めぐる始まり
両界山――。
この山は大陸の境界線に当たる。
ここから東側は人間の棲まう地、そして西側は妖怪や仙人達の領域。多少の入り混じりはあるものの、地上はそんな風にザックリと区分けされている。
西側から東側へ、人の生き肝を狙った妖怪などがお邪魔する事はあろうが、東からわざわざ西に向かう人間などありはしない。
そんな両界山に、彼が下敷きにされて早や五百年。
冷たい雨の日も激しい風の日も、山のたもとで圧し掛かるその重みを一身に受けたまま、じっと身じろぎもせず時を数えている。
山肌から手首と燃えるような赤髪を持つ頭だけはかろうじて出てはいるものの、力は完全に封印され、身動きの取れない身体に渦巻く屈辱と悲しみ、そして無念さに耐える他はない。
そう、これは罰。
かつて天界で大暴れし、一度はその絶大なる神通力で神軍の討伐隊をも蹴散らした彼だったが、一瞬の虚を突かれ天帝(天界の王)に惜敗した。
呆然としている間にこの山に封じ込められ、今に至る。
『…………なんとも無様な姿よの……烈』
実体のない声だけが、彼の、人とは少し違う大きめの耳に響いた。
「……そのブザマな姿に誰がしたんだよ」
『もちろん、余である』
「皮肉もわからんのか、このオッサンは」
そう吐き捨てると、耳障りな笑い声がわずかにこだまする。声の主の本体は、当然天界の宮の最高座に在るだろう。
「それに俺は烈じゃない。斉天大聖だ」
『それは神仙であった頃の呼び名であろう……。今のお前は神通力も妖力ですら封じられた、ただの赤猿だ。まこと、初めの呼び名で充分』
小さく舌打ちをし、烈は宙を仰ぎ見る。睨みつける視線が届けばいいのにと思いながら。
「いったい何の用だ天帝。俺は無能なあんたとは口も利きたくないんだが」
『……神仙に戻してやってもいいと思うてな』
「必要ない。帰れ」
烈は再び目を閉じ、頭を垂れた。
今さら天界に戻ったとて、なんの意味もない。
五百年前のあの日、烈の全ては終わった。
もうどこに行こうと、自分が何者であろうと、そんな事はどうでもいい。
『渾沌が目覚める気配がある……と言うてもか』
カッと烈の金の瞳が見開かれる。その気配を得て、天帝は静かに後を続けた。
『渾沌は天界、下界、冥界にすら災いをもたらす凶獣の長。獣とは言え、その力は我々とたがわぬ神の領域。復活するならばどうあっても封還せねばならぬ』
「すればいい……。もう、俺は……」
『余は完全勝利が望ましい。その為にそなたが力を尽くすと言うのなら解放してやろう。見事、渾沌封還のあかつきには、過去の罪は全て不問に付す』
「完全……勝利?」
わずかに顔を上げ、烈が天を見上げる。
『やがてこの両界山の前を、人間の娘が通りかかる。その娘の供をし、西方の森で渾沌封還の鍵となる神獣四体を探し出すのだ。……意味はわかるな?』
「その娘の中に麒麟が転生してるのか。よりによって最弱の人間なんかに!?」
『まだ眠っているがな……今のうちに神獣たちを揃えて守りを固めておきたい』
烈の口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。そして金の瞳が爛々と燃え始める。
「それで歩み寄ってるつもりかよ。……暴れていいんだな?」
『敵が余と同じなら、好きなように。これまでの鬱憤はそちらで晴らすがよい』
「よし、乗った! 早くこの山どかせろよ。力も返せ!」
赤い髪をジタバタと振って烈が急かす。
そうとなればじっとしてなんかいられない。ただでさえ五百年もの間、石のように固まっていたのだから。
『……ん? 余ではないぞ、お前を解放出来るのは。その娘なのだが、そうだなあ……いつになるか……』
「は?」
『なにせまだ幼児でな。神獣を感知するにも心身の成長が足りぬ。そもそも、今はまだ余の言葉が理解出来ているかどうか』
ピクンと烈の大きめな耳が震える。
「…………おい、ちょっと待て」
『これからも幾度か夢枕に立ったりしないと。いつ頃出立するかなぁ』
「だったらその頃合を見て言いに来いよ! なんであんたはいつもそう適当って言うかズレてるって言うか……!」
『そなたがせっかちなのだ。仙桃や満金丹も盗み食い、不死にも近い寿命のくせに』
「黙れ! イヤミ言ってるヒマがあったら早くなんとかしろ。もう俺の気持ちは外に向いてんだ! 」
『暫時待つがよい……』
耳元の声が急激に小さく細く、たなびくように消えていく。
「ざんじ? ざんじってどれくらいだ!? 明日なのか。明後日なのか! おいコラ、消えんな天帝!」
どっしりと構える両界山のふもとで、キーキーと響き渡るこの世のトップに向けられた罵詈雑言は夕日が沈んでもまだまだ続いていたのだった……。