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セカイ系引きこもりの愛する世界~へっぽこ勇者とさびしがり屋の魔女~

作者: 壱の人

 プロローグ


 物語なんてものに、こうあらねばいけない、なんて決まりは全くない。極端な話、起承転結がなかったとしても、キャラクターすら出てこなかったとしても、全文が支離滅裂な情景描写の連続だけだったとしても、作者が「これは物語だ」と言い張れば、内容に関わりなく、それは物語だとさえ言えるのだ。

 けれど、世の中に余りにも多くの物語が産出されて行った結果、頭が良くて小説や映画が大好きな人達は、物語をいくつかの類型に押し込めることを考え始めた。

 物語のカテゴライズ。俺の世代が生まれるはるか以前から行われていたこの研究によれば、物語はいくつかのパターンに分類できる。けれど、その数は論者によって異なるようだし、分類の仕方もかなりの種類があるので、一つの作品を指して、『この話はこういうパターンの物なんだ』と言い切るのはかなり難しいわけだ。

 しかしながら、この国に氾濫している大衆を喜ばせる類の話で、かつその“始まり方”に限ってみると、かなりの割合で二つのパターンに当てはまる。つまり──派手に始まるか、地味に始まるか、である。

 映画の冒頭で、銃火器が活躍するようなド派手なアクションが起こっていれば、観客は「なんだこれ? 何が起こってるんだ?」と疑問に思うだろう。作者にしてみればしてやったりだ。そうして冒頭で話に食いつかせ、その後の物語につなげていくのがこのやり方だ。

 そしてもう一つ、地味に始める方のやり方は、写実主義の作品なんかでよく使われる手法だ。平穏な風景を淡々と描くことで物語をスタートさせ、さして強いフックは用意しないものの、少しばかり伏線めいた事柄を並べることで、物語の展開に合わせて徐々に観客の興味を引いて行く手法である。

 どちらが優れている方法ということはないし、作品全体の雰囲気や流れから始まりを決めるのがベストという見方もある。もし本当に優れた作家なら、この二つを巧みに使いわける技術を身につけていて然るべきだろう。

 さて、前置きが長くなった。とにかく俺が言いたいのは、この物語は、どうしようもないほどに後者のやり方で始まるということだ。

「ねー無為ー。相手してよー」

 閉め切ったカーテンの隙間から陽光がわずかに差し込む、七畳程度の広さの部屋。薄暗がりが空間を支配するその部屋で、液晶テレビの前に陣取り、コンシューマーゲームのコントローラーを片手に俺の名前──無為優作むいゆうさくと言う──を呼ぶのは、一人の少女(?)だ。

 (?)などという奇妙な記号を使ったのには、当然理由がある。が、その理由や詳細については、敢えてここでは語るまい。物語にルールはないが、流れやタイミングというものはある。今は解説のタイミングではないのである。

 なので、ここでは彼女(以後全てに(?)を付けるのは野暮ったいので、省略する)について、簡易的な紹介にとどめよう。

 彼女の名前はあかり。灯というのは名字で、当然ながら下の名前もちゃんと存在している。しかし、彼女はファーストネームで呼ばれることを酷く嫌がる。彼女との付き合いが数年になる俺ですら、彼女をファーストネームで呼んだことはほとんどないし、これからも呼ぶことはないだろう。この物語においても、彼女をファーストネームで呼ぶ人間は出てこない。なので、ここでは下の名前の紹介も割愛させていただこう。

 体つきは小柄で、身体の凹凸も同世代の女子に比べれば小さい方だと言えるだろう。髪は肩まで届かない程度の長さで、ばさばさなショートカット(正確にはボブとか言うらしいが、俺は女子の髪型の名前など全く知らないのでこう表現する)である。顔の作りはまぁ、整っている方だと思う。

 俺と灯は共に十六歳。恋仲というわけではないのだが、この部屋で生活を共にしている。

 未成年の男女が同じ部屋に同居、という事実だけを書いたのでは、かなり異常なことに思われるかもしれない。しかし、これにもまた、それなりに理由と事情があるのだ。物語の中で明らかになっていくので、この場このタイミングでの解説はご容赦いただきたい。

 さっきから「続きはウェブで!」みたいなノリで、やたらに謎だけを仄めかしているのは理解している。このやり方が、物語の始まりとして面白いかと言われればかなり疑問だし、ひょっとすればこの時点で、怒って読むのを止めてしまう読者もいるかもしれない。しかし、冒頭からネタを全てばらされるよりはずっといいのではないか、と個人的には思う。

 ネタバレというのは実に厄介だ。世間には「世の中に発表されてからしばらく経った以上、ネタばれはOK、鑑賞していない方が悪い」という見解を中心に、ネタばれに対する弁護が存在するのは知っている。しかし物語というものは、あらかじめ筋を知っているよりは、知らずに読んだ方が絶対に面白いものだ。であれば、ネタバレというものは、極力存在しない方がいいに決まっている。

「ねー無為ってば、聞いてんの? 相手してよ」

 と、物思いに耽っていたところで、灯が少し苛立った声を出した。

「聞いてるけどさ、俺じゃ灯に勝てるわけないじゃん。負けが決まってる勝負する気は起きない。ネットで相手探せよ」

「そんなこと言ってるから、いつまでも強くなれないんだよっ。いいからコントローラー持って!」

「やれやれ……」

 俺はため息交じりに、促されるまま、ゲームのコントローラーを手に取った。液晶画面に映し出されているのは、有名な2D格闘ゲームだ。

 これまでの戦績は数えてないが、俺の勝率が1割を越えていることはないだろう。というか、灯に勝てるプレイヤーなど、国家レベルでもそうはいないんじゃないだろうかとさえ思う。

 どうしてそこまで灯がゲームに強いかと言うと、彼女が一日の大半をゲームに費やしているからだ。むしろ、ゲーム以外の活動をしている姿の方が珍しいまである。

 人生において、最もエネルギーにあふれる十代半ばという時期に、なぜ彼女がそんな生活をしているのか。いや、していられるのか。その答えは簡単である。彼女が、筋金入りの引きこもりだからだ。

 もう何年もの間、灯はこの部屋から一歩も外に出ていない。俺以外の人間と話している所を見たこともない。彼女は、起きてから寝るまでの間、ただひたすらに、ゲームだけに時間を費やす日々を繰り返していた。今日もまたこうして、俺かネットで探した人間だけを相手に、格闘ゲームに興じているのだ。

 灯という一人の少女と、無為優作という一人の少年が、薄暗い部屋でゲームに興じている。これだけが、この物語の始まりだ。地味という言葉ですら片づけられないほどの、常軌を逸した地味さだろう? この始まりで続きが気に成る人間など、そう多くはないだろう。

 さて──ここで話を戻そう。先程ネタばれは厳禁だと言ってはみたが、ここで一つ、あえてネタばれをしてみようと思う。これはまぁ、物語の構成上必要と言うほどではないのだが、軽い洒落というか、地味な始まり方をしてしまった謝意も含めた、ちょっとした挑戦だ。

 “本当に面白い物語は、ネタばれをされていても面白い”という俗説に対する、俺と言う語り部からの挑戦状さ。この挑戦状を受け取ろうという酔狂な読者がいるのなら、どうか最後までこの話にお付き合い頂きたい。自分で言うのもなんだが──細工はかなり流々だ。しかとその目で、結果を御覧じろ、というわけだ。

 さて、それでは肝心のネタばれだが、ここはあえて、ネタばれの中で最も厄介なものをチョイスしようと思う。つまり──「オチ」に関するネタばれだ。

 「オチ」、つまりは起承転結の結の部分。物語が最後にどこに集約されていくのか、物語の最後がどうなるのか。それを予め知っていて、それでもなお楽しむことが出来たなら、その作品はつまり、何度でも楽しめるクオリティを誇っているということだ。流石にやや誇張表現な気もするが──時代を越えて愛されている名作とすら、比肩し得るレベルに到達しているということだ。それだけの自信を以て、俺はこの挑戦状を読者に叩きつけたい。……ここまで言えば、流石に少しは、期待を煽ることが出来たのではないかな?

 では、前置きはここまでにして、そろそろ発表しよう。この物語は──


 最初も最後も、灯が部屋に引きこもって、俺とゲームをしている話だ。


 ド派手なアクションなどとは縁遠い、日常描写にしても最悪の部類の始まり方で始まる物語。その上こんな性質の悪いネタばれすらして、それでもなお楽しませることが出来たなら──語り部冥利に尽きるというものだ。

 さぁ、プロローグはここまでだ。それではぼちぼち、物語を始めよう──。



 その少女は、生まれながらにとても不思議な力を持っていた。手を使わず物を動かせたり、道具を使うことなく火を起こしたり、あるいは、話すこともなく、人の心を読んだり出来たのだ。

 しかし少女は、普段の生活において、例え力を使えば楽に物事が運ぶとわかっていても、その力を使おうとはしなかった。むしろ、力を持っていることを隠し、普通の人達と仲良く暮らすことを望んでいた。

 少女は、天涯孤独の身の上であることも手伝って、とても聡く、同時にとても怖がりな性分だった。そんな力を持っていると周囲の人間に知られれば、どんな仕打ちをされるかわからないと、半ば本能的に理解していたのだ。

 けれど、隠し事というものは、いつまでも隠し通せるものではない。ほんの出来心で力を使ってしまうこともあれば、人を助けるために咄嗟に行使することもあった。

 初めは不思議な出来事で済まされていたことも、度重なれば疑念も募るというものだ。少女の周りの人々は、不思議な出来事が起こる際に、必ず少女が側にいることに気が付いていった。

 人々は次第に、少女を気味悪がるようになっていった。少女が予想した通りに、人々は少女を恐れ、避けるようになっていったのだ。そしていつのころからか、少女を指して、こう言い始めたのだ。

 あいつはヒトを誑かす、悪い魔女だ、と。

 

***


 夜空に浮かぶ月の柔らかな光と、わずかに生き残っている街灯の仄かな明かり。そんな頼りない光がぼんやりと照らす、廃墟と化したビル群の隙間を、俺はせわしなく走り続けていた。

 路地裏やあちこちのビルの窓から、時折銃声が響き渡る。足を止めることが即ち自身の死だという事実が、疲弊した足に力を加え続けていた。

 先程から、味方からの通信が全くない。こちらからの連絡にも応じない所を見るに、おそらくは既にやられているのだろう。敵は最後に確認した時点で、少なくとも三人。しかもあちらにはまだ、連射性ではなく精密性を優先させた、単発式ボルトアクションライフルの傑作・ステアーSSG69と、狙撃を専門とする兵士が残っているはずだった。

対してこちらの武装は、標準装備のハンドガンは既に全弾を打ち尽くしているので、身体のあちこちにしこんだコンバットナイフ、それもほんの数本しか残っていない。つまりは近距離用の装備しかないので、敵の狙撃に対する戦略は、こうしてひたすらに逃げ回る以外に何もない。

彼我の戦力差は、人数だけでも最低三倍。武装を考えればそれ以上。考えるまでもなく、かなり分の悪い戦いだった。

「なんで助っ人しか生き残らないかな……」

 俺は、今戦っている兵士達や、リタイアした味方の兵士達のように、毎日軍事訓練に明け暮れているわけではない。あくまで臨時の助っ人として呼ばれただけだ。にも関わらず、そんな俺だけが生き残っているというのが、現状だった。

「っ!」

 路地を抜けて、やや大きめの通りに出た瞬間、背筋に悪寒が走った。俺は反射的に身を屈

める。次の瞬間には、小銃弾らしき弾丸が、俺が直前までいた空間を通り抜け、コンクリー

トの地面に風穴を開けた。

「……待ち構えてやがったのか」

 俺は反射的に地面を蹴り、自分が今通ってきた路地に、再び身を戻した。出口を射手の視線が塞いでいる以上、迂闊に飛び出ることはできない。

「チェックメイトだよ、無為」

 後ろからかけられた女の声に振り向くと、防弾チョッキと軍用ヘルメットで身を固めた二人の兵士が、それぞれハンドガンを構えて立っていた。

「……」

 俺は無言のまま、腰に装着していたナイフを引き抜き、両手に構えた。兵士二人は俺の動きに呼応するように、引き金に指を当てた。

 袋小路に追い込まれ、人数も武装もあちらが上。どう考えても勝ち目がある状況ではない。

 しかし、どんなに絶望的な状況だろうと、諦めた時点で勝敗は決してしまう。どんなに小さい可能性であっても、そこにしか勝ち目がないのであれば、そこに張る以外に戦う方法はない。

「う……おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 俺は、喉が張りきれんばかりの雄叫びを上げつつ、ナイフを構え、武装した兵士二人に向かって、突撃を敢行した。


「はい、終了ー。皆、お疲れさま。おかげでいいデータ取れたよ」

 機械科生の声を合図に、俺を含めた、シミュレーションに参加した生徒達は、一斉にヘッドマウントディスプレイを顔から外した。ぷはーという息を吐く音があちこちから聞こえて来る。シミュレーションとは言え、実際に身体を動かしたのだ。俺を含め、全員がすっかり汗だくである。

 俺は汗を拭く前に、身体のあちこちに装着してあった、モーションキャプチャー用のセンサーを取り外していった。

「私の勝ちだね、無為」

 俺がシミュレーション台の上でセンサーを外していると、にやつきながら話しかけてくる人間がいた。頭はショートヘアで、女子の割には背の高い。男のような言葉を使う、やはり女性しては、比較的がっしりした体格の持ち主だ。

 こいつの名前は境野瑠奈さかいのるな。軍事関連技術が主な専門の機械科生で、俺が身体科に居たころから付き合いがある人間だ。俺に取っては、そこそこ親交がある部類の人物と言えるだろう。

 今回のシミュレーション戦に俺を誘ったのも、こいつだった。自分が企画運営、さらには参加までする軍事シミュレーションがあるから、是非無為も参加してくれとせがまれたのだ。

「やられたな、じゃねぇっての。なんで本職が真っ先にやられて、俺が最後まで生き残ってるんだよ」

「そう言うなよ。この手の戦略ゲーじゃ、無為に勝てる奴なんて、そうそういないんだから」

「微妙に嬉しくない……」

 案の定と言うべきか、俺はシミュレーションのラストで、境野を含む二人の敵に撃たれて、死亡してしまった。つまり、チームとしては敗北したわけだ。褒められている気があまりしない。

 それに、俺がシミュレーションに強いのは、単に同室の人間がゲーム廃人で、その相手をいつもしているからに過ぎないのだ。別に、身体科で行われているような、軍事教練の賜物と言うわけでもない。

「それに、銃やナイフの腕そのものは、大してなまってないみたいじゃないか。いっそ身体科に再復帰を志願したらどうだい?」

「いや……技術は大丈夫でも、身体能力がついていけないよ。それに正直、そこまで身体科に未練もない」

「ふーん……無為がそう言うんならいいけどさ。まぁ、またシミュレーションやる時は付き合ってよ」

「ああいいよ。どうせ暇だしな」

 会話はそこで終わり、彼女は今回のシミュレーションで取れたデータを検証すべく、シミュレーションルームに備え付けられている、パソコンの前へと戻って行った。

 センサーを一通り外し終えた俺は、とりあえず手近にあったタオルで汗を拭った。とりたててここに残る理由もなかったので、機械科や身体科の連中に軽く挨拶をして、ジャージ姿のまま、シミュレーションルームを後にした。

 

***


 もう晩夏と言って差し支えない季節ではあるのだが、未だに陽射しは肌を刺すように強い。

 俺はそんな陽射しに肌を焼かれつつ、とりあえず乾いた喉を潤そうと、自販機コーナーへと赴き、スポーツドリンクを購入した。プラスチックの蓋を開け、一気に半分ほどを飲み干す。

 喉を通る水の感覚と、不足したミネラルが身体に補充されていく充足感が、実に心地よかった。

「ふう……」

 とりあえず水分補給が出来たついでに、少し休憩しようと思い立った俺は、自販機コーナーの側にあるベンチに腰を下ろした。自然、周りの情景が頭に入ってくる。

 もう余命いくばくもないだろう蝉の声と同時に、表現科の物らしい楽器の音や、演劇の掛け声が耳に届いてきた。周囲を少し見渡してみると、暑さ対策なのだろう、窓が開け放たれた教室で、機械科や演算科の連中が工学機械を相手に四苦八苦していた。離れた場所にあるグラウンドでは、身体科の連中が、銃火器を用いた、特殊訓練と呼んで差し支えないレベルの鍛錬に励んでいる。

 SAGAにおいては日常的な光景だが、一般的な十代の少年少女が通う学校では、そうそう拝めない風景だろう。

 ──ここへ来て何年だったかな。

 すっかり見慣れた今となっては新鮮味もないものの、ここへ来たばかりのころは、不可思議な光景に逐一びくびくとなっていたのを思い出した。有体に言って、俺は少し感慨に耽っていたのだ。

「黄昏てるねぇ、青少年」

 背後から聞こえてきた、少しばかりからかいを含めた煽りに、俺は若干むっとしたまま、後ろを振り向いた。

 すると、そこには案の定、軽そうな顔をした、制服姿の少年が立っていた。

「黄昏るってのは、本来夕方の到来を示す言葉だぞ、草十郎。もしくは人生の終焉に近づいたような人間の比喩だ。母国語くらいは正しく使え。それとも、俺がじじいに見えるのか?」

「時折そんな感じもするがな、お前の場合」

 言って、そいつ──歌留多草十郎かるたそうじゅうろう──は、けたけたと笑った。

 草十郎は俺と同じく、SAGA高等部の普通科に在籍している生徒だ。頭は金色、制服はかなり着崩しており、少なくとも見た目においては俺と対極的な人種なのだが、妙に気が合うところがあった。

 変わり種が多い──というか、ほぼ変わり種しかいないSAGAにおいて、ある程度でも話が合う人間というのは貴重なので、何かと重宝しているのが実情である。

「何か用か?」

「用がなくても話が出来るのがトモダチってもんだよ、優作ちゃん」

「なら俺達はトモダチじゃないな。用があることを前提にしてる」

「連れないねぇ。そんな所もス・テ・キ」

「帰る」

「ちょ、待てっつーの」

 立ちあがった俺の服を、軽くつまんでくる草十郎。こいつとはそれなりに付き合いが長いのだが、未だにこの手の冗談には付き合い難い。

「冗談だってば。鬼垣ちゃんが呼んでるんだよ」

「委員長が? なんでまた」

「さー? 理由までは俺っちも知らないってばよ。でもま、高等部の普通科は皆来いって話だから、なんか企んでるんじゃね?」

「委員長の企みか……」

 あまりいい予感はしないものの、彼女は割合執念深い所がある。下手にブッチを決め込むと、後々後悔する可能性も高い。

「場所と時間は?」

「今日の昼休みに第二普通科目教室。もう教員にも話してて、その時間は完全に予約してるらしいぜい」

「うーん……」

 SAGAは学科を問わず、基本的に授業は単位制を採用しているため、時間割は個々人でかなり異なる。そして俺の場合、今日の昼休み以降は、何の授業も入っていない。

「行くかな、暇だし」

「さっすが優作、美少女の誘いは断らない! そこにシビあこ! 俺っちも行くぜい」

「いろいろ突っ込み所が満載だな……」

 そもそも美少女なのか? あいつは。

 まぁ、胸部が普通よりも大きいのは確かかもしれないが……。

「またむっつりっぽいこと考えてるっしょ、優作ちゃん」

「じゃかあしいわ」

 俺は、草十郎の脳天に軽く手刀を入れた。草十郎は真剣白刃取りの真似をして、見事に失敗していた。

Ouchいてえ

「You are already dead(お前は既に死んでいる)」

「Really!?(マジで!?)」

 例え英語を母国語とする人間がこの場にいたとしても、俺達が何を言っているのかはわからなかったかもしれない。俺達だって何も考えてないのだから。

 なにはともあれ、こうして俺達は、昼休みに第二普通科目教室に向かうことになった。


***


 ここ、特殊異常発達者学校、通称SAGA(正式名称はSpecial Abnormal Growed Academyだったかな)に集まっている生徒達は、そのほぼ全員が、ある一定の技能のみが異常発達した少年少女達だ。具体的には、論理的思考力や演算能力のみが強い人間、表現や芸術の分野のみに特化した人間、あるいは、身体機能が常人のそれとは比べ物にならない人間などである。

 彼らの能力は、一般的な同年代のそれとは比べ物にはならず、言ってしまえば、天才や超能力者に分類されるほどのものだ。いつの頃からかははっきりしていないが、この国ではそうした子供達が、ぽつぽつと生まれるようになっていた。

 それだけならば歓迎すべき事態だったかもしれない。だが、この現象には一つ、大きな問題があった。

 異常発達を持つ子供達は、精神に問題がある者が、非常に多かったのだ。

 コミュニケーションに支障があるタイプや、異常なほど周囲に攻撃的になるタイプ、あるいは生まれながらに幻覚や幻聴が激しいタイプなど、破綻の様相は様々だった。だが、そのいずれもが、社会に適用することが難しい状態にあった。

 科学的な原因は未だにはっきりしていない。脳の肥大を原因とする仮説程度ならあるが、そもそも、異常発達を持つ子供達がなぜ生まれてくるのか、それさえよくわかっていないのだ。その現象に付随する問題が解決するわけがない。

 そして、国を動かしているお偉方達は、そうした現状を鑑みて、ある提案をした。

「人格に問題があるような異常発達者は、一か所に集めて専門の教育を施そう。卒業後は専門の能力だけを使う仕事を与えればいい」

 身体が異常に強い者達は、銃火器を以て国を守る職務に、演算や機械いじりが異常に秀でている人間は、開発職や企業・国家の戦略を練る職務に就けばいい。

 冷徹なほど合理的な提案だった。しかし、反対する人間があまりいなかったため、この発案は割合すんなりと世に適用されることとなった。そうして出来たのがここ、SAGAなわけである。

 さて、そういう経緯で出来た学校だけに、国語や数学と言った、一般的なティーンエイジャーが通っている学校で行われるような授業は、SAGAではあまり行われていない。なので、俺達が今いるような普通科目用の教室は、空き教室となっていることが多かった。

 しかし、その教室には今、俺や草十郎を含めた何人かの生徒が集まっていた。教室を埋め尽くすほどの人数では決してないが、それでも高等部普通科の半数程度は揃っている印象を受ける。

 そして、教室の前方、本来なら教師が立っている位置にいるのは、眼鏡におさげ髪をした、妙に胸のでかい女子生徒だった。

 彼女は腰に手を当てた仁王立ちの状態で、セーラー服に包まれた胸を張り、教室中どころか、下手をすればグラウンドまで届くのではないかというほどの大きさで、声を張り上げていた。

「人数が少ない! 普通科全員集合って言ったのに! やる気あんのかあんたらああん!?」

 少女は眉毛を吊り上げながら──なぜそんなものを持っているのか知らないが──教鞭を、教室備え付けのホワイトボードに叩きつける。

 彼女の名前は鬼垣可憐おにがきかれん。我らがSAGA高等部普通科の、頼れる委員長である。

「いやいや鬼垣ちゃん、こんだけ集まってるだけでも奇跡っしょ。俺らの中でイベントだとか企画だとかに意気揚々と参加できる奴なんて、そういないわけだし。むしろよく集まった方だって」

 椅子に座り頬づえをついたまま、草十郎があくまで軽く鬼垣を嗜める。それを聞いて鬼垣は、眉毛を釣り上げて口をへの字にした。

「そりゃまーそうだけど、今回の企画を実現させるには、それなりに人数がいるのよ。これじゃかなりギリギリだわ」

「今回の企画って?」

 俺は軽く手を挙げてから、この場に集まっている誰もが疑問に思っているであろうことを、言葉にした。鬼垣はきらりと眼鏡を光らせ、再度胸を張って宣言した。

「よくぞ聞いてくれたわ、無為。聞いて驚け群衆ども! 今回の企画は、来月にある発表祭での出し物よ!」

「「「……発表祭?」」」

 その場にいたほとんどの人間が、すっとんきょうな声をハモらせた。単語には聞き覚えがあるが、その意味する所が、全くわからなかったからだ。

「発表祭って、身体科とか表現科のお披露目式でしょ?」「機械科もなんかすげーの作るよな、毎年」「偉い人とか来るんだよね」

 あちこちでざわめきが起こる。鬼垣が今言ったことは、それだけ突拍子もないことだったのだ。

「はい、シャラップ! それぞれ勝手にしゃべらない! 意見のある人は手を挙げるように!」

 ザ・仕切り屋発動の瞬間だった。鬼垣の一喝でとりあえずおしゃべりが止んだので、代表して俺が手を挙げて、再度疑問を投げかけた。

「なぁ委員長、俺ら普通科だぞ? 発表祭じゃ毎年裏方のはずだろ? 集まって計画するようなことなんか、とりたてて何もないと思うんだが」

「ふん、そんなだから普通科はニート科だなんて陰口叩かれるのよ。いい? 企画ってのは伝統があるからやるんじゃない、自分達の意志で一から組み立てるものなのよ!」

 拳を握りながら熱く語る委員長。言ってることは正しいかもしれないが、その熱さにやられて、正直俺達は少し引き気味だった。

「そんじゃさー」

 草十郎は空気も読まず、いつも通りに飄々と発言する。

「結局その発表会で、何しようっての? 鬼垣ちゃん」

「演劇よ!」

「「「……演劇?」」」

 再びハモる俺達。鬼垣は実によく俺達をまとめ上げていた。おそらく、本人の意図とは真逆の意味で。

「演劇って……表現科が毎年してるだろ? プロレベルの奴を」

「知ってるわよ」

「いや、知ってるわよって……」

「言いたいことはわかるわよ、無為。ならなんで普通科がそんなことをするのか、でしょ?」

「うん、まぁ」

「あたしは常々思っていた!」

 ビシィっ!

 鬼垣が、その手に持った教鞭でホワイトボードを叩く音が、再び教室中に木霊した。

 その様はさながら、俺達が生まれる以前に存在したと言う、熱血体育教師なるものを彷彿とさせた。

「身体科は各種スポーツや銃火器、あるいは戦闘行為のエキスパート。機械科や演算科は機械工学やコンピュータ関連ならなんでもござれの頭脳集団。そして表現科に至っては、史上稀に見るほどの天才作家の集まりと来た! 言うまでもなく、凄まじいレベルの実力者達だわよ! それらが彼らのパーソナリティにして、アイデンティティにも成っている! ならば我らが普通科は、一体何を以て存在意義を証明出来るのか!」

「む……」

 正直、語りがやや芝居ががっているのは少し鬱陶しいのだが、言わんとしていることは理解出来た。おそらく、この場に集まっている他の生徒達も同様だったことだろう。

 少し興奮し過ぎと思ったのだろう。鬼垣は少し呼吸を落ち着けてから、話を続けた。

「SAGAはこの世のサイハテよ。その中でもなお弱い立場にいるあたし達は、この世で最弱の存在と言っても過言じゃない。……けど、だからこそ!」

 鬼垣は、台詞の最後で再び声を張り上げた。この部分こそが、最も重要だと言わんばかりに。

「最弱だからこそできるものがある! それが演劇よ! 演劇は集団表現! あたし達の中には、それぞれ身体科や機械科に在籍してた人間だっている! それらの技能を活かせば、素人集団でも十分に面白いものは出来るのよ!

 あたし達が直列に繋がれば、表現科や他の学科の奴にだって負けないってことを、証明しようじゃないの!」

「……」

 共感できる部分が全く無い──というわけではない。

 SAGAの普通科というのは、成長過程で異常発達が弱まってしまい、それぞれの学科から移籍を命じられた生徒の集まる場所だ。そして、無理やりポジティブな表現をすれば、SAGAは極めて個性的な人間が集まる場所である。

 そんな場所で異常発達が弱まるということは、やや大げさかもしれないが、自分の個性、自己の有りようを否定されてしまうに等しい。場合によっては、蔑視の対象にすらなり得る。

 だからこそ、他の学科の連中や大人達を見返し、普通科もやれば出来るということを発表祭で証明しよう、というのが鬼垣の主張だ。少なくとも、そこまで筋が通っていない話ではないと思う。

 だが、しかし──俺は胸の奥の方で、わずかに引っかかりを覚える。

「いいんじゃね? たまにはそういう、ふつーの青春ドラマっぽいのもがあってもさ。皆はどーよ?」

 普段と変わらない、飄々とした態度のまま、草十郎が賛成の意を示した。

「うーん……」「やってみたい気もするけどなー、ちょっと微妙」「私、お姫様役ならやってみたいかも!」

 他の面々も、やや賛否両論ながらも、興味を引かれている様子だった。全体の雰囲気として、鬼垣の企画に乗る空気になりつつあった。

「無為、あんたは?」

 先程から反応を示していない俺に、鬼垣が聞いてきた。ざわめいていた教室が一瞬静まり、俺に注目が集まる。俺は肩をすくめて、敢えて冗談めいた言い方をした。

「ここで反対なんかすれば、悪者になっちゃうからな。俺も賛成に一票で」

「ひねくれた答え方だこと。そんじゃ、最終的に決を取ります! あたしの企画に反対の人ー?」

 わざわざ反対の方から聞くのも、十分にひねくれてると思うけどな──という本音は、胸にしまっておくことにした。

 そして、案の定と言うべきか、挙手をする人間は一人もいなかった。

「ようし、決まった! ああ、役割分担とかは後日決めるとして、脚本だけ先に配るからね」

「脚本? もう出来てんの?」

 草十郎が、やや驚きながら聞いた。確かに、発表祭で演劇をするということ自体、たった今決まったのだ。仕事が早いというよりも、若干独断先行気味にすら感じられる。

「元表現科をなめないで欲しいもんね。長年温めてるアイディアはいっぱいあるのよ。今回はその中で、割合短めで、かつ普通科のメンバーがやるのに適してるものをチョイスしたわ! とりあえず、明日ぐらいまでに目を通しておいてちょうだい!」

 鬼垣はそう言って、自分の鞄から、数枚のコピー用紙を束ねた物を何セットか取り出して、俺達に配って行った。

 そして俺は、脚本の表紙にある文章を読んで、思わず少し眉をひそめた。

「『へっぽこ勇者とさびしがり屋の魔女』……?」

「正直、タイトルにはセンスが感じられねーなぁ。小学生向けの絵本みたいだ」

「じゃかあしいわ! 単純なタイトルの方が万人受けだったりすんのよ!」

 俺と草十郎の指摘に、鬼垣は再度声と眉毛を張り上げる。どうでもいいが、年頃のオトメとして、大声を出すたびに揺れる胸元を少し気にした方がいいんじゃないだろうか。

「そんじゃとりあえず、今日の所は解散ね。明日からちょうど週末だし、明日の同じ時間にでもまたここに集まりましょ。じゃ、以上! また明日ね!」

「「「ういーす」」」

 鬼垣の言葉を合図に、普通科の面々はぞろぞろと教室を後にして行った。

 俺も彼らの後を追おうと、とりあえず渡された脚本を鞄の中に入れていると、鞄を置いている机に影が落ちた。顔を上げると、少し神妙そうな表情をした鬼垣が立っていた。

「どした? 委員長」

「あのさ、一つお願いしてもいい? いや、どうしても無理って言うなら、別にいいんだけど」

「?」

 鬼垣は先程までとは打って変わって、まるで告白する寸前の乙女のように、もじもじとしていた。普通の女子なら可愛い様子なのだろうけど、鬼垣が恥じらっている様子は、その、何と言うか──どこか鬼気迫るものがあった。

「煮え切らない言い方だな、なんだよ」

「その……灯さんにも、お願いできないかな。今回の演劇に、出てもらうの。役柄的に、彼女が最適だと思うのがあるのよ」

「──」

 ……なるほど。確かにそういう話なら、俺を通すのがベストだろう。と言うよりも、俺を通す以外に方法はないとすら言える。あの引きこもり娘が、俺以外の人間とコミュニケーションを取ることなど、まずあり得ないのだから。

 しかし──合点が行くと同時に、俺はわずかに不愉快を覚えた。

 鬼垣にそこまで非があるわけではないのだし、逐一顔に出したりもしない。しかしそれは、先程演劇を行うことを決定した時と同じく、棘のように心の奥に刺さった。

 そして俺は、そうした内情を表に出さないよう留意したまま、きっぱりと断りを入れた。

「無理だろうな。あいつは外に出ないよ」

「……やっぱり、相変わらずなの?」

「相変わらずなの、だ。まぁ話だけならしてみるけど、答えが変わることはまずないと思うぞ。他に、その役を出来そうな人間を見繕う方がいいと思う」

「そっか……わかった。引きとめてごめん」

「いいよ、どうせ暇なんだから。じゃ、また明日」 

 俺は鞄を背負い、軽く手を振って教室を出ようとした。しかし、そこに声がかかる。

「ねぇ」

「ん?」

 振り向くと、真剣な顔をした鬼垣がいた。先程よりも、少し思いつめたような表情だった。

「無為は、なんで灯さんといっしょに居るの?」

「……」

 突然投げかけられた質問に、わずかに戸惑いを覚える。しかし、やはりそれを顔に出したりはしない。そんなことをするように、俺は出来ていない。

 なんでいっしょに居るの。その言葉はたぶん、なぜ同じ部屋で暮らしているか、ということだけを意味しているのではないだろう。

 灯も名目上は、SAGA高等部の普通科に所属している生徒だ。だから鬼垣は、そんな灯や灯の性格、そして性質を、ある程度でも知っているはずだ。そして、灯がどういう存在なのかということも、SAGAの生徒である以上、やはり噂程度は聞いているはずである。

 彼女は今、それらの知識を統合した上で聞いているのだ。なぜ、そんな彼女といっしょに居るのか、と。

「さぁ……あいつと一緒にいられるのが俺だけだから、かな?」

 俺は再度、少し肩をすくめ、敢えて茶化すような語感を言葉に付与した。決して、奥まで覗きこまれないように。踏み込まれないように。

「まぁ、奨学金の返却も免除されるし、いろいろ特権も付与されるしな。あいつのルームメイトに選ばれた時、断る理由もなかったよ。なんでそんなことを?」

「……ううん、大した理由はないの。ただ、少し気になっただけ」

 鬼垣は俺の説明を聞いて、少し目を悲しげに伏せた。それはたぶん、責任感であり、委員長としての性なのだろう。

 灯は、異常発達者を集めたSAGAの中ですら、極めて特異な存在だ。そして彼女を囲うのは、いつだって大人達のエゴだ。

 無為優作という人間が、自分がリーダーを務める組織の一員が、そうしたエゴの一番の犠牲になっているのではないか。鬼垣は今──おそらくではあるが──自分でも自覚出来ないままに、そんな心配を、疑念に昇華させたのだろう。

 全く──不要な心配ここに極まれり、だ。

「引きとめてごめん。じゃあ、また明日ね」

「ああ、またな」

 そう言って、俺達は今度こそ別れた。鬼垣の言う通り、また明日の同じ時間に会うだろう。鬼垣とも草十郎とも他の面々とも、その時にその時すべき会話をするのだろう。特に感慨がわくような事でもない。

 『明日は明日の風が吹く』と言う言葉がある。考えたのが誰なのか俺は知らないし、ポジティブな言葉だから大衆には好まれるだろう、という程度の感想しか持ち合わせていない。

 けれど──明日になろうと明後日になろうと、どれだけの時間が経とうとも、微動だにしないものもあるんじゃないか、とは思う。

 また反吐が出るような事が始まったという、そんな感想しか生まれてこなかった、俺の心のように。


***

 

 草十郎との会話で確認したように、午後は特に用事もなかったので、学食で昼食を摂り、敷地内にあるコンビニで週刊漫画雑誌をいくつか立ち読みしてから、俺はまっすぐに寮へと戻った。

 寮に戻ったところで別段やることがあるわけではなかったが、灯の相手をするか本でも読んでいれば、すぐに今日という日も終わるだろうという腹だった。

 SAGA敷地内に設置された、十階建の学生寮。その最上階に、俺と灯の部屋はあった。

 これだけの高層建築の最上階に部屋を借りられて、しかも家賃が無料だと言うのだから、実に贅沢な話ではある。けれど、これも灯と、そして俺に与えられた特権の一つであり、同時にここに住む条件の一つでもあるのだ。つまり、大人達の都合による産物でもあるわけなので、別に遠慮する理由はない。

 俺はいつも通り、エレベーターで最上階にまで移動した後、慣れた足取りでフロアを歩き、我が家に向かった。道中で誰かとすれ違うこともなかった。

 自分の部屋の前に辿りつくと、半ば反射的に鞄から鍵を出し、ドアに差し込んだ。ガチャリ、という変わり映えしない音がその場に響き、重厚なドアの鍵が開いた。ドアノブを掴み、一気に押し込む。

「……ただいま」

 俺は声を顰めた状態で、ひっそりと帰宅を告げる。灯を起こしてしまわないためだ。

 あいつは昼夜逆転どころか、まるですごろくでもして、停まったマスに書いてある時間に寝ていますとでも言うように、凄まじく不規則な寝方をしている。その寝方は、ルームシェアを始めて数年になる俺にも全く読めない。故に、今寝ていないという保証も確証もない。そしてもし寝ているなら、起こして不機嫌にさせるのは避けた方が無難というものなのだ。

「灯、起きてるか?」

 再度小声で囁く。返事がないので、やはり寝ているのだろうと当たりを付け、足音を立てないように廊下を歩こうとした。しかし、その瞬間。

 カタン。

 小さな金属音が、玄関の方から響いて来た。

「ん?」

 振り返って見てみると、ドアに取りつけられた郵便受けが、こちら側に倒れ込んでいた。誰か──おそらく宅配業者だろう──が、郵便物が入れて行った証拠だ。

「なんだろ」

 ここしばらく、俺はネットで何かを買った覚えはないし、学校側からの書類などなら、郵便という手段など使わないはずだ。となれば、灯が何かネットで買い物をした、と考えるのが妥当だろうか。

 とりあえず、郵便受けを開いて中身を確認する。するとそこには、予想外の物が収まっていた。

「……なんだこりゃ?」

 こんなものを灯が注文しているとは、正直意外だった。しかし、いざ現物を目の前にしてみれば、なるほどという気持ちにもなる。灯がもしゲームプレイ以外に趣味を持ち始めたなら、ここに行きつくのは当然かもしれない。

 そして、同時に思い至る。灯にしてみれば、この事は秘密なわけであり、俺に開封されたと知られれば、不機嫌になるかもしれない。

「然らば……」

 俺は、ブツを極力開封されていない状態に戻し、再び郵便受けの中に入れた。灯は目的の物が目の前に来ると、細かい事は脳内からデリートされてしまうタイプなので、これである程度は誤魔化せるだろう。

 そして俺は、何事もなかったかのように短い廊下を歩き、居室へと向かった。部屋の入り口である引き戸を開け、中に入る。

 引き戸を開けると、圧倒的なまでのゲームの山が、視界全体に広がって来た。

 まず、前世紀に発売された、骨董的価値すらあるような古いコンシューマーゲーム機に始まり、メーカーも国外国内も問わない、ありとあらゆるゲーム機が、部屋の壁一面を覆う棚に並べられていた。その横では、音ゲーやガンゲーなどの専用コントローラーと、メモリーカードなどの外部記録媒体が、数知れず積み上がっていた。部屋の隅では、灯自身がオンラインゲーム専用として組み立てた、市販の中では最強レベルのスペックを誇るデスクトップPCが、机の上にそびえ立っている。そして止めに、フローリングを埋め尽くすほどの量のソフトの山が、床に散乱していた。

