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ACT6 『勇輝といふヒト』


 小学生の頃、中学生は大人に思えた。中学に入ったら違うと分かったけど、代わりに高校生が大人に感じるようになった。だけど、実際に自分が高校生にると、それも間違いだと知った。

 男子が集れば、話題は部活にゲームやテレビ、彼女が出来るとか出来ないとか、もっといえばヤッタとかヤラナイとかそんなことばかり。たまに将来や夢とか、国、世界について語るけど、一歩引いて見てみれば、ほとんどが、単なる空想や笑い話であることが分かる。

 それでも高一の時は、大学生になれば……と思っていた。でも、二年目に突入すると、その考えもなくなった。繰り返しなんだ。呼ばれ方が変わるだけで、たいした変化は無い。学校のトイレで個室に入れば、騒いで水をかける奴は相変わらずいるし、女子の着替えを覗こうって奴もいる。そして何より、机に悪趣味な落書きをする奴がいなくなることもない。だから……机を見るのが苦痛だった。毎朝机の上は、『死ね』とか『キモイ』とか、知性もユーモアも無い言葉で溢れていた。高校生にもなったんだから、少しはユニークな文章でも書いて欲しい。濡らした雑巾を絞り、机の上を拭く。マジックなどで文字を書かないのは、犯人が特定されたときに弁償するのが嫌だからだろうか? 確固たる証拠が残るのが嫌だからだろうか? そういうところだけは発達するんだから、日本の教育はよくできてるって褒めてやりたい。

「朝から雑巾がけなんて、やる気満々だな!」

 通りがかりの草野先生……後で、虐めを知りながらの皮肉だと分かった……を無視して、使い終わった雑巾を流しに干して教室に戻ると、机とイスが倒れていた。その様子を確認すると、くすくすと教室から忍び笑いが起きた。怒りを通り越して、いっそ哀れみさえ覚える。

 それが毎日続いた。それから逃げるように、本を読み漁った。本を読んでいる間は……本の世界に入っている間だけは、周りのことは気にならなかった。どうせあと一年とちょっと我慢すれば終わる。怒ったところで、相手を喜ばせるだけだというのは、よく知っていた。ボクより先に虐められていた生徒がいたからだ。そいつが虐められているのを知ったのは、一年の終わり頃だった。クラスメイトの中には知っていた人間もいたらしいけど、誰も止めなかった。それをボクが止めた。それが切欠で、虐めの標的にボクも加わった。二人で虐められるようになった。その数ヶ月後、元から虐められていた奴は、学校を退学した。虐めはボクだけになっても、エスカレートすることが無い代わりに、沈静化もしなかった。あの日までは……。

 さっきも言ったけど、高校生の男子は、集まるとやたらに女の子の話をしたがる。で、虐めてる側の主犯格の男子もその手の人間で、暇さえあれば女子の胸ばかり見てるやつだった。空手という武の道を歩んでいるんだから、精神鍛錬をもっとすべきだと何度も思った。が、そんな男も恋愛はする。そしてある女子に恋をし、あからさまなモーションをかけ始めた。相手は『大戸 青海』というクラスメイト。休みがちだけど、体が悪いというわけでなく、むしろいくつもの武勇伝を打ち立てるほどに活発な人だった。成績はあまり良くないのか、教師たちから怒られていたが、多くの生徒は彼女のことを気に入っていた。年齢、性別、職業、地位、収入……人を判断する多くの材料が、彼女にとっては取るに足ら無いことだった。彼女は『その人』を見る。青い目で、その人がどういう人なのかを見て、その人と付き合う。それは少なくとも今の日本では、あまりいないタイプだ。何かに縛られない自由な人。皆その自由さに惹かれて、彼女に集まっていた。だから、いつも彼女の周りには人がたくさんいた。

