表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/9

ACT7 『変化する。心は』


 このラブストーリーの始まりを、あなたは覚えているかしら? あの頃は、私もあなたも高校生だった。お互い本が好きで、お勧めの小説を貸し借りして、それについて語ったり……私のオリジナル小説や絵本の感想も聞かせて貰った……裸になるより恥ずかしかったけど、あなたになら見られてもいいやって思ったから……何度も図書室に訪れた。昼休み、放課後。いつしか私は、本に触れる為じゃなくて、あなたに会う為に足を運んでいた。だけどあなたは、いつまで経っても……ううん、私と会う前よりも、本に触れるために足を運ぶようになった。

 いけない、と思った。このままでは、私はヒロインになれなくなる。あなたの恋人というポジションに付けなくなってしまう。そう思っているのに……あなたは卑怯だ。周りに閉ざすようにした心も、本の話をしている時だけは開放する。だから知ってしまう。大人ぶっているのに子供なこと。無関心なように見えて、どんなことへも思いを寄せていること。全ての人間を嫌いながら、全ての人間に思いやりを持ってしまうこと。異性を苦手とするくせに、恋や愛の深さを知っていること。矛盾だらけの……理想と現実をどちらも手放さないあなた。

私はそんなあなたの姿が見たくて、ダメだとはしりつつも本を渡してしまう。そしてその度にあなたは『私』から離れて『本』に近づく。そんなことを続け、そして何もないまま卒業してしまった。私はそれを機にあなたから心を離すことを決め、気付けば今の道を選んでいた。

 その後、あなたがどんな道を歩んで今に辿り着いたのかはよく分からない。だが、幸か不幸か、一度は離れたはずの私たちの道は、再び近づいていた。あなたはホルダーとして。私はメーカーとして。共に裏の世界に踏み込んでいた。今度は『ブック』という繋がりだったのが皮肉にも感じたけど……その時に感じた私の高鳴りがあなたに想像できるかしら?

 年甲斐もなくトキメキを感じた。卒業してから何人かと付き合うこともあったし、仕事柄、仕方なく体を預けることもあった。でも、あなたの名前を聞いた時ほど、高鳴りをくれる人はいなかった。あなたのことを思い出した夜以上に、悲しくなる相手との別れはなかった。

 だから決めたの。あなたに会うって。だけど……私はもう昔の私ではなかった。何も知らない少女ではなかった。打算も計算も、薄汚さも、弱さも、しがらみも、プライドも、色々なものが付き過ぎて、素直にあなたに会いに行けなかった。でも会いたい。声を聞きたい。抱き締められたい。愛されたい。キスをしたい……だからね、考えたの。私があなたに会うんじゃなくて、あなたが私に会いに来るようにしようって。私があなたに胸を焦がしたように、あなたに私を追って貰おうって。例えそれが、普通の精神から言えば、異常なのだとしても……。

 そして脚本を書き始めた。少し歪んだラブストーリーを! そして始まった。裏の世界の、血なまぐさい中で繰り広げられるラブストーリーが! あなたと私のラブストーリーが!

 ……ここまではほぼ筋書き通り。灯影とアンとかいうコンビのせいで、多少筋書きを直さないといけなくなったけど、大筋は問題無い。あなたはちゃんと私を探している。追っている。会おうとしている。何年も何年も追っていたあなたが、今は私を目指している。そのポイントに変更がなければ、テーマに変化がなければ、この際ストーリーはなんでもいい。

 そのために、有用な手駒を失ったけど……致命的なものではない。駒が減ったら増やせばいい。私にはそれができる。他のメーカーとは比べ物にもならないほどの早さでブックを生産し、一般人をホルダーに仕立て上げるマニュアルもできている。だから、焦る必要は無い。ちゃんと手順を踏んで、過去を踏まえて、現実を見据え、そして未来に転化していけばいい。

 落ちついて、冷静に。情熱と欲望だけでは、いい物は作れない。それはブックも人生も同じ。

 分かってる。分かってるのよ? だって、すでに何年も犠牲にしたもの。何度も自分を犠牲にしてきたもの。それもただ一つの目的、ただ一つの願いのためだけに、全てを投げ打ったんだもの。でも……今、すぐ後ろにあの人がいるの。追っても近づいてくれないあの人が、私を追っているの。私の注文通りに動いた駒を通じて、私の情報を集めながら、あの男たちが私に感じた思いを自分のことのように感じながら、すぐそこまで来ているの。

 でも、抑えないと。今振り返っちゃダメ。立ち止まっちゃダメ。まだあの人の周りには、幾重もの障壁がある。それを打ち払って、私に辿り着いてもらうには……あと二十年はかかるかもしれない。……二十年? それは人間の私にとっては、絶望するに十分な時間だ。本の登場人物のように、変わらぬ姿を保てるわけではない私には、二十年という時間は耐え難い。そんな苦痛を感じるくらいなら、いっそ……。いや、ダメよ。それはダメ。だって、シスターがいるんだもの。あのムカツク女がいるんだもの。私と同じ人間のくせに、あの人の近くに我が物顔でいるあの女がいる。キャラに負けるのはまだいい。けど人間に負けるのだけは嫌。

 ……続きを考えなくちゃ。登場人物はまだ残っている。ページもまだ残っている。どうしたら、最高のエンディングに辿り着くの? どうしたらそのエンディングに来てくれるの? どんな注文を誰に出したらいいの? どんな恋物語なら、あなたは受け入れてくれるの?