 かろうじてスペースがあるのは、棚と逆側の壁に沿う形で置かれた二段ベッドと、液晶テレビの前の座布団くらいだろうか。部屋のどこに視線を向けても、必ずゲーム及びゲームの関連グッズが視界を埋め尽くす。見慣れた空間ではあっても、この空間の余りの異様さには、それでも眉をひそめざるを得ない。

 と、その瞬間だった。

「あ、無為。おかえり」

 改めて自分の住居を見渡していると、後ろから唐突に声を投げかけられた。俺は反射的に振り向く。

「灯、お前……」

 おそらく、部屋に備え付けのシャワーでも浴びていたのだろう。振り返った先では、汗を全身から噴出させた、やや蒸気した様子の灯が、辛うじて床が見える部分に足を置いて、立っていた。

 俺はその様子に──今日何度目だろう──少しだけ、眉をひそめた。

「? どしたん? 鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔してさ。あ、お風呂、今焚いたばっかだよ。無為も入ったら?」

「それはいいんだが──あのな、灯」

「うん?」

「せめて、下着くらい着てから出て来い」

 灯は、完全にすっぽんぽんだった。一糸まとわぬ、という表現がよく当てはまる。

 胸部も局部も一切隠す素振りすら見せず、手に持ったバスタオルで、悠長に濡れた髪を拭き続けている。

「別にいーじゃん。暑いし」

「エチケットってもんがあるだろうが」

「難しいニポンゴわかんないねー」

 そう言いながら灯は、40インチはあるだろう、ゲーム専用となっている液晶テレビの前に、全裸のままで陣取った。バスタオルはベッドの上に放り投げ、テレビに接続されている据え置きのゲーム機を始動させる。起動準備中に、ゲームソフトのパッケージの間を縫うように置かれた自分の下着を手に取り、俺に対して微塵も遠慮することなく、股に通して行く。

「優作、相手してよ」

「またこないだの格ゲーか?」

「別にそれでもいいけど、無為の好きなのでいいよ? どれでも負けないしね~」

「抜かせ」

 俺は灯に促されるまま隣に腰掛け、コントローラーを握った。その間に灯は、胸部用の下着を付けようと、背をのけ反らせて、手を後ろに回していた。自然、小さめの胸部が強調される形になる。蒸気した肌を滴る汗が、胸の谷間に流れ落ちて行くのが見えた。

「……」

「ん? 何よ、触りたいの?」

「いや、別に」

「へ、ちきんやろーめ」

「ほざけよ」

 そうして俺達は、まるで何事も無かったかのように、ゲームをスタートさせた。いつも通りの光景が──異様な日常が、また今日も繰り返されたのだ。


***


 灯は、自分の女の部分を俺に一切隠そうとしない。俺もまた、そんな灯に情欲を覚えることはない。

 それは、俺達が長年連れ添った恋人同士で、今更隠すものなど何もないから──というわけでは、もちろんない。

 これこそ、俺が灯のルームメイト兼監視役として選ばれた根拠であり、同時に灯の側に居続けられる最大の理由でもある。

 俺は──無為優作という人間は、恋愛感情も性欲も持っていない。俗に、無性愛者などと呼ばれる概念。それこそが、俺の内面を言い当てる。

 断わっておくが、無性愛者は同性愛者とは大きく違う。ゲイでもレズでもバイセクシャルでもノンケでもなく、純粋に恋愛感情と性欲が存在しないのだ。

 他者に対して、性という物を感じることがない──否、出来ない人間。それが俺なのだ。

 つまりは、人間として以前の、一生物としての欠陥品。転じてそれは、他人への無関心が極まった人間ということでもある。

 大人達は、灯の持つ性質は、極めて慎重な扱いをしなくてはならない物だと考えた。

 彼女は一人きりにしてはならず、かといって過度に交渉することも危険である。そう判断した彼らは、彼女の側に置くに適した人材を求めた。そして白羽の矢が立ったのが、この俺だったのだ。

 他人に関心も興味も持たず、性欲や恋愛感情すら持たず、ただそこにあるものとして扱う人間。灯の側に置いておく存在としては、俺のような欠陥品こそが適任なのだと、そんな結論に辿りついたわけだ。そしてその結論は、間違っていなかったと言えるだろう。

「うっし、また私の勝ちー! これで十連勝!」

「やれやれ……お前、やり込み過ぎだろ。もうこりゃチートのレベルだ」

「キャンセルもまともに出来ない奴に、そんなこと言う資格はねーっちゅうに。あれ出来ないと、コンボ全然繋がらないし」

 そんな他愛ない会話をしながら、俺はストーリーモードに戻ったゲームに、もう一度乱入をして、再度対戦をスタートさせた。ゲーム中の灯はとても楽しそうだし、俺も退屈を感じなくて済むので、悪くない時間の過ごし方だと思う。

 同居を始めた最初の頃こそ、灯は俺を強く警戒していた。ひどく怯えてもいたし、攻撃的になることも多かった。

 しかし、生活を共にしてしばらく時間が経つと、俺が灯に害意──というよりも関心や興味自体──がないことがわかったらしく、徐々に警戒色は消えて行った。

 そうなると、特に会話らしい会話もなかったが、遠慮や気遣い、あるいは恐怖や警戒というものもまた、存在しなくなった。そこは俺に取っても、灯に取っても悪くない場所だったと思う。

 俺が灯の裸を見ても何のリアクションも取らないこと、そしてゲームの対戦相手になることを知ると、灯はさらに警戒を解いて行った。今ではこの部屋は、ただお互いが好き勝手に振る舞うことが出来る、とても気楽なものになっていた。

 これだけリラックスが出来る環境下なら、灯はその性質を発揮させることはない。大人達の目論見が、見事にはまったわけだ。

「ああ、灯さ」

「んー?」

 そこまで思い出した所で、俺は今日あったことを一応灯に伝えておこうと考えた。正直気は進まないままだったが、鬼垣にああ言った以上、最低限の筋は通しておこうと思ったのだ。

「演劇に出る気はあるか?」

「……なにそれ?」

 灯は、コントローラーを弄る手は緩めないまま、わずかに不機嫌な声を出した。予想内の反応ではある。しかし、話の流れとして、ここで会話を終わらすわけにはいかない。

「普通科で、発表祭に出し物をしようって話になったんだ。で、芝居をやるらしいんだけど、脚本を書いた委員長が言うには、灯にぴったりの役があるんだってさ」

「ふーん……それ、無為は出て欲しいの? 私に」

 灯はやはりゲームの手を緩めはしないし、俺もゲーム画面に集中しているので、彼女の顔は見えない。しかし、目を細めて睨みを利かせていることは、想像に難くなかった。

 これは──確認を、しているんだよな。

 無為優作という自分のルームメイトは、自分とそれなりに長い時間を過ごした人間は、そんな非道いことを言いだす人間だったのか、と。

「いいや、頼まれたから一応聞いただけ。灯の答えはわかってるつもりだし、無理強いするつもりなんて一切ないよ」

「そっか、よかった。じゃ、適当に答えといてよ」

「おう」

 これで、この会話は終わった。もう灯から険のある雰囲気は伝わって来ないし、俺ももう聞くことがない。これ以上の意思疎通は必要ないと、双方が理解したわけだ。

 俺が灯と同居する理由は、先程のもの以外にもいくつかある。これもまた、その一つだ。

 灯もまた、俺と同種の人間なのだ。あるいは、避け方という点に関して言えば、俺以上でさえあるかもしれない。

 集団表現、チームワーク、友愛、クラスの団結、青春ドラマ、エトセトラエトセトラ。

 全て大いに結構だ。美しくさえあるだろうし、付き合えばそれなりに楽しくもあるだろう。

 けれど、線は確実に引く。これ以上踏み越えさせないという、絶対の境界線を、予めきっかりと描いておく。

 でなければ、結果は目に見えているからだ。

 うんざりするほどに繰り返されたもの。人格はもちろん、生きる意味すらも否定される地獄。痛いと感じることさえ億劫になるほどの、圧倒的なまでの苦痛。

 俺も灯も、その被害に遭い続けた人間だ。だから、俺達はお互いにわかっている。言葉に出すまでもなく、これが共通の認識であると、理解出来ているのだ。

 誰が、あんな想いを再び味わうことを、望むものか。



 少女が住んでいた村の人々は、最後には少女を迫害するようになっていった。

 村人達はただ、恐怖していた。村人達に取って、得体の知れない力を持った少女は、例え少女自身が平和を望んでいたとしても、いつ自分達の生活を壊すかわからない、爆弾のような存在だった。

 “魔女は俺達の村から出て行け!”

 怖れから生じる叫びは、紛いようもない本音だった。少女は、声高に叫ばれる、自身を拒絶する声を聞いて、ただただ涙した。

 自分が一体何をしたのか。ただ生まれながらに人と違うものを持っていただけなのに、なぜこんな苦しい目に遭わなければならないのか。

 そんな少女の嘆きを聞いてくれる人間すら、少女の周りには一人もいなかった。

 

 そして少女は、自ら村を捨て、近くにあった深い森の中でたった一人、ひっそりと暮らし始めた。



***


「ちっがーう! そこは大臣の悪意が一番出るとこなのよ! もっともっとあくどい顔で!」

「こ、こうか?」

「それじゃ職場と家庭の両方に居場所がなくて自分の人生に嫌気が差した挙句、居酒屋で飲んだくれた帰り道に道端でやたらにこっちを吼えて来る野良犬蹴飛ばして、一時の快感を得た直後に罪悪感に苛まれて犬に謝り倒す、苦労人サラリーマン程度の悪人顔よ! もっともっと強く悪を出して!」

 なんだその妙に具体的な例えは。というかそれ、結局悪人じゃなくないか?

 と、メガホン片手に演技指導に精を出す鬼垣に、俺は心の中で突っ込みを入れた。

「燃えてるねー、鬼垣ちゃん」

「摂氏6000度って感じだな」

「うっわすげ、太陽レベルじゃん」

「よく知ってたな……」

 草十郎の意外な博識っぷりに、俺は驚きを隠しきれない。

 現在俺と草十郎は、Tシャツにジャージというラフな格好で、練習場となっている教室の端っこに、二人揃って座り込んでいた。今現在は、俺達の役が出演しないシーンを練習中であるためだ。

「まーでも、なんだかんだで形にはなってきてんじゃん?」

「うーん……」

 先週末に脚本を配られた翌日、簡単な打ち合わせが行われ、そこで配役や全体のスケジュールが決定した。ほとんど鬼垣の独断のような状態ではあったものの、異議を申し立てる奴──というか、そんな度胸と根性のある奴──はいなかったため、会議自体はすんなりと進行した。

 もっとも、委員長魂とでも表現すべきか、鬼垣の立てたスケジュール自体、各人の予定への考慮はもちろん、練習の進行具合や疲労の程度の予想すらも組み込まれた、とても優れていたものだったので、文句を言う余地がなかったのも確かだが。

 とにかくそうして、日曜日を挟んで月曜日、つまり本日から、本格的な練習が開始されたわけだ。

 練習自体はスケジュールに則って、順調に進んでいった。ただ──気掛かりと言うべきか、少し引っかかるものがあった。

「おっしゃあ! 次、シーン4行くわよ! 無為、用意して!」

「ういーっす」

 俺は鬼垣の言葉を合図に、小道具である木刀を持って立ちあがり、簡易的な舞台となっている教室前方に向かった。この場面で俺と共演する面々もまた、各々の小道具を持ち、集合しようしていた。

「ほら、しゃきしゃき動く!」

「「「へーい……」」」

 鬼垣の激励に対して、他の面々の声はやや活力が感じられない。これが、俺の気掛かりの正体である。

 つまり──俺や草十郎を含めたメンバー全員に言えることだが──少しばかり、覇気が足りないように思えるのだ。

 冷静に考えてみれば、元々大なり小なり社会性に問題を抱えている生徒達ばかりなのだ。唐突に集団表現をやりましょうと言われて、活気に溢れる方がおかしいのかもしれない。

 鬼垣は、やややり過ぎだったり、少しずれている感があるものの、それでもチームを引っ張って行くカリスマを有していた。だからこそ、練習はなんとか滞りなく進んでいるのだが──それでもこのやる気のなさは、練習過程のどこかで、致命傷になるような気がした。

 まぁ──俺個人に取っては、そこまで重要な問題でもないのだが。

「おーっし、じゃあへっぽこ勇者が剣の練習をしてるとこから、行ってみよう!」

 そうして、鬼垣監督の合図で、再度練習が開始されようとしていた、その時だった。

 ガラッ。

 教室前方、つまり簡易版舞台の横にあるドアが、勢いよく開いた。

「やぁやぁ、やってるね、若人諸君」

 男性にしては高めで、草十郎の物とは質が違う軽さを持った声が、教室に響いた。

「先生、今練習の真っ最中です! お静かに! っていうか邪魔だからそこどいて!」

「ああ、ごめん。じゃ、きりのいい所まで待ってるよ」

 鬼垣の喝に若干縮こまり、教室の中腹辺りの壁にもたれかかったのは、二十代半ばから後半程度の、スーツの上に白衣を着た男だった。

 彼の名前は幾田千夜いくたせんや。通称はイクセンだ。SAGA高等部で国語を教えている教師であり、同時に高等部普通科の担任を受け持っている人間でもある。

 イクセンは、この企画に対して一応責任者ということになっているのだが、持ち前の軽い性格のためなのか、基本的に放任主義を決め込んでいた。(鬼垣が企画書やスケジュール表を持って行った際も、「うん、いいんじゃない?」の一言のみで済ませたほどだ。)

 なので、いくら初日とは言え、この場に現れたことで、俺は少しばかり驚きを隠しきれないでいた。

「無為、もっと声張り上げて! それじゃ観客に聞こえない! 如何にあんたがへっぽこか示さなきゃだめよ!」

「へっぽこ言うなや!」

 鬼垣の指摘に、俺は思考も忘れて、ついでに普段の柄も忘れて、反射的に突っ込みを入れてしまった。あくまで俺が演じる勇者がへっぽこなだけで、別に俺自身がへっぽこなわけではないのだ。……たぶんだけれども。

 話が逸れたので修正しよう。イクセンは顎に手を当てて、ただでさえ細い目をさらに細めて、俺達の練習風景をじっと眺めていた。正直、何しに来たんだこいつ、という感想しかわかない。

 なんだろう、遥か昔に過ぎ去った、自身の学生時代でも思い出しているのだろうか──なんて、少しばかり失礼なことを考えている間に、一つのシーンの練習が終わった。

「OK、そこまで! 今日の練習ノルマは大体クリアね。ここまでにしましょう!」

 鬼垣の言葉を合図にするかのように、俺達は一斉に息を吐き出しだ。休憩を挟みつつとは言え、授業が一通り終わる時間から日が沈むまで、つまり数時間程度は練習に費やしたのだ。心身ともに、疲労困憊にならない方がおかしい。

「はーい集合!」

 そう言いながら、鬼垣は手を叩いた。俺達はその音に応じるように、教室前方、鬼垣の周辺に集まった。どうでもいいが、こいつは役者以上に声を張り上げていたはずなのに、なんでこんなに元気なんだろうか。

「皆お疲れさま! 初日にしては、だいぶいい感じになってたわ! 練習ノルマも問題ないし、これなら十分本番には間に合うはずよ! ただ、ちょっと声が出てないのが気になったから、明日からはそこに気を付けてね! じゃ、また明日の同じ時間にここに集合! 以上、解散!」

「「「おつかれっしたー……」」」

 やはりやや覇気のない掛け声を最後に、今日の練習は終了となった。

 メンバーはそれぞれ「疲れたー」だとか「しんどー」だとか、疲労具合を示す言葉を囁きながら、教室を後にしていった。俺もその流れに乗ろうとしたのだが、肩を叩く感触と、それと同時に掛けられた声が、邪魔をした。

「ちょいとストップ。この後時間あるかな、無為?」

 振り返ると、やたらに細い目で作った、やたら裏のありそうな笑みが、俺の目の前にあった。

 俺はこの段になってようやく、イクセンが何をしにこの教室に来たのか理解出来た。同時に、辟易もした。

「同居人が腹をすかしてるんで、早く帰らないとやばいんす」

「OK.なら大丈夫だね。なに、そう長丁場になることはないよ」

 灯と俺の担任であるイクセンは、俺達の生活状況を熟知している。俺達の部屋にカップラーメンなどの、保存の効く食糧が多数あることも含めて、である。

 この程度の言い訳が通じないことは理解していたのだが、この用件はいつもかったるいので、ダメ元でさぼろうとしたわけだ。

「……了解です。腹減ってるんで、飯食いながらでいいですか?」

「もちろん。男二人でディナーと洒落こもうじゃないか。一品くらいならおごっても構わないよ?」

 原価ぎりぎりの値段が基本の学食で、たった一品だけかよ、っていうか男二人でって少し嫌過ぎないかそれ──と、突っ込み所が満載だったが、正直な所、さっさと終わらせて帰りたかったので、黙っておいた。


***


 SAGAの学食は、基本的に前払い制だ。カウンターで自分の食べたいものを注文し、出された品物をトレイに乗せ、最後にレジで決済を済ませる。後は自由な席に座って、食事開始となるシステムだ。

 俺は、学食内では比較的高い部類に入る豚塩カルビ丼(どうせなのでLサイズにした)と、サラダバーで適当に取ってきた野菜とをトレイに置き、レジに運んだ。イクセンにカルビ丼の料金だけ払ってもらい(本人はナポリタンとコーヒーを取って来ていた)、適当に空いていた席に腰掛ける。イクセンは、俺の向かい側の席に座った。

「さて──用件はわかってると思うけれど、灯君のことだよ。最近はどうだい? 何か、変わったことはないかな?」

 イクセンが、幾分か真剣味のある声を出して、そう聞いてきた。真剣な人間には、真摯な答えを返すのが礼儀というものだろう。俺もまた、真剣な表情で、真摯な声を出した。

「んぐ……いや……ぐ……特には……」

「OK、とりあえず口の中の物を飲み込もう。別に焦りはしないよ」

 イクセンがわずかに頬をひきつらせ始めたのを見て、俺は咀嚼を終わらせ、コップに注いでおいた水で、口の中に放り込んでいたカルビ丼と野菜とを、一気に飲み干した。

 別に喧嘩を売るつもりはなかったのだが、まぁ、大人が困っている様子を見るのがやや愉しくはあったので、つい。

「別に、特に変わった様子はないですよ。いつも通り、ゲーム三昧です」

「そうか……なら問題はないけど、報告書はきちんと出してくれよ。催促の声がうるさくて敵わない」

「『いつも通りです、問題ありません』ってな文章を逐一提出することに、あんまり意味を感じないんすけどね」

「個人的には賛同するけどね、そういう面倒くさいことをしてもらわないと困る人間も、世の中には結構いるんだよ」

「……」

 てめぇらの都合なんか知ったこっちゃねぇんだよ──という本音は、口に出してしまうと後々面倒なことになると思ったので、黙っておいた。代わりに、食べやすいサイズに切られたトマトを箸でつまみ、口に放り込む。

「灯君の力は、年々増強の傾向にあるんだよ。君の報告書は、その事実に基づいて提出が義務付けられているのさ。要するにお偉方は、彼女の成長具合が知りたいわけだ」

 イクセンは、組んだ両手の上に顎を乗せた状態で、切り出した。

「……なんでそんなことがわかるんです? あいつの力が発揮された例なんて、せいぜい数回っしょ? ここしばらくは発動もしてないはずだし、増強も何もないんじゃ?」

「異常発達者の数もまた、ずっと増加の傾向にある。これは知ってるだろ?」

「そりゃ、まぁ。でも、っていうか、だから、それがなんで灯の力と関係が──」

「灯君の力が行使された、数回のうちの一つ。それによって、異常発達者が世の中に生まれ始めたからだよ。こっちは知らなかったろ?」

「──へぇ?」

 正直なところを言えば、この時俺は、息を呑みたかった。純粋に、予想外の事実だった。

 しかし、自分の強い感情の動きを、他者、特に大人に知られるのは嫌だったので、必死になって自分の感情を噛み殺し、ただわずかな驚愕だけを返した。

「確かに初耳ですね、それは。けど、そんなことまであいつに出来るもんなんですか? ただの超能力者なんでしょ? あいつ」

「超能力なんて荒唐無稽なものに、“ただの”もへったくれもないと思うけどね」

 言いながら、イクセンはコーヒーカップを手に取り、口に付けた。カップをソーサーに戻すと、眼鏡の奥の細い目をわずかに開いて、話を続けた。

「以前にも話したと思うけど、彼女には宇宙の物理法則を捻じ曲げる力がある。ただし、彼女の意図──というよりも、意識の外側でそれは起動する」

「無意識下に押し込められているストレスが原因、でしたっけ?」

 俺は、相変わらず、どこかで読んだラノベか漫画みたいな話だよな──と思いつつも、本筋から離れてしまうので口には出さず、イクセンの話の先を促した。

「それが現在一番有力な仮説、というだけだけどね。とにかく、彼女の無意識は、あらゆる法則を捻じ曲げ、本来あり得ない力を出現させる──有体に言ってしまえば、“魔法”を起動させられる。そのうちの一つとして、彼女は世界中に、異常発達者を生み出したんだ」

 宇宙の物理法則を捻じ曲げる。余りにも荒唐無稽な話ではあるが、事実だ。だからこそ大人達は、灯の、そして俺の待遇を用意している。

 俺は、どうやって大人達がそこに気付いたかまでは知らない。けれど、その事実がとてつもなく危険な状態に結びつくということは、きちんと理解している。

 例えば、重力定数というものがある。簡単に言えば、万物が持っているお互いに引きつけ合う力を、物理学的考察を基に数値化したものだ。大雑把に考えると、これが一定の値だから月は地球の周囲を公転しているし、星々は今の位置関係を保っていられる。

 だが、この値がわずかにでも変わってしまうと、誇張ではなく、全宇宙レベルで異常が起こる。星の位置関係が崩れ、星同士が離れてしまったり、衝突してしまったりすることも考えられる。

 大げさではなく、地球どころか何千光年何万光年も離れた全銀河において、宇宙の均衡が崩れるのだ。そうなってしまえば、人類滅亡どころではない。世界の終わりとすら言えるだろう。

 重力定数は、あくまで一例に過ぎない。灯が持っている力は、その他にも似たようなレベルで、様々なカタストロフィを起こし得る──それが、数年前に俺がイクセンから聞いた説明だった。

 だが──

「わかりませんね。なんでそこで異常発達者が関係してくるんです?」

 俺がそう言うと、イクセンはややオーバーリアクション気味に肩を竦めて、苦笑いの表情を顔に浮かべた。

「さぁて……話が矛盾するようだけど、灯君の力も異常発達者についても、結局の所仮説に仮説を乗っけているような状態だからね。さっきはああ言ったけど、確実に言えることは余りないんだよ、実は。ただ──とりあえずお偉方が考えてることに、僕の所見を加えた説明なら出来るけど、聞くかい?」

 ここまで来て、聞くかい? はないだろうに。

「伺いましょう」

「彼女は、復讐がしたかったんだろうね」

 復讐。その言葉は、嫌でも自分の過去を想起させた。

 全身が総毛立つ。こめかみの血管が浮かび上がる感覚があった。怒りと屈辱が、身体の中をめぐって行く気がした。

「彼女の成育歴は知ってるだろう?」

「……ええ」

 俺と似たようなものですから、よく覚えてますよ──と言う本音は、やはり口に出さない。表情にも出さない。

 弱みを、他人には見せられない。

「客観的に見ても、彼女の育った家や環境は非常に凄惨なものだった。それはイコール、彼女は凄まじいストレスを感じ続けたということだよ。そして、彼女はそのストレス、つまりは苦痛や悲しみを共有できる人間も、訴える手段も持っていなかった」

「……それが、異常発達者に繋がった?」

 イクセンは、こくんと頷いた。黒ぶち眼鏡の先の瞳は、真剣なものだった。ここに来て、茶化すような真似はしない。俺自身、そんな気分ではない。

「彼女は、仲間が欲しかったんだろうね。自分と同じような苦しみを抱えている人間達に、自分の悲しみを理解して欲しかったんだろう。同時に、彼らには、自分が持っていない、理不尽を強いて来る悪魔達と、戦えるだけの力を渡したかった」

「……」

 なんとなくではあるが、イクセンの言いたいことが分かって来た。

 SAGAの生徒達は、誰もが異常発達を抱えている人間だ。そして彼らは、心を病んでいる人間、そして他者に対して心を閉ざしている人間が、非常に多い。

 もし、その順番が逆だったとしたら。

 異常発達者達が心を病んでしまうのではなく、心を病んだり、心を閉ざさざるを得ない状況下に長い時間置かれた子供が、異常発達を持つようになるのだとしたら。

「明確な時期ははっきりしないが、おそらくは幼少期から思春期までの間に、彼女は力を行使した。もちろん、彼女自身は認識しないままにね。結果、当時彼女と同世代だった子供達や、そや上の年代の少年少女達、そしてその後に生まれて来た赤ん坊達には、異常発達という、歪な力が与えられた。それが、僕や関係者が動く、基盤となっている理論だよ」

「……なるほど、ね」

 合点は行った。納得も行った。俺も灯も、そしてSAGAに集まっている誰もが、少なくとも一度は理不尽に晒され、そして願ったのだ。

 こんな糞みたいな世の中は、ぶっ壊れちまえ──と。

 灯は、そんな俺達に、その願いを叶える可能性を、プレゼントしてくれたわけだ。

 この力を使って、悪い奴らをやっつけましょうと言う、彼女自身の願いを込めて。

「話が少し逸れてしまったね。済まない、戻そう。とにかく、そうして生まれた異常発達者は、今もなお増え続けている。しかも、年齢別にみれば、最近になるほどその数は増えている。これはつまり、彼女の力が恒常的に働いているものであり、そして今は増強の傾向にある──と、こうした推測が成り立つわけだよ」

「それで──先生は、俺にどうしろと?」

「イクセンで構わないよ。その方が親しみがあってむしろ嬉しいくらいさ。まぁ、どうしろということはないよ。今日は、報告書の催促が主な用事ではあったんだけど、それは体裁を取り繕うための、言ってみれば建前でね。本当は、現状を知っておいて欲しかっただけさ。彼女の側にいられるのは、結局のところ無為だけだからね」

「……なるほど」

 今度は、俺の方が目を細める番だった。

 お偉方やイクセンに取って俺は、相も変わらず、『灯の側に置いておくのに都合のいい人間』なのだ。だから俺は灯の側にいる。それが許されている。

 以前にも言ったことを繰り返そう。俺は他者に興味や関心がないし、正直どうでもいいとすら思う。それは、灯ですら例外ではない。

 極端な言い方をすれば、灯が俺の目の前で惨たらしく殺されたとしても、眉一つ動かさないに違いないと思っている。

 だから、今日のイクセンの話を聞いたからと言って、別段灯に同情を覚えたりはしない。しないはずだ。

 けれど──それでも俺は、イクセンの話を一通り聞き終わると、わずかに腹を立てていた。

「僕達がむかつくのかな?」

「──」

 イクセンが、わずかに一瞥しただけで、見事に俺の腹の中を言い当てた。ほとんど顔に出さないように細心の注意を払っていたはずなのに、だ。

「ま──無理もないね。僕らが──僕を含めた大人がやっているのは、間違いなく理不尽なことだ。ただでさえ苦しんで来た灯君を、保護という名目で観察対象として扱い、実のところは彼女の力から得られる利権を狙っている。そして、君を彼女に対する首輪代わりに使っている。要するに──君達を苦しめ続けて来た理不尽、その延長以外の何物でもない。腹が立って当然さ」

「……何を言ってるのか、わかりませんね」

「今、君が灯君に感じているのは、同情や同調ではなく、仲間意識だろう? 自分の同類が、今まで自分を苦しんで来たことと同じことをされている。しかも自分が、彼女を苦しめる拷問器具の一部として使われている。だから、腹が立っているんだろう?」

「なんのことだか、わからないって言ってんですよ」

 務めて、静かな声にしたつもりだった。事実、声量自体はそう大きくはなかったはずだ。

 そうでもしなければ、食堂中に響く声で、怒鳴りあげてしまいそうだったから。

 しかし──それでも、険のある声になってしまうのは、防ぎようがなかった。

「……話は以上だよ。時間を取らせて済まなかったね。私は先に失礼するから、ゆっくり食べていくといい」

 話に夢中になっていたためだろう。気付かない間に、イクセンのトレイからは、パスタが完全に消えていた。イクセンは最後に残ったコーヒーを飲み干すと、トレイを持って席を立ち、学食を出て行った。

 一人残った俺は、丼の半分程度だけ残った豚塩カルビを一気に口の中に放り込み、水で腹の中に無理やり流し込んだ後、ほどなくして席を立った。


***


「あ、おかえり、無為」

 学食を出ると、もう完全に日が暮れていたので、俺はまっすぐに寮の自室に戻った。

 部屋の中では、スウェットの上下に安物のヘアゴムで髪を留めているのみと言う、実にラフな格好の灯が、いつも通りゲームに興じていた。完全にくつろぎモードと言える。

「ねぇ、対戦しようよ」

「いや、悪い。今日は疲れたから、先に寝るわ」

「ん? あれかな、演劇の練習?」

「ああ。委員長がすげー厳しくてさ、ついさっきまで練習してた。もうへとへとなんだよ」

 完全に嘘だった。自分を守るための嘘なら反射的について来た俺だが、意識的に嘘をつくのは珍しいと思う。

「わかった、おやすみ。部屋の電気消す?」

「いいよ、別に明るくても眠れるし、お前の目が悪くなる。じゃ、おやすみ」

 そう言って俺は、二段ベッドの下にもぐりこみ、カーテンを閉めた。そのまま目を閉じると、視界は薄ぼんやりとした闇で覆われ、灯がプレイしているゲームのBGMだけが、耳に響いて来た。

 実に長い一日だった。けれど、演劇による身体の疲れよりも、精神の疲労の方が、はるかに大きいのではないかと思う。

 仲間意識。首輪。拷問器具。凄惨な人生。イクセンの言った言葉が、頭の中で何度も反芻された。

 消そうとがんばってみても、それらは一向に姿を消さなかった。むしろ、量が増えさえしているように思えた。嫌でも考えることを止められない。

 灯が、苦痛の中にいる子供達に与えたと言う、異常発達という力。それは、確かに俺達に居場所と同類を与えた。SAGAという、世間から隔絶された、俺達のための空間を生んだ。生まれ持った力とSAGAで得た知識が組み合わされば、理不尽に対抗するための、この上ない武器にもなるだろう。

 けれど当の灯は、もう何年も部屋から一歩も出ていない。否──出ることが出来ない。

 こいつは、この世の最果てであるSAGAの中でさえ引きこもる、筋金入りの不登校児だ。世の中全てに対して恐怖を抱いたまま──強制的に抱かせられたまま、ただただ生き続けているだけの存在だ。

 他人には力を与えておきながらも、自分自身は安全だと信じている場所から、一歩も歩き出すことが出来ない。それを非難する人間もいない。そこから助け出そうとする人間など、いるはずもない。つまりは、籠の鳥だ。

 否──籠の鳥という表現ですら生ぬるい、本人が自覚することすら拒むほどの、圧倒的な不自由の中に、灯はいる。

 そんな灯の現状を想うと、一体なぜなのか、眉間に皺が寄る自分がいた。

 どうでもいいはずの他人のせいで、俺の気持ちが揺れ動く。奇怪この上ない現象であり、追いだしてしまいたいほどに鬱陶しい感情だった。

 けれど、なぜだろう。自分のそんな気持ちを否定する気には、あまりならなかった。

 そこまで考えたところで、疲労が限界に達したらしい。俺の意識は、瞼の裏の薄闇から、完全な暗闇の中へと、落ちて行った。 


 3


 少女が村を出て行って、幾度か季節が移ろったころ。村人達は、少女のことも、自分達が彼女に行った仕打ちすらも、忘却の彼方に追いやり始めていた。彼らは自身を正当化し、理不尽をしでかしたことを忘れ、平穏な今の生活を享受することに、なんの疑問も差し挟まないでいた。

 しかし、少女もまた、村人のことも、生まれ故郷である村自体も、忘れ始めていた。

 森は食糧が豊富で、畑にするのに向いている場所も多く、食うには全く困らなかった。魔法を使えば、住む場所や道具の調達も難しいことではなかったし、衣服も簡単に作ることが出来た。

 何より、小鳥のさえずりや、小川が静かに流れる様が、人を怖がり続けていた彼女の心を、潤し、癒してくれた。

 森の中には、彼女が今まで感じたことのなかった、平穏と安寧があったのだ。

 ──このまま、ここで静かに暮らすのもいいかな。

 そうして少女は、森の中で静かに暮らし続けた。孤独であることなど、全く気にならなかった。むしろ、自分を虐げ続けた人間などと関わって暮らすよりも、森の中で静かに動植物に囲まれている方が、遥かに心地よかった。

 少女の手足が伸びきるころには、彼女の中からはもう、村に帰ろうという気持ちなど、すっかり無くなっていた。


 そうして、少女が大人になりつつあった頃。都にある王城では、国王と大臣とが、激しい言い争いをしていた。

「大臣! それでは我が国は、敗北せざるを得ないと言うのか!」

 王は、大臣を相手に憤っていた。今しがた大臣によってなされた、ずっと続いている隣国との戦争経過が、思わしくないものだったからだ。

「状況を鑑みれば、その可能性が高い──というだけでございます、国王陛下」

「同じことだ! くそう、何年勝負を続けていると思っている! 今更膝を屈するなど、儂の矜持が許さぬ!」

 王は長い間、国を憂う主としてではなく、単なる一個人として、勝負にこだわり続けていた。結果、国民は重税を課され、苦しい生活を余議なくされていた。

 しかし──そんな事を気にするような繊細な心など、この王は、生まれた時から持ち合わせていなかった。

 そんな王に、大臣は語りかける。

「お気持ちお察しいたします。然るに、私めに妙案がございます」

「む……妙案だと?」

「左様でございます。上手く行けば、戦争に勝つどころか、その後の国力増強にも通じる一手でございまして……この策が成功した暁には、王の名は史上最高の名君として、歴史に刻まれることでしょう」

 王は、大臣の台詞を聞いて、目を邪悪に輝かせた。

「何ぃ? そんな理想的な策が、本当にあるのか?」

「はい。ただ、わずかばかり費用がかかってしまいますが」

「金など民草からいくらでも絞り取ってくれるわ。さぁ、その策を聞かせてみぃ!」

 王の言葉を聞いて、大臣は、ひっそりと口の端を吊り上げた。

 ──馬鹿は扱いやすくて助かる。

 そうして、王を傀儡とし、自身が国を牛耳ることを目論む大臣の奸策が、王の耳に告げられた。

 

 ***


「そこのところ、もう少し大きく剣を振りかぶった上で剣を止めて! そこはへっぽこ勇者の葛藤が大きく出るところだから!」

「うん、確かに。でも、さっきよりだいぶいい感じになってきてるよ。がんばって!」

本日もまた、発表祭での発表に向けて、我らがSAGA高等部普通科の面々は、演劇の稽古に励んでいた。

 練習を開始してから、三日ほどが経過しただろうか。相も変わらず鬼垣監督の指摘は厳しいままだ。加えて、スーツの上に白衣を着た担任までもが演技指導に熱を上げているのだから、練習の激しさは増すばかりだった。

 さてここで問題です。どうして監督役が二人に増えているのでしょうか。誰か教えろ下さい。

「ん? どうしたんだい無為。そんなに頬を引きつらせて」

「いや……なんでこの人いるんだろうと思って」

 思いきりストレートに拒絶の意志を伝えたつもりだった。しかし、イクセンは涼しい顔のまま、優雅に返答する。

「いやぁ、実は僕、学生時代は演劇部だったんだよ。だから、それなりに経験は豊富なのだよ?」

 なのだよて。

「はぁ……それは昨日も聞きましたけど、それで?」

「いや、それだけだけど」

 そこで説明は終わってしまった。もう少し言葉を尽くせ。

 イクセンは、一昨日の夜にあれだけシリアスな空気で俺と別れたと言うのに、翌日になると何食わぬ顔で練習場に現れた。そして、「若者ばかりに負けていられないからね、僕にも何かさせてくれ!」と言い出した。どうも、俺達──大部分は鬼垣だろう──の熱意に当てられたらしく、自分もこの企画に一枚噛みたくなったらしい。

 当然ながら、最初はみんな困惑した。しかし、本人の言う通り、イクセンは演劇の経験が豊富で、知識もかなりの量を持ち合わせていた。そこで、配役に空きがあるわけではないから役者というわけには行かないが、演出補助という形で参加すればどうか、という話になった。

 俺はてっきり、本家本元の演出である鬼垣が、何らかな文句を言い出すのではと思っていた。しかし鬼垣は、

「それならもっといいものが出来るわね! 先生、是非お願い!」

 と言って、すんなりイクセンの参加を受け入れた。こいつにとってはいい芝居をすることが第一で、自分が主導出来るかどうかなどは二の次らしい。

 と言うわけで現在俺たちは、鬼教官×2の下で、ひたすらに汗をかき続けているわけだ。

「オッケー、じゃあ次行こうか! ごめん、おっきい方の剣持ってきてー!」

 鬼垣総監督(ややこしいのでこの言い方で統一している)の指示の下、俺達は次のシーンの練習に移ろうとした。次はこの芝居のクライマックスであり、最大の見せ場のシーンである。

 いくら覇気が少なかろうとも、そしていくらちょっとした出し物気分であろうとも、クライマックスの練習ともなれば、多少ともテンションが上がるのが役者というものだ。俺達は、意気揚々と小道具を取って来ようとした。

 しかし、ここで俺達は、ちょっとした事件に陥ることになる。

「あれ、ないぞ?」

 草十郎が、小道具入れとなっている大きめの段ボールをひっかき回しながら、そう言った。

「ん? 何、どうしたの歌留多?」

「いや、クライマックスで使うでかい剣、無いんだよ」

「は?」

 鬼垣が素っ頓狂な声を出した。無理もない。

 草十郎が探しているのは、竹や木、粘土を組み合わせて作った──つまりはハリボテの、かなり大きな剣だ。長さは優に一メートルを越えるし、厚みも太さもある。小道具というよりも、大道具に分類するようなものだ。それが見当たらないということは、かなり考え難い。つまり──この場にその剣が存在していない、ということになる。

「ちょ、無いってどういうこと? 持ってきたんでしょ?」

「いや、倉庫からこの箱ごと持ってきたから、中は確認しなかったんだよ。倉庫に落ちてるのかも」

「もー、しょうがないな。じゃあ、倉庫行こうか」

「いいって、俺と優作で行くから。鬼垣ちゃん達は、ちょっと休憩してなって」

 俺や草十郎は元身体科である。成長過程で弱まったとは言え、スタミナや筋力などは他の面々よりもずっと強い。一方、それぞれ異常発達を持っていたとは言え、他の面々は身体能力的には普通の人間だ。ずっと稽古を続けた今、疲れも溜まっている。