 彼女について語ると長くなるからこれで終わり。とにかく、奴はそんな青海さんのことを好きになった。そして告白した。ボクは最初から予想していたけど、結果は見事な惨敗。何人もの男子が辿り着いた結末だ。そしてこれも何人もの生徒が辿ったように、そいつの失恋話はあっという間に、クラスどころか学年中に広まり、ボクの耳にも届いた。これで少しは大人しくなってくれるといいな……と思ったけど、この男子は、大人でないどころか、失恋の痛手を八つ当たりでしか解消できない子供だった。奴が惨敗した数日後、ボクは数人の男子に囲まれ、殴られ、蹴られ、血を吐いた。口を切った程度の軽い傷だったけど、ショックだった。腕や足の痣や傷の痛みが、恐怖を煽ったせいだろう。このまま死ぬかもしれない……本気で思った。

 意味不明な、根拠の無い、辻褄の合わないことを叫びながら、失恋はボクのせいだと言い張る奴等。明らかに原因はそっちにあると思っていても、何も喋れなかった。口が切れていたこともある。休み無く攻撃されていたこともある。でもそれ以上に、恐怖で口が開けなかった。心の奥では言葉が次々と浮かんでくるのに、出て行かない。全身が言葉を外に出すのを防いでるかのように、背中は丸まり、手は口元を押さえ、呼吸は途切れ途切れだった。

 暗い校舎裏で、理不尽な暴力を受け続ける。何か言えば五倍になって、抵抗すれば十倍になって返ってくる。ボクは、自然災害が通り過ぎるのを願うように、ただその時間を耐えた。

 耐えて、耐えて、耐えて……気がついたら、一人だった。1人、校舎裏の泥の味で目を覚ました。その時の気持ちをどういう言葉で現せばいいのか分からない。怒りとも違う、悲しみとも違う、黒と赤が入り混じって、見たことも無いような色、感じたこともない気持ちになっていた。どうしても何か言葉を与えないと落ち着かないなら……殺意。そう、殺意だ。同じ苦痛じゃ物足りない。痛めて痛めて痛め抜いて、謝らせるけど許さずに、責めて、苦しめて、追い詰めて、罵って、考え付く限りの陰険さを出し尽くしてから、現実の世界に戻す。そこで一生、怯えて暮らせばいい。いつまたボクの殺意に晒されるとも分からず、日々怯えて暮らせばいい。幸せを掴めば掴むほど、平穏であればあるほど深まる恐怖を味わって一生を送ればいい。

 そう……思った。もちろんそれは思うだけで、実際に行動はしない。だってそうだろう? 考えれば、すぐに分かることだ。例えどんなに相手が悪くても、世の中の良識ぶった人たちは『虐められる方にも原因』があるとか『過剰防衛だ』とか言うんだから。

 味わってみればいい。体験してみればいい。虐められることが、丸い月だけの夜空の下、ぼろぼろになって土の味で目覚める気分がどれだけのものか……。

 ボクが本を拾ったのは……ブックを宿したのは、そんな日のことだった。


 勇輝の体がバウンドする。それ目掛けて、カレンが呼び出した小人がサバイバルナイフを抱えて襲いかかる。勇輝は起き上がりながら、手にした木刀で小人を叩き落そうとしたが、小人はナイフを地面に放り投げると、木刀が当たる前に消えた。そしてナイフの落下地点に再び姿を現した小人は、ナイフを受け止め、勇輝の首元に投げつける。勇輝は右手でそれを払い、カレン本体へと視線を戻そうとしたが、ふいにその視界が闇に覆われた。もう一体の小人が、顔面にへばりついたのだ。そこに、カレン本体が銃弾を放つ。ようやく小人をはがすも、すでに回避も防御も間に合わない。銃弾は服を破り、勇輝の皮膚に触れた瞬間勢いを無くし、地面に転がった。本来なら致命傷であったろうが、勇輝の能力のおかげで傷は一つも無い。

「私の勝ちですね」

「今日こそ勝てると思ったんだけどな」

 袖で汗を拭いながら、カレンを見る。カレンは汗一つかかず、いつもと同じような服装でこちらへと歩いてくると、勇輝に向かってタオルと水の入ったペットボトルを放り投げた。