 答えの出ないまま、今日もまた出掛ける時間になる。苦悩に満ちた人生にようやく現れた、束の間の息抜きへと出掛ける。仮にその息抜きが、修正のきかない締め切り日に自分を追いやるとしても……刹那の幸せを我慢出来るほど、私の心は強くない。


 右に、左にと、頭の上で正座する小人の指示に従って街の中を疾走する青海。目の前には、弓を抱えた少女が走っている。ただし、矢を収納する矢筒のようなものはない。が、弓を引き絞る動作と共に、その手に紫色の矢が握られた。そして、矢が弓から離れる。それはジグザグと奇妙な軌道を描いて青海に差し迫ったが、水で作り上げた矢に弾き飛ばされ、共に消えた。

『カウントダウンに入ります。3、2、1』

 イヤホンから聞こえてくるカレンの声が0を告げると、少女の進路を塞ぐように、勇輝が曲がり角から現れた。その勇輝の頭の上にも、小人がいた。少女の足が止まる。挟み撃ちになるように追い込まれていたことを悟った少女は、空に向かって矢を放った。矢は勢い良く夜空へと飛び、花火のように弾け、降り注ぐ……はずだったが、それよりも先に、勇輝の剣からテニスボールほどの炎が飛び、矢を打ち砕いた。その間に水の輪が男を縛り、勝敗は決した。

「はい、ザ・エーンド」

『正確に発音するなら、ジ・エンドです。いいですか、母音の時の発音は』

「なんで学校サボってる時まで勉強しないといけないのよ!」

 頭の小人を地面に叩き付けようとするが、小人はちょこまかと動き回って捕まらない。その間に、勇輝は携帯を取り出して連絡する。電話に出たのは低い声をした男。世話になっている裏組織の構成員だ。その男に、現在の場所と相手の状況を伝えると、数分で黒尽くめの男達が現れ、捕縛した少女を薬品で昏倒させると、どこかに運んで行ってしまった。

 チームナナシ発足から、二十日あまり。短いチームの活動暦とは裏腹に、活躍は目を見張るものがある。日々の訓練のおかげで、勇輝のレベルが上がっていることはもちろんだが、やはり仲間がいるという点が大きい。青海のおかげで、勇輝一人では対抗するに難しい相手もターゲットに含むことができる。そしてカレンが事前に集めた情報が、作戦の成功率を高める。

 加えて、ターゲットのホルダーを懇意にしている裏組織に引き渡すことで、活動資金を提供して貰っているということも、戦力の安定に一役買っている。青海の財布の世話にならなくても生活できる、という精神的な面や、カレンの武器弾薬を揃えるという武装的な面に関しても。

 勇輝はホテルから今日に至るまでのことをふと振り返り、充実感のようなものを感じた。

 本格的になったとはいえ、行動の本質は変わっていない。ホルダーを捕まえる。それだけ。だが、環境が、仲間が増えたということが、不思議と穏やかな気持ちにさせてくれる。無論、嘘を付いて長期外泊していることに心苦しさはあるのだが、それに勝るものがここにある。

 付き合いが浅いのに、信頼を預けてくれるカレン。言葉にこそ出さないが、それは間違いないと思える。初日にあった尖りや、警戒心が薄らいでいる。代わりに感じるのは、長らく誰にも見せることができなかった苦しさや、それを見せてもいいと思える身内感。

 人の付き合いに時間は関係ない、と勇輝は感じる。

 カレンは驚いていたが、青海とだって実際に会話するようになったのは、ここ一ヶ月ほどのことである。自身は青海のことを気にしていたし、青海も級友だという認識くらいはあったわけだから、カレンとは似て非なるが、やはりこれも、時間の問題ではない、と感じている。

(……そう、時間の問題じゃない)

 ここ最近、勇輝はその言葉を何度も繰り返していた。最初、そのリピートがどんな意味を、どんな気持ちを表しているのかが分からなかった。だが、ようやくその意味が分かってきた。

「ユーキ、帰るわよ」

 今日も帰る。あの部屋に。三人で共同生活をするマンションに。

 青海が手早く料理を作り、三人で騒ぎながら食事を済ませ、順に風呂に入り、ベッドに就く。だがなんとなく勇輝は寝付けず、本を読みながら時間を潰していた。そのうち、リビングからカタカタというパソコンの音がしなくなる。今日もまたカレンが潰れる時間になると、勇輝がいつものようにタオルケットを持って部屋から出る。

(……眠いなら、ベッドで寝ればいいのに)

 女子の部屋には二段ベッドがある。以前、パソコンをいじっていると部屋に戻るのが面倒になるからここで寝る、と語ったカレン。だが、理由に不自然さを感じた勇輝が尋ねると、躊躇いながらも、真実を教えてくれた。誰かが傍にいると寝付けないのだという。それ以上深くは語らなかったが、両親が殺された後の生活に何かあったのだろう、と推測する勇輝。