 加えて、小道具入れを持ち運んだのも俺達なのだ。確かに草十郎の言うように、この場は俺達が倉庫まで探しに行くのが妥当だろう。

「そう? じゃ、悪いけどお願いしましょっか。みんなー十分休憩ー」

 鬼垣がそう言うと、面々は「ういーっす」「はー疲れたー」「ジュース買いに行こー」などと言いつつ、床に座り込んだり廊下に出たりと、それぞれが自由時間を満喫し始めた。

「んじゃ行くか」

「おう」

 草十郎と俺はそう言って、連れだって廊下に出た。すると、俺達のやや後ろから、小さな足音が聞こえてきた。

 振り返ると、眼鏡をかけた、胸のやたらでかいセーラー服の女学生が、俺達より数歩遅れた場所を歩いていた。

「なんで委員長まで来るんだ?」

「総監督だからね」

 これで説明は終わっていた。どうして俺達の監督達は、説明になっていない説明ばかりをするのでせうか。

 リーダーとして責任感があるのはわかるが、たかが忘れ物を取りに行く程度に、わざわざ総監督が付いて来ることはないだろうに。

「休んでろよ。指示で声出しっぱなしなんだから、委員長が一番疲れてるだろ」

「なんのその是式よ。みんながんばってくれてるからね、リーダーがだらけてる姿を見せるわけにも行かないわけよ」

「……」

 鬼垣の言い分は分かる。リーダーやボス、つまりは人の上に立つ立場というのは、例えどれほど上手く立ち回ったとしても、下の人間から疎まれるのが世の常だ。

 ましてや、今回の企画は鬼垣が発案し、皆がそれに乗っかった形なのだ。鬼垣自らが少しでもだらけようものなら、即座に企画自体がつぶれかねない。

「ま、ほどほどには休んどけよ。リーダーが真っ先に倒れちゃ、練習も何もできやしないんだから」

「そーそー。夜更かしとかは特にだめだぜ、鬼垣ちゃん。せっかくの乳が台無しになっちまうだろゲフウ!」

「じゃかあしい! 夜はちゃんと寝てるし、夜更かしと乳は何の関係もないわ!」

 鬼垣の脳天チョップが、軽口を叩いた草十郎の頭に見事に決まった。

 余談だが、鬼垣は胸のことを指摘されると、なぜかかなり本気で怒る。男の俺には想像だにできないが、なんらかなコンプレックスでもあるのだろうか。

「ほら、さっさと行くよ!」

 そう言うや否や、鬼垣はぷんすかと怒りながらも、俺達の前に出て歩きだした。小さな身体に似合わず、その姿は颯爽としていて、カリスマ性を感じさせた。その姿を見て、思うことがある。

 こいつに取っては、こうして人の前を歩く方がニュートラルであって、下手な休憩は余計に疲れるのかもしれないな。

「へーい」

「おう」

 そんな返事をした後、俺達は軽口を叩くこともなく、鬼垣の後を歩いて行った。

 

 SAGAの敷地は、地図の上では首都圏の一部にあるものの、実際にはかなりの田舎に存在している。加えて、異常発達を持つ人間が社会にもたらした経済的恩恵がかなり大きいため、政治的にかなり優遇された立場にあり、学校を運営していく上で必要な予算が無い、という事態には未だかつてなった事がない。

 この二つの事例がもたらすのはどんなことか、おわかりだろうか。

「やあっと着いた! 全く、無駄に広いのよね、この学校」

「ま、そのおかげで練習場所にも物置にも困らないんだからさ、今回は助かってるじゃん?」

「そりゃまーそうなんだけどさ」

 俺は、そんな会話を鬼垣と草十郎が繰り広げる後ろで、鬼垣が鍵を開けた入口から、辿りついた倉庫を見渡していた。

 主に、普通科目の授業をするための教室を集めた棟。俺達が倉庫として使っている部屋は、その三階にあった。

 元々は他の科の連中が物置きとして使っている場所で、工学機械の部品や楽器、あるいはトレーニング機器などが部屋の大半を占めていた。今回俺達に割り当てられたのは、その部屋のごく一部、隅に置いてあるいくつかの棚のみなわけだが──それでも、出し物の倉庫として使うにしては、広すぎる。

 棚はどれも巨大で、ちょっとした家電の類なら十分に収まるのではないか、とすら思う。その中に、作りかけの衣装やら、大道具やらが陳列してあった。

 土地と予算があれば、建物や設備には事欠かない。異常発達者が増え続けている以上、いつかはSAGAが満杯になることもあるかもしれないが、少なくとも現時点では、俺達の数に対してこの学校の土地面積は、広すぎるほどだった。

「さ、それじゃ剣を探すわよ」

「あいさ、姐さん」

「おう」

 鬼垣の言葉に従い、俺達は剣を探し始めた。でかい小道具だけに、探すのに手間はかからないだろうと予想していたが、それでも部屋の広さが広さである。なかなか見つからず、終いには捜索範囲を表現科や機械科が占有している場所にまで広げることになった。しかし、それでも剣は見つからない。

「おかしいわね。ここにもない?」

「そいつぁちょっと考えにくいな。ここと練習場以外、小道具を保管する場所なんてねーべ?」

「それはそうなんだけど……途中の廊下で落としたとかは?」

「あり得なくはないけど、考えたくはねーなぁ」

 と言って、草十郎はぺろっと舌を出し、肩をすくませた。ここと練習場の間の廊下は、かなり長い。遮蔽物こそないが、そこをくまなく探すのは大変な手間だ。草十郎が辟易するのもわかる。

「……ん?」

 と、そこまで考えた時点で、俺は自分の足元に、妙な物が落ちていることに気が付いた。

「これは……」

 それは、短い木製の棒だった。しかし、例えば麺棒のように、始めから短いものとして使うよう設計されていたわけではなく、元々は長かった物を途中でへし折ったように、片方の端がささくれていた。

「無為、それ……」

「ああ」

 俺は、鬼垣の指摘に同調した。

 俺達が小道具として用意した剣は、芯になる木刀に、木の板や粘土などを組み合わせて作ったものだ。今俺が手に持っている棒の残骸は、その芯である木刀の先に、余りにも酷似している。

 その事実に気付いた瞬間、実に、嫌な予感がした。

「この下、匂うな」

 草十郎はそう言って、木刀の残骸が落ちていた箇所からほど近い棚を、指さした。

「優作」

「ああ」

 皆まで言われるまでもなく、草十郎の考えはわかった。俺も同意見だった。

 俺と草十郎は、棚の両端に立ち、腰を落とした。両手で棚の端を持ち、一気に力を入れて持ちあげる。

「委員長、どうだ?」

 棚を持ちあげているので、俺達にその下にあるものは見えない。しかし、正面に立っている鬼垣からは、なんの遮蔽物もない状態で、視野に入っているはずだった。

「……なにこれ」

 芝居の稽古を始めて以来始めて、鬼垣が絶望したような声を出した。

 

***


「で──あたし達が見つけた時にはもう、こんな状態だったわ」

 言いながら鬼垣は、残りのメンバーの目前に、俺達が見つけた剣を差し出した。

「え……」

「なんだこれ」

「ひどい……」

 面々は、それぞれ悲嘆に暮れた言葉を発した。無理もない。

 俺と草十郎がどかした棚の下には、ずたぼろに壊された剣が置かれていた。芯となる木刀はもちろん、周囲に張られた木の板や、固定した粘土までもが粉々に砕かれていた。床に落としたために壊れた、などというレベルでないことは、一目瞭然だった。

「なんでこんなことに……」

 誰が言ったか定かではない言葉が、全員の感情を一言で表していた。

「皆、落ち着いて。道具はまた作れるわ」

 鬼垣が、普段よりも幾分かトーンの落ちた声を出した。

「でも……せっかく頑張って、いの一番で作ったのに」

 小道具制作を担当しているメンバーが言った。

 小道具は必要な物がいくつかあるため、練習で重要になって来そうなものから優先して制作している。この剣は大掛かりなものであり、これを使った演技は練習が要ると判断されたため、最優先で作られたわけだ。

「うん、知ってる。すごく残念だけど、こうなった以上仕方がないわ。ごめん、もう一度作りなおして──」

「っていうかさ」

 同じく、小道具を担当している別のメンバーが、鬼垣の台詞を遮って、口を開く。その声には、多少なりとも怒気が含まれているように、俺は感じた。

「誰が壊したわけ?」

 一瞬、空気が固まった気がした。

 この惨状を目にすれば、誰もが辿りつく疑問だ。だから、この台詞が飛び出したこと自体に驚きはない。

 問題は──この事態が、更に悪化しないかどうか、である。

「倉庫は三階だよね……」「入口には鍵かかってたよな」「他の科の悪戯ってこと?」「わかんねぇぞ……」

 それぞれが、それぞれの疑念を口に出していた。まるっきり犯人探しが始まるムードだ。

 さっきまでの、ある程度ではあっても和気藹藹としていた空気は、どこかに行ってしまっていた。

「み、みんな落ち着いて! 犯人探しをしても、壊れた剣が直るわけじゃないでしょ!? それより、管理を厳重にして、同じことが起きないようにした方が、ずっと建設的じゃない!」

「でもさー」

 再度、小道具班のメンバーが言う。自分達の成果を粉砕された怒りは、合理的判断では覆らない。

「もし身内がやったんなら、管理とか警備に力入れても、また同じことが起こるんじゃない?」

 再度、空気が固まった。否──凍った、と言ってもいいかもしれない。

 身内の犯行。単純な犯行のし易さと言う点で考えれば、最も有力な仮説と言える。

 そして、多少やる気に難があったとはいえ、それでも集団表現として活動している状況下での出来事だ。こんな中での裏切り者の出現、そして再犯の可能性の示唆は──ただでさえ希薄だった団結を、決定的に壊しかねない。

「いやだから、そんなことは起きないように警備システムを組んで──」

 鬼垣は必死に可能性を否定する。この流れが、こと集団活動においては、最も危険な状況下だと、理解しているのだろう。

 しかし、疑心暗鬼に駆られたメンバー達は、止まらなかった。

 「入口の鍵はどうなってたっけ」「教師が管理してるはずでしょ」「でも、身内なら忘れ物したとか行って入れるんじゃ……」「毎日来てるんだから、練習時間外に倉庫に行くのは不自然だよ」

 委員長の言葉に耳を傾ける人間は一人もおらず、それぞれが勝手に口を開き続け、情報の錯綜と、議論にもなっていないような議論だけが、ひたすらに続いて行く。

 「他に侵入口って言うと」「窓からなら行けるんじゃね?」「あの部屋の窓、鍵自体はついてないよね」「あれ、その気になれば外からでも入れるんじゃ……」「でも三階でしょ?」

 どうやら、外部から倉庫に侵入可能か否かが、議論の争点になっているようだ。

 倉庫となっている部屋は、よくある引き違いタイプではなく、一般家屋の風呂場に取りつけられているような、ルーバー窓だった。

 ルーバー窓は、通気性や換気性にこそ優れているが、防犯性能はそれほど高くない。ネジによって取りつけられているものなら、ドライバー一本で簡単に取り外しが可能だ。なので、少しばかり場馴れした空き巣か、あるいはそれに準じた訓練を受けた人間なら、侵入はたやすい。

 そこまで議論が進んだ時点で、小道具を担当しているメンバーが、一つの結論に行きついた。

「身体科なら、行けるかも」

 ぽつりと呟かれたその言葉を聞いた瞬間、全員の目が、俺と草十郎に集まった。

 三階にあるルーパー窓からの侵入。確かに特殊訓練を受けている身体科の人間なら、難なくこなせるミッションではある。そして、この場でそんな身体科に近い経験と能力を持っているのは、元身体科の生徒である俺と草十郎だけだ。

「……おいおい」

 草十郎が、あくまでへらへらとした笑みを崩さないまま言う。しかしその顔には、冷や汗が浮かんでいた。

「俺らがやったってーの?」

 今度は、誰も口を開かなかった。誰も決定打を打てるだけの力を、有していなかったのだ。

 なにしろ彼らが語っているのは、確証は全くない、推論と呼ぶことすら躊躇われるほどの、単なる当てずっぽうなのだ。そんな薄弱な根拠で、「犯人はお前だ!」と言い切れるほど気の強い人間は、この場にはいないだろう。

 しかし、そうした論理的検証が、この場で大した意味を持つとは思えない。

「歌留多には、無理じゃないかな……アホだし」

 誰かが言った。根拠のない推論に、また仮定を重ねるような情けない推理だったが、疑心暗鬼に駆られた人間達に取っては、そんな頼りない論理も、判断材料になる。

「まぁ……頭の良さもいるよな、こういう悪戯は」「ビルの構造とか考えないと無理そう」「手の込んでそうな悪戯だしね……」「他の学科の奴がやったって線は、正直考えにくい気がするんだけどな……」「身体科でニート科に嫌がらせしてメリットがある奴なんて、そうはいないだろうしね」

 面々の推理が、やがて一つの結論に──俺に取って最悪の結論に、集約されて行く。結果、その場に集まっている人間の視線が、俺に集中して行った。

「……俺が、やったって?」

 クラスの大半の人間から疑惑の目を向けられ、やっと絞り出せた言葉がそれだった。

 強く、理不尽を感じた。身体科に嫌がらせをする理由がないのなら、俺だって同じだろうと、声を大にして叫びたかった。けれど、「俺じゃない、俺がやったんじゃない!」と否定を強く主張したとしても、かえって疑念は強くなる。嘘をついた人間が嘘を取りつくろおうとして、返って胡散臭くなるのと同じだ。

 それを理解しているから、俺はあえて強い言葉を使わない。例え腹の中が、どれだけ濡れ衣に対する怒りで溢れていたとしても──そして、かつて俺を追い詰め、最悪の結果を導き出した友達の事を思い出していても──黙ったままでいた。

 それが、この場で自分を守る、最良にして唯一の手段だと思ったのだ。

 パン!

 そんな時、練習場に乾いた音が響き渡った。

「そこまでだよ」

 イクセンだった。これまで沈黙を貫いていた彼が、いつもの飄々とした様子とは違う、鋭さを感じさせる表情で、手を鳴らしたのだ。彼は続けて、生徒達に語りかけた。

「根拠は全くない。無為がやったと言う証拠も、他の学科がやったと言う証拠も、何もね。唯一言えるのは、残念ながら小道具の剣が壊れてしまっているという事実だけだ。手間だろうけど、鬼垣さんの言う通り、もう一度作り直すしかないね。けど、確証のない犯人探しをするよりは、余程有益な時間の使い方だと思うよ」

 学校という場において、教師というのは半ば裁判官のような役目も担う。端的に言って彼らは、全体の空気を切り替える権力を有している。そしてそれは、SAGAにおいても例外ではない。

 「まぁ……それもそうか」「仕方ないよね、起こったもんは起こったんだし」「やれやれ、二度手間だよ」「じゃあついでだし、もう少し凝った意匠にしてみよっか」

 元々、犯人を特定することに大した意味はないのだ。それを無意識レベルで認識していたのだろう。面々は多少しぶる様子こそ見せたものの、すぐに気持ちを切り替えたようだった。ものの数秒で、もう一度剣を作ろうというムードになっていた。

「……」

 しかし正直に言えば、とりあえず助かったとは言え、一方的に疑われた挙句にうやむやにされたことで、俺は腹立たしい気持ちで一杯だった。けれど、今の練習場の空気が、それを蒸し返すことを許すとは、とても思えなかった。

「無為」

 ぽん、と肩を叩かれた。先程よりは幾ばくか緊張感が抜け、いつもの様子に近づいたイクセンが、そこに居た。

「腹が立つのはわかるよ。無理に抑えろとも言わない。けれど、一つだけ言わせてくれ」

「なんすか」

 自分でも、声がとげとげしいと思った。けれど、それを諌めるだけの冷静さが、完全に霧散していた。

「僕は、君がやっていないと信じている。君には、あんな悪戯をする理由が全くないからね」

「……」

 卑怯だ、と思った。こういう言い方をされてしまっては、うっかり自分の理解者が存在しているように感じてしまうじゃないか。溜飲が、幾分かでも下がってしまうじゃないか。

 反撃を試みようという気持ちが、人間に対する不信感が、わずかながらも、弱まってしまうじゃないか。

「鬼垣君、続きはよろしく」

「は、はい」

 急にイニシアチブを返されたためだろう。鬼垣はやや動揺した様子を見せた。しかし、すぐに元の調子を取り戻し、仕切り屋としての本領を発揮していき、剣を使った場面を上手く除いた練習が、再開された。

 客観的に見れば、クラスは元の状態に戻っているように見えただろう。覇気の無さこそ消えないままだが、それでもイレギュラーな出来事があった直後だとは、とても思えない空気だった。

 けれど、俺には──おそらく、振り上げた手の降ろし所を失ったような、もやもやした気持ちも手伝ったために──その練習風景が、剣が壊される前よりも、はるかに遠くなったように、感じられた。


***


 残りの練習時間は、これまでよりもやたらに長く感じられた。けれど、取り立てて文句を言うチャンスも訪れなかったために、俺は気持ちを発散させられないまま、練習終了を待った。

 練習が終了すると、面々は昨日一昨日と同じく、適当に雑談をしたり、軽く練習の反省を言い合ったりしていた。けれども俺は──行為そのものは昨日一昨日と同じではあるのだが──誰とも話す気にならず、荷物を出来るだけ素早く鞄に詰め込み、一目散に練習場を後にした。

 練習場を後にしたはいいが、すぐに灯の待つ寮に戻る気にはどうしてもなれず、俺はSAGAの敷地内をぶらつくことにした。

 前述したように、SAGAの敷地はやたらと広い。おそらく、下手な大学などよりもずっと広大な面積を誇っている。なので、夜ともなれば、人気のないスペースも少なからず存在する。

 そのうちの一つ──先日草十郎と雑談をした自販機売り場に、俺は来ていた。理不尽に対する怒りと練習の疲れとで、喉がやたらに渇いていた。

 自販機で炭酸の缶ジュースを買い、プルトップを開けた。自販機の中で移動したためだろう、泡が飲み口から溢れだしていた。しかし俺はそれに構わず、一気にジュースを喉に流し込んだ。

「……ぷはっ」

 食道を通り抜ける、喉を焼くような炭酸の感覚と、ジュースの冷たさが合わさって醸し出される心地よさから、思わず声が漏れ出た。

「あー……」

 喉の渇きが多少収まったことで、俺は多少とも、冷静さを取り戻していた。端的に言って、頭が冷え始めていた。

 しかし、頭が冷えた所で、自身が理不尽な目に遭った出来事そのものが消えるわけでは、断じてない。

「畜生、俺があんなことやるわけないだろうがよ……」

 気付けば、ジュースの缶を軽くへこむほどに握りしめていた。冷静になったことで、怒りよりもむしろ、悲しさが表に現れてきていた。

「ああ、わーってるって」

 後ろから掛けられた声に、思わず振り向いた。するとそこには、先日とほぼ同じ構図で、よく見知った男が立っていた。

「草十郎……」

「座れよ。少しだべろーぜ、優作」

「……」

 返す言葉が見つからなかったので、俺は草十郎の言う通り、ベンチに座った。草十郎も、丸テーブルを挟んだ向かい側に腰かけた。


「ま、俺らもそこそこ長い付き合いだしな。優作が意味もねー悪戯をするようなタイプじゃないってのは、なんとなく想像付いてるよ」

「……そうか」

 草十郎の言葉は、素直に有り難いと思った。イクセンもそうだが、自分が追い込まれた時、自分を信じてくれる他人が居ると言う事実は、純粋に救いになる。

 普段人を信じもせずに、かつ、他人に深く踏み込むようなことを避けておきながらこう考えるのは、身勝手かもしれない。けれど、純粋な気持ちだった。

 しかし──なら、かばってくれてもよかったんじゃないか、とも思う。

 あの場で草十郎が否定の言葉を口にしてくれれば、場の空気や流れも、多少とも変化したかもしれない。俺がここまで不愉快な思いをせずに、済んだかもしれない。

 けれど、同時に俺は考え至る。それは、甘えというものだ。

 他人が自分を救ってくれるはずだと、他者が自分に素晴らしい人生を用意してくれているはずだと言う、他力本願な精神だ。そして、そんな精神を表に出すのは、この上ない隙だ。

 そんな隙を他人に見せて平気でいられるほど、俺の精神は頑強ではない。

「そもそも、犯人は元身体科の俺らのどっちかだけど、俺はアホだから無理っつー理屈自体、どうかと思うんだけどなぁ。どー思うよ、優作ちゃん」

「別にどうも思わないさ。よかったんじゃないか、疑いの目から逃れられて」

 自分でも、少しばかり嫌みったらしい言い方だなと思った。けれど、草十郎は笑った。

「そーかもな。頭の回転の鈍さも、たまにゃー役に立つもんだ」

「……お前は別に、頭が悪いわけじゃないだろ」

「えー、そーかぁ? 俺マジ馬鹿だぜ?」

「単に、他の所に頭を使ってるだけだろ?」

「……まぁね」

 言って、再び草十郎は笑う。けれどその笑みは、先程の物とは明らかに違う、どこか達観したようで、同時に諦観もしているような──自虐が多分に混じったものだった。

「やっぱり相変わらず、か?」

「ああ。全っ然人の気持ち、わっかんねーわ。台詞とか状況とかから考えるしかねー」

 草十郎はそう言って、また笑った。

 草十郎の持つ精神の異常。それは、俗に発達障害と呼ばれるもの──正確に言えば、その一歩手前のものだった。

 大多数の人間は、相手の仕草や表情などから、直感的に感情を読み取る。もちろん完璧に読み取れるものではないが、それでもその情報は、コミュニケーションにおいては重要な役割を持つ。特に、以心伝心を基本とするこの国の文化では、その能力は社会において、重要な意味を担うものだ。

 しかし草十郎には、それが出来ない。

 身体能力が人並み外れている半面、そうした他者とのコミュニケーション能力で著しい障害を抱えている。だからこそ、こいつはSAGAに籍を置いているのだ。

「ま、俺の場合考えればなんとかなってることも多いから、実際そこまで困っちゃいないんだけどな。少なくとも学生の間くらい、なんとでもなるっしょ」

「……」

 草十郎は軽く言うが、事態はそこまで軽くはない。

 人の気持ちがわからない。だからその分こいつは、頭を使って問題を解決させる嫌いがある。

 自分が相手の立場だったらどう考えるだろうか、この状況なら論理的に考えてどういう感情に辿りつくだろうか。そうした思考の末に、その場に適した言動を取る。それが、草十郎の行動方針の基本だった。

 成長過程で異常発達は弱まった普通科生は、反比例するように、多少精神異常も弱まる傾向がある。それは草十郎も例外ではなく、心身の成長に従って、こいつは本来持っている知性による補いが前面に押し出されるようになった。だからこそ、こうして紛いなりにも普通の会話を成立させることが出来ているわけだ。

 発達障害が多少とも弱まったこと、そして頭の回転が悪くなかったことで、こいつはなんとか人並みに近い人格を有することが出来ている。そして──どうしても相手の気持ちがわからない時は、阿呆で軽い言い回しをすることで、難を逃れているわけだ。

 けれど、それは問題が解決しているわけではない。むしろ、草十郎に対して凄まじい負担を強いている。

 常時頭脳を稼働させ続けることは、凄まじい疲労を生む。どのくらいの疲労かと言えば、まともな言語や計算にも支障を及ぼすほどのものだ。

 その上、こいつは有事の際には軽い振る舞いをする。そんな人間が、周囲から“頭のいい人間”と思われるはずがない。それゆえに、こいつに対する評価はいつも「頭の軽い男」なのだ。

 それが、歌留多草十郎という男だった。

「周囲からアホだの軽いだの言われて、気にならないのか?」

「べっつにー? ってーか、俺っちが軽いのは地だしな。それで誰が困るわけじゃなくて、俺も楽しいんだから、いーんじゃね?」

「……半分ってとこだな、嘘の割合」

「けけっ、さっすがマブダチ、わかってるねぇ。まぁでも、逆に言やぁ、半分くらいは本当だぜい」

 そう言って、草十郎はまた笑った。

 発達障害を抱え、他者とのコミュニケーションに強い問題を持った人間が、何の苦痛も持たずに生きていけるわけがない。

 俺達は半ば暗黙の了解として、互いの過去を根掘り葉掘り聞いたりはしないようにしている。しかし、それでもこいつの過去が素晴らしいものであったとは、到底思えない。

 そんな人間が──“軽く”なれるわけがないのだ。

 だから、こいつの軽さは作り物だ。嘘っぱちだ。本当は辛くて辛くて仕方ないことを、適当に流すふりをしてやり過ごしているだけだ。

 だから、今俺の目の前にある軽そうな笑みも、仮面に過ぎない。本当の顔じゃない。マグマのように煮えたぎる怒りも、洪水のように溢れる涙も、腹の底で軽さという名前の蓋をして、閉じ込めているだけだ。

 けれど──今草十郎の言った通り、半分は本当なのだと思う。

 こいつは、そんな辛い思いをしている一方で、今の自分を肯定してもいる。発達障害だと言う事実を受け入れ、自分に与えられた能力も境遇もまとめて飲み込み、それでもなお楽しむことを、幸福になろうとすることを、忘れないでいる。

 こいつの“軽さ”の中には、仮面の笑いの中には、そんな強さも、確実に存在しているのだ。

 矛盾と言えばそれまでだろう。ひょっとしたら、精神疾患だと言うことも出来るかもしれない。

 けれど──苦境に立ち、それでもなお楽しむこと忘れないでいる人間を否定することなど、誰に出来るだろうか。

「どーしたよ、なんか物思いに耽るような顔して。なんか悪いもん食ったか?」

「悪いもんを食わなきゃ物思いにも耽られんのか、俺は」

 草十郎に当てられてしまったのだろう。俺も、先程まで抱えていた、心の重しが外れたような心地になっていた。わずかながらも──“軽さ”を手に入れていた。

「もう大分遅いな。明日も練習があるんだし、そろそろ帰ろう」

「お? おう、そりゃいいけどよ。なんか急に元気になったな?」

「お前の阿呆さが伝わっただけだよ」

「なんだそりゃ!」

 草十郎は、また笑っていた。その時は、俺もまた、笑うことこそなかったが──そして、ほんの一瞬だけではあったが──怒りも悲しみも、苦痛も絶望も、全て、忘れることが出来ていた。


***


「あ、お帰り」

「ああ」

 ほどなく寮の自室に戻ると、ゲームをしている灯に迎えられた。

 いつもと何一つ変わらない光景だった。しかし俺自身は、わずか一日のあいだに凄まじい心のアップダウンを経験したために、昨日よりもなお重い疲労が、身体を襲っていた。

「またすぐ寝る?」

「ああ、そうするよ。お休み」

 挨拶も適当に済ませ、俺は着替えることもなく、ベッドに倒れ込んだ。残ったわずかな力を振り絞ってベッドのカーテンを閉めると、最後に身体を仰向けにして、目を閉じた。

 昨日以上に長い一日だった。今までの人生で、単なる苦痛で埋め尽くされたことは何度もあったが、今日のような複雑な一日は、そうはなかったんじゃないかと思う。

 灯にしても、俺自身にしても、苦痛や理不尽は、今もなお続いている。

 けれど──それを忘れることも、不可能なわけではない。

 プラスとマイナスが等価になるような、奇妙な一日だった。けれど、いつものように、絶望で埋め尽くされるという気分でもなかった。

 とりあえず、明日はまた練習に行こう。そう思うと、すぐに睡魔が襲ってきた。俺はそれに抗うこともなく、すぐに眠りの中に落ちて言った。



 少年がそのお触れを目にしたのは、いつも通り、孤児院の仕事をしていた時だった。

 孤児院の仲間である弟妹達の食材を買うために、街に買い出しに出ていた少年は、街中で人だかりが出来ているのを目にした。好奇心が旺盛な少年は、沸き上がる衝動を抑えることが出来ず、人と人の隙間を縫うように歩き、人々が注目している看板を目にした。


 “魔女を捕らえた者に、下記の賞金を進呈するものとする。

  ただし、捕らえる過程で魔女が死亡した場合、賞金の額は半分とする

                                 王”


 看板に書かれている賞金の額は、例え少年が奉公などで一年以上働いたとしても、到底稼ぐことの出来ないほどのものだった。

「こりゃすげぇ……!」

 もしもこの看板に偽りがないとするなら、自身の育った孤児院を救うに十分すぎるほどの金が、たった一人の女を捕らえるだけで手に入ることになる。

 孤児院は資金が不足し、満足に経営が立ち行かなくなっていた。弟妹たちが食うにも困っている様をどうにかしたいと常々考えていた少年に取っては、渡りに船だった。

 少年は、すぐに魔女討伐のための準備を開始した。


 少年はまず、日雇いの仕事を通じて得ていた伝手を通じて、出来る限りの情報を集めた。それによると、件の魔女はある森の奥深くに隠れ住んでおり、とても不思議で、同時に恐ろしい魔法をいくつも使うということだった。

「ふぅん、魔法ねぇ」

 地域の信仰対象である“運命を司る女神”は、魔法を使うと言う言い伝えがあった。だから、その地方の人間達は、ある程度魔法という概念が把握出来ていた。

 しかし、基本的に世間知らずな上に、宗教の授業ではいつもサボるか寝ていた少年には、魔法というものが、さっぱりわかっていなかった。

「ま、剣がありゃあどうにかなるだろ」

 小さい頃からけんかっ早い性格をしていた少年は、手足が伸びきるころには、剣さえあれば城の兵士にも騎士にも引けを取らない、いっぱしの剣士となっていた。負け知らずの世間知らずは、剣一本あれば、どんな強敵にも負けることはないと思っていたのだ。

「よっしゃ、じゃあ行って来る!」

 そうして少年は、愛剣を背負い、孤児院の職員や弟妹たちが止めるのも聞かず、魔女の住むという森に向かって、たった一人で旅立っていった。


***

 信じていた人、好意を持っていた人に裏切られること。

 様々な痛みを経験してきた俺だが、それでもそれだけは、他の苦痛と比べて、痛みのレベルが明らかに違っていたように思う。

 例えば両親。

 本来なら、親というものは子供に無条件の愛を注ぐものだ。それは単なる精神論に収まるものではなく、もはや生物学的な観点からも証明されている事実である。

 親は子供に愛情を注ぐし、子供もまた、親からの愛情を注がれることを期待する。まだ自我の芽生えさえ行われていない赤ん坊であっても、無意識のレベル、ひょっとすれば遺伝子のレベルで、そのシステムを理解し、期待を持つ。

 だから、親から殴られるという事実を、理解することが出来ない。

 なぜこの人は自分を殴るんだろう。なぜこの人は自分を侮辱するんだろう。子供というのは、不幸なほどに敏感で、大人が思っているよりもはるかに聡いものだから、言葉の意味すら理解できなくても、自分に向けられる悪意だけは認識できる。だから、疑念と凄まじいストレスだけが募って行く。

 そして、子供は泣く。

 泣いて泣いて泣く抜いて、それでも自身の悲しみを親が聞き届けてくれないとわかると、次は二つの行動のどちらかを取る。

 己の中に溜まった苦痛を、外に向けるか、中に向けるかだ。

 中に向ければ、その子はより不幸になるかも知れない。苦しみを誰かに押し付けることをせずに、ただ自分の中だけで処理しようとするのだから。

 大抵はどうにかして現実逃避をすることで難を逃れるだろう。少なくとも、成人して仕事に就くまでの間は、それで生きていくことは出来る。けれど、どうしてもフラストレーションを処理しきれなければ──最悪の場合、その子は幼くして、壊れてしまう。

 では、もうひとつの方法は幸せか? と聞かれれば、明らかに違うと自信を持って言える。

 他人に自分の苦しみを押し付ける方法は、確かに一時的な救いになるかもしれない。自分よりも弱い存在を虐げる行為は、動物が本能レベルで持っている快感をもたらすものであり、同時に集団におけるヒエラルキーにおいて、行為主に一定の地位を約束する。

 学校でガキ大将の地位を築けば、誰かに苛められることはない。自分を強い人間だと周囲に認識させることが出来れば、自分に逆らう人間はいなくなる。早い話が、自分が集団の“王”になるわけだ。気持ちよくないはずがない。

 だが──その方法もまた、簡単に崩れる。

 結局の所、そいつは暴力で周囲を治めているに過ぎない。であれば、自分よりも強い暴力が現れた時点で、そいつの統治力は地に落ちる。

 盤石の地位を固めるには、多少の暴力では力不足というわけだ。

 つまり──結局どちらの方法を取ったとしても、そいつの救いは、完全なものにはならない。

 しかし、時折頭が良くて生まれながらの良識を捨てずにいる人間は、どちらでもない方法に問題を置き換える。

 親から愛情を注がれないなら、別の場所に居場所を求めればいい。そういう思考だ。

 家に居ることに苦痛を覚えるなら、同じように居場所がない人間達とつるめばいい。同じ苦しみを持つ者なら、自分の気持ちをわかってくれるはずだ──そんな、安直と言う言葉ですら生ぬるい、単純過ぎる考え方だ。

 そんな奴は、一時の安らぎを得たとしても、結局は最初の問題に戻るだけなのだ。

 親とは違う、自分を理解してくれる仲間に居場所を求めたところで。

 そんな仲間達もまた、ほんのちょっとしたことで自分を裏切り、傷つける存在なのだと。

 自分や親と同じ、不完全でいい加減で利己的で臆病で弱虫な、ただの人間であることに違いないのだと。

 なぜ最初から、気づくことが出来なかったのか──。


***


「……妙に理屈っぽい夢だった」

 映像も音もない、昔考えたことがそのままリフレインされているだけのような──強いて言えば、ゲーム性の全くない、質の悪いノベルゲームのような夢だった。

「ストレスが妙な形で具現化されでもしたのかな……ふあぁ……」

 俺はあくびをしつつ、ベッドのカーテンを開く。

 窓から差し込む朝日が目にかかり、まだ半ば睡眠の状態にあった頭を、強制的に目覚めさせてくれた。

「灯……はまだ寝てるか」

 時計を見れば、朝の8時前。不規則な生活をしている灯ではあるが、この時刻に目が覚めていることは稀だ。特に用事もないのだし、起こす理由はないだろう。

 そう判断した俺は、着替えて軽く顔を洗い、その辺に転がっていたパンのみと言う簡単な朝食を済ませた後、すぐに部屋を後にした。

 今日は、朝から練習なのだ。


 俺が小道具の剣を壊したと疑われた日から、数日が経過していた。演劇の練習を始めた当初から言えば、一週間は経っているだろうか。

 あの日の事件後と同じく、練習自体は何事もなかったかのように進行していた。俺としては面白い状況とは言い難いものの、もう一度あの時の理不尽を言及しようという気は、流石に起こらないでいた。

 そして、本日は月曜日──正確には祝日だ。本来なら授業がある曜日だが、今日は休みということで、朝から練習が計画されていた。せっかく時間があるのだから、ある程度形にもなってきたことだし、通しで何度か練習してみよう、という発案があったのだ(もちろん発案者は鬼垣である)。

 面々も多少しぶる様子を見せたものの、この提案を受け入れた。練習を重ねたこと、そして──俺としては不本意なことに──予想外のトラブルを乗り越えたことで、連中の覇気は、上昇する気運にあった。

 そんなわけで俺は、ようやく来た秋を感じさせるような、穏やかな気温の中を、練習場に向かって、歩いていたわけだ。

「おはよう、無為!」

 そうこうしていると、やたらとはっきりした声とともに、俺の肩を叩く人物が居た。反射的に振り返る。

「おう、おはよ」

 声だけでも誰かはわかっていたが、いざ振り返ってみると、出る所がしっかり出た身体のラインで、よりはっきりとその人物を認識出来た。

「朝からなんか卑猥なこと考えてない?」

 やや眉間に皺を寄せてそう言うのは、我らがリーダー、鬼垣総監督だった。

「そんなわけないだろ、草十郎じゃあるまいし」

 我ながら本人がいないのをいいことに、結構ひどいことを言っているなぁとは思う。しかし鬼垣は、

「それもそうね」

 と、あっさりと納得していた。本人も了承済みとは言え、やはり鬼垣を含めた普通科の面々の中では、草十郎の評価は“軽い男”で統一されているのだろう。

「そうそう、今日の練習なんだけど」

「うん?」

 鬼垣が切り出してきた。熱心なのはわかるが、朝一番から芝居のことを考えるとは、もはやちょっとしたノイローゼの域ではなかろうか。

「女神登場のシーンで使う、火薬のことなんだけど」

「あー……しまった。もらい忘れてた」

 俺は、自分の落ち度をあっさりと認めた。

 芝居のクライマックスシーンで、俺達は火薬を用いた演出を行うことにしていた。もっとも、火薬と言っても、気体を熱膨張させるような物騒なものではない。

 俺達が使用するのは、俗にスタングレネードなどと呼ばれる、光と音のみを放ち、殺傷能力がない爆弾を、改良したものだ。

 言ってみれば、特撮映画で使用されるエフェクトに近いだろう。強烈な音と光を放つ道具を予め舞台の一部に仕込んでおき、裏方がタイミングを見計らって、スイッチを押すことで作動させる。上手く行けば、観客は一秒から数秒の間、目がくらむような光を浴びて、まるで神か何かが降臨したかのような印象を受けるはずだった。

 当然素人に改造できるようなものではないので、俺達は機械科生であり、かつこの手の軍事関連技術に詳しい境野に、改良を依頼していた。そして、それを今日までに受け取っておくのは、やはり境野と直接親交のある、俺の役目だったわけだが──すっかり忘れていたのだ。

「そんな事だろうと思って、もらってきといたわよ」

 そう言って鬼垣は、鉄製の筒を俺に渡した。筒はずしりと重く、中に火薬が詰まっていることを実感させた。筒の上部にある安全装置を外せば、筒は破裂し、強烈な光と音を放つだろう。明らかに、専門家が作った物であることを感じさせる威圧感だ。

「今日使うのはこれ一本だけだっけか」

「そうよ。余分な予算なんてないんだから、大事に使わなくっちゃ」

 いくらSAGA自体に予算があると言っても、普通科の発表祭参加、それも本来存在しないはずの演目のために避ける予算は、さほど多くない。なので、ここまで費用のかかる道具をそう何本も用意する余裕はない。練習のために使用出来るのも、この一本のみという話だった。

「それにしても……全く、こんな大事な物をもらい忘れるなんて。意外と抜けてるのよ、あんたは」

「悪い、完全に失念してたよ」

「しっかりしてよね。あんたは主役なんだから!」

「あー……まぁな」

 驚くなかれ、鬼垣の配役によって、なんと俺は、主役に抜擢されていたのだ。

 配役を決める際に、鬼垣の頭の中でどういう化学反応が起こったのかは知らないが、「これ以外に配役はあり得ないわ!」とまで断言されてしまうと、こちらとしても返す言葉がないというものだ。

 他にやりたい役があるわけでもなかったので(と言うか、むしろ演劇自体敬遠したいほどだったのだ)、俺はこの大抜擢を了承し、今日まで主役の座に座り続けているというわけだった。

「ほら、もうすぐ練習開始の時間だわよ。急ぐわよ!」

 そう言って、鬼垣は歩みを速めていった。

「もうすぐって……まだ三十分はあるだろうに」

 時計を確認して、鬼垣総監督のやる気に改めて驚愕を示しつつ、俺は鬼垣の後を追った。


***


 その日の練習は、スムーズに進行して行った。

 そもそも、それほど長い演目というわけではないのだ。時間にしてみれば三十分程度のもので、一般の劇団が数時間にも渡る芝居を上演していることを考えれば、十分短い劇だと言える。

