ガラス猫
曇りガラスで出来た大きな小屋の中に猫がいた。トラとキジとサバとミケとサビとクロとシロとエトセトラ、エトセトラ。小屋の中に何匹の猫がいるのか知らない。見るたびに数を変えていくから正確な数字は誰にもわからない。おまけに外から見ればモザイク状の同じ影。形や大きさや色の違いなんかでわかったもんじゃない。個別の名前も記号も持たない猫たち。だから区別などしなくてよいのだ。曇りガラスの小屋の猫たち。誰が呼んだかガラス猫。ただそれだけでよい。
その中の一匹に彼がいた。彼は生まれた時からここにいる。そしてたぶん将来ここで死ぬ。一歩も外には出ないまま。由緒正しいガラス猫の由緒正しい生き方。何代も続く老舗の跡取りみたい。エリートの中のエリート。けれど、例によって名前はない。そしてたぶんこの先もずっと、ずっと。
彼が目覚めると、見分けのつかないキジトラの兄弟が隣のクッションの領有権を争っていた。朝からご苦労なこった。日はとうに南を過ぎている。それでも朝は朝だ。とにかく朝一番から彼の視界に決闘寸前のキジトラ兄弟が入ってきたのだ。ああ面倒くさい。ならばすることはひとつだけ。伸びのついでに一瞥し、彼はエサ場へとまっしぐらに一目散、音も立てずに駆けて行った。
エサ場にはカリカリと常温の水が常設されている。誰が用意しているのかなど彼は考えたことがないし、たとえ考えたところでわからないし答えはないし、お腹が膨れたら眠ればいいだけだし、とにかく忙しいのでそんな暇はない。だからカリカリをたらふく食べたら、これまた水をたらふく飲んで、口元をきれいに拭ったら小屋の中で一番高い場所を目指す。ふらふらと風にそよぐカーテンが執拗に誘惑してくるけれど、そんなものは今の自分には必要ない。踵を返すがてら二度三度と自慢のサバトラ柄のしっぽを打ち付けてやった。
さあ行こう。道中は長いのだから。
この小屋で唯一お日様の当たる場所。そこは険しい階段の上の上のまたその上の、とても過酷な旅路の果てにある。ほとんどのガラス猫たちに聞けば、満腹と眠気の十字架を背負った身で到達するなど不可能に近いと言うだろう。だが彼は勇者だった。己が右耳を後ろ脚で忙しなくかいた。落ちてきた自分の毛の残滓の匂いを嗅ぎながらしゃーと威嚇した。それに気づいた近くのシロトラのご婦人がうっふんと言わんばかりの色気を振りまいてきたけれど、我に返った彼は目の前の階段を選んだ。くわばら。くわばら。
ひょい、ひょひょい。
ひょい。
ひょひょいひょい。
ふぎゃ。
ひょいひょい。
ひょひょひょい。
ひょい、ひょひょいのひょいっと。
はい、着きました。
途中で何かを踏んだような気がしたけれど、それは過去か未来の出来事であって今ではない。だからもう知らない。お日様の光を浴びた毛並みは神々しく輝き、毛を繕えば繕うほどにあたたかくて美味しくて、とても美しくていい香り。
ああ気持ちいい。
寝よう。
先住者たちは既にみんな眠っている。お世辞にも広いとは言えないてっぺんの空間に、すし詰めとなったガラス猫たちが腹を向けている。日焼け前と日焼けあとのように隣り合うシロとクロ。そのまた隣のシロとクロのブチがぶーちぶーちと寝息を立てる。なんて素敵なんだろうか。そこに加わろう。ただ起きているだけでは、もうこの世界はあまりにも眠いのだ。
見てごらん。これが外の世界だよ。
誰かの声だった。
会ったことも話したこともない知らない声。
抗うことも思いつかないとても懐かしい声だった。
彼が見回すとあたりは一面が砂だった。砂の山。砂の海。山も海も見たことはないけれど、遠い記憶の中でそう表された。これが全部カリカリだったらいいのに。赤いふにふにとしたカニカマってやつでもいい。カンヅメは気取っていて臭いから嫌いだ。そりゃあ食べろと言われたら仕方なく完食してやるけれど。
ここがわたしたちの生まれた場所。
砂漠と言われる世界だよ。
砂漠は暑かった。お日様がとても大きかった。おまけに水もなかった。本当に暑さや乾きを感じたわけではなかったけれど、見ているだけで彼は無性にのどが渇いた。普段ならピンと立った自慢のしっぽが今ではふにゃりと地面に垂れている。焼けた砂の上でステーキになろうとしている。ああとても素敵だ。