 少しは本心を語ってくれるようになった。なら、いつかもっと深いことも含めて語ってくれるようになるだろうか? と思いながら、カレンの肩にタオルケットをかける。

 勇輝はそのまま部屋に戻る前に、喉の渇きを感じて、コップに一杯の水を汲んで飲み干した。

 水。どこにでもあるのその液体を見ると、どうしても青海を連想してしまう。それは何も青海が水を操るから、というだけではない。勇輝は思っていた。水は青海に似ている、と。透明な声も、青い髪も、どこにでもいそうな姿をしていることも。なのに、どこにでもいそうな青海は、妙な存在感を持っている。それは、生き物が水無しで生きられない、ということを無自覚に悟っているのに似ている。青海という存在を知っている人は、どこにでもいそうなのに、それがないとダメであることを知っているのかもしれない。少なくとも、勇輝にとっては。

 屋上の一件から青海を意識し出した。だがその時点では、恋愛感情というほどではなかった。言うなれば憧れ。自分に無い物を抱えている相手に惹かれていただけ。それは著名人や、歴史上の人物に対するそれと似ている。こうなりたい、こんなものを持っている人間になりたい。

 自分と違い、我が道を行く青海。快活で活発で、少し過ぎることもあるが、その周りには自然と人が集まる。そんな、物語に出てくる主人公のような存在に憧れた。だが、憧れは次第に変化した。憧れは思いに変わり、思いは焦がれへと変わり、焦がれは……

「恋、ですか?」

 振り向くと、カレンが目を開いていた。驚く勇輝に対して、カレンは驚くほど優しい瞳を見せると、眼鏡をはずして、飲み掛けの缶コーヒーを手に取った。勇輝はカレンの仕草に、自分の心を見透かしているような瞳に、言葉にならない言葉を発する。カレンはそんな勇輝に微笑んでみせた。笑みには、大人びた女性の哀愁と落ち着きが滲んでいた。

「あなたが青海さんに焦がれるのも分かります。人は得てして自分には無いものを持った相手に惹かれる。端から見ても、あなたと青海さんは離れたものを持っている。でも、その一方で、同じようなものも持っている」

 澱みの無い語りは、何千回と子供に同じ本を読み聞かせた母親のような音色。

「あなたは賢い。そして、よく人を見ている。だから、他人が見ているものを理解する。他人の気持ちを理解できる。そんな人は……はまるでしょうね、彼女に」

 カレンの語りに紡がれるように、勇輝の頭の中に言葉が綴られていく。映像が浮び上がってくる。自分の中で、青海に対するそれを恋愛のそれと自覚した時のこと。

 ある日、青海に影が見えた。陰りの理由は分からない。ただ、とても深いものであることは分かった。それは、自分が抱えているものと似たものである気がした。あれだけ周りに人がいるのに、誰もいないかのような……孤独感、とでもいうのだろうか? そんな陰りを青海が抱えている気がした。そして、屋上で流していた涙が、掠れ掠れの歌声が、影に重なった。あの時は、この影を内側に溜めきれなくて、ひっそりと外に出していたのだと気が付いた。

 それから青海を追った。そして気がついた。何気ない仕草やセリフに隠れて、深いメッセージや影があることを。そのメッセージと影の正体を知りたかった。だから、トレースした。行動の意味を、言葉の意味を、頭の中で何回も反芻した。そして分かってきた。その頃にはもう、離れられなかった。頭の中に繰り返し作り上げた青海は、想像のものであるが、想像であるからこそ、絶対的な存在感があった。小さな子供が、目の前にあるお菓子よりも、触れるはずの無い怪獣やヒーローに強い興味を示すような、絶対的な存在感。その絶対的なものに触れたくてしかたない。触れられないと分かっているからこそ、より強くなる思い。

「よく……分かったね」

「バレバレです。知らぬは本人くらいのものでしょう。不思議と、あのタイプは鈍いですからね。勘はいいくせに、自分が及ぼす影響力にも、自分に寄せられる思いにも気付かない」

 だから、きっと今も気付いていない。青海は自分の寄せる思いに気付いていない。なにせ、自分よりも明らかに気のあるそぶりを見せていた空手部の男子の思いにも、真正面から告白されるまで気が付いていなかったくらいだ。

「……私はどちらの味方もしませんよ。こと色恋に関しては」

 カレンが眼鏡を拭いてかけなおす。

「私がここにいるのは、あくまでビジネス……というと聞こえが悪いですが、自分の信念と思惑によるものです。それ以上のことに干渉する気はありません」

「うん、分かってる。もしそれ以上を……今以上のことを望むなら、それは自分でやるよ」

「……申し訳ありません」

 心苦しそうに謝ると、カレンは外へ出てしまった。勇輝はそれを見送った後、ドアの向こうで寝ているであろう青海の姿を……普段の青海の姿を想像して、思わず溜息をついた。

 水は変化する。穏やかなだけが川の流れではないように、大らかだけが海ではないように。絶えず変化する。そしてその水に似た青海も変化する。外ではなく中が。喜びから怒りへ。悲しみから楽しみへ。様々な感情へとシフトしながら、青海という人格を作っている。