 その短い芝居の練習を、一週間以上続けているのだ。いくら素人の集団とは言え、ある程度は台詞も覚えるし、動きも身体に染みついてくるのが必定というものだろう。

 今も、始めて台詞や動きをとちることなく、一通りの通し稽古が成功したところだった。

「オッケー! 細かい突っ込み所は色々あるけど、とりあえず形になったわ!」

「うんうん、やはり若いパワーは素晴らしいね」

 鬼垣はガッツポーズで、イクセンは顎に手を当てながら、それぞれに称賛を述べていた。二人の監督が揃って褒め言葉を口にするのは、練習開始以来始めてではなかろうか。

「それじゃ、次は火薬使ってやってみよっか! 照明班と小道具班! 準備をお願い!」

「「「おー」」」

 鬼垣の台詞を合図に、面々はそれぞれの役割を果たすべく動き始めた。役者である俺達に指示がなかったのは、準備の間は休んでおけということだろうか。

「無為ー、朝渡した奴出してー!」

 そう思ったのも束の間、そんな指示が飛んで来た。

 まぁ、やはり元身体科である俺に取って、この程度の練習では疲労は無いも同然なので、休憩が不要なのも確かなのだが。

「はいよ」

「おう」

 俺はバッグからスタングレネード(弱体化バージョン)を取り出し、小道具班の一人に手渡した。小道具班は照明班と話し合いつつ、それを舞台の背面──に見立てているホワイトボード──に、紐やガムテープを使って設置していく。同時に、ホワイトボードやその周辺に対して、ベニヤ板などを使い、補強を施していく。

 いかに殺傷力がないスタングレネードとは言え、それでも火薬は火薬である。この程度の安全への配慮は、当然と言えるだろう。本番では観客のことも考慮に入れるため、さらなる防護策を施すことは想像に難くない。考えただけでも骨が折れると言うものだ。

「よし! それじゃ、もう一回通し行ってみよう! もしこれが上手く行ったら、今日はここまでね!」

「よっしゃ!」「気合い入れてくよ!」「腹減ったあ!」「この練習終わったら俺結婚するんだ!」

 ラスト練習発言に、面々のテンションは、もともと練習で多少ハイになっていたことも手伝って、かなり上がったようだった。少しハイに成り過ぎている奴もいたようだが。

 

 気合いが入っていたということもあり、その時の練習は、今までよりもずっとクオリティの高いものになっていた。

 魔女が村人達に住処を追われるシーンも、王が大臣に奸策を聞くシーンも、勇者が旅立つシーンも、今までにない気迫と気合いが感じられた。メンバーの一人一人が、それぞれの役割を全うしようと、必死になっているようにも感じられた。

 こういう思考は、少なくとも普段の俺では絶対にあり得ないのだが──全員の息が揃い、ただただ芝居を成功させようという、たった一つの感情が、全員に共有されているように、感じられた。

 誰もが自分が置かれている立場を忘れ、精神に異常があることも忘れ、ただただ我武者羅になっていて、チームが一つにまとまっているように──まるで彼らが、何の異常も見受けられない、元気で明るくて、ごく平凡で、けれども日々の生活がとても楽しくて、とても幸せな日々を送っている、“普通”の学生達であるかのように──感じられた。

 そして、とてもとても愚かなことに。

 つい先日、疑惑の目を向けられていたこともすっかり忘れて。

 俺自身すらも、その内の一人であるかのように。

 全身全霊を打ち込める何かを、楽しいと心から感じられる何かを、他人と共有しているかのように。

 仲間と呼べるだけの存在が、再び出来たかのように。

 感じてしまった。思ってしまった。

 錯覚、してしまったのだ。

 でも、錯覚は錯覚だ。

 理想が現実とはかけ離れた場所にしかないように、錯覚は事実とは全く異なるものだ。俺の弱い心が生み出した、ただの幻想だ。

 幻をいくら想ったところで、現実はそんな願いに答えてくれるほど、優しいわけがない。

 だから、今。

 クライマックスに向かって劇が進んで行き、まさにスタッフ全員の熱気と集中力が最高潮を迎えようという瞬間。

 糞喰らえな現実が、顔を出した。


 勇者が軍隊に追い詰められ、さびしがり屋の魔女を庇うシーン。予定では、ここで弱体化したスタングレネードが炸裂し、舞台が強烈な閃光で照らされ、その瞬間に女神が登場するはずだった。

 けれど──元々殺傷能力が無い上に、威力を弱めすらしていたスタングレネードは、炸裂した瞬間に──一体どういうわけなのか──辺りの気体を、猛烈なスピードで熱膨張させた。

 有体に言って──爆発した。

 比喩ではない。スタングレネードは──否、そうだと思っていた手榴弾は、周囲一体に爆熱と爆風をまき散らし、部屋の前方に居た生徒達はもちろん、後方に控えていた裏方スタッフ達すら、傷つけて行った。

「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 その悲鳴を上げたのが誰だったか、後になっても結局のところわからないままだった。なぜなら、悲鳴が次の悲鳴を呼び、最後にパニックを呼び、練習場がまたたく間に阿鼻叫喚の地獄に変わったからだ。

「消火器を! 火が付いた服はすぐに脱いで! 動ける人は、動けない人を教室の後ろ側に移動させて!」

 叫んだのは、イクセンだった。爆発と爆熱の嵐の中、鬼垣すら混乱を通り越して茫然と立ちつくし、まともに思考が出来ていない状況の中で、唯一の大人である彼は、的確な判断を下した。

 イクセンの指示に従い、生徒の一人が備え付けてあった消火器を手に取り、教室の備品や火が付いた服に、消火剤を振りまいて行った。同時に、気を失っている生徒や動けない状態にある生徒達が、教室後方に運ばれて行った。

「すぐに保健センターと消防センターに連絡を! 担架と救急車をお願いするんだ!」

 イクセンの指示は続く。半ば思考停止の状態にあった生徒達に、彼の指示に従う以外に出来る行動があるわけもなく、誰もが放心状態のままに、手と足を動かして行った。

 その間、俺はと言えば。

 元身体科の身体能力で爆発こそ避けられたものの、情けないことに完全に呆けてしまい、イクセンの指示を聞くことすら出来なかった。出来たことと言えば、周囲で動く生徒達を、まるで別世界の出来事のように、眺めていることだけだった。

 なぜ、こんなことが起こるのか。

 ただ、普通に過ごしたいだけなのに。

 辛い事ばかりが、なぜ起こり続けるのか。

 俺の人生を、誰が狂わせようとしているのか。

 そんな答えの出ない疑念が、頭をよぎり続けていた。


***


 結局騒ぎが鎮静化したのは、爆発事故から半日が経過してからだった。

 火傷や切り傷などの軽傷者多数、爆発によって倒れた机や備品に巻き込まれて、骨にひびが入った生徒が何人か。幸いなことに死者は一人もなし。

 それが、日が完全に暮れた後、改めて召集された俺達に対してイクセンが説明した、被害状況だった。

「とりあえず……人死にが出なくてよかった。それは確かだね」

 イクセンが言う。その目は細められていて、言葉とは裏腹に、口調は淡々としていた。

「さて──SAGAの特性上、こういう事件が起こったとしても、基本的には内部で解決することになっているのは、知っているね」

 SAGAに集まっている人間は大半は、精神に大なり小なり異常を抱えている。それは世間が認知していることであり、SAGAを設立した政治関係者達もよく知っていることだ。

 そんな人間、それも子供がやんちゃをしでかすたびに警察や関係者が出張っていたのではきりが無いし、異常発達を持った人間を普通の警察が対応するのでは、ややこしい事態になる事も多い。何より──精神異常者というデリケートな案件を扱うのは、専門家でないと難しい。

 そこでSAGAには、ある程度ではあるが、自治権に近いものが与えられていた。

 SAGAには精神科医やカウンセラーはもとより、消防設備やある程度の医療機関が敷地内に常備されており、今回のような関係者の負傷や事故などは、それらによって沈静化される。そして、敷地内かつ学生に限りはするが、人間を拘束する権利すらも与えられていたのだ。

 とどのつまり──SAGAは学校の名前を借りた隔離施設であり、その身内のしでかした不始末は、身内で片をつけさせる、という処置である。

「生徒に対する罰則は、厳重に決定される。それは教職員の独断ではなく、何重もの審査を通した上で判断される。要するに、疑わしきは罰せずが基本なわけなんだよね。けれど──」

 イクセンが、組んだ手の上に顎を乗せて、さらに目を細めた。普段の飄々とした態度は、掻き消えているように見えた。

「今回ばかりは、流石に大目に見れる範囲を越えているね」

 イクセンの言葉に、場の空気が固まった気がした。

 学園側も許可を下したとは言え、本来存在しない、普通科による発表祭演目の強引な追加。その練習中に、死者こそ出ていないとは言え、怪我人を多数発生させる事故の勃発。

 学生同士の他愛ないトラブルで済ませるには──少しばかり、やんちゃが過ぎたというものだ。

「とりあえず学園側は、演目は中止の方向で動き始めているわけだけど」

 その言葉だけで、その場にいた生徒全員が、驚愕に顔を歪めた。

 道理と言えば道理かもしれない。けれど、上からの御達しで、これまでがんばってきたことを無に帰されると言われても、はいそうですかと納得のいくわけがない。

 けれど。

 俺個人に限れば、本当の絶望は、この後の展開だった。

「僕個人としては、権力で君達の努力を無駄にさせるのは、少々忍びない。そこでまず、学園側を納得させるためにも、なんであんなことが起きたのか、そこをはっきりさせようと思う。誰か、理由を知っている人はいるのかな?」

 イクセンの細い目が、わずかに見開かれたように思えた。事実を追及しようという意志が感じられた。

 同時に、俺達に──いや、俺の身体に、強い緊張が走った。

 この後に起こる議論が、流れが、予想出来てしまったからだ。

「閃光弾を改造したのは……機械科よね」

 女子の誰かが言った。今回の事件はスタングレネードが発端なのだ。議論を始めるにあたって、それをはっきりさせることは、当然と言えるだろう。

 だが──その情報が提示されたことが、俺の背筋を再度凍らせた。

「機械科の悪戯だったっての?」

「いや、それはないだろ。別にあいつらにメリットもないし」

「何かの手違いとか? 単純なミス?」

「それもないんじゃね? だってあいつら、すげー仕事にプライド持ってるし、技術力も半端ないわけじゃん。普通に考えりゃ、ケアレスミスで済まされる範囲でもないんだし」

「じゃあ結局、なんであんなことが起こったの? 誰が仕向けたわけ?」

「誰かが意図的にしたんでなきゃ、あんなこと起こりえないよね」

 女子の発言を皮切りに、あちこちで議論が巻き起こった。議論の焦点は、イクセンの質問である“なぜ事件が起こったか”から、“誰が事件を意図したのか”ということに、シフトして行った。

「機械科に、閃光弾の改造を依頼したのは誰だい?」

 イクセンの言葉を合図にするかのように、その場に居た大半の人間の目が、俺の方へと向けられた。

「……」

 俺は、話の流れが予想通りに行ってしまったことを──面々の疑惑が俺に集約されたのを、確かに感じた。

 同時に俺の中では、有りもしない罪を着せられたことで、凄まじい焦燥と、怒りの感情が蠢いていた。

 俺じゃない、俺がそんなことをするはずがない。今度こそ、そう叫び出しそうになっていた。

 しかし──さっきから頭の中で強制的にリフレインされ続けている、ずっと昔に起こった糞のような出来事が、上手く言葉を出すことを、許さないでいた。

「機械科に頼んだのも、ブツを受け取ったのも、無為だよね」「機械科の人と仲良くしてるの、私見たことあるよ」

 ああ──また同じなのか。

「無為、あんたがやったの……?」「そうとしか考えられないな。こないだの剣のこともあるし、クロだろ」「マジかよ……信じらんねぇ!」「皆のがんばりを無駄にしようとしたわけ? さいってー……」

 またそうして──他の可能性を模索することもなく、十分な討論の時間を持つことすらなく、反論など欠片も認めることなく、俺一人だけが悪いのだと、決めつけるのか……!

「なんであんなことしたのよ……」「意味わかんない……」

 俺を見る連中の目が、次々と濁って行った。見覚えがある──有り過ぎる光景だった。

 誰かを悪者にしてしまえば、自分達は正義の味方だ。正しい人間だ。だから自分達は悪くない──そんなエゴと矛盾に気づくこともなく、数の暴力だけで結論を出す。それは昔も今も、おそらく世界のどこに行っても、変わらない事実。

 そして、その事実が傷つけるのは──いつだって、俺のように、あるいは灯のように、力のない人間だ。

「……っ」

 反論はしなかった。出来なかった。しても無駄なのだと、無意味なことなのだと、既の所で自分を言いくるめ、かろうじて怒りを抑えつけていた。

 そうでもしなければ、リスクの計算も何もかも放り出して、この場で暴れ回ってしまったかもしれない。今よりも、ずっと悪い状況に陥っていたかもしれない。

「ちょ、ちょっと皆……」

 鬼垣が心配そうな、悲痛そうな声を出した。いつもの自信に満ちた様子は、どこにも見受けられなかった。

「……」

 草十郎は何も言わないでいた。そして珍しいことに、ただただ険しいだけの表情を、その顔に浮かべていた。

「無為」

 イクセンが、細い目で俺を見据えていた。その目からは、有無を言わさぬ、強い意志が感じられた。

「果たして、君がこの悪戯を仕込んだのかどうか、今の時点でははっきりしない。僕個人の所見を言わせてもらえば、まだ疑問はたくさん残っているし、断定には早すぎると思う。けれど、ここは──予定通り演劇を行うためにも、教師としての義務としても、君を断罪するのがベストだろうね」

「な──」

 ここまで必死に耐えてきたにも関わらず──この言葉が、俺の中の大事な何かを、徹底的に、切り刻んでしまった。

 ついこの間、俺はこの教師の言葉で、わずかながらも救われたのだ。だからこそ、あってはいけないと思いつつも、ふと思ってしまっていたのだ。

 この人なら、俺の苦しみを、理解してくれているのかもしれない、と。

「ふ──」

 だからこそ、許せなかった。

 確かに、俺一人を生贄にすれば、普通科全体が責任を取る必要はない。あくまで悪いのは無為優作という一生徒なのだから、それで普通科の演目が潰されるのはおかしい。そういう理屈だ。イクセンは、“みんな”のために、そんな決断を下したのだ。

 その理屈だけならわかる。理解も出来る。

 けれど──そんな身勝手な考え方で、エゴにまみれた屁理屈で、この怒りが収まるはずが、納得が行くわけが──ないだろうが!

「ふざけんなよ!! なんで俺がそんな意味のないことをしなきゃいけないんだ! 俺がそんなことをやるものか! 世界中くまなく探したって、理由なんか見つかるわけがないだろうが! 少し考えればわかるだろうが! てめぇら全員──」

 止まらない。言葉の濁流が止まらない。自分に味方がいないと言う事実が、心のブレーキを壊していた。自分が助からないという事実が、声を止めることを許さなかった。

 だから、言ってはいけないことも、普段なら絶対に言わないことも、簡単に口からこぼれてしまう。

 

「てめぇら全員、マジで頭おかしいんじゃないのか!?」


 言い終わった瞬間、俺の中に、絶望感が募って行った。

 やらかした、なんて言葉ではもはや済まない。俺はこの瞬間、この場にいる人間を、残らず敵に回したのだから。

「「「……」」」

 完全にキレてしまった。一頻り叫び終わり、その後肩で息をし続けて、数秒が経過した。

 その間に──面々の目つきが、がらりと変わっていた。

 頭がおかしいんじゃないのか。当たり前だ。SAGAの生徒なら誰だって、精神に異常を持っている。そのために、ずっとずっと、苦しんでも来たのだ。

 その事実を、面と向かって指摘されればどんな気持ちになるか。その事実を同類に指摘されれば、その同類をどう認識するか。考えるまでもないことだった。

 ──何、一人だけまともなふりしてんだよ。

 どこからか、そんな声が、聞こえた気がした。

「……無為」

 興奮が収まらない俺の手を、掴む奴がいた。いつの間に近くに来ていたのか、イクセンの顔が、すぐ側にあった。とても険しく──そしてやはり、強い意志を感じさせる目をしていた。

「ここは引いておきなさい。これ以上は、君が傷つくだけだ」

 イクセンの言葉に反論できるだけの材料を、俺は持ち合わせていなかった。

「皆、無為の処遇は後で発表する。おそらく、発表祭が終わるまで独房行きになるだろう。断罪としては十二分だ。それ以上彼を苦しめると言うなら、今度は君達の方が罪になることを、覚えておいてくれ。演目についても、決まり次第伝えるよ」

「……」

 すぐ近くで発されているイクセンの言葉が、酷く遠い場所のように感じた。

 先日、剣壊しの犯人として疑われた時よりも、ずっと遠くであるかのように。

「さぁ行こう、無為」

「……あぁ」

 もはや、俺を掴むイクセンの手を振り切る気力が、俺には残っていなかった。

 俺はそのまま、冷たい目をした同級生達が残る教室を、後にした。



 いくつかの山を越え、川を渡り、何日も旅を続けた果てに、少年は立て札にあった、魔女の住処に辿りついた。

「ここに魔女が居るってか……」

 少年は、魔女が棲むという森を一望して言った。そして、首をかしげた。

「その割には、普通の森だよな……」

 ぱっと見た限り、少年が子供の頃遊び場として使っていた森と、そう違いはないように思えた。“魔女の住処”という言葉から連想するイメージとは、かけ離れていたと言ってもいい。

「ま、気にしてもしょうがねーか。さて……」

 生来、細かいことを気にしない性分である少年は、すぐに思考を切り替えた。

 自分は、魔女と決闘をするためにここまで来たのだ。ならば、取るべき行動は一つしかない。そう考えたのだ。

 腹が決まると、少年は大きく息を吸い込み──

「魔女ぉおおおおおおおおおおおおお! 聞こえってっかぁああああああああああああ! 俺と勝負しろおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 力の限り、宣戦布告を叫び上げた。

 戦略や知略という概念すら持ち合わせていなかった少年に取って、戦いとはこうして正面切って挑むものだった。それは、例え相手が神々だろうと悪名高い魔女だろうと、変わることのない、少年の中で絶対のルールだった。

「……おかしいな」

 しかし、待てど暮らせど返事は来ない。

 客観的に見れば、今の少年の台詞を聞いて、「よし、いざ尋常に勝負だ!」と言いながら現れる魔女──というか人間──はまずいないのだが、少年にそんなことはわからない。

 少年は仕方なく、森の奥深くへと分け入って行った。


 魔女の棲む森は、とても豊かな場所だった。

 あちこちに泉があり、どこに視線を向けても動植物が視界に入った。木々の隙間からは陽光が漏れ出ており、農耕に適した場所も数多くあるように思えた。おそらく、下手な農村などよりも、食糧は遥かに豊富に違いない。

「なるほどなぁ……魔女ってのは、いい所に住んでるんだな」

 基本的に天然である少年は、森を見て、そんなどこかずれた感想を抱いていた。

 少年が森を散策していると、奇妙な場所を見つけた。群生している木々が、ある箇所を中心に曲がって伸びており、頂上の部分で折り重なっていた。全体として、まるで人間の家のような形を取っているのだ。

「魔女の家……か?」

 樹木がこのような形になるなど、自然界では考えられない。となれば、魔女による魔法とやらで作られたものなのではないか──と、少年は(珍しく頭を使って)結論を出した。

「うぅむ……こん中にいるのかな」

 少年は何気なく、その“家”に近づき、壁に触れようとした。その瞬間だった。

「っ!」

 少年は、動物的な勘で地面に伏せた。すると、今の今まで少年が立っていた位置に、木の枝を鋭く削った物──不格好ではあるが、“矢”だろう──が、突き刺さった。

「……誰だ、貴様は」

 少年の背後の方向から、甲高い声がした。少年は、愛剣を鞘から引き抜きつつ立ちあがり、声のした方向に切っ先を向けた。

「魔女を狩りに来た者だ! お前が魔女……か?」

 しかし少年の勢いは、そこで止まってしまった。視線の先にいた人物が、想像していたものと、大きくかけ離れていたためだ。

「えーと……」

 そこに居たのは、どう見ても少年と同年代にしか見えない、少女だった。

 少女の全身は煤で汚れており、服装も麻で作られたスカートにゆったりとしたガウンと言う、そこらの村娘と変わらないような出で立ちをしていた。手に持っている杖らしきものが無ければ、初見でこの少女を魔女など思う者など、まずいるまい。

 “魔女”と聞いて、黒いローブを身に纏った老婆を想像していた少年は、完全に面喰らっていた。

「私を狩る……? ふん、また性懲りも無く現れたか、賞金稼ぎ」

 少女は少年を鼻で笑う。その仕草に少しむかっ腹の立った少年は、動揺を極力抑え、すぐに戦闘が出来るよう、全身に力を入れて、構えを取った。

「自分に賞金が懸かってるのは、知っているんだな」

「当然だ。こう連日襲ってくる人間がいれば、嫌でも気が付く。聞いてもいないのに、賞金稼ぎだと名乗って来る馬鹿もいたしな」

 魔女の話を信じるなら、少年はかなり後発組だったらしい。そしてその情報は、一つの事実を容易に導き出した。 

 ──こいつは、強いわけだ。

 腕っ節に自信のある賞金稼ぎを何人も退けたと言う魔女。中には徒党を組んでいた戦士もいただろうことを思えば、目の前に少女には、相当の実力があると伺える。

「おもしれえ……勝負だ、魔女!」

 少年は、挑戦を何よりも好むタイプの人間だった。

 自身の目の前にいるのは、どう見ても華奢な少女に過ぎない。

 だが、その少女の戦歴に偽りがないと言うなら、相手に取っては不足がない。むしろ、是非とも手合わせをしてみたいほどの相手だ。

 血の気が早くて喧嘩っ早い、そして自身の技量に絶対の自信を持っている少年は、すぐにそう結論付けた。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 少年は剣を大上段に振りかぶったまま、魔女に向かって突進して行った。疑う余地のない、真っ向からの特攻である。

 この攻撃には、一端の兵士ですら受けきるのは難しいほどのパワーを乗せてある。対して魔女の細腕からは、腕力のわの字も見受けられない。ならば、どのような武道の心得があったとしても、彼女にこの攻撃を真正面から受け切ることは出来ない。かと言って、手に持っている短い木の杖では、力の方向を逸らすことも叶わない。

 まともに受けることが出来ない以上、手の内を晒すしかないはず。少年は、そう考えたのだ。

 ──実力、見せてみろ!

 そして少年は──魔女が自分の間合いに入ったと見るや、全力で剣を振りおろした。


***


 物心つくころには、自分の生まれた家がろくでもないと言うことを、自覚していた。

 父親は、あまり俺に関心がないようだった。いつも自分の仕事や趣味に没頭していて、家族にも他人にも、興味を持っている様子を見たことがなかった。なんでこの人は俺を作ったのかと、いつも疑問に思っていた。

 母親は、異常なほど体裁を気にする人間だった。常に誰かの目を気にしていた。愛情のようなものはあったかもしれないけれど、あの人の中では、ヒトからよく見られるように躾けることが、愛情と言うことになっていたらしい。

 だから、家の中で俺は、俺のままでは居られなかった。俺が俺であることは、もはや罪だった。

 辛かった。辛くて苦しくて、そんな家の人間であることが、親から愛されようと必死になっていることが、嫌で嫌で仕方がなかった。

 俺は、成長するに従って、苦痛を含めた様々な心を、精神の奥深くに押し込めて行った。そうすることで、現実を見ないようにすることで、自分を守っていた。それ以外に、正気を保つ手段が無かったのだ。

 そして俺は、いつ頃からか、他人と深く関わるのを避けるようになっていた。

 何よりも面倒くさかった。他人も親も変わらない。それぞれ自分勝手に振る舞って、気分が悪ければ暴力を振るい、そのくせ口先だけは他人に合わせているような、いい加減な連中ばかりに思えた。そんな連中に付き合うことが、いい加減億劫になっていた。

 それでいて、人の顔色を伺うのが癖にもなっていたから、嫌われたと思えば、その度に苦しい気持ちになった。最後には、人と関わること自体を煩わしく思うようになった。

 そして、そうして一人ぼっちでいることは、わずかに寂しいということを除けば、とても心地よかった。

 俺に取って、誰にも邪魔されない、自分だけの空間に引きこもることは、誰かを怖がらないで済む、唯一の方法だった。ずっとここにいれば、もうかったるい他者との関わりを持つ必要はない。そう思っていた。

 けれどある時。そんな俺に、魔が差してしまった事があった。

「ねーあんたがやったんでしょ。うんっていいなよ」

「正直に言っちゃいなよー今ならまだツミは軽いんだよー?」

 いつ頃のことか、もう正確には思い出せない。まだ制服が必要で無い頃だったから、SAGAの中等部に来るよりも、前の事だったろうか。

 夕暮れの教室。真っ赤な夕陽の光が差し込み、机や窓枠が、影で図形を描く中。数人の女子生徒が、一人を囲んでたむろしていた。

 囲まれた一人は、床にしゃがみこみ、頭を抱えて涙目になっていた。その生徒の目の前にあるのは、床に落ちた花瓶。教室のインテリアとして花を生けていて、クラス全体が、当番制で水を換えることになっていたものだ。

 その花瓶は、粉々になっていた。花は散乱し、辺りは中に入っていた水でびっしょりだった。

 花瓶が置いてあったのは、小学生の肩くらいの位置にあるロッカーの上だった。誰かが水を換える際にミスをして床にでも落とせば、簡単に目の前の光景が出来上がるだろう。

「ねぇ、聞いてんの!」

 一際背の高い女子が、囲まれている女子の髪の毛を掴んだ。遠目からでも、かなり険しい表情なのがわかる。

「わ、わたし、やってない……」

「はぁ!? よく聞こえないんだけどー!」

「もうちょっとはっきりしゃべれよなー」

「そーそー。『私がやりました』ってはっきりさぁ!」

 囲んでいる側の女子達は、囲まれている女子を小突きながら、けたけたと笑っていた。囲まれている女子は、ぼろぼろと涙を流しながら、俯いていた。

 普段通りの、いつも通りの光景だった。

 囲まれている女子は、普段から苛めのターゲットにされていた。男子からも嫌われる気弱なタイプだったから、助けに入るような男はいなかったし、教師がやる気のない人間だと言うことも相まって、彼女を助ける存在は一人もいなかった。

 俺もまた、彼女を苛めていた。

 別に、直接攻撃をした覚えはない。かと言って「苛めを見過ごした人間も同罪だ!」などと言う、文科省の思想のようなことを言っているわけでもない。ただ単に、クラス単位、そして下手をすれば学校単位での苛めに、自分だけが参加していないと言い張るのは、少々厳しいのではと思うだけだ。

 目の前で行われている光景も、数多ある苛めの一つに過ぎない。おそらく、彼女を苛めている女達の誰かが花瓶を割って、それを彼女のせいだと言うことにしようとしているのだ。早い話が、罪のなすり付けである。

 そして、これまたおそらくではあるが──なすりつけは成功するだろう。

 なぜなら、彼女の味方など、この学校にはいないからだ。

 最後には、彼女はこの学校を去るだろう。自殺か転校か、方法まではわからないが、彼女という存在は、学校からデリートされる。そして、次の標的が無意識的に決定され、苛めは継続される。

 学校という、狭苦しくて息苦しい、そして糞ぬるい水槽に多数の人間が閉じ込められれば、奇跡でも起きない限り、苛めはどこかで起こる。ストレスが弱者に叩きつけられ、弱者はさらなる弱者を叩くことでストレスを逃れようとする。

 そして──最も弱い者は、死ぬまで強者に喰われ続けるのだ。

 この世のどこに行っても変わらない事実。理性も法律もない子供社会が、その例外になるわけがない。

「ん? ちょっと、何見てんだよ!」

 そんな事を考えていると、苛めをしている女達の一人が、俺に気が付いたようだった。

「いや、別に」

「別にじゃねーよ、ガン見してたくせによぉ!」

 男のような言葉を使う少女は、ずかずかと俺に近づいてきて、胸倉を掴んで来た。弱者を痛めつけていたために、気分がハイになっているようだった。

「何か文句でもあるわけぇ? あたし達、悪いことした奴のダンザイしてるだけなんですけどぉ!」

 非があるのはあくまで相手であり、自分達はただ正義を執行しているだけ。苛めを行う人間が、自己を正当化するために必ず使う常套句だった。

「だから、別にって」

「なーにー? どうかしたのー?」

 苛めの主犯格らしき背の高い女子が、俺に興味を持ったらしい。こちらに近づいて来た。

「なんかこいつが文句あるっぽんだけどよぉ、はっきり言わねーんだよ」

「なになに、あんた、こいつのこと好きだったりするわけ?」

「うっは、マジ受ける! コウビさせよーよコウビ!」

「あ、いいねー。ちょっとあんた、服脱ぎなさいよ」

 苛めっ子達はそう言いながら、女生徒のスカートに手をかけ始めた。スカートは半ば脱げかかり、下着が丸見えだった。

「い、いや! 助けて! やめてぇえええ!」

 ただでさえ涙でぼろぼろだった少女の顔が、予想外の恐怖によって青ざめ、更に歪んで行った。

 俺は、そんな苛めの様子を見て、自分の中が冷え切って行くことを感じていた。ああ、やっぱり人間ってこんなもんだよな。そんな風に思っていた。

 しかしその一方で、ほんのわずかではあるが──不愉快になっている自分も居た。

 おそらく、込み上げて来るこの感情は、正義感やそれに準ずるものなどではない。俺は、そんな優しい心を持ち合わせてなどいない。

 だからこれは──単なる傷の舐めあいだ。目の前で蹂躙されている少女に、今まで虐げられていきた自分を、勝手に重ねただけだ。この少女の瞳の奥に、自分を見出しただけだ。自分が一方的になぶられることに、怒りを覚えただけなのだ。

 だが、だからこそ俺は──溢れる怒りの感情を抑えることが、どうしても出来なかった。

「……うぜえ」

 出来得る限り低い声で、しかしはっきり聞き取れる声量で言った。

「は?」

 俺の胸倉を掴んでいた少女が、眉を吊り上げた。

 俺の言ったことが、上手く聞き取れなかったと言うように。自分が非難されたことが、信じられないとでも言うように。

「……今、なんつった? ひょっとして、うざいとか言った? あたしに? あたし達に?」

「ああ、そう言ったんだよ。顔だけじゃなくて耳まで悪いのか? 全く、救いようのないクズだな。可及的速やかにこの世から退場することをお勧めするよ」

「……んだとてめぇ!」

 女子は、見る間に顔を真っ赤にして、怒りを剥きだしにした。続いて、胸倉を掴む手とは反対側の手で、俺を殴りかかっていた。

 普通、成長過程、それもまだ思春期に入っていないような時期の子供は、男子よりも女子の方が力が強い。なのでこの場合、通常ならば俺の方が殴り倒されていただろう。

 けれど、この時既に俺の身体には、異常発達の傾向が見られていた。腕力はもちろんのこと、心肺機能も全身の筋力も、並の子供では比較にならないほどの性能──むしろ、大人のアスリートに近いもの──が備わっていた。

 そして俺は、その並の大人以上の筋力を以て──殴りかかって来た女子の拳を、思い切り掴んだ。

「……ぎ、ああああああああああああああああ!」

 骨の軋む音が聞こえた。自分の手の中で、相手の骨が砕け始めるのを、はっきりと知覚出来た。

 所詮は成長期に入ったばかりの子供、それも女子の身体だ。ほんの少し力を加えれば、簡単に壊れるに決まっている。

「て、てめぇ!」

 仲間の一人が、尋常でない苦痛を味わったためだろう。苛めを行っていた女子達は、苛めを中断し、血相を変えて俺に飛びかかって来た。

 俺は、どこか冷めた目で、連中を観察していた。同時に、最もダメージを与える戦略を、瞬時に練り上げていた。

「こんのおおおおおお……お!?」

 殴りかかって来た主犯格らしき女子の腕を掴み、同時に背後に回り込んだ。掴んだ腕を相手の背中に回せば、簡単に関節を極めることが出来た。

 見様見真似の技術ではあった。しかし、所詮相手は、キレただけの素人女子である。身体能力に決定的な差がある以上、相手に俺の攻撃を防ぐ手立てなどない。

「て、てめぇ! 由美子に何すんだよ!」

 最初に拳を壊した女子が吼えた。どうやらこの主犯格らしき女子は、由美子と言うらしい。

 由美子は俺に拘束されながら、必死でもがいていた。しかし、人体の構造上、一度この形になってしまえば、俺の方が手を緩めない限り、拘束が解けることはない。

「何すんだよ、か。そうだなぁ、敢えて答えるなら……酷いこと、かな」

 俺は、そう言いながら、由美子の上半身を覆うシャツ、その首周りに手をかけた。指をロングTシャツの中に入れる形だ。

 由美子の肌が俺の指に当たり、ほんのりとではあるが、生暖かさが伝わってきた。由美子がおぞましさと恐怖によって、身体を硬直させているのがわかった。

「酷いことって……な、何する気だよ?」

 女子達の顔色が変わった。全員が一気に青ざめたのだ。どうやら、俺がどういう行為に及ぶつもりなのか、半ば本能的に察知したらしい。

 だが、もう遅い。貴様らはついさっき、これ以上に酷いことを、俺にしようとしたのだから。

「こういうことだよ」

 俺はそう言って──由美子の上半身を覆う衣類を、一気に引きちぎった。

 ロングTシャツは破れ、シャツのボタンが全て飛んだ。生意気なことに、胸部を覆う下着も見に付けていたようだったが、それも同時に破り捨てた。自然、由美子の胸部や腹部が露わになり──乳首すらも、露出された。

「「「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」」」

 放課後の校舎に、複数の女子の悲鳴が響き渡った。

「喚くなよ、この程度で。ついさっき交尾交尾と叫んでたのはお前らだろ」

「て、てめ、こんの……! 由美子を放せよ、このチカン!」

「痴漢とは人聞きの悪い。本当に痴漢をするのは、これからなんだから」

「な、なにを言って……!?」

 拳を壊した女子は、顔を真っ赤にして、無事な方の手を震わしながらも、目を見開いていた。おぞましさや羞恥、仲間を攻撃される恐怖、そして怒りもあったのだろうが、それ以上に、こういうことに興味がある年頃なのだろう。

「ほいっと」

「っ!?」

 俺は、由美子の腕を極めている方とは反対側の手を、由美子の背後から這わせていった。そして、露わになった肌を触っていき──最後には、ほんのわずかに膨らんでいた胸を、わしづかみにした。

「い……いやああああ、放してぇええええええええええええええええ!」

 由美子の悲鳴が上がった。見知らぬ男に身体を触れられた事による恐怖と羞恥が、由美子の身体を、首まで真っ赤に染め上げる。

「な……何やってんだよ! 放せよ!」

「お前ら、さっきその娘がやめてって言った時、止めたか?」

「そ、それは……」

 女子達は閉口し、ただただ怒りに身体を震わせていた。論理的な反論を思いつくことが出来なかったのだろう。

「い、いやぁ……もう……やめてよぉ……私達が悪かったからぁ……」

 由美子は、俺に胸をわしづかみにされ、首筋まで真っ赤にしながらも、妙に艶やかな声を出していた。呼吸もわずかに荒げていていた。

 口では嫌がっているし、おそらく本心でも解放される事を望んではいるのだろう。しかし──第二次性徴すらまだほとんど現れていないお子ちゃまの分際で、本当に生意気なことに──少しばかり、感じてしまっているのかもしれない。

「い、いい加減にしろ!」

 流石にじっとしていられなくなったのだろう。女子の一人が、俺の手を無理やり引き剝がしにかかってきた。

 俺の膂力を以てすれば、やはり女子小学生の力如きで、行為を邪魔されることはない。けれど、ここまで羞恥と屈辱を叩きつけたことで、俺自身もある程度怒りを解消出来ていた。満足していたわけだ。

 だから俺は、女子の引き剝がしに合わせるように手を離し、由美子を解放した。

「ほらよ」

「ゆ、由美子!」

 女子達は、呼吸を荒げ、全身の力を失ったかのように倒れ込む由美子を、必死に抱きかかえた。

「ゆ、許さないからね……! あんた! 後悔することになるわよ!」

「上等だよ。矢でも鉄砲でも教師でもPTAでも、好きなもんを持ってこい。逃げも隠れもしねぇよ」

 興奮と疲労によってぐったりしている由美子を抱えたまま、女子達はどこかに去って行った。後には、割れた花瓶と俺、そして苛められていた少女だけが残された。

「……」

 少女は、わずかに顔を赤らめたまま、茫然としていた。余りにも衝撃的な映像を目の当たりにしたことで、思考が停止してしまっているのだろう。

「……立てるか?」

「ひっ!」

 俺が手を差し伸べると、少女は身体を縮こまらせた。確認するまでもなく、完全に怯えていた。

「あ、その、これは……」

「……」

 俺は、この少女の奥に自分を見た。自分を虐げる連中から、自分を守ろうとした。その結果、苛めをしていた女子達を、最悪の方法で黙らせただけだ。

 そこには善意など欠片もなく、従って偽善にすら成りえない。だから、少女が俺を拒んだ所で、不思議に思う余地はない。

 目の前で自分と年の変わらない少女が猥褻な行為をされて、その実行犯が自分に手を差し伸べてくれば、本能的に恐怖を感じるのが必定だ。今少女が行ったのは、そんな本能的な恐怖から逃れるために自己を守るという、シンプルな行動に過ぎない。

 筋は通っているし、理解も出来る。そのはずだった。

 けれど──それでも、わずかばかりの寂寥が、俺の中に沸き起こっていた。

 ほんのわずかでも、感謝されたいと期待している自分が、そこに居た。

「……余計なことしたかな。悪かった」

 それだけ言い残して、俺は夕暮れの教室を去った。

 少女が何か言いたげな顔をしていたかもしれないが、結局その気持ちが言葉にされることはなかった。

 そして、その翌日から──ただでさえ糞のようだった俺の日常は、さらに過酷さを増した。


 翌日学校に行ってみれば、俺の机がなかった。辺りを見回せば、教室の隅で、ぼろぼろになっている状態の机があった。

 クラスメイトを見回してみると、誰もがこっちを見て、にやにやと嗜虐的な笑みを浮かべていた。そして驚くべきことに、その中には──他のクラスメイトと違って笑ってはおらず、どこかおどおどした様子ではあったが──昨日まで苛められていた、あの少女も含まれていた。それだけで、自分の置かれている現状を理解出来た。

 俺の番、と言うことなのだろう。

 教卓には昨日割られた花瓶が置かれ、その背後にある黒板にはでかでかと犯行声明が書かれていた。もちろん俺の名前入りだ。

 ついでに、「この学校の女子は全員俺のもの! レイプされたい奴から寄って来い!」と言う、頭の悪さを露呈するような煽りも書かれていた。書いた奴は、考えるまでもなかった。

「ちょっと君、校長室に来なさい」

 いっそ、クラスメイト全員を拷問した後にレイプでもしてやろうかと考えていると、教室に現れた担任教師から、そう言われた。(やはり根本的にやる気はないらしく、担任教師は教室の惨状を見ても、表情すら変えなかった。おそらくは、単なるパシリとして来たのだろう)

 とりあえず敵を把握しようかと考えた俺は、大人しく教師の指示に従い、校長室へと赴いた。するとそこには、頭の禿げあがったおっさんや、化粧の臭いでむせそうになるババアどもが蠢いていた。

 それぞれPTAの役員やら教育界の大物やら、有体に言うと社会的地位の高い人間らしかった。由美子のグループは、教室はもちろん、学校全体でもリーダーシップを取るような人間の集まりで、親もそれなりに権力を持っている人間だった。それらの事実が、目の前の状況を作り上げたのだろう。そんな推測だけは出来た。

 その場で、数時間に渡って説教が行われた。前代未聞だの少年の心の闇だの、あれこれとややこしい単語を並べられた気がするが、あまり興味がなかったので聞き流していた。そのため、詳しい内容はよく覚えてはいない。

 とりあえず今日はここまでとして、後日処分を決定すると言うことになった。そして俺は、教室に戻り、苛めの続きを受けるはめになった。

 どのような苛めが行われたか。これまた詳しいことは余り覚えていない。なぜなら、その日からSAGA行きが決定するまでの間、俺に対して、ありとあらゆる苛めが敢行されたからだ。

 集団無視、教科書や文房具が無くなるなんてのは朝飯前。机や椅子に落書きが無い日はなかった。上履きに画びょうを仕込むという、今時どうなんだと思うような古典的な手口から、最新のネットいじめに至るまで行われ、もはや苛めの見本市状態だった。

 俺に取って学校は、居心地がいいとまでは言えないまでも、かろうじて苦痛の無い場所だった。けれどそんな場所すらも、完全に失われてしまった。

 だからと言って、家に帰ったところで、心が落ち着くわけがなかった。俺が行った事を恥と捕らえた両親は、俺を責めに責めた。父親は、恩を仇で返しやがってと言い続けた。

 父親は、子供や妻への無関心は棚上げにして、己がごくわずかに行った善行のみを過大評価していた。自分がやったことに間違いはなく、お前が悪いのだと言い続けた。

 俺の行ったことはクズなんだと、お前が生まれた事自体間違いだったと、言い続けた。俺はゴミなのだと、そう声高に叫び続けた。

 俺は、ただでさえ薄かった他人への関心を、完全に失っていた。怒りを覚えることすら億劫になり、もうどうでもいい、仕方ないことなんだと、自分に言い聞かせていた。そうすることで、自分の心を守っていた。

 学校にも家にも、俺の居場所はなかった。押し殺した辛さの余り、この世のどこにも居場所がないんじゃないかと、そんな風にさえ思っていた。

 ほどなくして、由美子に行ったことが精神異常の末の出来事だとされ、身体に異常発達が見られたことから、俺のSAGA行きが決定した。しかし、特に何かを想うことはなかった。

 例えこの世の最果てだろうと、居場所がないのならどこに行っても同じだと思った。むしろ、自分にはおあつらえむきの場所なんじゃないかとすら思えた。

「ごめんね」

 引っ越しの日に、最初に苛められていた女子が俺の所に来て、そう言った。

「私のせいで、君が、ひどいことになった」

 少女は俯きながら、なんとか言葉を紡いでいるようだった。心の底から悪いと思っているのだろう。そして同時に、ほんのわずかではあるが、自分でなくてよかったと、安堵も感じているのだろう。

 二つの相反する感情が、彼女の中でぶつかり合っているように、俺には思えた。

「……いいよ、別に。お前のせいじゃないし」

 彼女を気遣ったわけではない。俺は、本当にどうでもいいと思っていたのだ。

 彼女が悪いわけではないのは本当だし、彼女が謝罪したところで俺の苦痛は消えはしない。ならば、彼女の謝罪に大した意味はないと、そう考えたのだ。

 けれど彼女は、そんな俺の態度を、自分への気遣いだと、俺の善意だと捕らえたらしい。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、何度も謝罪し続けた。

「……じゃあな」

 俺はそれだけ言い残して、彼女と、自分が生まれ育った故郷を後にした。

 感慨めいたものはあった。けれどそれは、故郷を離れる寂しさではなくて──これからも自分は、こうやって苦痛を味わいながら、流されて生きて行くのかなと言う、ある種の諦観めいたものだった。

 

***


「……長い回想シーンだった」

 俺は、カビ臭いベッドの上で起き上がりながら、一人ぼやいた。独房の入り口に付いている、鉄格子付きの窓から、オレンジ色の陽光が差し込んで来ていた。

 ベッドから立ち上がり、ぼろぼろの洗面台で軽く顔を洗うと、ついさっきまで見ていた夢を思い出した。

「……なんで今更あんなことをなぁ」

 そう言いつつも、俺の中では、なんとなく推論が出来上がっていた。

 せいぜい4畳程度の広さで、あちこちからカビの臭いが立ち込める部屋。あるものはベッド、トイレ、小さい洗面台のみ。懲罰として課されるものは特にないものの、圧倒的な孤独と暇が四六時中自分を襲う。

 無実の罪を着せられ、ろくに自己弁護をする時間すら与えられず、こんな場所に叩き込まれたのだ。トラウマの一つや二つ、蘇って来ても驚くことではないだろう。

「……孤独と暇、か」

 そこまで考えた所で、自分の思考に少しばかり疑問を持った。これまでの体験を鑑みれば、孤独も暇も、俺に取ってはそこまで苦痛な物ではなかったはずだ。

 まぁ確かに、何もやることがないのは苦しいと言えなくもないが、座禅でも組んで益体も無い思索にでも耽っていれば、確実に日は経つのだから、そこまで仰々しく語るほどの苦しみではないだろう。

 ならば──トラウマを想起させたのは、孤独の方だろうか?