こんな所で生まれたのか。彼は不思議だった。自分が知っている世界といえばガラスの中だけだったから。日向もあれば日陰もあるし、食べ物も飲水もある。寝床にも隠れる場所にも欠かないし、気にいらない奴も気に入った奴も日替わりのように馴れ合って遊んでいる。
そいつは天国だね。
見知らぬ声は言った。
天国なのか。
妙に合点がいった。
それじゃあここは地獄なのかな。
キラキラとお日様を撥ねっ返す砂の表面をニョロニョロ長細いものが這っていた。しゃー。しゃー。彼は雄々しく唸る。見たことはないけれどこいつは敵だ。ヘビだとかなんだとかいう危険なやつだ。
大丈夫。こちらにはこないから。
声の言うとおりヘビはこちらを見向きもせずに、砂のくぼみに入り込もうとする。くぼみには穴が開いていた。何かの巣のようだ。なんだかお腹の空く巣の形。それはきっとネズミというやつらだ。見たことも聞いたこともないけれど、誰かが頭の中で教えてくれた。とても気分の高揚する響きだった。
しばらくしたらヘビが穴からくぼみ、くぼみから砂の表面に出てきた。すこし腹が膨らんでいる。きっと食事を終えたのだ。
いいなあ。
お腹が空いたなあ。
それじゃあ行こうか。
声がするとそこは一面の青だった。砂漠とは様子が違った。キラキラとお日様を撥ねっ返しているのは同じだったけれど、全く違う場所だった。なんだかとても生臭い。まるでカンヅメを開けた時のよう。
ここは海だよ。
ああこれが海なのか。
彼は納得した。この匂いが嫌いなのだ。動かないくせに生きているみたいな顔をした匂い。いつか襲ってきそうな恐ろしさ。食べたって食べたって、いつまでもその匂いは消えない。消えないというのはそこにいるということだ。おばけみたい。おばけが怖いのは当たり前の話じゃないか。
だから目の前の海もきっとそうなのだ。
どう見ても水だった。大きな大きな水だった。飲み干すには大きすぎるし、泳ぐことも歩くこともできない彼は、ただ腰を引かせてたじろぐことしかできなかった。
そもそも泳ぐとはなんだろうか。
水は確かにそこにあるけれど、いざ体を浸したって沈むだけ。飲み込まれるだけ。飲み物に飲まれるなんて本末転倒だ。そこにあるのに、触れられるのに。沈んでいく不思議な仕組みのおばけたち。それが水だった。その親玉が海なのだ。
だから海も嫌いだ。
それでいいのだ。
そんなこと言わずに見てごらん。
声のする方を見た。海の中を、水の中をすいすいと泳ぐ影があった。そいつは記憶よりも先にお腹が教えてくれた。魚だ。これは魚ってやつだ。
一目散に彼は水の中に飛び込んだ。ざぼんと音を立て、ぶくぶくと泡にまみれ、なんだかとても不思議なジャンプをしている気分。とても軽くて、なのに上手く動けない。ああ自由とはこんなにも不自由なものなのだなあ。目の前には魚がいる。念ずればそいつが口元にやってくる。嘘みたいなスピードでそいつにガブリと噛み付いた。狩りは成功だ。生まれて初めての鱗と骨は厄介だった。それでも食べてしまえばこっちのものだ。
海が好きだ。
彼はずぶ濡れになりながら海を出た。
さあ行こうか。
海を出るとそこは一面の緑だった。
これが山だよ。
懐かしい声が教えてくれる懐かしい響き。懐かしい匂い。山とは初対面だったけれど仲良くなれる気がした。見てくれは全く違うものだけれど、食べ物も飲水もあるし隠れるところも寝床も凸凹した地面もある。まるでガラスの中にいるみたい。とても安心できる場所だった。
けれど先住者がいた。
大きな大きなネコだった。ガラスの中では見たこともないタイプの巨大なネコだった。黄色と黒の毒々しいトラ柄模様。ふわふわとしたシロ毛が愛らしかった。
虎だよ。わたしたちの兄弟だ。
虎は低く唸りながらこちらを見ていた。トラならばガラスの中にもたくさんいたけれど、こんなやつ見たことなかった。トラなんて嘘ばっかり。虎こそが本物だった。本当であり真実だった。
山ってすごい。
さすが本場だ。
虎はしばらく怪訝そうにこちらを見ていた。もう気が済んだのであろう、彼から目を外すと、そのまま踵を返して藪の中に入っていった。ガサゴソバリバリという音がひとしきり。聞こえなくなった頃にはもう山とも森ともつかぬ木々のどこにも気配はなかった。
次に現れたのはシロクロのコロコロとしたやつだった。愛らしい姿ではあるけれど鋭い目が光っていた。鋭いツメで竹を掴み、へし折っては笹を食べていた。バリバリバリバリと。とても豪快な音を立てていた。
猫熊だよ。
