魔女との始まり
夜、それも満月が天の真上に浮かび、それ以外は一切が雲に隠れるという珍しい日。
流れ落ちる銀で満たした釜に、尾を喰らう蛇の心臓、人の肉を喰らった鴉の嘴、血を啜る蝶とついでにそれっぽい亀とか孔雀とかウサギとかカエルとかをポンポンと放り込む。
「ふむ、あとは沸騰しないようにかき混ぜながら……塩が少々と亜鉛、石灰、硝石と……」
部屋はイモリの黒焼きやなにかの眼球が使った液体入りの硝子の瓶など、明らかに普通ではないもので満たされていた。
それらはあたりに雑多に転がり、吊るされ、如何にも黒魔術や儀式を思わせる雰囲気へと部屋を変貌させていた。
そしてその部屋の中心で怪しげな物体で満たされた大釜をかき回しているのが、この部屋の主。
灰塵の魔女、破滅の象徴、天に仇為す者、龍を屠りし者と恐れられる、エルフリーデその人である。
今宵は数百年に一度あるかないかという珍しい夜で、月以外何も見えないことから、その月を瞳に例えて、巨大な龍が蜷局を巻き睥睨しているとして龍の夜と呼ばれる。
龍とは古来より力の象徴であるから、それが理由として儀式の日に選ばれたのだろう。
もしくはこんな滅多に訪れない日にこんなことをする奴はいないだろうと思われていたのかもしれない。
その夜にしか行えない特殊な儀式こそが今エルフリーデが試そうとしている儀式である。
儀式に名前は無く、いつ買ったかも思い出せないほど適当に放り投げていた本を偶然見つけて試しただけなので、成功するとは本人すら思っていなかった。
が、なんの因果かその儀式は本当に存在し、彼女はその儀式を完璧に行使し、誰にも使われることなどなかったであろうその効果を現したのだ。
釜を熱していた火が赤から青に変わり、外で騒がしくしていた蟲達が鳴くのを止め、野生動物達はこの場から逃げ去った。
「おぉ、成功するとは……」
聞こえるのは煮立ち始めた水銀の音のみ。
が、その静寂にも似た空間を食い破るようにして釜の中からザバリと腕が出てきて、次に頭、上半身が出てきた。
そして今、咆哮を上げる。
「アッチィィィィ!?」
それもその筈、煮えたぎる水銀の中である。
というか、生身では大凡耐えられない温度である。
急いで飛び出たその男は全裸で部屋の中へ飛び出した。
ぴょんぴょんと飛び跳ね、近くにいた人影に話しかける。
「なんか冷やすもんをはやァァァァァァく!」
話しかけられたのはこの部屋の主、灰塵の魔女エルフリーデである。
彼女は魔女である前に一人前の女性であった。
が、男性経験はなかった。
全裸の男性が突然現れてぴょんぴょんしながら近づいてくる現状に思考が停止していたものの、話しかけられた事によって急速に覚醒した。
そして冷静になった彼女は魔女としての性質が故に目の前の物体を観察してしまった。
上から下まで。
上はまぁ、良かったのだが(よくない)、下がまずかった。
何が拙かったのかは彼女のプライド、矜持、誇りなど様々な物のために割愛させて頂くが、まるで初な生娘のようだったということはここに記しておく。
「うわぁぁぁ!?」
「水をぉぉっぉぉぉ!」
追いかける全裸と逃げ回るエルフリーデで暫し場は混沌と化したものの、全裸の男は力尽きて倒れてしまった。
壁の隅まで追い詰められたエルフリーデは止まったことに安堵の息を吐いて再度、対象を見やった。
「はぁ……はぁ……なんだったんだ一体……ゾンビかなにかを創り出してしまったのだろうか……?」
近づいてみてみれば微かに動いている。
どうやら魔法で動いていたりしているわけではなく、しかもまだ生きている。
「創り出してすぐに殺してしまうのはさすがに心が痛むな。私に助けを求めていたようだし……ふむ、全身が重度の火傷と額に大きな裂傷。生きているのは偏に魔力が生命エネルギーに変換されているからか。さて、皮を再生させるくらいならば容易い」
エルフリーデが片手を振るえば、全身が赤く爛れていたそれは健康的な色を取り戻した。
だが、額の傷は完璧に消すことは出来ず、後が額に大きく残った。
その後、その男を極力見ないようにしながらその体を浮かせ、触らないようにして運ぶと隣の部屋の自分のベッドに置いて毛布をかけた。
「……もうこのベッドは使えないな」
最近は椅子で眠っていたし、一向に構わないのだが、少し短慮だったかとため息を吐いた。