「孤独か……」

 口に出してみて、それも少し違っている気がした。人間アレルギーの気があるような人間が、たかが数日独房に押し込まれた程度のことを、艱難辛苦扱いすることはないのではないか。

「自分で思ってるよりは、さびしがり屋ってことかな……」

 さびしがり屋。その単語は、先日まで練習に参加していた、芝居の事を想い起こさせた。

 イクセンによると、とりあえず普通科の面々に対しては、厳重注意と反省文の提出が課されただけで、芝居自体を中止にすることは免れたらしい。

「君のおかげで、皆の努力が無駄にならずに済んだわけだね」

 俺の犠牲は無駄ではなかった。哀しそうな顔でそう言ったイクセンは、ずるいと思った。そんな言い方をされては、やはり憎み切ることも出来ないのだから。

 とにかくそんなわけで、俺が演じることになっていた主役、へっぽこ勇者は草十郎が引き継ぎ、芝居の練習はまた軌道に乗ったらしい。俺が練習に参加することはもうないが、本番である発表祭を見学することくらいは出来るかもしれない──イクセンは、そう言っていた。

「発表祭か……」

 自分が生贄にされたことで、なんとか継続が可能になった演目、その発表の場だ。正直、怒りの感情が消えていることはないのだが、それでも気にならないと言えば嘘になるだろう。

「……灯は、また来ないよな、やっぱり」

 俺は──特に難しい思考があったわけではなく、ただなんとなくなのだが──灯のことに思い至った。

 万年引きこもり娘である灯は、毎年発表祭にも顔を出していない。人間恐怖症のあいつが、あんな人の多い場所に来られるはずがないのだ。

「……あいつはどうしてるかな」

 独房にぶち込まれたために、当然ながら俺はここ数日、灯の待つ学生寮には帰っていない。自然、灯は一人で数日間を過ごしていることになる。

 俺はやはり、灯を含めた他人に興味がない。だから、これまで通りなら、俺が消えたことで灯がどうしているかなど、気にも留めなかっただろう。

 けれど今は、どういうわけなのか──ほんのわずかではあるけれど、灯のことが、一人ぼっちであるあいつのことが、気掛かりだった。

「これ、親の心境って奴かな……」

 言うまでもなく、俺は親などと言うものは、そのままイコールろくでなしだと思っている。だからこの発言は、俺らしくなかったかもしれない。けれど、他に該当する言葉を知らなかったのだ。

「まぁ、気にしても仕方ないか……」

 俺は、そこまで考えたところで、思考を一端切り上げた。またこれまでのように、床で座禅でも組んで、時間を潰そうとしたのだ。

 その時だった。

「……な……なの……あ……た!」

「ん?」

 どこかから、甲高い声がした。聞き覚えのある声で、何かを叫んでいるようだった。

 独房は、SAGAの敷地内では比較的隅の方に位置している。だから、普段はあまり学生の声が届くと言う事はない。

 近くにあるものと言えば、機械科が大規模な実験を行う際に使用する、実験棟くらいなものだ。しかし、そこは実験の騒音が激し過ぎるために、そこで機械科の連中が作業をしていたとしても、やはり人の声がここまで届くと言うことは、滅多にない。

 つまり、人の声が独房に届く事自体、かなりの珍現象なのだ。

「なんだ……?」

 俺は、半ば反射的に、聞こえてくる声に耳を傾けた。

「さっき……知らな……じゃん!」

「……境野?」

 叫び声を上げているのは、俺が先日身体科と訓練を行った時、敵チームとして俺と戦った、あの境野のようだった。

 境野の声は、誰かを責めているようだった。完全には聞き取れないが、言葉にかなりの量の怒気が含まれているように、感じられた。

「爆弾に細工なんて……あたし達がす……理由なんて……いでしょ!」

「──!」

 爆弾、細工。辛うじて聞き取れた単語は、俺の背筋をざわつかせた。

 機械科の生徒である境野が、『爆弾』という単語を使って、誰かを怒鳴りつけている。その状況は、つい先日普通科で起こった事件を、嫌でも想起させた。

 そして、次に聞こえて来た声が、さらに俺の背筋を凍らせた。

「で……も……無為が……来ない……っ!」

「──!」

 自分の名前を呼ぶ声は、微かに震えているようだった。その声の持ち主が、数年の月日を同じ部屋で過ごした人間だと気付いた瞬間、居ても立ってもいられなくなった。

「灯!」

 俺は、自分が置かれている状況も、その状況から抜け出すリスクも何もかも忘れて、独房の入り口に飛び付いた。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 自分の喉から凄まじい音量の声が出たことに、自分で驚いてしまった。身体の限界まで力をひねり出している証拠だった。

 確かに俺の異常発達は、成長過程で弱体化した。けれど、それでも今なお俺の身体には、並のアスリートでは敵わないほどの身体能力が備わっている。

 俺は、その常人離れした身体能力の全てを以て──採光のために取りつけられた鉄格子の枠を掴み、力の限りにゆすり続けた。

 ガ、ガ、ガガ、ガガッガガガガガガガガガ!

 前後左右上下、ありとあらゆる方向に対し、膂力の限りを尽くして扉を揺さぶった。やがて、扉そのものは破壊できないまでも、その付け根の部分に、限界が来ているのを感じた。

「せぇ……の!」

 俺は、そうして門が緩んだのを感じ取るや──全体重を肩に乗せ、扉に体当たりを仕掛けた。

 ガンッ!

 扉は景気のいい音を立てて、物の見事に外れた。肩がずきずきと痛みはしていたが、構ってなどいられない。

「灯……!」

 俺は、独房から抜け出すや否や、先程境野と灯の声がした方向──機械科の実験棟に向かって、走り出した。

 

***

 

 機械科の実験棟は大きい。実際にどこまで行われているかは知らないが、ロケット開発すらも可能だと言うその設備は、下手なコンサートホールなどよりもよほど広大な空間を内包している。遠目に見える他の教室棟に比べてみれば、体積の異様さがよくわかった。

 そんな実験棟の入り口付近──やたらと芝が生い茂っていた──で、二人の女子生徒が言い争いをしていた。

 一人は、比較的背が高く、女性にしてはがっしりとした体格を有していた。確認するまでもなく、先日の戦術シミュレーションで俺を誘い、更には見事に倒してくれた、境野だった。

「だから、何度も言ってるじゃないか! 私達はそんな悪戯していない! する理由なんかない!」

 境野はやはり、思い切り声を張り上げていた。基本冷静沈着なこいつがここまで激昂するというのは、かなり珍しいと思う。

 そして、その怒りをぶつけられている相手は──俺に取って、境野以上に付き合いのある人間であり、ルームメイトとして数年を過ごした存在であり、誰よりよく知っている人物だった。

 彼女は、パーカーにショートパンツ、そしてその下にレギンスと言う、部屋着に近い格好をしていた。しかしその様子は、どう取り繕っても、普段通りではなかった。

 もっとも──こちらの方が、灯の本当の姿なのだが。

「だ……だ、って! ……無為……私……帰って……!」

 しどろもどろ──と言うよりも、挙動不審という表現がよく似合っていた。灯の言葉は、まともに文章の体を為していなかった。

 声の抑揚は極めて激しく、単語──というよりも、単音レベルで大音量になったかと思えば、次の単語ではその声がしぼむ。その繰り返しだった。

 顔色は真っ青で、身体は小刻みに震え続けていた。瞳孔が開くのではないかと言うほどに、目を見開いていた。それでいて、境野の制服の端っこを握り締めて放さないものだから、境野は上手く動くことが出来ないでいるのだ。

 対人恐怖症、社会性不安障害。SAGAの中には、そういう“まともにコミュニケーションが取れない”タイプの欠落者も数多くいた。灯の症状も、それに近いと言えば近いだろう。けれど、灯の精神異常の程度は、おそらく最悪のレベルなのだ。

 ある意味、俺以上に過酷な状況で育って来た彼女は、障害レベルで自分に自信がない。だから他者に対して、誇張ではなく“いつ殺されるかわからない”という疑問を、常に抱いている。

 殺される恐怖、死ぬ恐怖。人間だろうと動物だろうと、その怖ろしさから逃れられる生物はいない。だから彼女は──365日24時間、本当に何時如何なる時も──平静で、いられないのだ。

「まともにしゃべりなよ!」

 ドン!

 境野が、灯を突き飛ばした。灯はその場に尻餅を付いてしまい──そのまま、立つことが出来ないのでいた。身体を震わせながら、自分の両腕で、自分の身体を抱いていた。

 灯に取って、この世の大半は恐怖でしかない。だから、彼女に取っては、外出だけでも命懸けなのだ。

 ましてや他人に食ってかかるなど、言語道断の所業だ。なけなしの勇気を振り絞っての断行だったに違いない。

 静観を続けるのは、そこまでで限界だった。俺は──その場には多数の機械科生や、担当教師が居たにも関わらず──灯の前に、飛び出して行った。

「境野、やめてくれ!」

「! 無為……」

「無、為……?」

 境野は驚愕のために顔をしかめて、灯は状況そのものが飲み込めないために、さらに目を見開いて、俺を見た。

「灯、なんで来たんだ。部屋でじっとしていればよかっただろうが!」

 敢えて、かなり強い言い方をした。万が一にも、灯の力が顕現してしまわないようにという考慮もあった。だがそれ以上に、灯から負担を消してやりたかった、というのが大きい。

 このまま灯が部屋に逃げ帰ってくれれば、被害は最小限で済む。俺が境野を宥めることで、なんとかこの場は切り抜けられる。そんな打算から出た言葉だった。

 他人から興味を失ったはずの俺が、こんな気持ちになるなんて──そんな疑問もわずかに頭をかすめたが、切迫する状況が、熟考することを許さなかった。

「だ、だ、だって……」

 灯が、どもりながらも、小声ながらも、自分の意見を、確かに口にした。

「無為、が……嫌な、気、持ちに……なって、るって……思った、から」

「──!」

 今度は、俺の方が目を見開く番だった。

 なんてこった。

 灯は──この人間恐怖症の臆病者は、よりにもよって、俺なんかの気持ちを慮って、絶対の恐怖の中を、かいくぐって来たというのか?

「なんで──なんでだよ! 俺の事なんか放っておけばいいだろう!」

 考えるより先に、感情が口を突いて出ていた。

 俺に取って、他人なんてものは、どうでもいいものだった。

 関わりたくない。触れば痛いだけ。そんな存在だった。

 けれどそれは、他人に取っても同じだと思っていた。

 誰も俺のことなど気にしない。居てもいなくても同じ。どうでもいい奴、いるとうざいから消えて。そんな風に思われていると感じていた。

 今まで、酷い言葉ばかりかけられて来なかったから、辛い思いばかりしてきたから、他人に取って自分など、無意味なものだと思っていた。

 けれど──灯は。灯に取っての俺は。殺されるかもしれないという不安の中を、身体が逃げろを叫ぶ中を、無理やりに突き進むほどに、価値がある存在だったと、そう言うのか?

「い、いん、ちょう……」

「……委員長? あいつがどうしたって言うんだよ!?」

「無為、が……機械科、の、悪戯、で……独房、入らされた、って、言って……だから、機械科の、奴、やっつ、けて……やろう、って……そしたら……無為……帰って、来るんじゃないか、って、思って……」

「……!」

 おそらく鬼垣は、純粋な善意から行動したのだろう。

 俺が帰って来ないことで、灯が何らかな不安を抱え、突飛な行動に出るのではないかと、そんな心配を抱いたために、おそらくはメールや手紙などを使って、状況の概要のみを伝えたに違いない。

 リーダーとして、普通科生の一員である灯を慮っての行動だ。そこに悪意などない。けれど──結果だけ見れば、余計な真似をしてくれたと、そう言わざるを得ない。

 灯にしてみれば、俺が悪戯をして怪我人を出したなどと聞かされた所で、疑念しか思い浮かばなかっただろう。無為がそんなことをするはずがない、だから悪いのは、爆弾に細工をした機械科生だ。特に、俺と親交があり、直接爆弾をいじった境野が最も怪しい──そんな結論に辿りついた事は、想像に難くなかった。

「灯、とにかく今は帰れ! 俺なら大丈夫だ! 何日かしたら絶対帰るから!」

「で、も……」

「いいから! 境野、済まないが、ここは見逃してくれ! 謝罪なら後から俺がいくらでもするから!」

「……待ちなよ。それで、私が納得すると?」

 俺は、再び背筋が凍るのを感じていた。目の前にいる境野から、殺気にすら及ぶのではないかと言うほどの怒気が、放たれていたからだ。

「私達は機械科生だよ。機械を弄ることだけに特化した、この上ない異常者の集団だ。だけど、だからこそ、自分達の仕事にはプライドがある。なのに、今私は、心当たりのないミスを指摘されて、挙句お前らのせいだなんだと、ボロクソに言われたんだよ」

「──」

 気が付けば、怒気をまき散らしているのは、境野だけではなかった。周囲にいる機械科生達の中にも、眉をひそめている人間は、少なからず存在した。

「機械科生だからと言って、全くミスをしないとは言わない。それでも、納得が行く話じゃあない。それを、自分が謝罪するからそれで済ませろってのは、少しばかり、虫が良すぎるんじゃないか? せめて──その女の子が直接謝罪するのが、道理だと思うけど」

「それは……」

 俺は、二の句がつなげない。境野が言っていることは、筋が通っているからだ。

 けれど、正直なところ、常時心を支配している恐怖に加えて、冷静さすら失っている今の灯に、そんな対応が出来るとは思えない。謝罪をするにしても、少しばかりの、時間が必要なのだ。

 だから──少なくとも今だけは、俺がなんとかしようと思った。

 自分でもなぜこんな気持ちになっているのか、わからない。しかし──それでも灯を見捨てようと言う気には、全くならなかった。

「無為、が!」

 灯が、再度立ちあがり、境野に向かって、必死に声を張り上げた。

「無為が、そんな、悪戯、するわけ、ない!」

「普通科で起こった事件については、私達も聞いてるよ。なぜあんなことが起こったのかは、私達にもわからない。けど──私達のミスじゃないことは、断言できるよ」

「断言、でき、ない! きっと、あんた達が、やった!」

「……しつこいな」

 その瞬間、境野の目つきが変わった。鋭さが増し、放たれている怒気は、今度こそ殺気と呼んで差し支えないものになった。

 その顔に刻まれている表情は、職人の怒りから、獰猛な獣のそれへと、変貌を遂げた。彼女は、完全に本気だった。

 やばい──身体科のカリキュラムで鍛えた、動物的な感覚が、俺に危険を告げていた。

「これ以上私達のプライドを蔑ろするってんなら、流石に言葉じゃ収まらないよ」

 言いながら、境野は腰につけていたポーチから、小さな刃物を取り出し、身体を半身にして構えた。

 なんてことはない、コンビニで売っているような、普通のダンボールカッターだ。しかし、境野が刃物を持ったと言う事実が、状況の危険度がかなり高い事を、指し示していた。

 境野の持つ異常性。それは、一言で言うなら、興味の範囲の狭さだ。

 自分が興味を持つことには遠慮なく猪突猛進し、興味のない範囲には例え死んでも近づかない。それが、境野の──そして、SAGAの生徒全体に、割と多く見られる症状だった。

 だが、境野のそれは、極めて危険性が高いのだ。

 なぜなら、彼女が興味を持っている範囲が、“武器”と“武器を使う事”だからだ。

 興味が──というより、趣味が高じ過ぎたためにSAGA行きになった彼女は、ありとあらゆる銃火器や刃物に通じていた。その知識と技術は、軍事関連技術の専門家として機械科に籍を置くほどで、その取り扱いにも長けていた。

 シミュレーションとはいえ、戦闘行為の専門家である、身体科の生徒とも互角に戦えるほどの腕前を誇る彼女。そんな彼女の技能は、武器の取り扱いと言う一点において言えば、機械科生ではあっても、身体科のそれと比べて遜色がない。

 武器の取り扱い──即ち、誰かを攻撃すること。そんなことに興味を集約してしまった彼女は、一度こうすると決めたなら、相手が何者であっても攻撃することを躊躇わない。スイッチが入ってしまえば、目の前にいるのは、標的以外の何物でもない。例え相手が、旧知の人間であってもだ。

 それが、境野瑠奈という少女の持つ、異常性だった。

 とどのつまり──今俺と灯は、超一流の腕前を誇り、手加減という概念を持っていない兵士に、カッターナイフとは言え、刃を向けられている状態なのだ。誇張でも比喩でもなく、本当に命すら危ういかもしれない。

「境野……落ち着いてくれ」

 俺は、なんとか境野をなだめようとしていた。しかし同時に、自分の身体全体に、微量の力を加えていた。

 いつ彼女が攻撃に移ってきても、瞬時に対処出来るように。

「無理だね。その子は、私達の顔に泥を塗ったんだから。どきなよ無為。これは、その子と私の決闘だよ」

 カッターナイフを構え、完全に戦闘をするつもりの境野。おそらく俺がどいた瞬間に、灯に襲いかかる腹積りだろう。あるいは──灯が逃げようとした瞬間に、ナイフを灯の背中に投擲するつもりかもしれない。

 どちらにせよ、どくわけにはいかない。

「ナイフをしまってくれ、こいつにも悪気があったわけじゃないんだ。灯は、そんなことをする人間じゃない」

「……随分肩を持つんだね、その子の」

 自分の背後で、灯が全身を強張らせているのが伝わって来た。自分のために、自分以外の人間が言い争いをしていると言う状況が、過度の緊張を与えているのだろう。

「ルームメイトなんでな。付き合いはお前よりも長い」

「ふーん……なら、最後までその子をかばうわけだ、無為は」

「……そうなるな」

 なんとかこの場を収める手段はないか。境野との会話の最中も、俺はずっとその事に頭を巡らせていた。

 しかし──その答えは、未だに出ていない。

「じゃあ、もういいや」

 境野が、ふっと力を抜いたように見えた。

 まさか、本当に俺の説得に応じてくれたのだろうか──そんな楽観的な予測が頭をよぎった、次の瞬間。

「二人とも、死んじゃえ」

 恐るべきスピードで、境野の構えたナイフが、俺の顔面に向かって、突き進んできた。


 避けきれる速度じゃない。なんでこいつは身体科じゃなくて機械科にいるのか、真剣にわからないと思った。というかこれはやばい。流石にマジで危ない。危ないと言うか死ぬ。死ぬかと思ったとか死んだ方がましだとか、そんな表層意識の言葉とは違う、心の底から本能が叫んでいる。やばい、これは本気でやばい。死ぬ。まずナイフは目に刺さる。それでもこの勢いは収まらない。目をえぐったナイフは、そのまま脳髄に達する。脳をずたずたにして、それでも勢いは止まらないだろう。刃は身体中をめぐって、神経という神経を切り刻み、血管という血管を切り裂き、肉という肉をずたずたにして、最後には骨すら残さない。身体も精神も魂すらも蹂躙され踏みにじられ、後には何も残らない。確信だ、予想じゃない。やばい、これはやばい、やばいやばいやばい。

 俺が死ぬ。灯も死ぬ。やはり灯も死ぬと言う辺り俺は灯の事を想っているのかいやそんなことはどうでもいいいやというかそんなことを考えている場合じゃないなぜこんなに頭が回っているんだこれが走馬灯という奴か今までどんなに辛くても死を考えたことはほとんどなかったが考えなくてよかったこんなことを想うくらいなら生きていた方がまだましだいや本当にどうだろうか今までを振り返ればまだ死んだ方がよかったんじゃないかいやどうだろうもう自分の気持ちがわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない痛いのは嫌だ死ぬのは嫌だ。

 死ぬのは、嫌だな。

 なんでこうなったかな。

 どうせ死ぬなら、やりたい放題やってから死ねばよかった。

 親父の顔を、ぶんなぐる位は、してから、死ねば、よかった。

 ナイフが文字通り目の前に来た。頭に浮かぶのは、そんな後悔ばかりだった。

 けれど同時に、俺は頭の片隅で、不思議なことに、とても不思議なことに、自分以外の人間のことを、少しだけ、ほんの少しだけ、想ってもいた。考えてしまっていた。

 俺と同室の少女。俺と同じように、辛い目に遭い続けて、終いには自分の性別すらわからなくなって、自分がわからなくなって、ただただ世の中の全てを怖がっていた彼女。

 こいつは、俺が死んでしまったら、どうなるんだろう。

 俺の次に殺されるんだろうか。

 それは──少しばかり、不幸が過ぎるだろうに。

 世の中は辛い事が一杯で、不幸が目白押しで、平等なんてのは妄想の中にすらなくて、いつも力がある者の想いだけが通るものだけれど。

 それでも、ほんの少しくらいは、幸せを望んでも、ばちは当たらないだろうに。

 ああ、それにしても、糞みたいな人生だった。

 最後まであっけない、あって無いような人生だった。

 けれど。

 俺が先に死ぬことで、灯の時間を、例えたった一瞬間だけでも、伸ばすことが出来るのならば。

 灯を──自分が好ましく思う人を守って、死ぬことが出来るのならば。

 ろくでもない人生だったし、俺自身ろくでもない奴だったかもしれないけれど。

 まぁ、悪くはなかったのかもしれないな。

 そんな、ニヒルなヒーロー気取りの、中二病全開の、格好の悪いことを考えながら──俺は、静かに、目を閉じた。


「だめぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」

 

 その場に響き渡ったのは、灯の悲鳴だけではなかった。

 灯の声が形になったかのように、巨大な実験棟が破壊される中で、落ちて来る建物の残骸から逃れようとする生徒達が、声の限りに悲鳴を上げていたのだ。

 その声は、SAGA全体に響き渡るのではないかと言うほどに大きく──まるで、生への渇望と、死への恐怖そのものであるかのように、俺には思えた。

 崩壊を始めていたのは、建物だけではなかった。

 周囲の芝は、地面ごと根こそぎ掘り起こされ、まるで地面の中にあった不発弾が爆発したかのような有り様だった。近場にあった木々は、文字通り根こそぎ倒れ伏してしまい、比較的遠い場所にあった建物でも、硝子という硝子がひび割れ、水道管が破裂している箇所もあった。

 そんな大量破壊を視界に収める中で、衝撃破、という単語が、俺の頭に浮かんだ。

 かいつまんで言えば、物体が音速を越えて移動すると、その物体が“音の壁”にぶつかるために、物体の周囲に凄まじい圧力を生む、という現象だ。本来は、戦闘機や銃弾などが音速を越えて移動した場合や、強力な爆弾が爆発した際に生じるものである。

 しかし灯は、物理法則を歪める力、つまり魔法を使える存在なのだ。そんな現象を、なんの因果もなく発生させたとしても、不思議ではない。

 そして──それだけの被害の中で、人間だけが無事であるなどというのは、余りにも都合が良すぎると言うものだろう。

「痛い痛いイタイイタイ痛いぃいいいいいいいいいいいいいいいい!」「たす、け、て……下半身が、抜けない……」「いやあああああ! 熱い! 熱い! 誰か、火を消して!」「いやああああああなんなのこれええええええええええええ!」

 阿鼻叫喚、と言う言葉がよく似合っていた。

 建物の残骸に押しつぶされそうな者。どこから出たのか、服に火が燃え移っている者。そして、灯が引き起こした衝撃破を直接浴びて、身体が変形するほどの大怪我を負っている者。

 先日、芝居の練習中に起こった爆発などとは、まるで規模が違う。

 紛いようもない、凄まじい破壊が、人々を、建造物を、自然を、目の前にある全てを、蹂躙していた。

 そして、俺自身すらも、その例外ではなかった。

「無為……?」

 数分が経過し、破壊が一通り収まった後──それでも周囲からは未だに叫び声が聞こえていたが──灯は、膝立ちの状態で、俺を、真上から見ていた。

 俺はと言えば、そんな灯を、かろうじて残っている意識の中で、五体が地面に投げ出される中で、ただ見上げていた。それしか出来なかった。

 正直な所、指一本動かすことが出来なかったのだ。

 体幹部分からは鈍い痛みが断続的に響いて来ていて、手足も動かなかった。おそらく、身体中の骨があちこち折れているのだろう。加えて、身体から熱が感じられないことから、出血もひどいのではないかと思われる。俺の状態を簡単に記せば、そんな感じだった。

 灯は、ひどい形相だった。ただでさえ涙でぐしゃぐしゃなのに、その上、完全に血の気が引いている。

 まぁ、長い間連れ添ったルームメイトが、目の前で死にかけているのだ。無理もないと言えば無理もない。

 自分が死にかけていると言うのに、頭だけは嫌に冷静だった。人間、本当に死ぬと言う瞬間には、例えどんな自分であろうとも許されるから、逆に心が落ち着くのかもしれないなぁ──と、そんな事を、思うともなく思っていた。

「あ……」

 何気なく、灯を少し落ち着かせてやろうと思って、口を開こうとした。けれど、案の定と言うべきか、口の中が血で一杯で、息を吐き出すことも出来なかった。だから、まともに名前を呼んでやることも出来なかった。

「……早……! こっち……無為……!」

「無為……無……!」

「なん……くそ……!」

 遠くから、どこかで聞いたような声も聞こえていた。すぐ近くで、俺の名前を呼び続ける人間の声も聞こえていた。

 けれど、そのうち、どっちが遠くでどっちが近いのか、それさえもわからなくなっていった。

 ああ、どうやら本当に、これでお別れらしい。

 誰とのお別れなのか、もうそれすらもわからない。

 自分の中にある、いろいろなモノが消え失せて行って、終いには自分と言う観念すらも消えて行く。それが、死ぬと言うことなのだと、視界が真っ暗になって行く中で、なんとなく思った。

 そう思うことすら、次第に無くなって行ったけれど。

 最後まで残ったのは、目の前に広がる、真っ暗だけだった。



 気づいた時には、少年は空を見上げていた。

 妙に頭は冷静で、自分が気絶していたのだとすぐに気付いた。空の色はさっきと変わりないから、気絶していた時間はそう長くないだろう。

 しかし──どうやって気絶に至ったのか、その部分の記憶がすっぽりと抜けている。

「て、てめぇ! この魔女野朗! 何しやがった!」

「ふん、気が付くのが早いな。単細胞は、頭の回転と回復の早さが反比例するらしい」

「は、はんぴれいだとう……!?」

勉強が大嫌いだった少年には、魔女の言葉は余り理解できなかった。しかし、魔女の言い草や表情から、何か馬鹿にされたらしいということだけは、直感的に悟ることが出来た。

「わからないなら、何度でもかかってこい。どうせ、貴様が私に触れることなど出来ん」

「言われなくてもやってやらあ! うらああああああああああああああああああああああああああああ!」

 再び少年は、魔女に斬りかかって行った。今度は下段から斬り上げる形である。

 しかし、やはり魔女は、少年が間合いに入っても微動だにしない。少年は、本気で魔女に傷を負わせるべく、剣を振り上げた。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……あ?」

 次の瞬間には、自分が空を仰いでいることに気付いた。少年の身体は、宙を浮いていたのだ。

 このままでは、地面に激突して気を失ってしまうだろう。

「なんの!」

 少年は、剣を振り回すことで、器用に空中で体勢を整えた。地面に激突する瞬間、なんとか受け身を取り、そのまますぐに立ちあがる。

 無事着地したことで、目の前にあるモノを、しっかりと視界に入れることが出来た。

「これは……」

 地面が、隆起していた。それも、凄まじい崖のように。

 少年は、全精力を使って駆けていた。だからこそ、地面が盛り上がって行くことにも気付かず、隆起した地面を走り続け、自分の力で空中へと投げ出されると言う、奇怪な現象を起こしていたのだ。

「てめぇ……奇妙な技使いやがって! こんな手品使わずに、正々堂々勝負しろい!」

「ふん、魔法は私の力だ。貴様とて剣を使ってるんだ、同じ事だろう」

「それもそうだな!」

「……」

 魔女はとても微妙な顔をしていた。少年は生来、深く考えると言うことをしない主義だったのだ。

「らあああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 三度、少年は突進して行った。三度目の正直と言う奴である。

 しかし、今度は完全に考えなしというわけではなかった。どんなに魔法が凄まじい力でも、短期間にこれだけ見せられれば、対処法を思い付かないわけがない。

 少年は、隆起する地面を剣で切り崩し、そのまま魔女に剣を突き立てるつもりだったのだ。少年の膂力なら、柔らかな地面を切り崩すことなど、造作もないことだった。

「ふん……猪のような奴だ。獣には、これで十分だろう」

 魔女が、手に持った短い杖を軽く振るった。すると、少年の策略もむなしく、今までとは全く違う現象が引き起こされた。

 突如として少年の前に、炎のカーテンが出現したのだ。

「うぁっちい!」

 少年は、火炎の壁に突撃したことで、身体のあちこちに火傷を負ってしまった。服にも引火した。

「あちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃうあっちい!」

 服に引火した炎を消すべく、少年は地面を転がり回った。地面に炎を押し付け、なんとか鎮火が完了した時には、肩で息をしていた。

「ぜlぜー……くぉの……負けん! 絶対負けんぞおおおおおおおおおおおおお!」

 しかし、少年は全く怯むということをせず、再度突進して行った。そんな少年の気迫には、魔女も少々驚いた顔を見せた。

 そして、少年が魔女に突き進んで行くたびに、魔女は杖を振るい、魔法を出現させた。

 ある時は、凄まじい突風が少年の身体を吹き飛ばし。

 ある時は、何本もの炎の矢が少年を追い立て。

 ある時は、固い土や石が壁となって少年の剣を防ぎ。

 ある時は、泉や河の水が、まるで生き物のように蠢き、少年を叩きのめした。

 もはや数を数えるのも面倒になるほど、戦いは続いた。気が付けば、すっかり陽が暮れてしまっていた。

「ぜぇぜぇ……くそ、もう何も見えねーな」

「はぁ……はぁ……本当に……しつこい奴だ……」

 少年はもちろん、魔女も肩で息をしていた。完全に疲労していた。

 どうやら魔法というものも、使うのには体力や精神力を必要とするらしい。

「だが、流石にもうわかっただろう。お前では私には勝てん。それが理解できたなら、さっさと諦めて故郷に帰るがいい」

「あぁ? なんで諦めなけりゃいけないんだよ?」

 魔女は、少年の言葉を聞いて、わずかに眉を吊り上げた。

「……まだやるつもりなのか」

「当たり前だっつうの。負けっぱなしで終わらせるなんて、性に合わねーんだよ」

 少年は、そう言いながら、剣を杖代わりにして、再び立ちあがった。立ちあがったが──そのまま、ずり落ちるように体勢を崩し、尻餅をついた。

「あー……けどまぁ、今日は疲れたからな。続きは明日にしよう」

「つ、続きは明日って……貴様、どこで眠るつもりだ?」

「ここでいーよ。ここの地面、軟らかいしな」

 言うや否や、少年は地面の上に手足を投げ出し、大の字になっていびきをかき始めた。警戒のけの字もしていない仕草だった。

「……わからん。なんだこいつは?」

 残された魔女は、一人ぼやいた。

 普通に考えれば、ついさきほどまで死闘を繰り広げていた相手の前で、いきなり眠るなどと言う行為は、常軌を逸している。けれど、根っこの部分で真っ直ぐな少年の頭には、寝首を掻かれるなどという発想は、欠片もなかったのだ。

 そして次の日から、少年と魔女の、奇妙な生活が始まった。


 日の出とともに起きる少年は、まずは森で適当に狩りをして、手にした動植物を朝食した。魔女が起きてくると、何度か勝負を挑み、また負け続けた。太陽が頭上に差しかかることになると腹が減るので、一端勝負を止めて、また狩りをして昼食にした。

 昼食の後は、昼寝をした。起きれば、また魔女に戦いを挑んだ。最後に夕食を食べれば、泥のように眠った。そんな生活を、何日も繰り返した。

「っがっは! 畜生、また負けた!」

「……」

 魔女の魔法によって吹き飛ばされる少年。陽も暮れ始めており、ここ数日の経験則に照らし合わせるなら、今日はこれで終わりだろう。

 魔女は、泥だらけで地面に横たわる少年を薄目で見ながら、口を開いた。

「貴様……なぜ、そこまでがんばる?」

「あん? なんだよいきなり」

 少年は、上半身を起こし、地面の上にあぐらをかいて、魔女に聞き返した。

「それだけ労力をかけるなら、私の相手などより、労働でもした方が、よほど金にはなるだろう。なぜわざわざ、こんな無駄で無意味な真似を続ける?」

「無駄で無意味とか言うなよ。そーだなぁ……」

 繰り返しになるが、少年は物事を深く考えない性分だった。だからこの時も、特に熟考することもなく、気軽に本音を述べた。

「楽しいからかな」

「……楽しい?」

「おうよ。お前と喧嘩すんの、結構面白いぞ。負けっぱなしは面白くねーから、勝つまでやるけどな」

「……」

 魔女は少年の答えを聞き、押し黙ってしまった。そしてそのまま、特に何かを言うこともなく、すぐに自分の家の中に入ってしまった。

 何か悪いことでも言ったのかと、少年は珍しく、少し気を揉んだ。しかし、やはり数秒後には、特に心当たりはないのだし、気にしてみても始まらないかと考え直した。

 少年はそのまま立ちあがり、周囲の木々を見渡しながら、今日の晩飯はどうしたもんかなぁと、呑気な事に思考を推移させていた。その時だった。

「おい」

 魔女が、自分の家から出て来ていた。今までは、陽が暮れて家に入ってしまえば、決して外出はしなかったから、少年は若干驚いた。

「? どうし──」

 どうした、と言おうとした瞬間に、魔女が何かを投げてよこした。少年は、反射的にそれを両手で受け取った。

 ふんわりとした軟らかい感触と、食欲をそそるいい匂いを感じた。自然、口の中に涎が溜まった。

「パン!」

「やる。肉ばかりでは、栄養が偏るぞ」

「え、マジで? いいの?」

「私が焼いたものだから、味の保証はしないぞ」

「そんなのは気にしねぇよ。じゃ、いただきまーす」

 少年は、すぐに目の前のパンにかじりついた。表面はしっかりと焼いてあり、しかし中身はさくさくとしていて、とても美味だった。

「うめぇ!」

「そうか、よかった」

 魔女は、少年の様子を見ながら、微かに口の端を吊り上げていた。

 少年は、出会って以来、始めて魔女が微笑んでいる所を見た気がした。その表情は、今食べたパンのように柔らかで、多額の懸賞金を掛けられるような残虐な人間だとは、とても思えなかった。