 最近青海は、一人で悲しみに落ちていることを知っている。その理由は、おそらく夢大だろう、と勇輝は思っている。自分の思い人が、他の男のことで悲しみに暮れることにわだかまりを感じながら、離れた相手のことを思って悲しむ少女らしさに更に惹かれる自分もいる。

 そして、勇輝は言葉を思い出す。時間の問題じゃない、と。

 今、理由はどうあれ青海の傍にいるのは自分。夢大ではなく自分。付き合いの長さは敵わない。だけど、思いの深さは時間とは関係無い。青海が水のように変化するならば、気持ちの流れも変わるだろう。いや、変えなくてはならない。青海の流れが自分に向けば……今の自分なら、青海に悲しい思いをさせることはないはずだ。この扉の向こうに入ることを許され、解いた長い髪をすきながら、優しさを傾けられる存在になれるはずだ。そう……勇輝は思っている。


 夢大は作業をしていた。冷たい空気を払うよう唸る暖房と、光の当たる居間で、ノートパソコンを通して物語を作る。人物名と鍵括弧の繰り返しで進む物語は、舞台用の戯曲。灯影の劇団から依頼されたものである。そんな夢大の膝上には灰色の猫が丸くなり、時折夢大を見ては、作業を止める気配がないことに、つまらなそうに顔をしかめ、瞳を閉じるを繰り返す。

 空は夢大が終幕を書き入れる前に夕焼けに染まり、やがて夜色に変わった。さすがに疲れたのか、夢大は目頭を抑えると、膝の上で眠ってしまった猫をそっと脇に下ろした。丁寧に降ろしたつもりだったが、猫はピクリと目を覚ますと、顔を擦り寄せ、夢大を見上げた。

「腹は空いたか?」

「ウン。空いた」

「だから、猫の時は喋るなと言っているだろう」

 夢大の窘めに、猫は申し訳なさそうな鳴き声を上げると、頭を下げて謝罪を表した。立ち上がった夢大は苦笑しながら猫を頭の上に乗せると、上着を羽織って外へと出る。近所のお年寄りの親しげな挨拶に答え、子供からは猫を乗せているのを羨ましがられながら、馴染みのある商店街へと辿り着く。自分で作るのが面倒な時、専ら利用している総菜屋が目的の場所だ。主人と雑談しながら夕飯のおかずを二人分選び、清算を済ませる。

「夢大さんも猫とデートなんて洒落てるねぇ」

「いつもうるさいのが出払っているのでね。鬼の居ぬ間に、と」

「そう言いながら、青海ちゃんがいないと寂しいんだろ?」

「ご想像にお任せする」

「想像どころか、顔に書いてあるってんだよ」

 主人と笑っているうちに別客が訪れ、店から離れる夢大。途中、自動販売機で飲み物を買って帰ると、客が玄関の前に座っていた。その客の前に、灰色の猫が降りて鼻をひくつかせた。灰色の猫の挨拶に、その客は同じように鼻をひくつかせて挨拶し、ニャァ、と鳴き声を上げる。

「なんと言っているんだ?」

「お腹空いたんだって」

「ここのところよく来るが、飼い主はいないのか?」

 黒猫はニャァと鳴いて、夢大に擦り寄った。

「いない。飼ってくれなんて言わないから、せめてご飯頂戴、だって」

 黒猫の言葉を通訳する灰色猫。

「毎日のように来ては、飼っているも同意だと思うが」

「もうちょっとで来れなくなるから、それまでよろしく、って」

「注文の多いことだな」

 夢大は苦笑しながら玄関を開け、目で黒猫に入るように促した。だが黒猫は、自分が迷惑をかけていることを理解しているのか、律儀に夢大が入るのを待ってから、家に上がった。灰色猫が、その後ろに続く。夢大は二匹が家の中に入るのを見てから玄関を閉め、台所に向かった。炊飯器を開けると、炊き上がったばかりのご飯が湯気を上げた。タイマー通りの仕上がりだ。夢大は炊飯器の蓋を閉めて羽織を脱ぎながら、居間で黒猫とじゃれている灰色猫に声をかけた。

「アギ、楽しんでいるところ悪いが、食事の用意を」

 灰色猫が返事をした瞬間、その姿が一瞬にして少女に変わる。黒い髪から飛び出た猫の耳、深い紫色の瞳。細い手足の先には尖った爪があり、ワンピースからは尻尾が飛び出ている。そのワンピースは、レンに宿っていた頃よりも、ボタンやフリルにデザイン性が見受けられた。

