最凶妖怪、解放♪
「…………」
ソレを見た途端、思わず口をついて出そうになった言葉を李花はグッと飲み込んだ。
通りがかった大きな山のたもと。
埋められたように包まれたように、人の手と、下を向いて垂れ下がった頭だけが山肌からはみ出している。
(人……じゃないよね。手は人間っぽいけど、こんな赤い髪で耳もちょっと大っきい……。やっぱりおサルさん……? あ、でもこっちの耳、ピアスついてる……人間だったらすごくカッコいい顔してるのに……)
ピクリとも動かないソレを良く観察しようと右に左に交互に首をかしげるたびに、リーファの長い黒髪がサラサラと音を立てる。
意を決し、足元にふわふわまとわり着く衣装の裾をたくし上げて赤い頭に歩み寄ると、背後からのんびりとした声が掛かった。
「姫ー、あんまり近寄っちゃダメですよー。例のモノじゃなかったら危ないかもしれませんからねー」
「そんな事言うんだったら浄が確かめてくれればいいのに」
ぷうっと頬をふくらませてリーファが後ろを振り返る。
だが、黄肌色の法衣のような衣装を身に付けた浄は、いつものようにニコニコと目を細めたまま静観を決め込むつもりのようだ。
精悍な顔立ちでありながらふんわりと穏やかな風情を持つ彼だが、その肌の色はうっすらと青黒い。
無造作に束ねた髪は月光のような白銀で、首から髑髏の連なる首飾りを下げている姿もまた、どこから見ても人ではない。
「もう……いいわよ、ちゃんと自分で……」
「…………そい」
山肌から小さなつぶやきが漏れて、リーファが目を瞬かせる。
「え? ……あの、やっぱり生きてるんですよね。今なんて……」
その時、赤い頭がバッと勢いよく上向いた。
「遅い遅い遅いー! あれから何年経ったと思ってんだ! 暫時ってのはいつから十一年になった? ああ!? つか、生きとるわボゲーー!!」
「…………!!」
目の前で咆哮する鬼の形相の男は金色の瞳。
だがその瞳のわずか一寸先に、一瞬にして半月輪の刃が突きつけられた。
「……姫に無礼はいけませんよ。噂にたがわず、ずいぶんと気性の荒い方ですねぇ」
細めた目はそのままに、浄は武器の宝杖でピタリと男を捕らえ、いつの間にかリーファをも胸元に隠している。
男の金の目が刃の先から浄の青黒い顔にゆっくりと移された。
「半月輪の宝杖……見覚えがあるぞ。あんた、捲簾大将だろう。天帝の護衛隊長だった……」
「おや、私をご存知とは。でもとっくに天界を追われた身でしてね。今の私はしがない妖怪ですからそれを名乗る事は許されないんですよ。……斉天大聖殿と同じです」
男の眉がピクリと震える。
「姫、どうやら当たりみたいです。この方もあなたが来るのを待っていたんでしょう。危険はありませんよ」
浄が宝杖を下ろし、リーファを抱き寄せた腕をゆるめた。
「浄、この人の事知ってるの? それにあなたも、前は天帝様のお傍に仕えていたなんて一言も……」
見上げた浄は何も言わず、ただふんわりと笑うだけ。
こういう時は、何度聞いても質問に答えてはくれないだろう。リーファが幼い頃から浄は傍にいるので、彼のそういった性質はよく知っている。
「この方はけっこう有名なんですよ。一人で天界にケンカをふっかけて、結局負けてどこかに封印されたって聞いてたけど……まさかこんな山の下敷きにされてたとはねぇ」
「はあ? 天界にケンカ売ったの? なんでそんな無茶な」
思わずリーファが詰め寄ると、男はプイと横を向いてしまう。
「……うるさい。いいから早く俺をここから解放しろ」
「あ……はい。でもあの、よくお名前が聞こえませんでした。もう一度教えて」
リーファが小首をかしげて覗きこむと、男は少しだけ瞳を曇らせた。
「…………烈」
「レツ……さん?」
ふいに、リーファの中でトクンと何かが小さく音を立てた。
それはほんの一瞬で、まばたきする間に胸の奥底に霞むように消えていく。
「烈でいい。斉天大聖は昔の呼び名だから。……お前は?」
その時、リーファの目の前に浄が金色の輪を差し出した。
「我らの守るべき姫君はリーファという名ですよ。もういいでしょう姫、そろそろ日も暮れます。さあ、これを」
「う、うん……」
浄の手から、その精巧な彫り細工のなされた金の輪を受け取って、リーファが烈に歩み寄る。
「えと……じゃあ烈、これを付けてください」
「なんだ、その輪っかは?」
烈がいぶかしげに眉をひそめた。
「天帝様から預かったんです。一番メンドクサイお供は、ある場所に封印されてるからこのアイテムで解いてあげなさいって。額当てだと思うんだけど」
「メンドクサイ……なんか釈然としねえけど、その細工は気に入った。俺の髪の色にも合いそうだし。早く付けてくれ」
パタパタと山肌から出た手を動かして烈が急かす。
「烈っておしゃれさんなんだね……。じゃ、付けますよー」
リーファは両手で額当てを掲げ、烈の頭にそっと乗せた。
「……おい、何も起きないじゃないか。力も出ないぞ」
「え、ホント? でも確かにこれ……」
戸惑うリーファの肩に手を置いて、浄も腰を屈めて覗き込む。
「姫、額当てなんだからただ乗っけても。もっとおでこの辺りまでグッと」
「こう? んー……!」
額当てをつかみ、力を込めて烈の頭に押し込む。
「いででででで! おま、強引だな! もっと優しく……髪引っ張ってるーー!」
次の瞬間、スルッと輪がゆるみ、額当ては烈のおでこにしっかりとはまり込んだ。
「やったあ! うわあ、すごくカッコいいよ。その額当て、緊箍児って言うんですって。前髪出してあげるね」
指先で烈の前髪を払い、額当てにかぶせてやる。
なるほど、確かに烈の赤い髪に落ち着いた金色の額当て、緊箍児はよく合っているように思えた。
「……おい、リーファ。ちょっと俺から離れてろ……!」
「え?」
ゴゴゴ……と地響きと共に、両界山が小刻みに揺れ始める。
「な……!? せ、浄! 山が……!」
「ああ、同じもと神仙でも、彼の力はちょっと我々とは別格なんです。それを抑えていた封印が解かれれば、山も啼きますよ」
大地の震動はますます大きくなり、震える山肌から烈の両腕が勢いよく外に飛び出す。
「腕が……! ねえ大丈夫? この山、崩れたりしないよね!?」
「…………よいしょ」
わずかな土を落とし、烈の全身がズボッと山から抜け出した。
長年、土に埋まっていたとは思えないほど、身に付けた赤い衣装も金の胸当ても汚れひとつ見当たらない。
その途端、地響きがなりをひそめ、山もなだれひとつ起きずに静まり返った。