 そして少年は、いつも通り、思ったことをそのまま口にした。

「笑うと、結構可愛いんだな」

「!! な、な、なに、を! 言う! のか貴! 様は!」

「なんか、台詞切るとこおかしくなってねぇ?」

「う、うるさい! 食べたらさっさと寝ろ!」

「へーいへい」

 顔を真っ赤にして怒鳴る魔女を放っておいて、少年は水筒を手にして、予め溜めておいた水を飲んだ。口の中で咀嚼中だったパンが一気に腹の中に入り、完全に食事が完了する。

「あーうまかった。じゃ、おやすみー」

「……」

 少年は、またいつものように地面に横たわろうとした。しかし、魔女がいつまでも立ったままであることに気付き、顔だけを彼女の方に向けた。

「どした? お前も寝ろよ」

「貴様は……」

「うん?」

 魔女は、とても真剣な表情をしていた。少年のことを警戒しているような、腹の底をうかがているような、そんな顔だ。少年は、その表情に見覚えがあった。

 孤児院の弟妹達が、ちょっとした失敗をしてしまった時や悪戯がばれた時、怒られるのではないかと心配している顔だ。同時に、自分や職員達に、援護や助けを求めている時の表情でもあった。

 今の魔女は、ちょうどそんな顔を──捨てられた子犬のような顔をしていた。

「貴様は、私が怖くないのか」

「……怖い?」

「そうだ。他の人間達は、皆私を怖がった。魔法と言う異形の力を見せれば、大体の人間は畏怖の念を抱くか、恐怖の余り私を排除しようとしてきた。賞金稼ぎ達も同じだった。なぜ、貴様はそうならない? なぜ──ずっと、私の周囲に居続ける?」

「あー……?」

 勉強が嫌いな少年には、魔女の言葉は難解過ぎて、少し理解が及ばなかった。けれど、魔女が言おうとしている骨子だけは、理解出来た。

 だから、やはりいつも通り、本音で言葉を返した。

「別に、怖がるとか要らなくね?」

「──」

「魔法とかすげーけど、お前別に街壊したり人殺したりしてないじゃん。襲ってきた賞金稼ぎも、みんな逃がしてるし。他の奴の事は知らねーけど、俺は別に怖がったりしねーよ」

 少年は本を読むのも苦手だった。だから、決して語彙が豊かではなかった。言葉足らずと言い換えることも出来るだろうし、はっきり馬鹿と言うことも出来るだろう。

 けれど、少年自身も無自覚だったが──語彙が少ない故に、飾り気がない故に、少年の言葉は率直で、人の心を動かすことが、とても多かった。

「……そうか。貴様は、勇者なのだな」

「勇者?」

「そうだ。他者に流されず、己を貫き通す者。自分を信じ抜く者。己が己であることを許容する者。それが、勇者だ」

 やはり少年に取って、魔女の言葉は少し難し過ぎた。けれど、なんだか褒められているようだと言うことだけはわかったので、悪い気はしなかった。

「そうだな、俺は勇者だ! だから諦めもしねぇ!」

「そうか。なら、もう何も言うまい。勝手にしろ」

「おう! 明日また勝負だな!」

 少年は、家の中に入って行く魔女を、混ざり気のない笑顔で見送った。

 少年はこの時、頭に馬鹿がつくほどに純粋な心で以て、魔女の心を──人によって傷つけられ過ぎて、人と言うものを怖がり切っていた心を、わずかに動かしていたことに、未だに気付いていなかった。


***


「顔色は悪くないみたいだね」

 嫌になるほど、真っ白い病室だった。壁も天井もベッドも、部屋を構成する物質のほとんどが、白で構成されているように見えた。

 開けっぱなしの窓からは、秋の涼しげな風が入り込んでおり、カーテンを静かに揺らしていた。そのカーテンで区切られた、いくつかのスペースのうちの一つに置かれた、病人用のベッド。その上で横たわる俺に向かって、イクセンはそう切り出した。

「自分が置かれている状況は、理解出来ているかな?」

「先日起こった、実験棟の前での騒ぎに巻き込まれました。その結果、昨日まで生死の境をさまよってて、集中治療室に居ました。身体に関する異常発達を持つ人間は傷の治りも早いから、今日からは一般病棟で療養開始。発表祭までには大方治る見込み。何か間違ってることが?」

「OK、しっかり理解出来てるね。満点だ」

 意識が戻ったのはつい昨日のことだが、医者からの説明は、一言一句理解するつもりで聞いていた。間違うことはない。

 けれど、その時本当に聞こうとしていた情報は、未だに聞けていない。

 医者に聞いても、私にはわからないの一点張りだった。けれど、イクセンなら、何かを知っているはずだ。

 医者の説明によれば、俺がSAGAの保険センターに入院してから──つまりは灯が、“魔法”の力を行使してから──今日でちょうど一週間が経過しているらしい。それだけの時間があって、あいつの処遇が全く未知数ということは、あり得ないだろう。

「先生」

「イクセンでいいってのに、君も強情だねぇ」

「灯は、どうなったんですか」

 昨日意識が回復してから、ひたすら俺の頭を占めていたのは、この疑問だった。自分でも驚くほどに、灯の事が気掛かりだった。

 公然の秘密だったとはいえ、それでも表面上は隠しおおせていた、“魔法”という灯の力。異常発達などとはレベルが違う貴重さと危険性を持った力が、大勢の前で目撃されてしまったのだ。

 灯に対しても、そしておそらくは俺に対しても、何のペナルティもないままと言うことはない──それが、今回の出来事に対する、俺の予想だった。

「……」

 軽口で誤魔化そうとしていたらしいが、俺が応じないと見て取ったのだろう。イクセンは、眼鏡を指でくいっと持ち上げてから、静かに語り始めた。

「僕もまだ、はっきりとは聞いていない。僕は所詮現場の人間に過ぎないから、連絡が来るのは最後なわけだよ。それにまぁ、お役所仕事と言うのもある。決定自体にも時間がかかるのが常さ。ただ──」

「ただ?」

 俺が促すと、イクセンは真剣な顔を浮かべて、続きを述べた。

「今まで通りというわけには、行かない可能性が高いね」

「……具体的には?」

 自分でも驚くほどに冷たく、静かな声だった。まだ大声を張り上げられるほど身体が回復していないこともあった。だがそれ以上に、イクセンを含めた糞野朗どもに対する、怒りが燃え上がり始めた事が大きかった。

「もう君と灯君が、同じ部屋で暮らすことは出来ないだろう。灯君がSAGAに居続けることが出来るかどうかも怪しい」

「灯がここを出て、どこに行くって言うんです?」

「然るべき研究機関に送致されて、一生を過ごすだろう。ストレスを減らすために、彼女の望みは最大限尊重されるだろうけど──根本的な自由が与えられることは、もうないかもしれない」

「──っ!」

 目の前が真っ赤になった。額に青筋が浮いているのが、自分でもわかった。それだけ頭に血が昇っていた。

「落ち着きたまえよ、無為。君がここで暴れても、誰一人得をしない」

「そんな理屈で割り切れる問題かよ……っ」

 手足がギブスでがんじがらめになっていることが、幸いしたと言えるかもしれない。そうでなければ俺は、イクセンの顔面に、拳を叩きこんでいただろうから。

 ここまで感情を露わにしたのは、本当に久しぶりだった。自我が芽生えたころから今まで、ずっと感情を押し殺してきたような気すらした。

「おそらくだけど、灯君自身も、その処罰を拒まないだろう」

「……何?」

 イクセンの真意を測りかねたために、一時的に怒りは収まった。灯が処罰を受け入れる理由が、全く思い付かなかったのだ。

「お偉方の考えはこうだよ。『無為優作という少年を傍に置いていても、結局“魔法”は発動してしまった。むしろ、近くにいることで“魔法”が発動してしまった、という見方すら出来るほどだ。なら、もうあいつは必要ない。いや、必要ないどころか、“魔法”使用者の近くに置いてはいけない存在だ』」

「それがどうしたってんです? 俺の処遇なんて、今は問題じゃないでしょう」

 お偉方とやらの言い分自体は、非常に身勝手で、腹正しいものだった。普段その言葉を聞いたなら、むかっ腹の一つも立てていただろう。しかし今は、灯のことの方が、はるかに重要な問題だった。

 イクセンは、俺の言葉に反応することなく、説明を続けた。

「『だが、“魔法”使用者が、ある程度の好意を無為優作に向けているのも事実だ。なら、奴を退学処分と言うことにして、その取り止めと使用者の送致を交換としよう。これなら“魔法”使用者にストレスを感じさせることなく、“魔法”を誘発することなく、誘致を了承させられる』」

「──!」

 一瞬だけ、耳を疑った。けれど、イクセンはこの場面で冗談を言うタイプではないし、俺の聴覚も正常だ。だから──心のそこから込み上げて来る、理不尽への怒りは、聞き間違いによるものなどではない。

「一度専門の施設に連れていけば、後は薬漬けでもなんでも、やりようはいくらでもある。ついでに言えば、彼女を研究施設に置いた方が、利益に還元できる可能性も高い、という打算もかなりあるだろうね。そして、君には“魔法”使用者に対する実験協力への報酬という形で、かなり多額の報奨金が支払われるよ。一生食うには困らないほどの額がね。彼らはその事実を灯君に伝えることで、またストレスを無くそうとするだろ──」

「そんなことは、どうだっていいっ!」

 声が裏返りそうになる中で、それでも出来る限りの声量を振り絞った。自分を包んでいる布団の端を、力の限りに握りしめた。簡単にシーツが破れ、綿が飛び出た。それでも、身体の中の怒りは消えなかった。

 イクセンは、権力をもっている糞親父どもは、こう言っているのだ。

 灯に、よりにもよって俺の在籍なんぞを条件に、自分達の慰み者になることを、今まで味わって来た地獄が延長することを、強要すると──そんなふざけた条件を突き付けると、大真面目な顔で、言い張ったのだ。

 爆弾騒ぎの時の比ではない。昔、親父に屑扱いされた時とも、学校中から苛められた時とも比べ物にならない。冗談抜きに、身体が引き裂けそうになるほどの怒りが、身体中を駆け巡っていた。

「そんなことを聞いて、俺がはいそうですかと引き下がるとでも思ってるのか! 交換材料になるくらいなら、自分からSAGAなんて辞めて、放浪生活でもなんでも──」

「この取引は、灯君自身のためでもある」

「──!?」

 俺は再度、イクセンの意図するところがわからなくなった。眉根を顰めつつ、話を促す。

「……どういうことです?」

「仮に、君が自分からSAGAを退学して、どこかに移住したとしよう。そうすれば、灯君に残るのは、誰も彼女の力を制御出来ないという危険性と、自分のために無為優作がSAGAを去ったという事実だ。付け加えるなら、彼女もSAGA出身者・関係者が、世間でどういう扱いを受けるのか、知らないわけじゃない」

「それは……」

「今までは、君という安全弁を付けることで、かろうじて危険性を抑えていた。その事実は、例え失敗したとしても変わらない。彼女は、君という存在を通じて、安心と安全を得ていたんだよ。君は興味がなかったのかもしれないが」

「……」

 灯に取っての俺は、安心であり安全だった。その事実が、振り上げた拳を落とす場所を、一時失わせる。自分が、多少とも肯定されているように、感じてしまったから。

「繰り返そう。単に君が行方知れずということになれば、彼女には凄まじい危険性と、強い不安やストレスが残る。イコール、“魔法”が発動する危険性も高まる。……先日の件が、いい証拠だね。つまり、君の安全が保障されている方が、“魔法”に関する安全性は高いんだ。もしも君が行方不明にでもなれば、お偉方は最悪の場合、彼女を死なせてでも“魔法”の発動を止めようと考えるだろう。それだけは絶対に避けたい」

 当然だ。誰であろうと、人死にを出すことで問題を解決することを、是とするわけがない。

 けれど──それをイクセンが言うことに、少し違和感があった。

 なぜこいつは、その点を最も強く否定したんだ……?

「……死ぬことは、ヒトに取って最大のストレス。だから、灯を殺すことは厳禁──ってことじゃ、なかったんですか」

 俺は、せめて一矢報いるべく、反論を口にした。

 その制約があるからこそ、政府ないしはその関係者は、今まで灯を暗殺するという強硬策を取らなかったはずだ。なぜ今更になって、手のひらを返すのか。

「ストレスを感じさせないまま死なせる方法というのは、探せばないことはないよ。自分が死んだと自覚することなく、死なせることも出来る。ただ、いずれの場合も危険性は高いから、なるべく忌避して来たというだけの話さ。ま、利益に還元するために殺さずにいた、というのもあるだろうけど」

「……反吐の出そうな話っすね」

「まとめよう。君がSAGAに残り、一生生活に困らない額の金を受け取ったと伝えれば、彼女は──脅される形を取るとは言え──納得して研究機関に送致されるだろう。『自分が研究機関に行けば、例えいっしょには居られなくても、無為優作の生活は保障される』、そんな筋書きだね。自然、“魔法”に関する危険性も低くなる。けれど、もしも今後君が脱走や移住を企てると言うなら、君自身が安全からは遠のく。それはイコール、彼女に取っての安心が無くなるということだ。“魔法”が発動する危険性も高まる。何より、命の危険がある。……君の取るべき選択肢は、見えているだろう?」

「暴れ回る、って手もありますよ。灯を連れて大脱走、関係者は全員ぼこぼこにして、後は世界一周の旅──なんてのも悪くはない」

 俺は、出来る限りニヒルに呟いた。負けるとわかっていても、せめて脅し文句の一つくらいは言いたかった。

 もはや、そんなことしか、出来なかった。

「出来ると思うかい?」

 イクセンの言葉に、俺は顔を思い切りしかめた。やはりと言うべきだろうが──反論は出来なかった。

 SAGAの職員の中には、SAGA出身者も数多く含まれている。教員はもちろん、問題が起きた時に生徒を抑えつけるのも、彼らの役目だ。

 身体科のカリキュラムを完全に終え、兵士として熟練された腕前と、完成された異常発達を持つ連中を相手取って、灯を連れた状態で、この学園からの脱走劇を繰り広げる──夢物語の域を出ない計画だった。

「話は以上だよ。今はゆっくり休みなさい。ああ、君の独房処罰なんかは、今回の報奨金とセットでチャラという話になるだろうから、そこは心配しなくていい」

「……」

 実にどうでもいい話だった。今更処罰の取り止めなどに、なんの意味も見出せない。

「最後に、灯君の移動についてだけど、具体的な日時や送致先の施設なんかは、まだまだこれから決まる話だからね。上手く行けば、発表祭くらいまではかかるだろう。だから、当日は彼女といっしょにいられると思うよ」

「……人間恐怖症が、祭りなんかに行くわけがない」

「彼女も、これが最後だとわかっているだろうからね。案外、なんとかなるんじゃないかい? 

じゃ、お大事に」

 それだけ言うと、イクセンは荷物をまとめて立ち上がり、病室を後にした。病室に残ったのは、涼やかな秋風と、無為優作とか言う、いろんなものがぐちゃぐちゃになった、なんの力もないガキだけだった。

「灯……」

 誰もいなくなった部屋で、俺は一人、うなだれながら、元ルームメイトの名前を、ぽつりと呟いた。

 俺には、自分と同じ時間を過ごして来た人間が、最悪の理不尽に巻き込まれている様を、傍観することしか、出来ないでいた。それしか、あいつにしてやれることがなかった。

 自分の無力が、世界が、ただただ恨めしくて仕方なかった。


***


 医者やイクセンの予想通り、俺の身体の傷は、常人よりもはるかに速いスピードで治療されて行った。一週間が経過するころには、まだあちこちが痛みはするものの、身体中の骨がだいぶくっついたために、松葉杖さえあれば、なんとか歩くことが可能な状態になっていた。

 となれば、別段病室に居続ける理由はない。入院している建物から出ることは許可されていなかったが、中庭で日向ぼっこをするくらいなら、何の問題もないとのことだった。

 病人服のまま、中庭に備え付けられている自販機でジュースを買った。中庭のベンチに腰掛け、ペットボトルのふたをひねる。プシュッと言う小気味よい音がした。そのまま口の中に流し込む。

 炭酸が、口の中で軽く爆発したような感じがした。そのまま喉を越えて行く感覚も心地がよい。中庭に降り注ぐ、穏やかな秋の陽光と合わさって、とても気分のいい一時だった。うっかり、自分が置かれている現状を、忘れてしまいそうなほどに。

「……」

 一週間、頭をひねり続けた。なんとか灯の現状を打開する方法はないものかと、十六年かけて蓄えた、知識と知恵をフル稼働させた。しかし、精神の有りようはともかく、頭だけはいい大人達が作りあげたのが現状なのだ。妙案が浮かぶわけがない。

「なんとか、ならねーもんかなぁ……」

「まずは身体を完全に治しなさいな」

 俺が一人ごちていると、後ろから話かける人物が居た。俺は、いつぞや草十郎にそうしたように、反射的に振り返る。

「委員長……」

 そこに居たのは、普通科のリーダーにして、発表祭で行う演劇の発案者、鬼垣だった。

「何をするにしても、それからでしょうに」

 鬼垣はそう言いながら、俺の側まで歩いて来て、隣に腰かけた。

 正直、鬼垣が見舞いに現れるとは微塵も思っていなかったので、当惑気味だった。衝撃的な事が続いたために、もはや、感情を押し殺せている気もしない。

「これ、差し入れ」

「あ、ああ。サンキュ」

 渡された袋の中には、スナック菓子や果物の類が入っていた。おそらく、SAGAの敷地内にあるコンビニで、適当に買って来たのだろう。

「甘い物とか欲しいかなーって思ってね」

「そうだな……確かに、病院食は味気ないものばっかだったしな。食っていいか?」

「もちろん。私ももらうわ」

 俺達は、適当にスナック菓子の類を開け、咀嚼して行った。菓子は普通に旨かったが、特に会話することもなかったので、パーティー気分に浸るには、少し物さびしい光景だったと思う。

「あー……演劇はどうなった?」

「とりあえず、形にはなったわよ。歌留多が主役、がんばってるし」

「そうか……ま、勇者ってんなら、あいつの方が適役だったかもな」

 発達障害と言う逆境に立っていても、軽い人間を演じてでも、それでも人と関わることを続けているあいつは、間違いなく勇者なのだから。

「……そんなことはないわよ」

「そうか?」

「そうよ」

「そうかなぁ……」

 鬼垣は引かない。しかし、勇者という単語が、自分に当てはまるとは、とても思えなかった。

 あの芝居の中では、最後まで自分を貫く力を持った者を、どんな苦しい状況でも自分を信じ抜く力を持った者を、勇者と呼んでいたように思う。

 だが──今の俺は、勇気を持つ方向すら見えていない。方法を思い付いてもいない。勇者と呼ぶには、余りにも自分が貧弱過ぎるように思えた。

 と、その時。

「あのさ」

 鬼垣が、やや話の流れを無視して、切り出した。

「一つ、謝らなきゃいけないことが、あるの」

 その時気づく。鬼垣は、手を震わせ、顔を強張らせていた。何か、とても緊張しているように。とても怖がっているように見えた。

「な、なんだよ。俺、委員長に謝られるようなこと、された覚えないぞ」

「……あるわ」

 鬼垣は、とても真剣な、思いつめた表情をしていた。冗談で言っているのではないと、すぐに察しがついた。

「な……なんだってんだよ?」

 俺が聞くと、鬼垣は持っていたスナック類をベンチに置き、すっくと立ち上がった。そして、スカートの正面で両手を揃えて──腰が90度曲がるまで、頭を下げた。

「ごめんなさい」

 鬼垣は、謝罪をしながら、涙をぼろぼろとこぼしていた。

 俺は、普段の鬼垣とは似ても似つかない様子に、完全に面食らっていた。

 一体何が、彼女をここまで追い立てたと言うのか。

「ごめん、なさい……」

 俺は、そんな鬼垣を前にして、一時的にではあるが、灯の件すら少し忘れてしまっていた。とにかく、目の前で涙を流し続ける少女を、どうにかして、なだめようとした。

「お、落ち着けって。一体何のことか、さっぱりわからないって」

「私なの」

 鬼垣は、まだ頭を上げない。地面に向かったままの姿勢で、懸命に謝意を伝え続ける。

「あの時、演出用の火薬に細工して、怪我人を出したのも、結果的に灯さんに酷いことをしたのも、全部私なの」

「……は?」

 すぐには、鬼垣の言おうとしていることが、全く理解出来なかった。だが、時間が経過して行くに連れて、字面のみは追うことが出来た。

「……は? お前が? あの時の爆弾を細工したってのか? 怪我人を出すように? 事故を起こすように?」

「……そう、です。正確に言えば、そこまでするつもりはなかったんだけど……だから、全部、私のせい……」

 鬼垣の言い分は、かなり支離滅裂だった。だから、怒り云々よりもまず、当惑が俺の心を占めた。

 鬼垣が、スタングレネードに手を加え、怪我人を出すほどの爆発事故を起こした? ひょっとして剣のこともか? じゃあ俺が独房に行ったのもそのせいか? その結果、灯を窮地に追い込んだ? 

 そんな疑問がばかりが、ひたすら沸いてくる。正直、意味がわからなかった。

「と、とにかく落ち着いてくれ。やっぱりまだ意味がわからないから、とりあえず、最初からじっくり説明してくれ」

「うん……」

 鬼垣は、ようやく涙を引っ込めて、事の顛末を、語り始めた。


***


 彼女が育った家は、有体に言って、芸術一家だった。

 父親は戯曲作家、母親は女優。兄弟も皆、美術や演劇、映画など、それぞれに芸術の道を歩んでいた。

 末っ子だった彼女もまた、親兄弟の創る芸術に惹かれ、物心が付いたころから、様々な分野の芸術活動に勤しむようになった。

 彼女は、芸術という物をとても愛していた。だから、創作活動そのものも、それを家族と共有できることも、幸せなことだった。

 けれど、芸術家肌と言う言葉があるように、こと表現に関しては、親兄弟は彼女に、とても厳しく当たった。客観的に見れば、辛辣過ぎるほどの場面も珍しくなかった。

 家族は、己の作品にそうするように、彼女に対しても、一切の妥協という妥協を許さなかった。どれほど厳しい努力をしても、どれほどの鍛錬を積んでも、彼女の作品が、親兄弟に認められることはなかった。

 しかし、彼女は諦めると言うことを何よりも嫌う性分だった。絶対に認めさせてやると、厳しい修行を自らに課し続けた。

 そうしなければ、家族との楽しい時間が終わってしまうと、心のどこかで怯えていたのだ。

 成長するに連れて、彼女の気質は厳しい物になって行った。ふと気付けば、彼女は、完璧だけを追い求める存在になっていた。

 完璧でないから家族に認められない。家族と居るためには、完璧な作品を作らなければ。そんな強迫観念が、やがて彼女の精神を追いこんで行き、最後には、精神に異常を来すまでになった。

 強迫性パーソナリティ障害。それが、彼女の症状に付けられた病名だった。

 簡単に言えば、“完璧でなければ精神に落ち着きがなくなる”という状態。そんな状態が余りにも長く続いたために、最後に彼女に下った審判は、SAGAの表現科に行くことだった。

 けれど彼女は、それを忌避するどころか、むしろ喜んだと言う。

 SAGAは異常者の集まりとして知られ、世界の最果てとさえ言われている。だが同時に、とてつもないレベルを持つ、専門家の集まりと言う顔も持っている。

 彼女は、そんな専門家達の中で表現活動が出来ることを、とても名誉な事だと捕らえたのだ。

 そうして辿りついた場所で、彼女は一心不乱に創作に打ち込んだ。貪欲に新しい表現を求め、技法の研究に精を出し続けた。けれど──どれほど彼女が芸術を愛していても、芸術の神様は、彼女の事を、愛してくれなかった。

「高等部進学の時点で、普通科への移籍が決まった時、私の家族が、なんて言ったと思う?」

 彼女は、自嘲気味に聞いて来た。いや、自嘲と言うよりも──自虐だったのかもしれない。

 SAGAの普通科は、異常発達が弱まった人間が行く場所だ。そして、SAGAにおいて異常発達が弱まることは、前述したように、場合によってはアイデンティティーを失うことにもなる。

 特に表現科に取っては、落胆が著しい。お前の作品はつまらないと、そう評価されたに等しいのだから。

「……さぁな。なんて言ったんだ?」

「『お疲れ様。限界まで挑戦し続けたんだ、もう十分だよ。後は、普通の幸せを探しなさい』よ。ふざけないでって、生まれて始めて怒鳴ったわ。……私は、そんな言葉が聞きたかったんじゃない……慰めなんかが欲しかったんじゃない! たった一言でいいから、お前はよくやってるって、そう言って欲しかった! 私の作品を、私が大好きなものを、懸命になっている物を、皆に認めて欲しかった……!」

 家族が好きなものは、自分も大好きだったから。家族の皆に追い付きたくて、必死に努力を続けた。なのに、家族は自分の努力の過程も成果を見ずに、ただ親としての心配だけを押し付ける。

 好きなものを好きと言い続けることを、好きなものを自分にくれた、大好きな家族に否定される。

 それはきっと──世界の全てに、自分の存在を否定されるに、等しい出来事だったのではないか。

「元々、才能があるわけじゃなかった。父さんや母さんも、兄さんや姉さんも、私なんかとはレベルの違う物を作ってた。私がやってたことは、異常発達なんて言えるレベルのものなんかじゃないのも知ってた。単なる執念と執着が行きすぎたから、SAGAに送られただけなのも、心のどこかで理解してた! けど──」

「それでも、諦めきれなかったんだな」

 だからこそ、普通科に送られてもなお、彼女はもがいた。家族が見に来ると言う発表祭で、両親が愛した演劇という分野で、自分も出来るということを、証明しようとした。

「悪戯をしたのは、皆のやる気を引き出すためだったんだな」

「うん……他の学科の連中に見せかければ、連中に負けないために、自分達もがんばろうって、そういう流れになるって思ったから。けど……」

「皆の疑いの目は、俺に向いた」

 鬼垣は、こくんと頷いた。

「剣を壊した時、本当に思いもしなかった流れになって……爆弾なら、今度こそ機械科に怒りの矛先がむくんじゃないかって、そう思ったの。そうすれば、無為の疑いもまとめて晴れるかなって……その爆弾も、あんな威力にするつもりなんてなかった。ほんの少し、私が火傷を負うくらいに留めるつもりだった。けど──全然上手くいかなくて……」

「素人が火薬なんて弄って、上手くいくわけないだろうが……」

 俺は、嘆息混じりに軽く鬼垣を嗜める。

 本来、俺が受け取っておくはずだったスタングレネードを受け取ったのは、他でもない鬼垣だった。普通に考えれば、こいつが何らかな細工をした可能性が最も高かった。

 だが俺はもちろん、普通科のメンバーも、その可能性に辿りつくことが出来なかった。

 おそらく俺も面々も、無意識的にその可能性を排除していたのだ。純粋に、自分の思った通りに動こうとするこいつを、尊敬していたから。

 そんなこいつに付いて行くことが、楽しかったから。

「……皆には、悪かったと思ってる。私のわがままのために、皆を利用したんだから。ちゃんと、発表祭が終わったら、謝るつもりだわよ」

「そうか……」

「でも、その前に──無為には、改めて謝とかなきゃって、そう思ったの」

 鬼垣は、再びベンチから立ち上がった。そしてもう一度、深々と頭を下げた。

「本当に、ごめんなさい。私のわがままのせいで、無為をすごく苦しめた。独房にまで追いやって、挙句、灯さんまで……」

 おそらく、少なくとも鬼垣には、イクセン辺りから灯の事情が伝わったているのだろう。だからこそ鬼垣は、こうして真摯に謝意を表明し続けている。

「……」

 俺は、そんな鬼垣の話を聞いて、どう答えたものかと、少しの間思案した。

 鬼垣の話に、嘘や冗談の類があるとは思えない。そんな軽いものを含んだ話し方ではない。

 鬼垣が悪戯を仕込み、その結果俺が疑われ、独房に行くはめになった。そして、そんな俺を助け出すために灯が動き、研究施設とやらに送られるはめになっているのなら──確かに、恨んでも筋違いと言うことはないだろう。

 けれど、俺は。

「頭、上げてくれ」

 鬼垣を責める気には、ならなかった。

「……許して、くれるの……?」

 頭を上げた鬼垣の表情は、ぐちゃぐちゃだった。涙であふれ返り、眼鏡はずり落ちていた。鼻水まで出ていた。

 けれど彼女に、そんな自分を気遣う余裕は、残っていない。

「お前の行動が引き金になったのは確かだと思う。けど、灯を取り巻く環境は、いつ何時こうなってもおかしくないものだった。たまたま、間の悪いことが重なっただけだ。強いて言えば──タイミングが悪かったな」

「でも……」

「それ以上はなしだ。蛇足になる」

 鬼垣は、俺の言ったことを善意的に受け取ったらしい。一層涙を流し、小さいながらも、声を上げて泣き始めた。

 俺が言ったことは、別に善意でもなんでもない。鬼垣には鬼垣なりの事情があったわけだし、今この場で鬼垣を責め抜いても、誰一人得をしない。むしろ、単なる八つ当たりにしかならないだろう。

 何より──そんな事をしても、灯は救われない。

 ならば、そんな無意味な事をする理由はない。そう思っただけだ。

 全く、なんでどいつもこいつも、単なる無関心を、肯定的に受け取るんだろうな。

「何か……」

「ん?」

 しばらく経って、なんとか涙が収まった所で、鬼垣が切り出した。

「何か、私が灯さんに出来ることって、ない?」

「……そうだな」

 鬼垣にしてもらいたいこと。正直なところ、ぱっと思い付くことは、それほどない。

 現実的に考えれば、鬼垣も俺と立場はそう変わらない。むしろ、元身体科の身体能力がある分、現状に対する打開能力と言う点で言えば、俺の方が高いぐらいだ。

 だから、灯の問題に関して、こいつに出来ることはない。けれど──委員長にしてもらいたいことならば、なくはない。

「もし、何かの奇跡でも起こってさ、灯がSAGAに居続けられることになったら──あいつの、ゲームの対戦相手にでもなってくれよ」

「──」

 鬼垣は、面食らっていたようだった。

 俺が、無為優作と言うネガティブを絵に描いたような人間が、奇跡という単語を口にしたことに、驚きを覚えたのだろう。

 しかし──

「うん!」

 一瞬後には、満面の笑みと共に、力強い言葉を返してくれた。後に残ったのは、リーダーとしての責任感と、ただ友達を思い遣る、普通の女の子の笑顔だけだった。

 ああ、乳は普通よりも大きいか。

「ねぇ、お芝居、見に来てよ。発表祭までには治るんでしょう?」

「あぁ、今の調子で行けば、普通に歩くくらいは出来るようになってると思う。そしたら、たぶん行くよ」

「絶対だよ、すっごいのに仕上げておくから!」

「ああ。楽しみにしとくよ」

「よし! じゃ、私は帰るわ。最終調整がまだ残ってるし」

「おう。皆によろしく」

「OK、それじゃあまたね!」

 そんな会話を最後に、俺達は別れた。鬼垣は、来る時と違って、憑き物が落ちたように、さっぱりした表情だった。

 俺はそれを、やれやれと言う面持ちで見送った。見送った後、自分の言った台詞を思い返した。

 奇跡。

 確かに、この絶望的な状況をひっくり返すなら、常識では考えられないような、神秘にでも頼る他ないだろう。けれど、神秘なんてものがそう簡単に安売りしているとは思えない。ご都合主義は、現実には適用されないのだ。

 そこまで考えた時点で、一つの単語に行きついた。

「魔法……」

 灯が持っている、この世の物理法則全てを覆す力。その力を味方につけることが出来れば、この状況はもちろん、今後どんな苦難が待ち構えていても、戦うことは可能だろう。

「ま、それが出来れば、おっさん達がとっくにやってるよな……」

 魔法は、灯の無意識がこの世に作用を及ぼす力。なら、灯自身すらも含めて、誰かの思い通りになることはない。それは、前提となっている条件だったはずだ。

 結局、思考は今日も堂々巡りを辿った。

 鬼垣に気力が戻ったことは、多少とも気を晴らす効果はあった。だが、灯と俺の問題が根本的に解決することは、今日もなかったのだ。

 発表祭までは、およそ十日程度。イクセンの予想が確かなら、それが問題解決のデッドラインだ。だが、やはり解決の糸口は、全く見えない。

「なんとか、ならねーもんかなぁ……」

 俺は、夕刻に近づき、少し冷たさの増した秋風を浴びながら、鬼垣が来た時と全く同じことを、自嘲気味に呟いた。


***

 

 十日は、瞬く間に経過してしまった。当然と言えば当然ながら、解決策は思い付けていない。

 変化らしい変化と言えば、俺の身体の治療が予想通りに進んで行き、日常生活に支障がないレベルに戻ったこと。そして、イクセンが時折現れ、やはり予想通りに事が進みそうなことと、灯自身も了承してしまったことを、俺に知らせたことぐらいだった。

 灯が、俺の退学なんぞを条件に施設行きを了承してしまったことが、ただただ悔しく、哀しかった。

 その灯には、一度も会えていない。あいつがこの病室に来ることはなかったし、外出許可がもらえる状態に回復した後も、俺から会いに行くことはしなかった。

 会って、何を話せばいいか、わからなかった。俺がかけてやれる言葉など、何もない。

 慰めなどには何の意味もなく、救うには力が足りな過ぎる。今、俺が灯に会っても、ただただ泣きわめくことぐらいしか出来ないのだ。

「畜生が……!」

 俺は、誰もいない病室で、また一人ごちる。誰にも聞かれない嘆きを、呟く。

 そんな時、陽射しが差しこむ窓の向こう側から、派手な音が鳴り響いた。銃撃のような音だった。

「……身体科の連中か」

 例年では、午後の身体科の銃を使ったパフォーマンスを合図として、発表祭は開始される。その後、それぞれの科が発表を繰り返し、最終的には夕食を済ませるような時刻になるまで、発表は続いて行くのだ。

「……どうすっかな」

 正直、見に行くかどうか少し迷っていた。鬼垣の手前、せめて普通科の発表くらいは見に行こうとは思うものの、普通科の演目は夕方からだ。

 今祭りに行って、まともな鑑賞態度を保てる自信は、全くなかった。なら、やはり普通科の時間まで、ここで寝てから行こう──そんな結論を出した時だった。

 コン、コン。

 病室のドアをノックする人物が居た。心当たりがなかった(医者も今日は、当直以外は休業なのだ)ので、わずかに戸惑いつつも、俺は、ドア越しに声をかけた。

「開いてるよ」

 俺の声を合図にするように、ゆっくりと扉が開いた。ドアの向こう側に居たのは、予想だにしていなかった人物だった。



 少年が魔女にパンを恵んでもらってから、数日が経過していた。その間に、魔女と少年の間で、わずかな変化があった。

「でさー、弟どもがすげーうるせーんだよ。遊べ遊べーって、起きてる間中ずっとだよ」

「ふん。言葉の割には、嬉しそうに語るじゃないか」

「あー、まぁ同じ釜の飯を食ってる仲だしなぁ。可愛くないことはねーよ」

「ふっふ……ひねた奴だよ、本当に」

 食事の間、攻撃と攻撃の合間、寝入る前。わずかな時間ではあったし、依然として戦い自体は継続してはいたものの、魔女と少年の間には、弾んだ会話があった。

 少年に取っては、喧嘩友達と仲良くなっている行くのと全く同じ感覚だった。だから、とても楽しい時間と言うことが出来た。魔女の方も、少しずつ笑顔を見せてくれることが多くなっていた。

 けれど──少しばかり、気掛かりなことがあった。少年に取っては嬉しいことのはずなのに、妙に胸騒ぎを覚える出来事だった。

 少年は、疑問をそのまま口にした。

「なぁ、ここんとこ、お前の魔法すげえ弱くなってねぇ?」

 魔女が杖を振るうことで突如現れる炎は、その体積が縮小していた。操る水や風は、そのパワーが明らかに落ちていた。少年は、魔女の魔法の弱体化を、如実に感じていたのだ。

 しかも、魔法の弱まりは、少年との会話が増えるほどに──魔女の笑顔を見るほどに、激しくなっているように思えた。

 少年としては、やはり何の気なしに、思ったことを率直に口にしただけだった。しかし魔女に取って、事態はそこまで軽いものではなかったらしい。

「そうか……やはり、そう感じるか」

 そう言う魔女は、とても沈痛そうな面持ちだった。なんとか取りつくろって来た秘密が、露見してしまったような、そんな表情だった。

「? なんだよ、腹でも痛いのか?」

「ふっふっふ……全く、貴様らしいズレた心配の仕方だな。このアホたれめ」

「あにぃ?」

 少年は、魔女の言葉にカチンと来た。ちょっとでも心配した自分が、馬鹿馬鹿しく思えた。

「要らぬ心配だ、と言ったのだ。仮に、本当に少々魔法の力が弱まったところで、貴様などに後れは取らん」

「はっ、そんだけ吼えられるんなら問題ねーな。じゃあ、続きと行くか!」

 魔女が昼食として振る舞ってくれた、野菜と肉のスープを地面に置いて、少年は剣を抜いた。魔女もまた杖を構え、戦いの準備を整えたようだった。

 いざ、尋常に勝負──そう思った、瞬間だった。

「そうですかそうですか、魔法の力が弱まりましたか。それを待っていたのですよ」

 声は、草木の生い茂る、森の奥から聞こえてきた。

「誰だ!」

 少年は叫んだ。相手の正体はわからないが、魔女との喧嘩に横槍を入れられたようで、気分が悪かったのだ。

「さぁて、誰でしょうねぇ……とりあえず、その女の首に懸賞金をかけた人間、とだけ言っておきましょうか」

 木々の合間から顔を出したのは、不気味な男だった。

 背が高いわりに顔や身体は痩せ細っており、腕力や覇気の類はまるで感じられない。しかし、その目は邪心と野心に溢れ返っているようで、高貴な身分を表す服や装飾品と合わせて、不気味な圧力があった。

「懸賞金をかけた? 貴族か?」

「そんな所ですな。さて──魔女殿、私どもがここに来た理由、おわかり頂けますかな?」

 少年は、私どもと言う貴族らしき男の言葉を聞いて、ようやく気付くことが出来た。自分と魔女の周囲から、大勢の人間の気配がすることに。

「てめぇ……!」

「出て来なさい」

 ガサガサッ!

 男の言葉を合図に、木々の合間から、大勢の兵士達が出現した。少年と魔女を取り囲んだ兵士達は、剣や槍、弓矢で武装していた。明らかに、王国直属の兵隊達だった。

 少年は、目の前の男がどういう立場の人間なのか、なんとなく察しが付いた。

「何が目的だ! 言いやがれ!」

 ズガン!

