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彼女と私

彼女と呪文と違和感と

作者: 高見 和香

 学校を卒業すれば、こんな気持ちになることはなくなるのだと思っていた。

 新しい環境に心を踊らせたのは、最初のひと月だけで、新人研修というものが、会社人間を作るための洗脳だと思い始めたら、半年で逃げ出したくなってしまった。

 新入社員の私は、見るもの全てに悪態をついて、最低な気分で毎日を過ごしていた。人々のささやかな楽しみや幸せは薄っぺらで、自分と合わない人達を馬鹿呼ばわりした。もっとも自分と合う人なんて、彼女一人だけだったが。


 そこかしこで聴こえてくるポップソングを憎んでいた。前向きに生きよう、なんてお節介を言うし、信じる心があれば願いは叶うと都合のいい呪文を唱えていた。

 偶然は何かの意味をつけられ必然と呼ばれ、奇跡は割と高い確率で簡単に起こっていた。

 言葉は私の目の前をツルツルと滑っていく。つまらない。くだらない。

 それでは自分はどうなんだ。何もわかっていないくせに、あの人達とは違うという思い込み。神にでもなったつもりなのか。そういう自意識が何よりも、たまらなく嫌いだった。

 皆は何故笑って生きていられるのだろう。我慢ができない私が悪いのか。皆は見ないようにしているのか。それとも見えていないのか。

 いや、きっとそんなものは、そもそも存在しないのだ。澱んだ空気が漂っているように見えるのは、私の目が濁っているせいなのだろう。

 愛想笑いをしていればいい。従順なフリをするくらい簡単にできる。にっこり笑って「わかりました」と頷いていれば、トラブルなんて起こらない。そうしていれば、たいていのことは上手くいくのだ。

 私にとって、彼女だけが現実に生きている存在だった。ボーイフレンドもいたが、いつの間にかよその国の人みたいで、私とは違う言葉を話しているように感じた。


 京阪電車の京橋を過ぎると、窓の外から見える住宅街が消え、薄暗い地下へと潜って行く。この場所を通る時、いつも憂鬱な気分になる。

 そして私は、自分が高校生の頃から何も進歩していないことを思い知るのだ。今の私は学校と反対の方向に曲がり、淀川へ逃げていた時とまるきり同じだった。

 淀屋橋で電車を降りると、乗り換えの駅には行かず公衆電話へ向かった。受話器をあげ、テレフォンカードを挿入し、プッシュボタンを押す。入社して最初に暗唱させられた番号だ。

 毎朝一番に出社してくる経理担当が電話に出た。通勤途中で気分が悪くなってしまったので、今日は休ませて欲しいと伝えた。


 薄暗い地下がよくないのかもしれない。

 経理担当が、明日出勤したら休日の届出書を朝一で提出することと、当日欠勤が社会人としていかに良くないことかを説明していたが、私の耳には届かなかった。

 受話器を置いた後、階段を上り地上に出てみた。

 外は少し寒かった。早々に冬のファッションを取り入れている人もいれば、薄手のコートの人もいた。私はジャケットを羽織っていた。ポケットには文庫本を入れていた。

 オフィス街を流れる川を渡りながら思いついた。淀川を渡って、遠いところまで行ってみよう。


 そのまま北に向かってどんどん歩いて、梅田に着いた。私はもう制服を着た高校生ではないのだ。平日の昼間にウロウロしたって、誰も咎める人などいない。

 そう考えると、少しだけワクワクした。

 阪急電鉄の券売機で路線図を見ながら、どこに行くか考えた。見覚えのある駅の名前を見つけ、そこまでの切符を買い、京都線のホームへ向かった。私は四歳になるまで嵐山で暮らしていた。


 梅田に到着する電車からは、たくさんの人が吐き出されていたが、京都へ向かう電車はそれほどの混雑はなかった。朝の太陽がよく見えるように、進行方向に向かって右側の扉近くを陣取った。

 鉄橋の上を大きな音をたてて、電車が淀川を渡った。水面は朝陽に照らされて、キラキラと眩しかった。電車だと一瞬で通りすぎてしまう。それでも街中を抜け、ぱぁっと視界が広がる瞬間は少しだけ明るい気分になれた。地下鉄で通勤しなければならない会社に就職したことを後悔した。


 桂で乗り換え、嵐山に着いた。

 引っ越してから十五年以上経つのに、駅から迷わず歩けた。この川も、あの橋も、高架下の歩道も、銀行も、あそこの商店も。

 昔と変わっていなかった。なのに全然知らない場所に見えた。

 私が暮らしていた家の近くまでくると、古い記憶が湧水のように次から次へと溢れ出す。

 家の前で見た稲妻、銭湯からの帰り道に手のひらで受けた雪、弟が生まれたことを聞いた保育園の下駄箱。少し歩くと幼馴染みの家もある。

 幼馴染みとはよく遊んだが、今思い返すといたずらばかりしていた。ポストに砂が満タンになるまで入れたり、テレビ画面にメンソレータムを塗ったり。

 大人達は、私と幼馴染みがどんないたずらをしても、最終的には許してくれた。私は許される小さな子供だったのだ。そう思った瞬間、先程からの違和感の正体がわかった。

 知らない場所のように感じていたのは、私の体が大きくなったからだった。街全体が小さくなったように見えていたのだ。無邪気に愛され、守られていた日々は戻って来ないのだ。

 私はもう、大人なのだ。


 当たり前の事実に愕然として、あてもなくふらふらと歩き回るうちに、川が見下ろせる小高い丘に出た。誰もいないベンチに腰をおろした。

 川の流れる音は、いつも私の心を静かに慰めてくれる。川の水は高い場所から低い場所へと流れていく。昔から繰り返される事実は私を安心させてくれる。

 ジャケットのポケットにヘミングウェイの文庫本を入れていたことを思い出して、その場で読み始めた。

『彼は年をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ……』

 正午を過ぎても、空腹を感じることなく読み続け、とうとうそのまま最後まで読み終えてしまった。

 読み終えると急に、今日という一日の行動が馬鹿らしくて、笑いが込み上げた。老人はカジキと戦ったが、私は一体何と戦っているのだろう。とたんにお腹も空いてきた。


 夜は彼女とライヴに行くことになっている。それまでに何か美味しいものでも食べて、本屋へ寄って美しい物語を探そう。

 梅田へ向かう電車に乗ると、お腹が満たされたこともあり、すぐに眠気が襲ってきた。

 少し眠ろう。上手く眠ることが出来れば、ライオンの夢を見るかもしれない。

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