 黒猫は、最初きょとんとしていたが、はっと気が付くと、夢大の後ろに隠れてしまった。

「人間になるのを見たのは初めてだったか」

「変な猫だと思ってたけど、人に化けるなんて思わなかった。猫又か? だって」

 アギは通訳しながらくすくすと笑うと、食事の準備を始めた。茶碗にご飯をよそり、テーブルの上に並べて、買ってきた惣菜を皿に開けてレンジで温める。

 準備をアギに任せた夢大はテーブルの前に座り、黒猫を呼んだ。黒猫は嬉しそうに近寄ると、胡坐をかいた夢大の足の上に乗っかった。初めて来た時はエサを強請りながらも近寄ってこなかったのに、だいぶ慣れたものだ。夢大は猫の頭を撫でながら、テレビに目を向けた。テレビでは他県で起きた老人殺害のニュースが流されている。

「平和だな」

 人が死んだニュースを見ながら言う夢大。アギが、なんで? と準備を進めながら尋ねる。

「殺人がニュースにならない……つまり、取り上げるようなことでない方が、非平和だろう?」

「んー、難しいことは分かんない」

「ゆっくり理解すればいい。幸いに時間はある」

分かった、とアギが嬉しそうに笑う。それは、夢大のところに来て起きたアギの一番の変化だった。今までだって笑ったことはあったが、それは相手に恐怖や不快感を与えるようなものだけだった。それが今は、赤ん坊が泣き止みそうなほどに柔らかな笑みが出来る。

 それは、喜びを知ったから。知るという喜び。覚えるという喜び。出来るようになるという喜び。アギは、ずっとその喜びを知らなかった。レンと暮らしている間、アギが感じることを許されていた喜びは、もっと別のものだった。壊す喜び、殺す喜び、レンに喜ばれる喜び。そういったことしか知らなかった。もちろん今だってそういうものに喜びを感じるが、そういったもの以外許されなかったのと、他のことも許されるのでは、全然違う。

 夢大はレンと違う。仕事に使うわけでも、より効率のよい行動を取るための訓練もせず、好きなように暮らさせている。もちろん公共ルールやマナーといったものはその都度教えているが、何かを強要したりすることはない。猫の姿で気ままに散歩して帰って来ても怒らず、むしろ見たことを興味深そうに聞いてくれる。少女の姿で街を歩いても、尻尾や耳を隠せば何も言わず、むしろ小遣いを渡すことすらある。そのことに始めは戸惑うアギだったが、今はそれが幸せだと感じる。自分が幸せでいることを許してくれる相手のお願いだから、聞こうという気になる。食事の準備もうそうだし、必要とあれば戦闘も厭わないという思いもある。

「どうした?」

 立ち止まって自分を見るアギに、不可思議な顔を向ける夢大。

「なんとなく、お姉ちゃんたちが仕える理由が分かったの」

 お姉ちゃんたちというのは、アギよりも前に夢大に使役されているキャラクターたち……例えばソリィやエリミのことを指している。アギは、彼女たちもまた、自分が感じたような思いのために、夢大に仕えているのだろうと思った。

「ごめんね、すぐやるよー」

 黒猫に催促されたのか、気を取りなおしたアギはてきぱきと……本人としては手早く準備を整え、食卓に着いた。ぎこちないところもあるが、最初に比べれば格段の進歩だ。少なくとも皿は割れていないし、飯も食べられる状況にある。

 夢大はアギを労って頭を撫でると、自分を見上げている猫を見て、同じように頭を撫でてやった。すると今度はアギが夢大をじっと見る。しかたなく夢大はアギの頭を撫でるのだが、すると今度は黒猫が夢大を見るのでそちらをかまうと、再びアギが不服そうに……以下エンドレス。めんどうになった夢大は片手で一匹づつ頭を撫でる。ようやく二匹とも満足げに喉を鳴らしたが、両手が塞がったせいで夕飯に手がつけられない。

「なんかあれね。むつごろー王国の王様みたいね」

 いつもながら勝手に上がって来たメグは、感想を一言添えると、夢大の食事に手をつけた。

「信じられる? 朝から何も食べてないの。過労死か飢え死にか、あなたのご注文はどっち?」

「どっちもいらん。とにかく、うちに来る度に食事を横取りするな。狙っているのか?」

「相変わらず脂っこい店ね。さっさとオーミちゃん連れ戻してよ」

「人の話を聞け。そして何故、お前の好みに合わせて、連れ戻さなくてはならないんだ?」

「やぁね。本当は戻って来て欲しいくせに」

 更に食事を奪おうとするメグに、黒猫が不満そうに鳴き声を上げる中、溜息を吐く夢大。

「先ほど店の親父にも言われたのだが、そんなに帰って欲しいように見えるか?」

「鏡でも見るのね。他の男に預けてるのが心配でしょうがない、って顔よ」

 その発言に仏頂面を見せる夢大。メグはその顔に声を出してひとしきり笑うと、空になった茶碗の上に箸を置き、バックから一枚のメモを取り出した。

「そんなかわいい夢大ちゃんに朗報よ」

「ちゃんづけで呼ぶな」

 メグはつっこみを無視してメモを夢大に渡す。そのメモを見た瞬間、夢大の表情が変わった。

「悪い顔しちゃって」

 そういうメグの顔にも似たような笑みが広がっている。その笑みを見て、アギの体が震えた。黒猫も心なしか震えている。夢大もメグも、恐怖の塊のような笑みをしていた。それは初めて夢大がイーターとして自分の目の前に現れた時に見せていた笑顔にそっくりだった。