「反応も機転も良くなりました。ですが、体力の無さが致命的ですね」

「ろくに運動してなかったしね」

「腹筋、背筋、腕立て、ランニング、ちゃんとやってますか?」

「もちろん。筋肉痛にもならなくなったよ」

「ならいずれ必要な体力はつくでしょう」

 人工的な風でも、心地よさを感じながら、タオルで汗を拭き取る勇輝。

 ここは、カレンが懇意にしている裏組織が保有している訓練場だ。勇輝とカレンは二日に一度の割合で、この場を借りて戦闘訓練を行っている。実戦経験があまりにも乏しい勇輝のためだ。本来なら戦闘タイプである青海が相手になるべきところなのだろうが、面倒臭がったのと、あまりにも戦闘力に差がありすぎるので、カレンが相手をすることになった。だが、結果としてはそれが功を奏したといえる。カレンは勇輝の先生役としてぴったりだったのだ。

 青海はホルダーに必要な技術や知恵を『経験』と『感覚』だけで伝えようとする。一方カレンは『知識』や『理論』といったものを取り混ぜる。元々読書量も多く、自分の中であれこれと考えることが得意な勇輝には、カレン方式の訓練が性に合っていたわけだ。

「さて、ただ休むのも暇なので、頭の方でも動かしましょう」

 荷物の中からノートを取り出したカレンは、ペラペラとページをめくる。ノートには、勇輝に話したホルダーの知識や、勇輝自身の能力などについてあれこれと書かれている。

「まずは、勇輝さん自身のことからです。あなたが持つ能力の特徴は?」

「剣を出すこと、剣から炎を出すこと、そして物理攻撃を無効化すること」

 淀みなく答える勇輝に、満足げにカレンは頷く。

「では続いての質問。ホルダーの主な三つのタイプは?」

「自身の能力が上昇するトランセンド、キャラを呼ぶサモン、道具を呼び出すクリエイト」

「では、あなたのもつ『エクスカリバー』はどの分類ですか?」

「クリエイトとトランセンド」

「そうです。一つのブックに複数の能力が宿っている場合もある。それはあなただけでなく、他のホルダーにも言えます」

 汗が引くまで問題のやり取りを続け、また戦闘訓練をしては問題に答えるということを日が暮れるまで繰り返し、この日の訓練は終わり。二人は訓練場を出ると、カレンの運転する車に乗り、アパートやマンションの立ち並ぶ住宅街へと移動した。そして一軒のマンションの駐車場で車を降りると、エレベーターで上のフロアに移動し、鍵を開けて部屋の中へと入った。

 迎えたのは「おかえりー」と、ジーンズとシャツの上からエプロンをしてフライパンを握る青海。前髪をピンで留め、折ったバンダナで後ろ髪をまとめている。学校では見られない青海の姿に赤くなる勇輝。カレンは小声で「初々しいことで」と呟き、靴を脱いで上がる。勇輝もドアに鍵をかけて続く。間取りは、2LDKにバストイレ付き。備え付けの家具家電があり、防音がしっかりしている他は、どこにでもある普通のマンションだ。三人は今、ここで暮らしていた。青海は自宅である夢大の家に帰るわけにはいかず、カレンは一人暮らしのため、どこで暮らしても大差ない。そして勇輝は夢大やシスターに狙われている以上、一人にするわけにはいかない。そこで話し合った結果、暫く一緒に暮らすという決断に至った。青海の『支払いは自分がするからホテルに泊まろう』案に、金銭的にもったいないと却下したカレンと、気分的に落ち着かないという理由の勇輝たちの代案が『マンションを借りる』だった。

 結成当日にカレンが手配したおかげで、すぐにここでの暮らしが始まった。二つあるうち、一つは青海とカレンの女子部屋。もう一つが勇輝の部屋となっている。ただ、カレンはほとんど部屋に入らず、リビングで寝起きしている。パソコンで情報収集や整理をしていると、部屋に戻るのが面倒になって、その場で寝てしまうからだと本人は語っている。