 言い終わるや否や、少年の頭に鈍痛が響いた。兵士の一人が、手に持った棍棒で、少年の頭を殴打したのだ。

 後ろから殴られたために、反応することすら出来ず、少年は地面に倒れ伏す。

「! おい、貴様──」

「魔女殿には、動かないで頂きましょう。出来れば、傷つけずに持ち帰りたいのでね」

 男が手を微かに掲げた。それが指令のポーズだったのだろう。兵士達は、各々の武装を魔女に向けた。魔女は、槍や剣の切っ先を前に、微動だに出来ないようだった。

「くぅ……」

「少し前の貴女なら、この程度の軍勢、軽く蹴散らしたのでしょうがね……魔力が弱まった今ではどうなるか、お試しになりますかな?」

「て……てめぇ! 一体何だってんだ! 説明しやがれ!」

 少年が罵声を上げると同時に、再び兵士の棍棒が振るわれた。立ちあがりかけた少年の身体が、再び大地に叩きつけられる。同時に、兵士の一人によって、少年は地面に組み敷かれた。

 普段の少年なら、難なく抜け出せる程度の拘束ではあった。しかし、二度の攻撃で、少年の頭は痺れ始めて居たため、まともに立つことも難しい状態だったのだ。

「やれやれ……私は魔女殿と話しているのですがね。まぁ、いいでしょう。貴方の功績でもあるわけですし、説明くらいはしてあげましょう」

 男は、ゆっくりと少年の許に歩み寄った。しかし、その表情に少年への興味はまるで浮かんでいない。本当に、ただの気まぐれとわずかな義務感だけで、言葉を紡いでいるようだった。

「私はね、軍事政策の一環として、様々な超常現象を研究していたのですよ」

「……? ぐん……ちょうじょう……?」

 孤児院での授業すらサボりまくっていた少年に、男の言葉は難し過ぎた。しかし、男は構うことなく、説明を続けて行く。

「超常現象、物理を越える力の発露。それを人為的に出現させる事が出来れば、槍や弓矢など足元にも及ばない、無敵の軍勢が簡単に作り出せます。誇張ではなく、世界征服すら夢ではない」

 少年には、やはり男の言っていることはわからない。だがそれは、単に難しい言葉が並んでいるというだけではなく、男の言っていることが、誇大妄想の類に近かったためでもある。

「研究を重ねる中で、私はとても有望なサンプルの存在を知りました。言葉を介することなく人の心を読み、手を使わずに物を動かし、果ては自然を操る人間。それがこの少女──生まれながらに超常現象を任意に出現させる、奇跡の生物。つまりは魔法使い、魔女だ!」

 男の様子は、唐突に熱を帯びて行った。まるで、質の悪い芝居を見ているようだった。

「正直、この少女の噂を聞いた時は、耳を疑いましたがね……この地方についての文献を読みあさるうちに、自分の中で信憑性が俄然高まりましたよ。文献には、こうあったのです。

 大昔からこの地方には、精神に呼応して超自然現象を作り出す、特殊な人間達が住んでいる。彼らは念ずるだけで大地を割り、大波を起こし、竜の如く炎を操る! しかし彼らは、その力故に民衆に疎まれ、その数は縮小の一途をたどり、もはや絶滅したと……!」

 男はもはや、少年を見てすらいなかった。自分の論説への陶酔と、その証拠に対面した感動だけを、夢中で語り続けた。

「もし本当にそんな人間がいれば、人から畏れられ、滅亡するのは自明の理。文献に矛盾はなかった。だからこそ、信憑性が増したわけです。しかし──実際は、文献と事実が、ほんのわずかに違ったわけですよ。彼女と言う末裔が生きていたのです! 少し調べを進めれば、すぐに判明しました。彼女は文献にあった祖先らと同じく、生まれ持った奇異なる力故に疎まれ、こうして森の中でひっそりと生き抜いていたのです……! ああ、それにしても素晴らしい! なんと素晴らしい奇跡か! 凡庸な人間が、この先何百年研究しても辿り付けない境地に、彼女は生まれながらに立っている! 本当なら、すぐさま解剖に解剖を重ねた上で、魔法を使う因子を割り出してやりたい所だった……しかし、それは成すことが出来なかった! なぜだかわかりますか?」

 男は、まるで教師が生徒に問題の答えを聞くように、少年を指さして問うた。少年は、ぶっきらぼうに答える。

「知るかよ」

「でしょうね! 君のような学も何もない町民風情に、わかるはずがない! 答えはそう、彼女の使う魔法が、精神に呼応して発動するものだったからなのです……!」

 男は、両の拳を顔の前で握り締めたまま、熱く語る。少年は、話を聞くうちに、反吐が出そうな気持ちになって行った。

「精神に応じて出現するということは、彼女が危機的状況下にあるほどに、攻撃的な魔法が出現する可能性が高いという事です。生物の本能で最大の力を持つのは、死への恐怖と生への渇望ですからねぇ……」

 男は、とても楽しそうに語っていた。自分が解いた謎が、自身の成果が、素晴らしくてたまらないと言うように。

「となれば、例え軍体を以てしても、まともに相対するのは危険というもの。しかも彼女の場合、成育歴から考えて、かなり人間への嫌悪感と拒絶感を募らせていることは、想像に難くありませんでした。危険は増すばかりだったわけです。

 では、どうすればいいか。私は考えに考えました。さぁ、どういう結論に行きついたと思いますか!?」

男の自己陶酔は、一層酷くなっていった。少年はうんざりしつつも、先程の答えと同じ言葉を返そうとした。

「知」

「そう!」

 しかし男は、もはや自分が聞いた質問への返答すら、その耳に入っていない。少年の台詞を遮り、自分の説明を続けて行く。

「彼女の心を、開いてしまえばよかったのですよ……! 彼女がヒトに対して心を許してしまえば、他人から自分を守るための魔法は機能しなくなる。他者への恐怖という、この上ない強い感情がなくなってしまえば、ほとんど魔法の力は残らない! 私はそこに目を付けたのです! 流石私! いい所に気が付く! 頭がいい! 最高!」

「……」

 少年は、男への嫌悪感を募らせると同時に、その目的に察しが付いてきた。嫌な予感が、ひしひしと募って行った。

「……まさか」

「ははは! いかに凡人と言えど、流石にここまで私の素晴らしさを熱く伝えれば、予想程度は付きましたか! そうその通り! 貴方達賞金稼ぎこそが、彼女の心を開くための道具だったのです!」

 少年は、珍しく頭を回した。回さざるを得なかった。

 高額な賞金を出せば、賞金稼ぎを本業としていない人間も、動く可能性は高い。その中には、残虐性を持たず、かつ少女と歳の近い人間が居てもおかしくはない。 

 まさに、少年がそうだったように。

 そして──そんな歳の近い、無害な人間が近づいたことが、魔女の心に、変化をもたらした。

 男の説明によれば、魔女は人間に疎まれて生きて来た。だからこそ、人を遠ざけ、ひっそりと暮らすことを望んでいた。けれど──それは、本当は、違ったのではないか。

 本当は、人と暮らすことを、望んでいたのではないか。一人ぼっちが、さびしかったのではないか。

 力があろうがなかろうが、魔法を使える人間であろうがなかろうが、誰かに話を聞いてほしかったのではないか。自分の気持ちを、誰かに伝えたいと、聞いてほしいと、そう願っていたのではないか。

 だからこそ魔女は、少年にパンを寄こしたのだろう。自分といっしょに居てくれる人間に、好意を表したのだろう。

 少年の近くにいることを、望むように、なったのだろう。

「まさに計・画・通・り! 案の定、貴方という木偶の坊が彼女の心を開かせ、魔法の力を劇的に弱めてくれた! さらに言えば──」

 男は、少年の許へと近づいて行った。そして、懐から短い刃物を取り出し、少年の首元に近づける。魔女が、短い悲鳴を上げた。

「や、やめて!」

「こうして軽く人質にしてしまえばぁ……魔女殿は、抵抗の意志すら見せられないでしょお?」

 男は、下卑た笑いを浮かべた。ほとんどの策略家がそうであるように、事が自分の思惑通りに運んだことで、この上ない愉悦を感じているようだった。

「さぁ魔女殿! 私どもといっしょに、王宮まで御足労願いましょう! なぁに、抵抗なく来て頂ければ、悪いようには致しません! この少年も無傷で返すことをお約束いたしましょう!」

「ふざけんな!」

 少年は、地面に組み敷かれ、首筋に刃物を突き付けられながらも、力の限りに咆哮した。

「おい魔女! こんな連中に付いていくんじゃねえ! どうせ薬でもなんでも使って、無茶苦茶なことするに決まってらあ! 命だって危ねーぞ!」

「……少々うるさいですぞ、町民」

 ただでさえ密着していた男の持つ刃物が、さらに少年の身体へと近づいた。首の皮がうっすらと切り裂かれ、傷口から赤い筋が流れる。

「全く無礼な……薬など、最小限しか使いませんとも。貴重なサンプルです。出来得る限り五体満足のままに調査を行い、最後の最後で身体の隅々まで分解するに決まっているじゃありませんか。ああ、調査の一環として、男の身体との相性を測るくらいはして差し上げますかね。おそらく魔女殿は、まだ清い身体でしょうからねぇ……」

 男は言いながら、まるで爬虫類のように舌なめずりをした。男の頭に、この上なく下衆な考えが浮かんでいることは、明白だった。

「こんの……おい魔女! 聞いてんのか! とっとと逃げろ!」

「で、でも……」

「いいから早く!」

 少年の叫びに、魔女は戸惑いを覚えているようだった。おろおろするばかりで、攻撃にも逃亡にも移れていない。

 少年から離れることと、自分の安全と、どちらを優先させればいいか、わからないでいるようだった。

「ええい、やかましい……そうだ、こうしましょう。少年、君の事も軽く調べさせていただきました。君は、孤児院の出身だそうですね?」

「あぁ? それがどうしたってんだ、今は関係ねぇだろ!」

「魔女殿。貴女がこの場で逃げ出せば、この少年だけでなく、この少年が住んでいる孤児院も処分します。具体的には、そう──塵一つ残さずに、焼き払いましょうかね」

「「な──」」

 魔女と少年が、同時に驚きの声を上げた。

「逃げ出さない理由が、また一つ出来たでしょう? 少年にはまだ幼い孤児院仲間が──弟妹達がたくさんいます。貴女一人が従順になれば、彼ら彼女らは死なずに済む! そうだ、少年には約束の懸賞金も払おうではありませんか! 貴女が私どもに付いてくれば、経営に窮している孤児院すらも救われる! 万々歳ですな!」

「て、てめぇ……!」

 少年は、男の卑劣さへの怒りで、身体が震え出していた。

 ほんの十日程度の付き合いではあるが、この魔女が根っこの部分で人を疎んでいないことは、少年にだって理解出来ていた。そんな彼女に、少年が嬉々として語っていた孤児院を犠牲にすることなど、出来るわけがない。

「ふざけんのも大概にしやがれ! そんな不条理が通ってたまるか! もしも孤児院に指一本でも触れてみろ、明日の朝日を拝めなくしてや──」

「うるさいと言ったでしょうが」

 男の拳が、地面に押し付けられた少年の頭に落ちた。少年は、顔面を地面に強く叩きつけられ、言葉を中断させられる。

「全くぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーと、九官鳥ですか貴方は。貴方は黙って、懸賞金だけを受け取っておけばよいのです。後は私どもの問題ですからね。もし逆らうというのなら、貴方を国家反逆罪程度に処すことぐらいは、十分に可能なのですよ? 反逆者の養成機関とでも銘打てば、孤児院などいくらでも壊せます。貴方の弟妹や職員達は、反逆の輩として処分されるという筋書きですな」

「て、てめぇ……」

 少年は、頭に血が昇り、目の前が真っ赤になって行くのを感じていた。生まれてこの方、これほどまでに怒りを覚えたことはなかった。

 しかし、少年のそんな怒気は、次の言葉で一気に消沈してしまう。

「……わかった。行こう」

 沈んだ声を出したのは、魔女だった。

 魔女の目は、光を失っていた。希望という希望を失い、心の底で、不条理に抗おうという気力すらも失われているように、少年には思えた。

「な──何言ってやがる! 俺との決着はどうした! なんでこんな連中の言うことに素直に従うんだ! そうだ、魔法だ! 魔法が心の力だってんなら、もっと怒れよ! そんでこいつら、軽く蹴散らして──」

「いいんだ」

 魔女の声は、とても穏やかだった。少年は、その声を知っていた。

 それは、奴隷の声だった。

 希望を持つことを、自分自身の意志で生きることを諦め、ただただ力のある者に従うことで、ほんのわずかな安寧を得た者が放つ、哀し過ぎる声だ。

「ほんの少しの時間ではあったけど、貴様と過ごせて楽しかった。ひょっとしたら、生まれて始めてだったかもしれない。他人といることが、楽しいと思えたのは」

「だ、だったら! これからまだ過ごせばいいだろう! なんで諦める必要がある!」

「疲れたんだよ、私は」

 絶望の声は、少年に二の句を継ぐ事を許さない。それだけの迫力があった。

「生まれた時から残虐な魔女とされ、手足が伸び始める前に故郷を追われた。森の中で暮らすことで安らぎを得たかと思えば、今度は賞金稼ぎに襲撃される日々が待っていた。最後はこうして、国が総出で狩りに来る始末だ。……実に、ろくでもない人生だった。どうやら、私に安息の地はないらしい。けれどまぁ──そんな私の身柄と引き換えに、貴様が助かるというのなら、悪くはない取引さ」

「ふ──」

 ふざけんな、という言葉は、再度暴力によって遮られた。男が、少年の頭を殴り付けたのだ。

「実に賢明な判断ですぞ、魔女殿。なぁに、研究が終わるその日まで、生活に不自由はさせません。貴女が食したこともないような御馳走を、存分に振る舞いましょう。望むなら、出来る限りの娯楽も提供しましょう。最後まで、贅沢の限りを尽くすとよろしい」

「しかし、その後……私は死ぬのだろう」

「まぁ、研究のためですからなぁ。何、苦しませないように尽力いたします。これも運命の女神の導きと思って、一つ、諦めてくだされ」

 男は再度、この上なく下卑た笑いを、その顔に浮かべた。

 少年は、地面に組み敷かれながら、歯をひたすらに食いしばりながら、己の無力さだけをかみしめていた。

 ここで、力の限りに反抗を企てることは出来る。だがそうすれば、少年自身はもとより、自分が育った孤児院すらも反逆者のアジトとされ、攻撃される。

 しかしここで諦めれば、決して人を傷つけることを好まない、人生の楽しさをまだ何も知らない無垢な少女が、悪逆非道な権力者達によって、蹂躙される。 

 そして──少年の手元には、金だけが残る。

 どちらも少年の望む所ではない。どちらを選んだとしても、何かが欠けている。しかし少年には、その二つ以外に、取れる選択肢がない。

 理不尽。心と身体、両方の痛みに耐える中、少年の頭には、そんな言葉が浮かんだ。

「大丈夫だ。死ぬのは、もう、余り怖くない」

 少年の頭の上から、魔女の声が響いた。とても優しい声だった。

「貴様が気に病むことはない。もともと私は魔女だ。異形の怪物だ。この男の言うように、死ぬのは運命だったのかもしれない。気にすることはないさ。だから──」

 少年は、地面に顔面を押し付けられているために、魔女の顔を見ることは出来ない。声をかけることも出来ない。

 けれど、魔女が──自分と歳も変わらない少女が、己の気持ちを押し殺して、心の底で泣いていることだけは、痛いほどにわかった。

「元気で、な」

 その言葉が耳に届いた瞬間に、少年の中で、何かがキレた。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 力の限りに叫び、これまでに出した事のないほどの力を、全身から噴出させた。

 少年を抑えていた兵士を跳ね飛ばし、貴族の男を殴り飛ばし、周囲にいた兵士達を、剣で牽制する。そして──魔女を背後に回し、周囲の兵士全てに対し、剣を向けた。

「キレたぜ、完全によ」

 自身の喉から発せられる声が、ひどく低いことに気が付いた。少年は、生まれて始めて、心の底から怒っていた。

「てめぇら全員、ぶっ倒してやる。そんで魔女、てめぇも後で一発ぶんなぐる!」

 少年の頭に、理屈と言うものはない。だから、少年の言葉に論理性はないし、行動も衝動に任せただけのものと言える。倫理に叶っているかどうかも怪しい。

 けれど──少年は、自分が間違っているとは、欠片も思っていなかった。

「……ほおおお! よくぞまぁそこまで吼えれたもんです!」

 少年に殴り飛ばされた男が、身を起こしながら言った。その顔には、明らかな怒りが浮かんでいた。

「少年、貴方は最も愚かな選択をしたのですよ。まず、貴方自身はこの場で捕まる。魔女殿ももちろん私どもに付いて来て頂き、一通りの研究が終われば、貴方と同時に死んで頂く。最後に、残った孤児院も何もかも消滅させられます……意味がおわかりですかな?」

「知るか。こちとら馬鹿なんだよ」

 少年の言葉に、迷いはなかった。どれだけ戦況が悪くとも、引こうという気に、全くならなかったからだ。

「馬鹿も休み休み言え──という言葉も理解できませんか。なら、最後に聞きましょう。魔女を渡しなさい。そうすれば、減刑の可能性もなくはないでしょう」

「……私を渡してくれ」

 魔女が、少年の後ろで声を出した。

「私の魔法とお前の剣でも、この場から逃げ出すことは出来ない。ましてや、お前が育った孤児院を救う方法など……他に選択肢はない、さぁ、私を!」

「ふざけんなよ。女一人殺して皆幸せになりました? そんなくだらねぇハッピーエンド、認められるわけないだろ!」

 少年は、剣を構えたまま吼える。絶望的な状況であるとわかっていても、そうせざるにはいられない。

「おい貴族! ごちゃごちゃ言ってないでかかってこい! てめぇの糞みたいな考えにゃ、どうやっても従う気はないんだよ!」

「……ふん。馬鹿につける薬はない、ですな。もういい──」

 男は、再び手を掲げた。兵士達が、弓矢を、槍を、剣を構える。

「やってしまえ」

 兵士達が、雄叫びを上げながら、少年と魔女に飛びかかって来た。

 少年は、それでも諦めなかった。頭の悪い少年に、観念すると言う言葉はなかった。

 最後の最後まで、己の可能性を信じた。この場を切り抜ける方法があると、信じて信じて信じ抜いた。

 ──くそったれの運命なんぞ知ったことか! そんなもんの女神がいるってんなら、気合いと根性と、ええとあとなんとかでぶっ潰してやる!

 そして──少年の気迫もむなしく、兵士の剣が、槍が、放たれた弓矢が──少年の身体に、顔に、眼に、肉薄して行った。


***


「境野……」

 俺の病室を訪れたのは、誰あろう、ついこの間俺を殺しかけた、境野瑠奈だった。

「やっほー」

 境野は、軽い挨拶を口にしながら、片手を上げた。

 自分が殺しかけた相手にかける言葉にしては、軽薄が過ぎる気もする。しかし、俺自身特にこいつのことを恨んでいるわけではないので、気にするということはない。

 第一、爆弾騒ぎは鬼垣の自作自演だったわけだし、境野とて被害者、という見方も出来るのだ。

 灯が今置かれている状況は、いろんな要素が混ざり合って出来あがった。その事実は、決して揺るがない。

「何の用だ?」

「発表祭、一緒に行かない?」

 現れた事にも驚きを覚えたが、用件はさらに輪をかけて驚くに値するものだった。

「……なんで俺を誘う?」

「何だよ。理由がなくちゃ、女の子が男の子を祭りに誘っちゃいけないのかい?」

「いや、まぁ……」

 単にこいつが俺を誘う理由が全く思い浮かばなかったので、疑問をそのまま口にしただけなのだ。こう返されては、答えに窮する。

「で、どう?」

「別にいいけど。どうせ、夕方からは行こうと思ってたし」

「じゃあ決まりだね。ほら、着替えた着替えた」

 そう言うや否や、境野は俺の病人服に手をかけて脱がせようとする。恥じらいとやらはないのか女学生。

「自分で脱ぐからいいって。外、出ててくれよ」

「はいよー」

 俺が言うと、境野は服からぱっと手を放し、そそくさと廊下でに出て行った。

「なんだってんだか……」

 俺は、ぶっきらぼうに呟きながら、ベッドの脇に置いてあった制服に手を伸ばした。


 発表祭は、簡単に言えばSAGA全体のお披露目式だ。

 普段、この世の最果てなんて呼ばれて忌避されてはいるが、SAGAは異常発達者──つまりはびっくり人間の巣でもある。言い換えれば、刺激に飢えている大衆に取って、この上ない見世物小屋でもあるわけだ。

 さらに言えば、軍事関係者や工業技術・情報技術の専門家、あるいは芸術団体などの関係者に取っては、自分達の業界を活性化させる、若い起爆剤の宝庫でもある。

 諸々の事情を鑑みて、SAGA全体として、年に一回、身体科・演算科・機械科・表現科などが、それぞれ活動の成果をする機会を持つことと相成ったわけだ。それが発表祭である。

 そういう経路で出来たイベントだけに、現在SAGAの敷地は、かなりの盛況具合だった。どこを見ても人・人・人の海である。普段の静けさと比べれば、雲泥の差と言えよう。

「無為、あっちで屋台出てるよ。なにか食べよう」

「いいけどさ……」

 俺と境野は、そんな人混みの中を歩き回っていた。

 正直、俺は人混みが酷く苦手なので、メインの発表場である巨大ステージ(三階~四階建ての建造物ほどの大きさである。ちなみに機械科と演算科の共同製作だ)の辺りでじっとしていたいのだが、境野はどんどん俺を引っ張って行く。人と人の間を縫うようにして歩くしかないので、手を握りっぱなしだった。

「なぁ、とりあえず食う物買ったらどっかで座ろうぜ。出来ればステージ付近がいい」

「ああ、普通科も今年はあそこで発表だっだっけ。いいよ、有志のミニイベントより、やっぱり学科発表の方が面白いだろうし、身体科や機械科の発表も観たいしね」

「そういや、お前はステージで何かしないのか?」

「私の専門は、軍事技術と武器の理論だからね。作ったモノを実際に発表するのは、身体科の役割だよ」

「なるほどね……」

 裏方は本番は暇になるというわけだ。俺を誘ったのも、おそらく自分同様に暇そうな人間を、とりあえず誘ってみた、という所なのだろう。

「じゃ、行くか」

「オッケー」

 俺と境野は、適当に屋台で食える物を買い込んだ後、メインステージの方へと向かった。


 メインステージは、SAGA敷地内にある、半円形に広がった、なだらかな坂の中心に設置されていた。ステージの設置されている舞台の周囲に、臨時でいくつものベンチが置いてあった。

 例年のことながら、ベンチは関係者や野次馬で来た民間人がほとんど占拠していた。なので俺達は、ステージからやや離れた位置で、直接地べたに腰かけた。

 ここしばらく雨が降っていないこともあり、芝生が乾燥していて、とりたてて不快感はない。むしろ、土のクッションが適度な柔らかさで、心地よいほどだった。

「ここからだとちょっと遠いね」

「毎年、そこまで演目に変更があるわけでもないだろ。ここからでも、何やってるかは十分見えるさ」

「機械科は毎年進化してるっての。全く」

 境野は、ぷんすか言いながら、屋台で購入した焼きそばに箸を付けた。俺もそれに倣い、たこ焼きにつまようじを差し込んだ。

 しばし食事タイムとなったために、会話は途切れる。

「……あのさ」

 いくつかたこ焼きを食いきった所で、境野が切り出した。

「ん」

「こないだは、ごめん」

 境野は、箸を発泡スチロールの容器に一端置いて、俺に向かって頭を下げた。

「……それ言うために、俺を誘ったのか?」

「それだけじゃないけどさ。でも、まずは謝っておこうと思って」

「いいさ。お前だって濡れ衣着せられたんだ。怒って当然だ」

 鬼垣の事は、今はまだ黙っておこうと思った。おそらくは、後日鬼垣自身から謝罪があるだろうし、祭りに水を差すのは無粋というものだ。その程度の情緒は、まだ俺にも残っている。

「そう言ってもらえると、すごく助かる。けど──やっぱり、ごめん」

 境野は、再度頭を下げる。確かに、興奮状態にあったにせよ、人一人を殺しかけたのだから、謝意を表明するのは当然ではある。当然ではあるのだが──それにしても、嫌に殊勝が過ぎると思った。

「素直に謝罪出来るのは美徳かも知れない。けど、十分伝わったから、もういいって」

「いや、たぶんまだ、私の言いたいこと、全部は伝わってない」

「境野……?」

 境野の顔は、真剣そのものだった。その表情は、徐々に顔を覗かせ始めた夕陽に照らされて、ほのかに朱色に染まっていた。率直に言って、とても綺麗に見えた。

 ステージで行われている、身体科の体操パフォーマンスや、それで沸く観衆達が、とても遠くに感じられた。

「始めて会った時のこと、覚えてる?」

「あ? ああ、中等部の頃だろ」

 当時の俺は身体科として、軍事演習を常日頃から受けていた。そして、軍事関連技術を専門をするこいつは、当時から教職員とともに軍事教練の内容やら、使用する銃火器やらを協議するほどだった。なので、必然的に、割合中等部の始めの頃には、もう知りあっていた。

「正直、最初はなんだこいつって思った。すごい無愛想で、淡々とカリキュラムをこなすだけみたいな印象だったよ」

「あっそ……」

 境野の言う無愛想は、他者への無関心がそのまま顔に出ていただけだ。多少灯に関して心が動き始めた今でも、仏頂面なのは治っていないのだ。当時はさぞかしつまらない顔だったろう。

「けど──なんて言えばいいかな。その反面、妙に気にもなった」

 境野は、その顔を再び正面へと──ステージの方へと向けた。けれど、言葉は留まることを知らず、続いて行った。

 俺は、そんな境野の横顔から、目を逸らすことが、出来ない。

「知っての通り、私は武器やそれを扱うことにしか興味がない。自分でも哀しく思う時があるけど、本当にそれしか興味がないんだ。それ以外の事は何も知らないし、知りたいとも思わない。だから、他人とコミュニケーションのためのコミュニケーションを取ってる連中が、信じられなかった。うんと小さい時からそうだったから、SAGA送りが決まった時は、むしろ喜んだくらいさ」

「……そうか」

 SAGAに集まっているのは、精神に異常を来たした異常発達者達と相場が決まっている。だが、それをどう受け取っているかは、人それぞれなのだ。

 悲しく思っている奴、嬉しく思っている奴、死にたくなるような恥だと思っている奴、本当にいろいろいる。

 そして──特になんの感慨も持っていなかった奴も、確かにいる。

「そんな中、君を見つけて、感じたことがあったわけ」

「何を感じたってんだ?」

「ああ、こいつ私と同類だな、って。そう感じたんだよ」

 境野は、再び俺の方を見て、目を覗きこんで来た。必然的に俺の視界にも境野の瞳が入り、そこに俺が映っているのが、よく見えた。

「他人に興味がなくって、誰かと話してても、絶対そいつのことは見ていない奴。ベクトルこそ違ったかもしれないけど、自分と同じ物を持っている人間のことが、すごく気になり始めた。だから、積極的に話しかけて行ったよ」

「……」

 当時からこいつが、授業と関係ないシミュレーションを企画しては俺に話しかけ、誘って来ていたのを思い出す。同時に──その時のこいつの顔が、とても嬉しそうだったことも。

「身体科から君がいなくなった時は、結構悲しかったなぁ……でも、シミュレーションには付き合ってくれるから、まぁいっかって、そんな風に思ってたよ。けど──」


「君はあの時、あの灯って娘を、助けようとしてた」


 境野の声は沈んで行き、瞳に鋭さが混じり始めた。その鋭さは、おおげさに言ってしまえば、殺気、とも形容出来るかもしれない。

 俺は、そんな境野の瞳から、決して目を逸らさない。境野の迫力がそれを許さないし、逸らそうとも思わない。

「正直に言う。嫉妬したよ。どうして私じゃないんだって思ったし、あの娘のことも、無為のことも憎く思えた。そして次の瞬間には、自分の中で君達が、ただの標的と同じものに変わった。武器を振るう対象としか思えなくなった。だから、簡単にナイフを向けることが出来た」

「境野……」

 しかし、そこまで言った時点で、境野のから発される圧力は、完全に消失した。境野はふっと、少し哀しげな、自嘲するような笑いを、その顔に浮かべた。

「脅かしてごめん。今謝ったのは、その後にいろいろと聞いたからだよ。イクセンって言ったっけ、普通科の担任教師。あの先生が、どうせ最後だからとか言って、今日まで独房にぶち込まれてた私に、いろいろとしゃべってくれたんだ。灯さんの成育歴とか、君との関係とか、いろいろね。まぁ──彼女の力のことは、公然の秘密だったから、私も元からある程度聞いてたんだけど」

「……それで、どうして謝ろうと思ったんだ?」

「負けを認めたから、かな。特に、今日無為に会って確信した。君の顔は、あのころと同じ無愛想だけど──目に映ってるものが、全然違うんだ」

「そうかも、しれないな」

 糞みたいな人生を送って来た。俺に取って他人は、苦しくて痛いだけの存在だった。

 だから、他人と関わるのが怖くて辛くて仕方なくなって、嫌にもなって、出来る限り人と関わらないようにしてきた。他人に対して無関心だなんて虚構で、自分を飾っていた。

 無性愛者なんてのも、結局他者との関わりを避けた結果に過ぎない。臆病な心の現れというだけだ。決して、生来の特殊性なんかじゃない。

 だけどそのおかげで、あいつの側にいることが出来た。

 数年もの間、あいつの側に、居続けることが出来た。

 それは、本当は俺に取って、嬉しいことだったんだ。

 そして、今は──自分がこうありたいと思う映像の中に、しっかりと、他人の姿がある。

 例え、理想を実現させることが不可能に近くても、その姿だけは、もう揺るがない。

「そんなものを見せられちゃあ、ね。素直に自分がやったことの非を認めようって気にも、なっちゃうよ」

「……そうか」

「今日、発表祭に誘ったのはさ」

 境野が言う。おそらく、しっかりと整理の付いた心で以て、それゆえのはっきりとした口調で以て、言葉を紡ぐ。

「一応、気持ちだけ伝えとこうと思ったからなんだ。だから──返事はわかってるけど、伝えていいかな?」

「ああ」

 俺もまた、はっきりと答えた。真摯な想いを返さなければ、失礼に当たると思った。

 境野は、ゆっくりと息を吐いて、吐き切って、その後思い切り息をしっかり吸って、俺の目を真っ直ぐに見て──口を開いた。

「私、境野瑠奈は、無為優作の事が、ずっと前から──」

「無為!」

 しかし、境野の想いは、横から入って来た声で、中断されてしまう。

 自然と、俺と境野の視線は、声の主へと向かった。

「委員長……?」

 そこに居たのは、見慣れたセーラー服姿の女学生──鬼垣可憐だった。しかし、普段とは様子がまるで違う。

 鬼垣は、肩で息をして、全身から汗をふきださせていた。全力疾走の末に、俺達の居る場所に辿りついたと、言外に語っていた。

 その尋常ではない様子から、何か、とてつもなく悪い事態が起こっていることが、読み取れた。

「大切な時間にごめん。けど、それどころじゃないの! これでステージの屋上を見て!」

 そう言って鬼垣が差しだして来たのは、オペラグラスだった。観客用に無料で配られているものだから、それ自体に驚くことはないのだが──鬼垣の言った、ステージの屋上、という言葉が不可解だった。

 そんな場所に、一体何があると言うのか。

「……? なんだってん──」

 俺は、鬼垣から受け取ったオペラグラスを目に装着させて、ステージの上部を見た。そして──息を飲んだ。

「灯……!?」


***


「来たか、無為」

 メインステージの裏手、普通科を含む各学科が、ステージの準備や本番中の裏方作業に用いる場所。簡易的なベンチや机が並んでおり、今は、ちょうど普通科の芝居がスタートした所のようで、俺がついこの間まで使っていた小道具の類が並んでいた。

 そんな場所で、俺と鬼垣、そして境野は、イクセンや普通科生達と合流した。

「先生、なんであいつがあんな所に!」

「まずは落ち着きたまえよ。慌てて得をすることは何もない。むしろ、冷静さを欠いたために、何もかも無くすことはあり得るんだから」

 言葉を発するイクセンには、今までのこいつとは明らかに違う、怒気でも殺気でもない、得体の知れない威圧感があった。

 俺は、その威圧感に圧され、二の句を繋げず、半ば強制的に。冷静さを取り戻させられた。

「なぜ彼女があんな所にいるのか──いや、なぜあんな所を選んだのか。それは僕にもわからない。けど、一つ言えることがある」

「それは……?」

 イクセンは、普段とは違う、凄みを持った細い目で俺達を見て、静かに言った。

「彼女が、命の危機に瀕しているということさ」

 自分の全身から、血の気が引いていくのがわかった。同時に、妙に冷静になった頭が、状況を考察してしまう。

 ステージの高さは、一般的な建物にして三階から四階程度。高層ビルとまでは行かないが、決して低い位置ではない。

 そして、ステージはあくまで発表のために作られている。芝居などで、ステージの比較的高い位置からキャラクターが登場する演出をするために、途中までは梯子で登れる構造にはなっているものの、やはり屋上は、人が歩ける造りではないのだ。

 つまり──灯は今、落ちれば人が死にかねない場所に、まともに立つことも出来ない状態で、居ることになる。

 元から精神的にかなり追い込まれた状況にある上に、現在はかなり絶望に近い状態のあいつが、である。

 導き出される結論は、最悪のものしかない。

「自殺しようとしてるってんですか、あいつが!?」

「だろうね」

「だろうね……!?」

 気付けば俺は、イクセンの胸倉を掴んでいた。迫力こそあったものの、余りにも軽い言い回しに、衝動を抑えられなかった。

 だがイクセンは、俺の暴力に抵抗の意志を見せることなく、ただ、じっと俺の目を見据えて、普段よりもずっと低い声で、言葉を紡いだ。

「殴りたければ殴ればいい。だがそんなことをしても、彼女は助からない。現状は変わらない。ただ君が、憂さ晴らしにもならない八つ当たりをした事実が残るだけだよ、無為」

「くっ……!」

 反論は出来ない。出来るわけがない。俺の行動は、ただのガキの駄々だ。

 俺は、苦虫をかみつぶしたような思いのまま、手を放す。

「……すいませんでした。けど──どうすればいい? どうすれば、あいつを助けられる!?」

 俺は、胸に滾る焦燥のままに、イクセンに詰め寄った。

 純粋に、助けて欲しかった。どうすればいいか、わからなかった。焦りだけが募って行った。

 感情の抑えなど、もはや全くない。ただ、どうすればいいか、教えて欲しかった。

「それに関して君は──聞く側じゃないな。実行する側の人間だ」

「──」

 イクセンの言葉で、俺ははっとなった。気付くことが出来た。

 鬼垣も、境野も、草十郎も、その場にいた全員が、俺に目を向けていることに。

「この場で──いや、あるいは世界中でも、現在の灯君を助けることが出来る存在は、君だけだろう。なら、君が取るべき選択肢は、そう多くはないと思うよ」

「俺に、何をしろと……?」

「さっきから、同じことを言ってるだろう。僕に聞いてどうするんだ? 少しは自分で考えろよ、甘ったれのガキが」

「え……?」

 急激に変わったイクセンの口調に、俺は強い戸惑いを覚える。そして次の瞬間、イクセンに胸倉を掴まれたことで、戸惑いは混乱に達する。

「いいか。僕は教師だ。君達に教育を施すのが仕事だ。勉強や社会のシステムを教える事は僕にも出来る。けどそれは、君達がまだ自力で到達していない位置に、たまたま僕がいるから出来ることだ。けど、今回のことは──灯君の問題は、僕が到達している場所にも、他の誰かがいる場所にも、答えは書かれていない。君が自分で考えて、自分で決めるしかないことなんだよ」

「う、あ」

 俺はイクセンの迫力に、完全に呑まれていた。圧倒的なまでの、教師としての使命感が、俺を圧迫していた。

「自分の言葉を使えと言ってるんだ。腹の底から出た言葉は、誰かの言葉に響く。いいや、それ以外の言葉では、誰にも伝わらないとまで言える。それがわかったなら、今すぐ足りない脳細胞をフル回転させろ。自分に何が出来るか、彼女に何を言ってやれるか、頭が頭痛で割れそうになるまで、考えるんだ!」

 そこまで言ったところで、イクセンは俺を解放した。俺はよろよろとふらついて、尻餅をつきそうになるところを、すんでのところで踏みとどまる。

「難しく考えるこたぁ、ねーんじゃねえか?」

 俺の肩を支えながら、そう言ってくれたのは草十郎だった。

「俺はアホだからよ、難しい理屈はわかんねーや。でも、灯ちゃんが誰の助けを欲しがってるのは、なーんとなくわかるぜ」

「草十郎……」

「とりあえず、大好きだーとか言ってやるといいと思うぜぃ。わかりやすくってよ」

 草十郎は、いつも通りの飄々とした態度で、けらけらと笑っていた。

 空気を読めない奴と言えば、それまでかもしれない。

 けれどこいつは今、決して己をぶれさせることのない、誰よりも強い心で以て、この上なく真っ直ぐなアドバイスを、俺にくれたのだ。

「あたしからも、いいかな」

 鬼垣が、真摯な面持ちで、一歩前に出る。

「灯さんがあそこにいるのを見つけて、ずっと考えてた。でも、やっぱりあたしに言えることなんて、何もなかったわ。だから──発表祭終わったら、一緒にゲームしようって、それだけ伝えて。後はやっぱり、あんたの役目でしょ」

「委員長……」

 鬼垣は、今にも泣き出しそうだった。本当は弱い心の持ち主なのに、それでもリーダーとして、誰よりも強い責任感を以て、選んでくれた言葉だったのだと思う。

「ほら」

 境野が、俺に何かを投げた。俺は、反射的にそれを受け取る。

「カッターナイフ……?」

「もしあの子が、本当に死にたいと思ってるんなら、君が殺してやるのがいい。元身体科なら、それでも十分やれるだろ? それが多分、あの子が一番幸せに死ねる方法だと思う。けど──実際にどう行動するかは、君次第だよ」

「……」

「ああ、それから」

 境野は、ほんの一瞬だけ、場にそぐわない、明るい声を出した。あたかも、俺の負担を軽くしようとするように。

「さっきの続きは、やっぱいいや。気が変わったよ。負けるとわかってる勝負なら、それでもやるのが私流だけど──勝つ気がなくなった勝負をしても、仕方ないからね」

「皆……ありが、とう」

 俺は、生まれて始めて、心から感謝を言葉にした。涙が出そうになるほどに、感情が動いていた。周囲の気持ちが、痛いほどに伝わって来たから。

 例え、自分勝手な錯覚でも、ただ場の空気に合わせただけであっても、偽善であっても構わない。俺の事、そして灯の事を思ってくれた人達の言葉を、無下にすることなど、今の俺には、出来るわけがなかった。

 ならば、もう、迷うことなど──何もない。

「さぁ、無為。これ以上は灯君が危険だ。全ての責任は僕が取る。後の心配はいらない、行って来い!」

「……はい!」

 イクセンの言葉で背を押され、俺は歩き出した。俺が生まれて始めて、大切に想い始めた、たった一人の人間の許に、向かって。


***


 私の本当のお父さんの顔を、私は知らない。

 物心がつくころには、お母さんと二人で暮らしていた。それが普通だと思っていたし、お父さんがいないことでからかわれることもあったけど、特に気にすることはなかった。

 お母さんは、とても優しい人だったから。私の事を、想ってくれてると信じていたから。

 そんなある日、お母さんが、新しいオトウサンという人を家に連れて来た。再婚すると、それだけお母さんは言っていた。

 とっても背が高くて、力の強い人だったから、最初は怖かった。でも、すごく私のことを可愛がってくれたから、すぐに私は懐くようになった。

 しばらくの間は、とても幸せだったと思う。けれど、その幸せは、すぐに壊れてしまった。

 私が、十歳くらいになったころだろうか。周りの子よりも少し発育がよかった私は、早めに初潮を迎えることになった。

 始めてのことだったから、とても不安だった。お母さんに相談しようとしたけれど、その前にオトウサンに見つかってしまった。

「大丈夫、何も心配いらないよ」

 オトウサンは、笑顔でそう言った。その笑顔を見た時、なぜかとても不安になったのを、よく覚えている。

 オトウサンは、薬局で生理用品を買って、私に渡してくれた。説明書とにらめっこしながらだったけど、私はなんとか事を終えることが出来た。

「汚れた下着、洗っておいてあげるよ」

 オトウサンはいつもお母さんと二人で家事をしていたから、私は特に訝ることもなく、汚れたパンツを渡した。いつも通り洗濯をしてくれるのだろうと、そう信じていた。

 その日の夜、私は夜中に目を覚ました。生まれて始めての経験をして、少し緊張が残っていたからだと思う。

 軽く顔でも洗えば眠れるかと、洗面所に行ったのがまずかったのかもしれない。

 私が洗面所のドアを少し開けると、中から光が漏れた。私は、ドアの隙間から、中を覗いた。

 オトウサンが、私の下着を、顔に当てていた。

 鼻息を荒くしたオトウサンは、普段とは似ても似つかなかった。私は、そんなオトウサンがすごく怖くなって、すぐに逃げ出した。

 お母さんに言おうとして、でも何かいけないことをしているようで、やっぱり言えなくて──結局、部屋の布団に包まって、朝を待った。

 それからだったと思う。オトウサンが、事あるごとに、私に触ってくるようになったのは。

 お母さんはお医者さんだったから、夜が遅い時や、夜通し仕事をする事が多かった。だから、夜に私とオトウサンが二人きりになることは、珍しくなかった。そんな夜は、オトウサンの視線が嫌らしくなることが、増えて行った。