「でも、こんなことしていいの? 本格的に青海ちゃんに嫌われちゃうわよ?」

「知るか。いちいちご機嫌取りするような男が好みなら、そちらになびけばよかろう」

「オーミちゃんも可愛そうに……で、決行はいつにするの?」

「明日、準備が出来次第すぐに取りかかりたい」

「了解。手配しておくわ。じゃ、また後でね」

 メグが帰る。それを見送った夢大は、アギをダンスのパートナーを誘うような動きで引き寄せ、黒髪から飛び出る耳元に口を近づけ……息遣いが伝わる。アギの体がピクリと跳ねる。

「アギ……手伝ってくれるかな?」

 全身が震えた。総毛立ち、心音も忙しい。だけど、それは恐怖とはまた違う感じがする。

「アギ、返事は?」

「うん……分かった」

 夢大は微笑み、アギの頭から頬を伝うように撫でる。その手から伝わる温りに、さっきよりも強い震えを感じながら、アギは自然と自分の体を夢大に摺り寄せた。その様子を見ていた黒猫は、おかずを一つ口に咥えると、見ていられないとばかりに、夢大の家から出て行った。


 夜。ターゲットだった少年を捕縛……いや、抹殺したチームナナシの三人は、すぐにマンションに戻らず、自分の時間を過ごしていた。カレンは今後の予定を相談しに裏組織に。青海は海の見える高台まで移動し、何をするでもなく月明かりを反射する水面を眺めていた。

 都内の海は、綺麗とは言い難い。だが夜にれば、青い海も黒い海も同じ。ただ混沌とし、波の音を響かせながら、揺らぐ光で存在を垣間見せるに過ぎない。その海と同じく佇んでいた青海は、フェンスにもたれたまま、近付いて来た相手に声をかけた。

「帰ったんじゃなかったの?」

「せっかく海の近くまで来たんだし、ちょっと見ていこうかな、って」

「歳のわりに風流じゃない」

「青海さんだって変わらないだろ?」

 青海は感情の量れない笑い声をあげた。表情を見れば分かったかもしれないが、勇輝の位置からでは分からない。それを確かめようと、勇輝もフェンスに近寄り、体を預けた。二人分の体重を受けたフェンスが軽く軋む。だが、その時にはもう、青海の顔から表情は消えていた。

「……元気無いね?」

 青海の返答はない。

「……人、死んじゃったから?」

 今日の敵は強かった。手加減できないほどに。三人で組むようになってから、仕事で死人が出たことはない。味方はもちろん無傷。敵に関しても、傷を負わせることはあっても、命までは取らなかった。それは青海が提案してから、ずっと守られて来たことだ。だから、それが成せなくて沈んでいると思ったのだ。だが青海の顔は、それを思い出しても変化なかった。

「ユーキは、何人殺した?」

 突然の質問に戸惑う勇輝。

「あたしと会う前に、何人殺した?」

 言われて初めて過去を振り返る。初めて人を殺した……雷人から始まり、殺めたホルダーの数を頭の中で数える。だが青海はその返答を待たずに、続きを話し始めた。

「あたし、五百人以上は確実に殺してるの」

 あまりの数に、絶句する勇輝。

「自分じゃ覚えてないのもあるけど、たぶん、それより下ってことはないはず。だから、今更一人殺しても二人殺しても、あんまり変わんないのよ」

「じゃぁ、今日のことは……」

「うん、どうってことない。殺さなきゃこっちが殺されてた。だから殺した。いつもは殺さなくても殺されないから捕まえる。それだけ」

 身近にいると忘れてしまうが、青海はそういう世界でずっと生きていた。その青海が、一般人が抱くのと同じような生き死にの概念を持っているはずもない。だからか……と勇輝は悟った。青海は草野教諭を殺したことを話題に出さなかった。それは自分への気遣いか何かと思っていたが、まるで違う。本当の理由は、話題に出すまでもないことだったからだ。

 必要があれば殺す。必要がないから殺さない。青海のその考えを……勇輝は理解できた。理解できるどころか、知らないうちに身体に馴染んでいた。今、青海と話して分かった。自分もまた、人を傷付けた事を、殺したことを、重く受け止めていなかったことに。勿論、罪悪感はある。だが、一つの悪を潰した達成感の方が強い。そしてそれよりも、青海が悲しそうにしていることの方が重大に感じる。雷人を殺した時は、あれだけ悩んでいたのに……他人だけではなく、自分も変わるのだ、と当たり前のことに気が付く勇輝。その変化の良し悪しは、自分には量りかねる。だが、それが青海に近づいて起きた変化なら、嫌なことではないと考える。

 それよりも今は青海だ、と勇輝は自分のことを後回しに、青海へ意識を回した。青海の顔が陰っている。その顔はあまりにも少女のそれで、勇輝の鼓動は異常なほどにざわめいてしまう。人を殺すことにさしたる感慨もない青海が、心の中に描いただけで表情を変えてしまうことがある。それが自分のことではないことは理解している。なのに、それでも惹かれてしまう。