「済みません。仮眠を取るので、食事時に起こしてください」

 カレンは丁寧にうがいと手洗いを済ませると、女部屋に。勇輝は、リビングにある机の前に座ると、時折青海に視線を向けながら、ニュース番組を眺めた。どうということのない情報や天気が流れる。正直、面白くも為にもならない。なら消せばいいのだが、勇輝には消せない事情があった。事情というには大袈裟かもしれないが、『沈黙に耐えられない』のだ。

 青海はフライパンを眺めながら、ハンバーグの焼き加減を見ている。その真剣さは、迂闊に声をかけることを躊躇わせるほどだ。なら自分の部屋に戻ればいいじゃないか、という意見もあるが、心情としては青海の側にいたいのだから仕方ない。どうにも落ち着かない勇輝は、立ち上がって冷蔵庫の中を覗き込むと、缶ジュースを取り出してプルタブを開けた。

「あ、ついでにあたしのも取って。炭酸入ってないやつ」

 勇輝が再び冷蔵庫を開く。が、中には炭酸ジュースか、コーヒーしか入っていなかった。

「……無いみたい」

 呟いた途端、青海の顔がこれでもかというくらい残念そうに歪んだ。あと少しその顔が続いたら、思わず勇輝が謝ってしまうほどに。

「じゃ、いい」

 言いながらも、明らかに不服そうな青海。勇輝は鼻頭を掻くと、出かける準備を済ませた。

「散歩ついでに買って来るよ。グレープでいいんだよね?」

「え、別にいいって。我慢すればいいだけだし」

「我慢できない、って顔に書いてあるよ」

「……そんな顔してた?」

「やっぱり自覚ないんだね」

 笑いながら勇輝は靴を履く。青海は納得行かないと唸っていたが、いってらっしゃい、と勇輝を送ると、フライパンとの作業に戻った。その様子を扉が閉まっていく隙間から見ていた勇輝は、こそばゆい気持ちで顔が崩れそうになるのを抑え、足早にマンションから出離れた。

 青海の『いってらっしゃい』という言葉。ただそれだけの言葉が、どうしてか特別なものに感じてしまう勇輝。一緒に暮らすようになって十日。毎日のように言われている言葉なのに、不思議とその感じ方は変わらない。いや、むしろどんどん特別になっている。ぎこちなさも薄れ、友達がするような挨拶になり、家族がするような挨拶になり、そしていずれは……。

「……何考えてんだ、ボクは」

 恥じるように独り言を呟く。さっきまでの気持ちはどこへ消えたのか、冷静を通り越して冷えていく気持ち。だが冷えた分だけ、頭はスムーズに動くようになる。その頭は、青海やカレンから聞いた断片的な情報を元に背景を構築し、限りなく事実に近い筋書きを描いていく。つまり『青海は夢大のところに帰り辛いからここにいる』ということを。けして『自分に好意を寄せているからいる』からではない。いや、嫌われてはいない。どちらかといえば好かれているはずだ。それは一年以上同じクラスだったのだから分かる。だだそれが『自分が望む好きの形ではない』というだけのこと。はっきりというなら『恋愛のそれではない』ということだ。

(もうそろそろ一年経つのか)

 冬の夜空を見上げる。ちょうど去年の今ごろも、似たような空を見た事があった。


 寒い日だった。冬だから当たり前だけど、その日は特に寒かった。その日、ボクの学校では合唱コンクールがあった。他の学校だとクラス対抗が専らだけど、うちは有志によるグループ対抗。しかも予選があって、遊び半分のところは、容赦無く切り落とされるので質が高い。おかげで生徒から人気がある。だから、合唱部や軽音サークルなんかが宣伝を兼ねて出たりすることがほとんど。でもその年は、異色なグループがあった。『名無し』というグループ。そのいい加減な名前のチームは、予選を通過し、本選に残っていた。メンバー構成は、ピアノ伴奏と、歌い手一人の計二名。その歌い手が、青海さんだった。

