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愛する人のために

作者: 竹仲法順

     *

「ねえ、孝仁たかひと

「何?」

「あたしのこと好き?」

「うん。……それがどうかしたの?」

「孝仁ってかっこいいから、あたしの他に彼女いるんじゃないかなって思って」

「いるわけないじゃん。俺は誰よりも君が好きだよ」

 僕は何気ない紗枝(さえ)の言葉に、思わず本音で言い返した。

 僕と紗枝は半年前から都内の外れにあるマンションで同棲していた。僕は普通のサラリーマンで、紗枝も新宿にオフィスを構える商社でOLをやっていた。マンションは紗枝が実家の両親から金を出してもらって買ったものだった。

 僕は紗枝と同棲しながら、毎日楽しく過ごしていた。大抵先に帰っているのは紗枝の方で、僕は遅い時間に帰宅していた。

 一月で寒い季節だった。東京はおろか全国各地が冷え込んでいて、雪が降り積もっているところもあった。

 三が日が終わり、僕も紗枝も通常通り出勤していた。電車に揺られながら、僕たち二人は都心へと向かう。

 その日。

 僕は出社すると、同僚たちにおはようと朝の挨拶をし、デスクに座ってパソコンを立ち上げた。

 ネットに繋ぎ、メールボックスを開いて、新着メールをチェックする。スパムは残らず削除し、必要なメールに目を通すと、ワードの画面を開いて、上司に提出する企画書を打ち始めた。

 カタカタカタ……。

 しばらくの間、オフィスのフロアー内にはキータッチの音が鳴り続けた。僕だけではなく、同僚たちも皆、パソコンのキーを叩いているのだ。

 やがて僕が書類を打ち終わり、一部プリントアウトして、上司で部長の今田が座る席に駆け寄り、

「部長」

 と声を掛けた。

「おう、大田。どうした?」

「今、企画書が出来上がりました」

「ああ、ご苦労さん。後で読んどくから、そこに置いといて」

 今田は六十代後半と年配で、パソコンもろくに使えないので、基本的に閑職だった。何もしなくても、丸一日窓際の席で新聞か雑誌でも読んでおけば給料がもらえる身分だった。

 僕はいくら上司とはいえ、今田のことはあまり好きではなかった。むしろ嫌ってすらいる。

“部長は給料泥棒だ”