「……夢大さんのこと?」

 答えは無い。いや、口は開いた。だから言葉は出たのだ。ただ、聞こえなかった。それは波の音のせいか、青海の声が小さかったせいか、勇輝の精神状態のせいかは分からないが。

「本当はね、ちょっと期待してたのよ。飛び出したら追ってくれるかな、って」

 だが、追って来るどころか、連絡の一つも無い。更に、鉢合わないようにか、イーターとしての活動もしていないとカレンは言う。

「……なんか間違ったことしたかな」

 勇輝の胸に重りが乗った。青海はただ、夢大を怒らせたかを気にしただけ。だが、この環境を作り出した元凶であるという自覚のある勇輝にとっては、責苦のような重みがある。『あたしが勇輝の所に来たのは間違いだったのかな』という類の言葉を浴びているような気になる。

 勇輝は素直に嬉しかった。だが青海は違う。青海は夢大を選びたいながらも、放っておけなかったから、仲間になった。単語にするなら『同情』。多少マシな言い方でも『友情』が関の山。同じグループで、同じ生活を始めたが、そこには温度差があった。青海は帰りたがっていた。自分でない男がいる所に。迎えに来て欲しがっている。自分でない男に。

 青海の横顔が見える。ただ佇んでいるだけなのに、姿が、視線が、存在が、ひどく自分を惹き付ける。なのに、惹き付けている本人は、こちらへと歩幅を狭めようとはしない。

 もう、何度もこうした夜を過ごした。あの夜も、その夜も、どの夜も、歩み寄らない青海に惹かれ続けた。昔なら……クラスメイトでいる頃なら……いや、青海の内側に気付く前なら……屋上のことがなければ、踏み止まることもできただろう。だが、もう……ダメダ。

「ごめん、青海さん」

 勇輝が動いた。埋まらない距離を相手が埋めてくれると期待していた自分を捨てた。動け、詰めろ。彼女がそれを望んでいないのであれば、望んで貰えるようになればいい、と。

「なっ……ちょ、ユーキ!」

 勇輝の両手は青海の体を閉じ込めるように輪になっていた。もがく青海。だが勇輝が必死なせいか、細い外見とは裏腹にその輪は解ける様子を見せない。むしろその輪はぐっと狭まり、相手の呼吸の強さが分かるくらいに密着した。

「ユーキ! 本気で怒るわよ!」

「いいよ!」

 聞きなれない怒声に、言葉を飲み込む青海。

「怒ってよ、暴れてよ、泣いてよ!」

 黙った青海に代わって、勇輝の言葉が連なる。

「なんで出さないんだよ、なんで言わないんだよ! ボクは知ってる。苦しいことも、寂しいことも、くやしいことも、全部知ってる。全部分かる! でも青海さんが……青海が出さないから、踏み込めないんじゃないか!」

 耳元の荒い息遣い。でも、不快な荒さではない。街中で声をかける男たちの、夜の街で声をかける中年たちの、自分を狙う人間が持つ特有の荒さを、勇輝からは感じない。娘の危機に駆けつける父親のような、ヒロインの窮地に現われるヒーローのような、暖かく、力強い荒さがあった。そしてそれを分かりやすい言葉にすると、どんな言葉になるか、青海は知っていた。

「……ボクじゃだめ?」

 抱きしめられている青海には勇輝の顔は見えない。だが、水分を感知した。勇輝の瞳から生まれ、自分に流れてきた水分を感知した。

「絶対に悲しませない。苦しませない。ずっと傍にいる。いたい。だから……ボクじゃだめ?」

 男の声だった。震えても……細い小さいと思っていたが、勇輝もまた男の声をしていた。

「もっと強くなる。青海が心配しなくてもいいくらい。戦わなくてもいいくらい。それで、ずっと守る。敵も、心も。ボクが。ずっと。ずっと。ずっと好きでいる。ずっと離さない!」

 青海の返答はない。勇輝の追句も無い。ただ、祈るように青海の体を抱きしめた。

 男の香りがする。青海はそれが『勇輝』であることに苦しさを感じながらも、身じろぎはしなかった。もし、それ以上勇輝が踏み込めば、反射的に拒否してしまっただろう。だが、ただ思いを伝えてくるだけの相手を全力で拒否することは、青海には出来なかった。

 端から見れば、映画の一幕のように映える二人。純愛の末に辿り着いた少年と、裏の世界で生きて来た少女のクライマックスのような光景。だが残念ながら、二人が生きているのは、血が流れ、誰かが死に、必ずしも主人公の思い通りに話が進むとは限らない現実。そしてその現実を彩るのは、物語りに匹敵するほどの不可思議な能力を携えた者たち。

『お取り込み中申し訳ないが、少しいいかな?』

 二人は咄嗟に体を離した。勇輝は剣を出し、体を落とす。だが、青海の方は目を丸くしたまま空を……いや、空に浮かんだ夢大……黒いコートを着たイーターの姿に見入っていた。