 始めは、お風呂を覗かれることから始まった。オトウサンは、私が自分で着替えを用意していたのに、わざわざ脱衣所まで来て、余分な着替えを置いた。そのついでと言うように、お風呂場を覗いて行った。

 スキンシップだと言って、始めは頭や肩を触ってきた。それが胸やお尻になるまでに、それほど時間はかからなかった。

 ふと気付くと、自分の下着がなくなっていることも増えていった。そんな日の夜は、大抵オトウサンの部屋から、気持ちの悪い声が聞こえてきた。

 私が成長するほどに、そんな悪戯は増えて言った。直接性も増していった。私は、とうとう我慢が出来なくなって、お母さんに相談した。

 お母さんは、真摯に私の話を聞いてくれた。そして、一通り話を聞き終わると、私の頬をぶった。

「なんで、貴女ばっかり……!」

 お母さんは、涙を流しながら、怒りと羞恥で顔を真っ赤にしていた。その頃、私はもう思春期の入り口に立っていた。だから、お母さんが私に嫉妬しているのだとわかった。

 お母さんの気持ちはわかったけれど、意味はわからなかった。母親の役目よりも、女の自分を優先させる気持ちが、理解できなかった。

 私は、自分がなぜこの家にいるのか、なぜ生きているのか、わからなくなった。

 オトウサンのセクハラは、日に日に悪辣さを増して行った。このままでは、最後の一線を越えられる日も、遠くないかもしれない。私は、すがるような思いで、お母さんに泣きつき続けた。

 泣くたびに頬をぶたれたけど、それでも私は、お母さんに助けて欲しかった。

「お願い、お母さん……助けて……」

「……わかったわ。じゃあ、オトウサンが貴女に興味を無くす、とっておきの魔法をかけてあげる」

 お母さんは、何か、意を決したような顔をしていた。

 その後私は、お母さんが勤める病院に入院した。どこも悪くないのに、なぜ入院するのかはわからかったけど、オトウサンと離れられるので、気持ちは楽になっていた。

 お母さんは、私が入院している病室に、女医の姿でやってきて、こう言った。

「貴女を、手術するわ」

 何の手術かは、結局教えてくれなかった。ただ、オトウサンが貴女から興味をなくすためよ、とだけ言っていた。

 結果──確かにオトウサンは、私に対して興味を失ったようだった。なぜなら、私の中から、女の部分が無くなってしまったのだから。

 お母さんは、私に対して、女の部分を切り捨てる手術を敢行したのだ。もちろん、お母さん自身が執刀して。

 それ以降、私の身体は、女として成長していない。詳しい理屈はわからないけれど、成長期に身体をいじくってしまったことが、原因らしい。

 そして、私の心は──壊れてしまった。

 手術の結果、私は、自分が女なのか男なのかもわからなくなった。そのせいなのか、他人が自分に向ける視線が、全て怖いものに見え始めた。かつてオトウサンが私に向けていた目のようで、見られるだけで逃げ出したくなった。

 自分がここにいる感覚がない。自分がどこにいるのかわからない。全てが曖昧で、ただ生きている苦痛だけが、嫌にリアルだった。

 お母さんは、私に行った手術が原因で、警察に捕まった。本当ならオトウサンも捕まるはずだったんだろうけれど、オトウサンは仕事の関係で、その罪を免れていた。

 そして私は、オトウサンが作った、SAGAとか言う学校の寮で暮らし始めた。自分の恥を隠すために作ったとか大人達は言っていたけれど、私にはわからないままだ。

 寮の部屋が与えられたはいいけれど、どこにも行ける気がしなかった。だから私は、ゲームを始めた。お金だけはオトウサンがくれていたから、お小遣いには不自由しなかった。

 ゲームの世界に入っている間だけは、痛くて苦しいだけの現実から、逃げられた。心地よい世界だった。

 感動を、興奮を──幸福を、感じられた。

 そんなある日、彼が、私の部屋にやって来た。

 彼は、これから自分もこの部屋で寝泊まりをするからよろしくと、それだけ言った。

 始めはやっぱり怖かったけれど、彼は私に興味を示さなかった。何をしていても気にしないようで、私の裸を見ても、何も感じないらしかった。

 ありのままの自分でいても、怒られなかった。嫌らしいこともされなかった。そんなことは、生まれて始めてだった。だから私は、彼のことが、次第に怖くなくなっていった。

 彼は、いっしょにゲームをしてくれた。今までは、一人か、せいぜいネットの先の人間としかゲームが出来なかったから、とても嬉しかった。

 本当に、幸せだったと思う。

 けれど、幸せは長く続かない。彼が大怪我をしたと聞いた私は、居ても立ってもいられなくて、かけつけた。

 その先はよく覚えていない。ただ、オトウサンの知り合いとか言う大人の人達が来て、彼が学校を退学になるかもしれないこと、私が研究機関に行けば、その退学も免除になること、彼が生活に困らない事を話してくれた。

 研究機関なんて、行きたくない。けれど、彼が幸せになるなら、それでもいいかもしれない。

 そんな風に自分を納得させて、話を了承した。したはずだった。

 大人達が帰った後、しばらく経って、身体が震えだした。今までとは明らかに違う怖さが、身体中を覆っていた。

 彼と、もう会えないかもしれない。彼と、ゲームをすることが出来ないかもしれない。そう思うだけで、身体が引き割けそうになるほど、悲しくなった。

 でも、私がここに残れば、彼はここに居られない。彼もまた、辛い人生を送ってきたと言っていた。私がわがままを言えば、彼はあそこに戻る。もう、私達がいたあんな場所に、戻って欲しくない。そんなのは、彼と会えなくなるよりも、もっと嫌だ。

 どうして、こんなにも嫌なことが続くのだろう。神様は、どうして私の事が嫌いなのだろう。ただただ、涙が止まらなかった。

 気付けば私は、珍しく学校の制服を着て、お祭りの日に、外出していた。そして、自分でもわからないうちに、とても高い場所に立っていた。

 学校が一望出来た。敷地内にぽつぽつと灯っている、お祭りの明かりが、とても綺麗に思えた。

 人が集まる場所から外れた、山の上に建っていて、外の世界から隔絶された場所。集まっている人と合わせて、この世の最果て、なんて言う連中もいるらしい。

 でも、リアルなんて言うのは、不条理で理不尽で苦しくて痛い、とんでもないクソゲーなんだから。

 そこから、逃れられると言うのならば。

 この世の最果てなんて場所も、そこで果てること自体も、そう悪くは、ないんじゃないかな──。


「どんなクソゲーだろうと、クリアしないで積みゲーするなんてのは、ゲーマーとして失格だぜ、灯」


 声がした。ここしばらく、聞くことが出来なかった声。聞きたくて聞きたくて、でも聞いたところで、何も出来なくて悲しくなるだけの声。

 そんな声の主が、ステージの裏から、顔を出していた。


***


「無為……」

「よぉ……久しぶりだな、灯」

 俺が灯にそんな言葉を投げた時、ステージでは、普通科の演目がスタートしていた。今は、魔女が故郷を追放されるシーンだった。

 そのステージのはるか頭上──地上からの高さは、十メートル以上の場所。俺と灯は、そんな所に立っている。

 灯は、涙で泣き腫らした顔に、驚愕の感情を浮かべていた。俺が現れた事が、意外で仕方ないと言うように。

「なんで、ここに」

「こっちの台詞だ馬鹿野郎。お前、こんな場所で何やってる」

「……わかんない。気付いたら、ここに居た」

「そうか。なら、とりあえず降りよう」

「嫌」

「なんで」

「わかんない……でも、もう、嫌」

 どうやら、自分でも自分の気持ちが、はっきりわかっていないらしい。

 しかし、灯が、どうしようもないほどに追い込まれていることは──自分を追いこんでしまっている事実は、揺るがない。

 ステージでは、次のシーンに話が進んでいた。王と大臣が話をするシーンだ。

「話してくれよ。何を想って、ここにいる?」

「……わかんない。私が施設行きとか言われて、無為と会えないってわかって、頭ぐちゃぐちゃになって──本当に、わかんなくて、わかんなくて、わかんなくて! だから、もう──全部終わっちゃえって、そう思って……」

「……」

 予想通りだった。灯は今、何もかもを投げ出そうとしている。

 こいつは、余りにも過酷な人生を送ってきたために、人の悪意を一身に浴び続けたために、自分の存在を見失い、自分の意志すらも見失っている。

 灯を追い詰めている原因そのものを打開する策は、現状では見つかっていない。つい先程まで考えていたが、結局何も浮かばなかった。

 だから俺は、もう、何も考えない。

 ただただ、胸に溢れる気持ちだけを、灯にぶつける。

「お前の気持ちは、わかる。俺も同じようなものだから」

「……」

「でも、死ぬな。お前が死ぬことは、世界中の誰が許しても、俺が許さない」

「どうして?」

 灯は、目に涙をためたまま、俺を睨みつける。ステージで行われている、大臣と王の会話が、わずかに耳に届いていた。

「私の気持ちがわかるって言うなら、なんでそんなこと言うの! 苦しくて辛くて、痛くて痛くて恥ずかしくて! ずっとどうして自分が生きてるかもわからなかった! 私なんて死んだ方がいいんじゃないかって、そんなことばっか考えてた! ゲームをしている間だけは救われた。でも、そのゲームも、無為がいないんじゃ、もう──楽しくない……!」

 灯は、ぼろぼろと涙を流し続けていた。どこに向ければいいかもわからない感情が、形を持ったように。

「だから……もう……終わっても、いいじゃない。私達を苦しめた皆が見てる前で、ほらお前らが望んだ通りだろって、そう言いながら、死んでも……いい、じゃないのよぉ……」

 灯は、その場でしゃがみこみ、膝を抱えてしまった。もともと人が動くようには出来ていない場所だ。接地面積は、人の臀部ほどもない。

 わずかにでもバランスを崩せば──頭から、真っ逆さまだ。

「……本当か?」

「え?」

「本当に、そう思ってるのかって、そう聞いてんだよ」

 一歩。二歩。

 俺は、そんな危険がある場所であるにも関わらず、灯に近づいて行く。

 ちょうど──勇者が、魔女に自分の側にいる理由を聞かれて、ただ楽しいからだと答えた時のように、迷いなく。

「お前は、本当に自分が死んじまうことを──何もかも終わりにすることを、望んでんのかよ」

「え、あ?」

 灯は、混乱しているようだった。当然だろう。

 俺の言葉は、こいつと関わることで変わることの出来た、俺の心は──こいつ自身の心に、メスを入れるのだから。

「違うな。お前は死ぬことを望んでなんかいない。見ればわかる」

「な──何言ってんの!? さっき、私の気持ちがわかるって言ったじゃない!」

「だから、お前は本当は死にたくないんだよ!」

 俺は、力の限りに声を張り上げた。

 先日、爆弾騒ぎで俺が疑われた時などとは、明らかに違う声。

 理不尽に対抗するという意味では、同じかもしれない。

 でも、そこに込めてある想いは、まるで違う。

「お前はただ、酷いことをされ続けて、自分が悪かったからそうなったんだって、誤魔化しているだけだ。本当の意味で、辛いことを受け入れてないだけだ。生きていけないほどの辛さを受け止めることが出来ないままに、そんな事実から目を逸らすために、死んで楽になろうとしているだけだ!」

「な──なにそれ……何言ってるか、全然わからないよ!」

「そうか、わからないか……なら、聞くぞ」

 俺は、軽く深呼吸をして、真っ直ぐに灯の目を見据えて、言葉を紡ぐ。

 切り札となる、最強の言葉を。

「お前、ゲーム作家になりたいんじゃないのか」

「──! なんで、それを……!?」

 灯は本気で、驚愕に目を丸くしていた。絶望的な気持ちが、驚きによって、ほんの一瞬でもかき消されたのが、よくわかった。

「悪いな。この前、お前が風呂に入ってる時に、ゲーム制作関連の本が届いてたの、少し見ちまったんだよ」

「……ひどいっ」

「だから悪かったって。でも──作りたいんだろ、ゲーム」

「それは……でも……」

 でも、しかし、けれど。灯は、そんな否定の言葉を使おうとして、それでも上手く行かない自分に、やきもきしてるようだった。当然だ。

 こいつは──否、こいつでなくたって、世界中の誰だって──自分の気持ちを、自分で否定することなど、出来るわけがないのだ。

「やりたいことがあるんなら、逃げてんじゃねえよ。しっかりやりきってから死にやがれ」

「無理……無理だよ……無為がいないのに……私、世界中が怖い……何も出来ない……だから、楽に──」

「ふざけんな!」

 俺は、腹の底から声を出す。灯のために、灯を助けるために──いいや、少し違うか。

 俺自身が、心の底から、灯に生きていて欲しいために──だ!

「苦しくて辛かった? ああそうだろう。俺だって糞みたいな人生だって思ってたよ。なんで自分が生きてるんだろうって、どうして世界は糞みたいなんだろうって、そう思ってたよ! でもな! どんなに理不尽でも不条理でも、苦しくても辛くても、痛くて痛くて、恥辱と屈辱の極みみたいな人生だったとしても、世界中の人間が自分に悪意だけを振りまいたとしても! 

 それで──」


「それでどうして、お前が死ななくちゃ、いけないんだよ……!」


 誰かの悪意に翻弄されて。自分の存在を否定され続けて。

 辛くて辛くて、苦しくて苦しくて、自分の価値なんて何もないと思えて。心にぽっかり穴が空いてしまって、それを埋めるように悲しみだけが溢れて来て。

 そんな、糞みたいな人生だろうとも。どれほど凄惨な人生だろうとも。

 生きていたいと思う気持ちが、否定されて、いいわけがないんだ──!

「甘ったれんなって言ってんだよ。生きていたいんなら、どんな悪意に襲われても、叩き返してやりやがれ。悪意を押し付けてやる連中なんかのために、どうして俺達が死ななくちゃ、いけないんだ!」

「うっ……ひ、ぐう……」

 灯は、すすり泣いていた。灯の心がほぐれていくことのが、よくわかった。

 存在の肯定。お前はお前でいいと言う言葉。俺が、灯が、SAGAに集まっている誰もが、聞きたかった言葉。それは、俺達に取って、何よりの救いの言葉だ。

 でも、実を言えば、それだけでは力が足りない。本当に必要なのは、悲しみを受け止めて、苦しい思いをした自分の全てを、肯定してやることだ。

 長い間否定され続けた灯は、一人ではそこに辿り付けない。だから、俺や、草十郎や委員長やイクセンや、あるいは境野でも誰でもいいから、誰かがほんの少し、背中を押してやればいい。

 本当は、生きていたくて、仕方がないのだ。ほんの少し、悪意の呪縛を解いてやれば、誰だって、歩いて行けるに決まっている。

 俺が今言ったのは、そんな、ちょっとしたきっかけに過ぎない。ここから先は、灯自身が、自分の意志で、決めることなのだ。

「無為……私……」

 灯は、まだ涙を溢れさせていた。でもそれは、もはや、悲しみのものではないだろう。

 溢れ返る感情は、絶望なんかでは、決してない。

「私……やっぱり、まだ、死にたくない……生きて、いた」

 そこまで言った、その瞬間だった。灯の身体が──ステージの方向へ投げ出され、宙に浮いた。

 立ち上がろうとした、俺の方へと歩こうとしたために、ほんのわずかに、足が滑ったのだ。決して、灯が自分から死のうとしたのではない。

 ただ純粋に、事故を起こしただけなのだ。

「え?」

 灯は、自分の状況をすぐに理解した。だから、何よりも強い心で以て、言葉を発した。

「助けて、無──」

 無為、と言い切る暇もなく、灯の身体は、落下を始めていた。瞬間、俺の身体の底から、猛烈な衝動が沸き起こる。

 ふざけるな。

 俺も灯も、運命とか言うものに抗うと、絶対に生きてやると決めたばかりなんだ。

 天にいる神だが先祖だか、仏だか女神だか絶対神だか知らないが、そんな気まぐれなドS連中のきまぐれなどに、これ以上、付き合ってたまるものか。

 俺達の意志を、生きようと言う気持ちを、今まで以上の悪意で、狩り取ろうと言うのなら──。

 この俺が、持てる力の全てを費やして、てめぇら全員、ぶちのめす!

「灯ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」

 気づいた瞬間には、灯の方へと駆け出していた。ステージの端を蹴り、空中に身を躍らせ、灯の身体を抱きしめる。しかし、当然落下は止まらない。

 極限まで集中力が高まったために、時間がスローに感じられる。走馬灯なんてものは見えてきかけたが、最後まで見てたまるものか。ただただ、生きる方法を模索し続ける。

 体勢が悪い。このままでは、灯もろとも頭から地面に激突しかねない。劇はクライマックスである、勇者が魔女を守るシーンに入っていたが、そんなことを気にしている場合じゃない!

「くっ!」

 俺はポケットから、境野から受け取ったカッターを取り出し、片手で刃を出す。そして、それをそのまま、ステージの壁に突き刺す。

 異常なまでに発達した全身の筋肉をフル稼働させ、落下の勢いを止めることに全精力を費やした。結果、凄まじい反動が、俺と灯の身体に伝わってくる。位置エネルギーが、わずかに熱や抵抗に奪われていくのがわかる。しかし、人間二人分の体重を支えきるには、明らかに力が足りない!

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 気づけば俺は、雄叫びをあげていた。観衆が、ようやく俺達の存在に気付く。しかし、そんな事を気にしている場合じゃない。

 生きる。生きる。なんとしても生き延びてやる! せっかく灯が生き抜く決意を固めたんだ、こんなくだらない、洒落にしても性質が悪すぎる、冗談みたいな事故で、死んでなんかやるものか! 

 これから先まだまだ続いて行く、面白おかしい人生を、真っ白のままで、無くしてなるものか──!

「無為……!」

 灯が叫ぶ。恐怖で押しつぶされそうな中、それでも力の限りに声を張り上げる。地面が近づく。死んでたまるか。灯だけでも絶対に生かせてみせる!

 俺は、灯の身体を抱え込み、自分の身体を下にするべく動いた。空中では効果がほとんどない。それでも、何かせずにはいられなかった。

 灯には、傷一つ負わせてなるものか!

「灯いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」

 灯の名前を呼ぶ。この先も呼んでいたい。神には祈らない。仏にも祈らない。でも、もしも俺達を活かしてくれるというのなら、今までのことはチャラにして、少しばかり感謝の念くらいなら捧げてもいい。

 だから、なんでもいい。誰でもいい。代償なんて俺がなんだってやってやる。どんな手段でも奇跡でも偶然でも可能性でも構わない!

 灯を、不幸に振り舞われ続けた、悪意に押し潰され続けて来た、この可哀想な奴を──

 どうにかして、助けやがれえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!

 


 そう願った、

 瞬間だった。

 灯の

 俺の

 身体が

 仄かな

 光を──

 帯びた。



 無数の刃が眼前に繰り広げられ、少年の頬に、少年自身すらも気付かないほどうっすらと、冷や汗が流れた、その瞬間だった。

「え?」

 疑問符を発したのが誰だったのか、その場にいた誰にもわからなかっただろう。なぜなら、その場にいた誰もが、呆気に取られていたのだから。

 奇跡が──奇跡としか言いようがない“何か”が、少年の眼前で、起こっていた。

 突如として、異国のものとしか思えない服を着た、全身を発光させた男女が、少年と兵士達の間に、はるか高くから降りてきたのだ。当然、少年に向けられていた無数の攻撃が、そのまま男女へと向かう。

 しかし、それらの刃は、男女に当たる前に、尽くその勢いを失って行った。

 否──刃だけではない。二人は──二人の身体から発される光は、二人自身が地面に激突する勢いをも殺していた。その場にあった“力”を、根こそぎ止めたように、少年には思えた。

 二人の発する光は、刃を止め、地面に静かに降り立った所で、静かに消え去った。

「な、なんだ……?」

 少年が呆気に取られたまま、素直に疑問を口にすると、天から降りてきた二人の内、男の方が口を開いた。

「……貴様、勇者だな?」

「え?」

 唐突に勇者と呼ばれたことで、少年は戸惑いを覚えた。どう反応していいか、わからなかった。

「あ、あんたは?」

「俺は──」

「ええい、そこまでだ!」

 少年と降って来た男の会話を、止める人間がいた。魔女を捕まえようとしている、貴族らしき男だ。

「そこの男女! 何者か知らないが、邪魔はさせん! 兵士達よ、やってしまえ!」

 貴族の言葉を合図に、兵士達が、各々の手に持った武器で、降って来た男女に再び襲いかかった。

 瞬間、少年は、降って来た男が、刺し殺される姿を想像した。余りにも多勢に無勢だったからだ。

 しかしその予想は、大きく外れることとなった。

「これ、借りるぞ」

「え?」

 そう言って男は、少年の剣を手に取るや否や、兵士達と対峙した。しかし、対峙したのは、ほんの一瞬だった。

「でりゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 男は、兵士達全員を、瞬く間に退けて行った。切って、裂いて、あるいは突いて、尽く薙ぎ倒して行った。

 その動きは、とても人間の物とは思えないほどに素早く、力強かった。多少とも戦いというものに慣れていた少年には、その凄さがとてもよくわかった。

 ほんの数秒後──その場に残ったのは、貴族の男と、少年と魔女、そして降って来た男女だけだった。

「ひ、ひぃ!」

 貴族の男は、完全に怯えていた。絶対の自信を持っていた策を、わけのわからない事態に破られたことで、凄まじく混乱しているようだった。

「おい、貴様」

 降って来た男は、そう言いながら、貴族の男の喉笛に、剣を突き付けた。

「は、はひっ!」

「覚えておけ……そこにいる女性は、貴様らが運命の女神と謳う存在だ」

「な──」

 貴族の男は元より、少年も、そして魔女ですらも、驚愕を隠せないでいた。こんな、自分達と歳も変わらないような少女が、伝説の女神だと言うのだろうか?

 しかし、男の凄まじい強さが、冗談のような言葉に、無二の説得力を持たせていた。

「女神は、こう仰っている。今度だけは、これで済ましてやる。だが、もしも貴様が、己に許された分を越え、またこのような理不尽を働こうと言うのなら──次は、この程度では決して済まさない。生まれて来たことを後悔するまで、責め抜いてくれる。わかったか?」

「ひ、ひ?」

「返事はどうした!」

「は、ひいいいいい!」

極限まで高まった混乱と恐怖のためだろう。貴族の男は、まともに走ることも出来ないまま、森の奥へと去って行った。

 後に残ったのは、女神とその従者らしき男、そして、少年と魔女の四人だけだった。

「少年」

「は、はい!」

 従者らしき男が、少年に剣を返しながら、話しかける。その表情は、優しい笑顔だった。

 少年は、どぎまぎしながら、剣を受け取った。

「女神はこうも仰っている。不条理に屈せず、己を貫こうとした貴様の勇気には、感動した。貴様こそ真の勇者を名乗るにふさわしい存在だ、と」

「は、はぁ……」

 少年は、危険が去ったことで安堵を覚えつつも、その頭には、疑念ばかりが浮かんでいた。余りの急展開に、頭がやや付いていけていなかったのだ。

「貴様の勇気に免じて、私は一つだけ奇跡を用意した。それは、貴様が先程望んだ力を、絶対に諦めない強い願いを、幻の力を借りて、ほんの一時、具現化させることだ、とな。つまり──それが、俺と言う存在なのだ!」

「お、おお!」

 少年は、素直に驚きを口にした。頭の悪い少年には、男の言葉を疑うという発想がなかったために、男の語る奇跡を、そのまま受け入れたのだ。

「貴様が先程成した覚悟を保ち続け、修練を積み続ければ、いつか俺の力を手にすることも出来るだろう。言わばこれは、前借りだ。これからも、しっかりと修行にはげめよ?」

「は、はい!」

「……ふむ。最後に、女神からもお言葉があるようだ。有り難く拝聴するがよい。さぁ、女神、こちらへ……」

 従者の側で、じっと立っていた女神が、少年と魔女の許へと、歩みを進めて来た。少年は、緊張したまま、女神の言葉を待った。

 女神は、少年と魔女の側まで来ると、仄かな笑みを浮かべ、静かに口を開いた。

「……貴方達に、運命に立ち向かう、強き心があらんことを」

 女神が言うと、従者らしき男は、一体なぜなのか、とても幸せそうな表情を浮かべた。本当に、幸せそうだった。

「さらばだ! 心優しき勇者と魔女よ! これからは、己自身の力で、未来を切り開いて行くのだ!」

 そうして、女神と従者らしき男は、去って行った。少年は、事態が完全に呑み込めないまでも、女神とその従者の言葉に、感動を覚えていた。

 そして、十数秒後──残された少年は、自分の隣に魔女が立っていることに、改めて気が付いた。

「……ありがとう」

 魔女が、唐突に切り出した。少年は思わず、先程の騒動の事はすっかり忘れて、魔女へと向き合った。

「いや、俺、何もしてないし……」

「そんなことはない。貴様は、私を助けようとしてくれた。生き抜く事を決してあきらめない大切さを、教えてくれた」

「や、やめろよ。照れるじゃねーか」

 少年は、自分がどきまぎしていることに気が付いた。魔女を一発ぶんなぐると言ったことなど、完全に忘れていた。

「女神の言葉ではないが──私も、感動した。出来れば、私も、貴様のようになりたいと思う」

「じゃあ、なればいいさ」

 少年は、持ち前の明るさと気軽さで、魔女に語りかける。

 自分の中にある気持ちを、決して偽ることも、隠すこともせずに。

「どこにだって行けるし、なんにだって成れるさ。お前だって、れっきとした人間なんだから」

「ふふ……」

 緊張の糸がほどけたためだろう、気付けば、魔女も少年も、笑っていた。少年には、その時の魔女の笑顔は、今まで見た中で、一番綺麗なものに見えた。

「さて、じゃあ俺は帰るぞ」

「え?」

「しょうがないだろ? あんだけ啖呵切っちまったんだから。あの貴族だって、どう動くかわからないしさ、孤児院だって危ねーじゃん。弟妹どもも職員も、とりあえず逃げなきゃな」

「……そうか。済まない、私のせいで……」

「なんでそうなるんだっての」

 少年はそう言って、魔女の頭に、軽い手刀を入れた。魔女は、困ったような顔をした。

「お前は悪くないさ。悪いのは、あの貴族とか、今までお前に意地悪してた連中だろ。もっとしゃんとしろって!」

「……そう言ってもらえると、助かる。そうだ! 何か、私に出来ることはないか?」

「そーだなぁ……あ、そうだ!」

 少年の頭に、天啓とも言えるような、閃きがあった。頭こそ悪いが、そのために常識に拘らないでいられる、如何にも少年らしい案だった。

「この森、使わせてもらっていいか?」

「何? どういうことだ?」

「俺の孤児院の連中が、ここに引っ越すんだよ! ここなら食糧も多いし、畑だって作れる。俺の村より、ずっと豊かな暮らしも出来るんだ!」

「……魔女の森に、こぞって移住すると言うのか? 全く、大した発想だよ」

 魔女は、また笑ってくれた。少年の自由さが、自分をいつも解放してくれると言うように。

「そんなことでいいなら、全く構わないさ。家を作るくらいなら、私にも協力出来る。それになにより、私も──貴様の弟妹達に、会ってみたいしな」

「よし、決まりだな!」

 少年は、そう言って、また笑った。魔女もやはり、つられて笑ってくれていた。

 少年は、魔女の笑顔を見て思う。

 きっとこの魔女は、今までずっと辛い思いをしてきたのだ。けれど、今、確かに生きている。

 息をして、心臓が動いていて、確かに意志と感情を持っていて──ようやく今、笑っているのだ。

 なら、これから先は、その笑顔を曇らせたくない。人生を全てを生き抜いた日を迎えるまで、二度と、自分の死を受け入れさせない。

 だから、もっと強くなろう。どんな理不尽にも、不条理にも屈せずに済むほどに──自分の意志を貫き通せるくらいに、彼女を守れるくらいに──強くなろう。

 そう──まさに、あの従者と、女神のように。

 そうして少年は、へっぽこな勇者は、さびしがり屋の魔女の肩を、その手で抱いて──いずれ来る未来に、沸き上がるような思いを、馳せ続けていた。


 エピローグ


「なんっつう御都合主義だ……」

 閉め切ったカーテンの隙間から陽光がわずかに差し込む、七畳程度の広さの部屋。薄暗がりが空間を支配するその部屋で、俺は、液晶ディスプレイを前にして、そう呟いていた。

 ディスプレイに映っているのは、発表祭で行われた普通科の芝居を、ビデオで撮影したものだ。

「御都合主義ってーか、正直、無理やり辻褄合わせた感まであるなぁ……強引過ぎる」

 俺と灯が、ステージの屋上から落ちて来るなんてハプニングがあったにも関わらず、なんとか劇を最後までやり抜いたのだ。それだけでも称賛には値するかもしれないが──それにしても、突っ込み所は多い。

 俺と灯なんて、従者と女神なんてファンタジー設定丸出しの役なのに、制服そのまんまだしなぁ……。灯の女神は、元々鬼垣の提案にあったからまだいいかもだが、従者なんて言う、本来シナリオになかった役も出てるわけだし……。

 なんにせよ辻褄だけは合ったってんだから、良しとすべきだろうか?

「無為ー、ビデオなんて見てないで、手伝ってよー」

「おー」

 ビデオを見ながらぼやいていた俺に、灯が声を掛けた。俺は、一端DVDを停止させて、灯の許へと歩いて行く。

 当の灯は、部屋の隅に設置された、デスクトップPCの前で、頭を抱えていた。

「どうだい、調子は」

「最っ悪! コンパイルは全然通んないし、通ってもキャラが動かないまま話進むし! なんで思った通り動かないのよ!」

「そんなプログラム組んだお前が悪い。ほら、もっかいやれって。俺もデバック手伝うから」

「むー……」

 灯は、頬をふくせながらも、プログラミングの本を片手に、またコントローラーを手に取った。俺もまた、灯に倣う。

 

 発表祭が終わってから、いろいろな変化が起こった。

 あの日──灯と俺が、メインステージの屋上から飛び降りた際、灯を助けたのは、結局灯自身の持つ“魔法”の力だった。

 灯の使った“魔法”は、俺と灯にかかる重力を緩和させ、落下の衝撃から俺達を守った。

 “魔法”は、灯の無意識が発動させる力。つまり灯は、無意識の中で、自分と俺が助かることを願ったわけだ。

 当然と言えば当然だろう。あの時灯は、それまでと違い、確かに生きることを望んでいた。魔法が灯自身の力である以上、生きる気になった灯を助けるよう働くのは、自明の理だ。

 そしてその魔法が、思わぬ副産物を生み出した。

 俺が、数週間に渡って頭を悩ませていた、灯の研究施設送りという問題を、解決させたのだ。

 理由は単純だ。今までは、灯が自分の力を制御出来ず、極めて危険な爆弾と同義とされていたために、非道な手段に出ることが決定されていた。しかし今回の件によって、その“魔法”を、制御出来る可能性が出て来たためだ。

 今回灯は、生きるという自分自身の意志に、“魔法”の力を呼応させた。つまり、完全ではないにせよ、自分の意志で“魔法”を制御させたわけだ。

 どうしてそんなことが出来たのか。その疑問は、イクセンが解決してくれた。

「今まで彼女は、自分を強く否定していたからね。そのせいで、心を一つに出来ていなかったんだよ」

 イクセンによれば、自分を否定するということは、人間に取ってこの上ない葛藤を生む行為らしい。人間は本来、自分を肯定する生き物だから、と言うことだ。

 幼少期から虐待を受けていた灯は、親が悪いと考えることが出来ず、自分を責めていた。自分が悪いから苛められる。自分などいなくなってしまえばいい。そんな思考だ。

 そんな灯の考え方が、俺の一喝で変化した。虐待の事実も、その悲しみも変わらないけれど、その悲しさを受け止めることで、自分を否定する感情が消え失せたのだ。

 自分を肯定するようになるということは、無意識下でも意識下でも、どちらでも生きること、生きて幸せを掴むことに、邁進出来るようになると言うことだ。言い換えれば、無意識と意識が一致するということだ。

 無意識と意識の一致。それは、無意識によって発動させていた“魔法”が、意識下によって制御できるようになると言うこと。少なくとも、その可能性は十分に出て来るということ──それが、イクセンのした説明だった。

 イクセンは、俺達に行ったのと同じ説明を、お偉方相手にも散々やったらしい。その結果お偉方連中も、とりあえず様子を見ようという結論を出したそうだ。(どうやら奴は、俺が思っていたよりもずっと、教職に心血を注いでいるようだ。)

 元々、国や世界の安全などより、自分の利益を優先させている連中なのだ。もしも灯の力を制御できるなら、その方が利益には結びつき易いに決まっている。結局、俺達と連中の利害もまた、一致したということだ。

 要するに灯は、自分がやりたいようにやっている方が、灯自身も含めて、関係者全員に取って都合がいい。そういう話だった。

 というわけで灯は、今もSAGAの寮で、絶賛引きこもりゲーマー中だ。ただし──灯の行動にも、一つだけ、変化が生じた。

 灯は、確かに今もゲームをしている。でもそれは、灯自身が作ったゲームなのだ。

 灯は、ゲーム作家を目指し始めた。

 まだまだ技術は拙いし、バグも腐るほど残っていて、まともにゲームなんて呼べる代物じゃない。けど、灯は確かに、自分の未来に向かって、歩き出している。

 そんな事実が、俺の胸を、暖かくさせていた。

「ねー無為、ここのデバックお願い!」

「あいよー」

 俺もまた、そんな灯の手伝いをやっている。とりたてて知識があるわけではないので、出来ることと言えば、精々デバックくらいだが、割合楽しんでいたりもするのだ。

「ああ、それと無為。シナリオは? まだ出来てない?」

「またそれか……試してはいないけど、やっぱ、俺には無理じゃねーかな。漫画くらいしか読んでないぞ、俺」

 しかし灯は、なぜだか俺に脚本を書かせたがっていた。言った通り、物語なんて書いたこともないし、出来る自信は全くないのだけど、それでも灯が強く要望するので、俺もまんざらではないというか、そのうちやってみようと言う気に、なっていたりいなかったりするような気がしないでもない。

 はて、俺は今何回否定語を重ねただろうか。

「ん?」

 ピコン。

 俺が、灯のゲームのデバックをしていると、PCからメール着信の音が鳴った。メーラーを開くと、見知った面子の名前が載っていた。

「誰?」

「委員長と……草十郎、あとは境野か」

 鬼垣は、親に芝居の脚本をぼろくそ言われて腹が立ったこと、でも演出だけは少しだけ褒めてもくれたから、微妙な気持ちだと言う事を書いていた。

 どうやら、灯が“魔法”を使った箇所が、演出として評価されたらしい。

 確かに、想定外の出来事を評価されたことは、創作をやる人間にとっては、微妙なところだろう。しかし、演劇と言うメディアに限って言えば、瞬間性があるから面白いという見方もある。個人的には、十分いい褒め言葉だと思うがな。

 追伸として、ゲームの約束を果たしたいから、草十郎と一緒にそのうち遊びに行きたい、と書いてあった。

 草十郎は草十郎で、相も変わらず軽いノリを続けているようだった。

 とにもかくにも灯が生きていてくれて嬉しい、嬉しいことは皆で祝うべきだ、一回でいいから皆で遊ぼうぜ! という内容が、無駄に長い文章で綴られている。

 本当に、ぶれない奴だと思う。

 境野は──こりゃ、灯にはしばらく見せたくないな。

「何、なんて書いてるの?」

 しかし灯は、ディスプレイに向かって身を乗り出して、メールを見ようとしていた。俺は観念して、メールの内容を説明した。

「委員長と草十郎は、一度灯と一緒に、どっかで遊びたいって。で、境野は──まぁ、あれだ。一回、女と女の決着を付けよう、みたいなことを言ってる」

「決着って?」

「あー……それは、おいおい話すよ。それよか、委員長達のはどうだ? 遊びに行けるか?」

「……ちょっと、無理」

「……そっか」

 前に進み始めたと言っても、依然として、灯の引きこもりは継続中だ。生きるつもりになってくれたのは、本当に喜ばしいことだが──世の中そんなに、何もかもは上手くいかないらしい。

「どっかは、無理、だけど」

「ん?」

「この部屋でなら……そのうち、一回くらいは、大丈夫、かも」

「……そっか!」

 少しばかり、前言撤回だ。それでも灯は、やはり少しずつでも、動き始めている。

 灯自身の世界を、少しずつではあっても、ゆっくりではあっても、確実に、広げようとしている。

 そんな確信を覚えた時、なぜか俺は、とても嬉しくて、同時に、とても誇らしかった。

 だからだろう。

「なぁ、灯」

「ん?」

 俺は、何の気なしに、ふと思い立ったように、ずっと灯に対して思っていたことを、言葉にした。

 その言葉とは、灯の下の名前を、動詞化したものだ。灯が、実の母親から手術という虐待を受けている最中、ずっと言われ続けたために、トラウマと化した言葉でもある。

 その事実を、俺は知っていた。だから今までは、その言葉はもちろん、名詞の形でも、灯の下の名前としても、使うことを拒んでいた。絶対の禁忌としていたのだ。

 けれど──それでも俺は、この時、その言葉を、言わずにいられなかった。語彙が少ないから、それ以外に、自分の気持ちを端的に示す言葉を、知らなかった。何より──胸から溢れるような想いを、外に出さずには、灯にぶつけずには、いられなかった。


「愛してんぜ」


 台詞を聞いた灯は、きょとんとしていた。おそらく、何を言われたのか、すぐには理解できなかったのだろう。

 俺は、言ったはいいけれど、おそらく次の瞬間、灯が顔を真っ赤にして「な、何言ってんのよ!」と怒り出すか、下手をすれば、トラウマを蘇らせてしまうのではないかと、そんな危惧を抱えていた。

 けれど、灯は。

 俺の予想に、著しく反して。

 そう言われることが、想像の範疇だったと言うように。

 嬉しい気持ちで、胸がいっぱいだと言うように。

 ただ、にんまりと。

 その顔を、笑わせた。

 そして、俺が思いもよらなかった言葉を。

 誰よりも、何よりも強い言葉を。

 理不尽なんてものも、不条理なんてものも吹き飛ばす、

 何よりも暖かくて、心強くて、幸せな、無敵の言葉を。

 静かに、返してくれた。


「私もだよ、バーカ」


~了~


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