 口が裂けても言えないことを思いながら、僕は仕事を続けた。 

 その日。

 残業も含めた仕事が午後八時半過ぎに終わって、同僚の飯原が、

「大田、今から飲みにでも行かないか?」

 と誘ってきた。

「あ、悪い。俺、今から家まで帰らないといけないから」

 僕がそう言って、飯原の誘いを断った。

 飯原はそれ以上言ってこなかった。

 僕はオフィスがテナントとして入ったビルを出ると、新宿駅まで歩き、改札口で定期券を通して、ホームに着ていた八王子方面の中央線に飛び乗った。

 プシュー。

 電車の扉が閉まり、軽く息をついた僕は締めていたネクタイを緩め、電車に揺られた。

 ゴトンゴトン……。

 電車は昼間都心にいた人たちを、ゆっくりと郊外のベッドタウンに運んでいく。

 僕は電車から仄見(ほのみ)える東京の夜景を眺めながら、武蔵小金井駅を目指した。

 毎日片道約三十分、往復一時間の通勤だった。慣れれば何ともない。

 僕は電車が駅に着くと降りて、改札を抜け、自宅マンションに向かって歩き出した。

 一歩一歩踏みしめるようにして歩く。吐く息が白く、おまけに乾燥しているので喉が痛い。

 自宅に着くと、マンションの出入り口で四桁の暗証番号を押して、真正面のガラス扉を開け、中へと入った。

 管理人の男性に軽く頭を下げ、僕はマンション内へと入っていく。

 一階に着ていたエレベーターに乗って、上階へと上がる。僕と紗枝の愛の巣は七階の七〇三号室だ。

 僕は七階でエレベーターを降りると、部屋に向けてまっすぐに歩き出す。

 七〇三号室にはすでに明かりが(とも)っていた。僕はドアノブに手を掛け、中へと入る。

「ただ今」

「ああ、お帰り」

 紗枝は夕食を作っているらしく、エプロン姿だった。

「近頃早いね」

 僕がそう言ってワイシャツを脱ぎ、自室ではなくリビングで部屋着に着替え始めると、紗枝が、

「あたしも、ついさっき帰ってきたんだから」

 と言い、トントンと包丁で野菜を切る。

 僕は不意に愛おしさが募り、着替える手を止めて、後ろから紗枝を抱きしめた。

「ちょっと。いきなり何よ?」

 紗枝がそう言ったので、僕が、

「誰よりも君が好きだよ。これからもずっと一緒にいような」

 と返し、抱きしめる手を強くした。

 紗枝が、

「夕ご飯が終わったら、一緒にお風呂入ろう」

 と言い、夕食を作り続けた。

 カレーだった。鍋からはいい匂いが漂ってくる。

 紗枝は切った具を脂を引いた鍋で炒めて、水を注ぎ入れ、沸くとルーを溶かし込んだ。

 お玉でゆっくりと掻き回す。カレーの香りが濃くなった。

 僕はキッチンのテーブルで届いていた夕刊を読みながら、食事が出来るのを待つ。

 やがて紗枝がご飯をよそい、上からカレールーを掛けると、

「どうぞ」

 と言って、僕に差し出した。

「いただきます」

 僕がそう言って、カレーを食べ始めた。追って紗枝もエプロンを脱ぎ、テーブルの椅子を引いて座る。

 カツカツカツ……。

 しばらくの間、キッチンにはスプーンが皿と(こす)れ合う音が聞こえていた。

 僕たちは食事が終わると、各々着替えの下着やパンツを持って、風呂場に入った。

 シャワーで汚れを洗い落とし、一緒に湯船に()かる。冷え切っていた体は十分温まった。

「後は寝るだけだね」

 僕が真新しいシャツに袖を通しながらそう言うと、紗枝が、

「セックスする元気はないの?」

 と訊いてきた。

「うん。まあ、ないじゃないけど」

 僕が曖昧に頷くと、紗枝が、

「じゃあ、しようよ」

 と言って、着替えを済ませた。

 僕も着替え終わり、紗枝はドライヤーで長い髪を乾かして、二人で寝室へと向かう。

 寝室には二人が眠れるような大型のベッドが一つ置いてある。

 僕たちはベッドに寝転がり口付けると、どちらからともなくセックスをし出した。

 互いの感じる部分に愛撫を繰り返す。

 体を重ね合い、交わり、絡み合いながら、僕たちは熱い一夜を過ごした。

     *

 それから二人の同棲生活は順調に進み、やがて僕が岡山に住む実家の両親に紗枝を紹介した。紗枝も僕のことを自分の両親に紹介する。

 僕たちは五ヵ月後の、連日雨が降り続ける六月に入籍した。いわゆるジューンブライドというやつだった。

 披露宴等は一切行わず、入籍したことを互いの友人や知人にハガキで通知し、僕たちの新婚生活は始まった。

 六月の東京は夏が近いからか、蒸し暑い。おまけに梅雨時で湿度が高く、ジメジメしていた。

 僕たちは一月経った七月に、結婚記念の意味で沖縄まで旅行に出かけた。

 飛行機で羽田から海を三時間ほど飛び越えたところに常夏の島がある。

 七月の沖縄は一際暑かった。着ていたシャツはすぐに汗だくになる。

 二人とも有給を取れるだけ取り、時間をたっぷりと作っていたので、のんびりと旅行した。

 やがて東京に戻り、更に一月ほど経った八月のとある朝、紗枝があることを打ち明けた。

「妊娠してるの」

「俺の子供なんだな?」

「ええ。あなたとあたしの子供よ」

 僕は紗枝が妊娠した事実に最初は当惑していたが、やがて、

「産んでくれよ。生まれてきた子供に、俺たちの想いを(たく)そう」

 と言い、思わず抱きすくめた。

 紗枝が、

「これからも愛してね」

 と言うと、僕が、

「もちろんさ」

 と言って頷いた。

 僕はそれから紗枝の臨月まで懸命に働いた。それはひとえに愛する人のためだった。

 紗枝は出産まで自宅でゆっくりと休む。

 紗枝は来年六月には母親になる予定で、お腹が徐々にではあるが、大きくなり始めていた。

 そして僕は働き続け、紗枝が無事出産するまで頑張った。

 時間は容赦なしに過ぎていき、翌年二〇〇九年の六月、紗枝は近所の産婦人科医院で元気な男の子を出産した。

 保育器の中にいる新しい命に、紗枝が、

「男の子だから、浩志(ひろし)って名前はどう?」

 と提案した。

「浩志。いい名前だね」

 僕が頷き、早速その日、市役所に出生届を出した。

 生まれたばかりの浩志は保育器の中ですやすやと眠っている。

 そして僕は相変わらず仕事に追われ、産休を取っていた紗枝も育児に励んだ。

 会えるのは朝と夜だけだったが、僕たちは幸せだった。

“このささやかな幸せが消えませんように”

 暑い夏も終わりの九月、僕たちは二人とも心の中でそう祈り続けた。

 時が流れ、浩志が大きくなっていく。僕たちの愛の結晶は健やかに育っていった。

 僕と紗枝がそれからも、浩志と一緒に幸福な家庭を築いたのは言うまでもない。

                            (了)


 


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