それで俺も頭が冷えてきた。
俺だけなら、まだいい。だが妻と息子を巻き込むのは避けなければ――。
そう冷静に考えることができ、心の中で妻に感謝した。
そのとき、男が運転席から降りてきた。そのままコンビニの中へと消える。トイレでも借りるつもりなのだろうか?
何にしても、今がチャンスだ。俺は大型トラックの後ろに回り込む。ちらとコンビニの方を見て、男が戻ってくる様子がないのを確認すると、スマホを出して警察にかける。
「あ、もしもし――」
飲酒運転の車があること、大型トラックのナンバーとここの場所を伝えて自分の車に引き返した。
「あのトラックを捜してたの? まさか飲酒運転してるって知ってたの?」
車を出した俺に妻が矢継ぎ早に質問してくる。だが本当のことを言うわけにもいかず、俺は曖昧な返事に終始した。
俺からまともな答えを得られないと分かった妻は、遊園地に着くころには諦めてこのことをもう追及するのをやめていた。
そして俺は今、遊園地内のベンチに座って妻と息子がトイレから戻るのを待っている。
警察は男を捕まえてくれただろうか? 男がコンビニを去る前に来ていてさえくれれば――。
俺は祈るような気持ちでスマホを操作する
「……」
――ない。見つからない。何度となく試してみても、結果は変わらない。
事故は起きていない――その事実に肩の力が抜けた。
俺は人を救った。未来を変えた。
スマホから目を離すと、ちょうど妻と息子が戻ってくるところだった。
手を振る息子に、俺も振り返す。
前回と比べて、今の気分はとても晴れやかだった。
それからというもの、俺はこの腕時計を使うことはなくなっていた。
この腕時計のおかげで事故を防ぐことができた――それは事実だ。だがこれがあれば、また何か災難が降りかかったときにはこの腕ま計の力を使えばいいと、そんな考えを抱きはじめた自分を自覚してしまった。
腕時計に頼りきりになり、やがては依存してしまうことに危機感があった。
悩んだ末、俺はこの腕時計をついに手放す決意を固めた。
だがまわまだけでは不安だ。どこかの誰かの手に渡って、悪用されないとも限らない。
それでまず腕時計を破壊して、針が動かなくなったのを確認してから処分した。
それから仕事にいく準備を済ませ寝室を出る。家の中に妻の姿はない。おそらく息子を保育園に連れていったのだろう。
革靴をはき、玄関ドアを開く。今朝はとても静かだ。車の排気音も電車の通過音もしない。
その他は、いつもの朝と変わりはない。
「……」
近くのバス停まで、俺は歩く。
本当に、静かな朝だ。
あまりに静かすぎて――心の中に不安が芽生える。
「…………」
やけに、静かだった。
さすがにこれは妙だ――頭の中に疑念が根を下ろす。
静かどころではない。音が聞こえない。まったくの無音など、この世にありえるのだろうか?
やがて玄関先で水まきをしている老婆を見かける。この異常さについて訊ねようと近寄ったが、すぐに無駄と気付き離れた。
それからも何人かの人や車を見つけたものの、声をかけることはしなかった。
道端の犬や塀の上の猫もいた。遥か頭上には飛行機も見える。
それらのどれもが、同じだった。
同じようにぴたりと、活動を止めていた。
「何なんだ? どうなってるんだ?」
俺の問いを拾ってくれるものはいない。
だがすぐに、あることに気づく。
俺はさっき、腕時計を壊して捨てた。
壊れた腕時計の針は止まっていた。
「あ……」
針を動かすことで、それに合わせて時間も動く。
現実の時間の流れが針の動きに影響を受けるのなら、その針が止まれば――、
足の力が抜けて、俺は膝をつく。
取り返しのつかないことをした。だがどれほど後悔したところで、この時間は返ってはこない。
永遠に時間が静止した世界で、俺はこの先ひとりで生きていかなければならなかった。