『久しいなヒメ。いろいろな意味で元気にやっているようで、安心したといえば安心した』

「まって、違う!」

『慌てなくてもいい。何事も変化するが世の常。別段、怒ることも残念だと思うこともない』

 青海の体から力が抜ける。手はだらっと落ち、口は半開きになり、瞳の光彩は、悲しみとも虚無ともつかない複雑な加減になっている。

『それより勇輝君に話がある。君、最近はちゃんと家に帰っているのかね?』

 意図が分からず、勇輝が顔をしかめる。夢大は小さく笑い声を漏らすと、コートを翻した。現れたのは、ガムテープで口を塞がれた中学生くらいの女の子。髪の毛は振り乱したようにぐちゃぐちゃで、目からは怯えと涙以外に何も見えない。

「千佳……なんでそんなとこに!」

『安心した。妹さんの顔を忘れていては、準備をした意味が無くなるというもの……』

 夢大が笑う。はっきりとした、底冷えのする邪笑で。

『ご家族は招待させて頂いた。パーティーの知らせは君の家にある。後程、確認するように』

 勇輝が切りかかる。炎をまとった剣は、確かに夢大の体を真っ二つに切ったが、切った先からすぐに元に戻る。いや、そもそも切るも切らないも、そこに物質的なものは何もなかった。

『蜃気楼のようなものだ。アギという子に覚えて貰ってな。『百万ドルの夜景』という。夜限定使用だが、見ての通り立体映像を送ることが出来る。声やそちらの姿まで見えるとは、少し驚いているが、便利な方向への驚きなら、素直に喜ぶべきだろう。よくやった、アギ』

『えへへ、どういたしまして』

『あぁ、そうだ。あまりにも来賓の到着が遅いと、妹さんとお母様あたりに、暇潰しに付き合って頂くことになるかもしれないので、そのつもりで』

「暇つぶしって、どういう意味ですか!」

『この手の流れの場合、心身に傷が残るという意味と、私が男であり、彼女たちが女性であるということを踏まえ、場合によっては愉悦を覚えるものが選択肢に上がるだろう。が、果たしてどちらを選ぶかは、私自身にも分かりかねる。なにぶん気まぐれなのでね』

『さすが変体ね。遠まわしなセリフのくせに、逆に如何わしいわ』

『ダマレ、梅子』

 ホログラフィの中でビール瓶が飛んで来て、それを避ける夢大。その後、物が割れる音が盛大に響き、夢大と女性らの言い合いが続いた。そのふざけた様子は、むしろ勇輝の中の怒りと焦りを増幅させた。……知った。夢大たちにとって、人質を取ることも、その人質で好き勝手することも、取るに足るようなことではないと。それは青海が人を殺すことにたいした感慨も浮かばないのと似たようなもの。虫の手足をもいで観察する子供と似たようなもの。

『命短し恋せよなんたらというが、自分のことばかりかまけていると、短くなるのは家族の命と知るがいい。青春を謳歌するのも思春期には大切だが、ほどほどにしておくのだな』

 そのセリフを最後にホログラフィは消え、残ったのは何の変哲もない夜空と海。

 勇輝はいちおう辺りに気を配り、敵がいないことを確認してから剣を収め、青海を見た。青海はうな垂れるようにタイルを見つめ、ぶつぶつと独り言を繰り返している。

「うそ、なんで、人質、ごめん、あれ?」

 混乱している。冷たくあしらわれたことに、ポリシーに反する人質を取るという行動に、自分に何も言わずに会話を打ち切ってしまったことに、とにかく全てのことに混乱している。

 勇輝が何度も名を呼ぶ。が、重なる勇輝の呼びかけに、虚ろに反応する青海。循環が薄れ、腐り始めた水溜りのような青海の様子に、勇輝がきつく唇を噛む。普段の様子からは想像できない青海の変化に戸惑う。が、それも数瞬。青海の手を取りながら、頭を回す。焦り、嫉妬、怒り、恨み……一気に燃焼しそうな感情を押さえ、少しづつ炉にくべ、活力に転化する。

(カレンさんに連絡しないと)

 携帯を取り出し、カレンに連絡する。すると、ワンコールでカレンが出た。

『このタイミングで電話、ということは、そちらにも出ましたか……』

「ということは、カレンさんの方も?」

『えぇ、今し方。私は招待状を確認しに向かいますが、そちらはどうしますか?』

 勇輝はちらりと青海を確認すると、二人で先に部屋に戻ることを伝えた。

『分かりました。では招待状と……ご家族の姿がないか、確かめておきます』

 言葉こそはっきりしているものの、カレンの声は震えていた。家族という単語に、自分の両親のことを思い浮かべているのかもしれないな、と妙に冷静な考えを巡らせる勇輝。体の奥底から湧き上がるものはある。が、それを爆発させはしない。湧き上がるものがどす黒く、全てを燃え尽くさんばかりの温度だからこそ、冷静に対処しないといけない。

 勇輝は携帯をしまうと、青海の震える手をきつく握った。一瞬大きく跳ねた青海の手だが、除けようという意思はないのか、静かに佇んでいる。そのまま優しく青海の肩に手をやると、労わりながらマンションへと戻って行った。そして海の見える高台に誰もいなくなった頃、時計の針が二十四時を回り、新しい一日を迎えた。長い一日が……始まる。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