ネコなのかクマなのかよくわからなかった。たぶんネコみたいなクマなのだろう。猫熊。彼も手招きすれば運を集められる能力者ではあるのだが、猫熊たちならもっと特化した能力で客を呼べるだろう。根拠はなかったが彼はそう確信した。きっとそう。そうに違いない。
世界は斯様に広かったんだ。
不思議なことがあるものだ。
彼はうっとりとしながら茂みに隠れていたゲジゲジを見つけて飛びかかる。弄ぶつもりが偶然その体深くまでツメを刺してしまった。傷口からはとても不快な液体が飛び散ってきた。これまた嫌な匂いだ。彼はふぎゃあと叫びながら後ろにひとっ飛び。後ろ向きのままで茂みを飛び出した。
さあこれで最後だよ。
あたりは真っ白だった。もやもやとしたふわふわとした世界だった。とても不安だ。けれど、なんだか見覚えがある。捉えどころはなかったけれど、たしかに見たことがある気がする。キョロキョロと彼は首を動かし続ける。
ここは空の上だよ。
なるほど。これはいつかガラスの中のてっぺんから垣間見えた空に浮かぶ白い雲というやつだ。モクモクと青空に貼り付き、ユラユラと風に運ばれていくニクいやつ。外の世界を知らないガラス猫たちの憧れのひとつだった。
雲は実体があるようでなかった。足を踏み出すとすっと脚まで吸い込まれてしまう。どういうことだろう。彼は雲の上に立っていると思っていた。違ったのだ。彼は空にいた。空っぽの空にいた。
何もない場所にいた。
つまり落ちていたのだ。
高い高い空だから気にならなかったけれど、彼は今たしかに落ちていた。不安だったのはそのせいだ。下を見ると、雲の切れ間から大地が見えた。緑の山があった。青い海があった。その向こうには砂漠が広がっていた。
ああこれが世界なのだ。
とても広い世界。
けれど空から見れば、世界なんて何事もないただの箱庭にすぎなかった。彼の住むガラスの中と何らかわりはなかった。
ガラスの中に戻りたいなあ。
恋しくなった。
いつもの場所でいつものように。いつもの奴らに囲まれていつものように日々を過ごす。彼だなんて特定されることもなく、数え切れぬ多数の中の一として。何事もなく過ごせるあの場所へ。
ぐんぐんと落ちていく。
お日様の光で輝く何かへと近づいていく。
それは曇りガラスだった。
大きなガラスの小屋だった。
ああ。戻ってきたのだ。
彼は安堵した。安堵した彼は吸い込まれるように、ガラスの隙間へと吸い込まれていった。ガラスの中から唯一お日様の見えた隙間から、ガラスの中の一番高いあのてっぺんの寝床へと。
曇りガラスで出来た大きな小屋の中に猫がいた。トラとキジとサバとミケとサビとクロとシロとエトセトラ、エトセトラ。小屋の中に何匹の猫がいるのか知らない。見るたびに数を変えていくから正確な数字は誰にもわからない。おまけに外から見ればモザイク状の同じ影。形や大きさや色の違いなんかでわかったもんじゃない。個別の名前も記号も持たない猫たち。だから区別などしなくてよいのだ。曇りガラスの小屋の猫たち。誰が呼んだかガラス猫。ただそれだけでよい。
その中の一匹に彼がいた。彼は生まれた時からここにいる。そしてたぶん将来ここで死ぬ。一歩も外には出ないまま。由緒正しいガラス猫の由緒正しい生き方。何代も続く老舗の跡取りみたい。エリートの中のエリート。けれど、例によって名前はない。そしてたぶんこの先もずっと、ずっと。
彼が目覚めると、見分けのつかないチャトラの兄弟が隣のクッションの領有権を争っていた。朝からご苦労なこった。日はとうに南を過ぎている。それでも朝は朝だ。とにかく朝一番から彼の視界に決闘寸前のチャトラ兄弟が入ってきたのだ。ああ面倒くさい。ならばすることはひとつだけ。伸びのついでに一瞥し、彼はエサ場へとまっしぐらに一目散、音も立てずに駆けて行った。
エサ場にはカリカリと常温の水が常設されている。誰が用意しているのかなど彼は考えたことがないし、たとえ考えたところでわからないし答えはないし、お腹が膨れたら眠ればいいだけだし、とにかく忙しいのでそんな暇はない。だからカリカリをたらふく食べたら、これまた水をたらふく飲んで、口元をきれいに拭ったら小屋の中で一番高い場所を目指す。ふらふらと風にそよぐカーテンが執拗に誘惑してくるけれど、そんなものは今の自分には必要ない。踵を返すがてら二度三度と自慢のキジトラ柄のしっぽを打ち付けてやったのだ。