 その頃。虐められてなかったボクは、クラスメイトに誘われ、コンクールを見に行った。皆下手ではなかったが、家でCDを聞いてればいいんじゃないかな、と思っていた時、名無しの番になった。名前とメンバーの少なさに会場に不満に似たざわめきが産まれた。だけどそれは、歌が始まった瞬間無くなった。……マイナーな洋楽。半分しか分からない言葉。なのに、今まで聴いたどの歌よりも、引き込まれた。上手いとか下手とか、そういう次元とは別の歌声に、ざわめきが駆逐された。ピアノの伴奏も上手かった。だけど何より、歌声にやられた。口を開けたままの人、目を閉じて聞き惚れる人、はては涙する人すらいた。魂が寄せられた……コメンテーターとして呼ばれたプロのミュージシャンに、そんなことを言わせしめたほどだった。

 案の定優勝は、名無しだった。コンクールは表彰式が終わると打ち上げに突入し、体育館は騒ぐ生徒でごった返した。青海さんはこの中でいろんな人に囲まれて楽しく過ごすんだろうな……とそんな感想を浮かべながら、体育館から去った。昔から人の多いところは苦手。でも、その日はすぐに帰る気にもならなかった。まだ、耳に残っていたから。青海さんの歌声が。

 もう少し余韻に触れてたくて、誰もいなさそうな屋上へと向かった。そこで少し佇んだら帰ろうと思って。でも、屋上には先客がいた。それも、こんなところにいるとは思わなかった人が……彼女は、屋上のフェンスに寄りかかって、空を見上げながら歌っていた。さっき優勝した歌を、掠れぎみな声で静かに歌っていた。なぜだか……泣きながら。


 勇輝が青海のことを意識し始めたのはそれからだった。元々目立つ存在だったので、知らないわけではなかったが、奔放な上に大勢の生徒を集める青海の存在は、どちらかというと自分とは遠いものに思え、あえて近づきたいと思うような相手ではなかった。だが、その日を境に変わった。気付くと、気付かなくとも、青海のことを見るようになっていた。

(なんで泣いてたんだろう……尋ねるのも変だしな……)

 そんな考え事をしていたからだろうか? 勇輝は、自分が付けられていることにまったく気が付いていなかった。勇輝を追っていた人間はゆっくりと近づくと、急にスピードを上げて勇輝の腕を引っ張り、路地裏へと連れ込んだ。それと同時に、考えるより先に体が動き、胸に手を当て、剣を引きぬこうとする勇輝。が、それは自分を連れ込んだ相手の姿を見て中断された。

「おい、久し振りじゃねーか」

 勇輝が手を払いながら相手を睨む。相手はそれに唾を飲みこんだものの持ちこたえ、自分が出来る一番怖い顔を見せた。相手は級友あり、空手部のホープであり、そして自分を虐めてきた男子生徒。防寒はしているが、随分とラフな私服だ。この辺りに家があるのかもしれない。

 じゃあねと、取り合わず帰ろうとする勇輝の服を掴む生徒。勇輝はその手を払いのけながら、これみよがしに溜息をついてみせた。

「ごめん、今忙しいんだ。早く買い物を済ませないと、怒るかもしれないし」

「はっ、ママのお使いか?」

 青海さんのだよ、と言いかけて口を閉ざす勇輝。青海の名を出しても、相手を煽る以外の効果は期待できない。だが生徒は勇輝の沈黙を怯えと捕らえたのか、高圧的な態度を強める。

「ま、お使いならちょうどいいか。金貸してくれよ。今月やばいんだ」

「苦しいなら、親に頼むか、バイトすればいいんじゃないかな?」

「うるせーよ! つべこべ言わずに、寄越せっつてんだろ!」

 掴みかかる生徒。だが勇輝はその手を跳ね除けると、逆に相手の腹に拳を入れた。手加減はした。おかげで相手のダメージはたいしたことないが、怒りは急上昇する。生徒は身体を震わせながら、本気で勇輝に襲いかかった。空手部のホープは伊達ではなく、純粋に体術だけなら勇輝は足元にも及ばない。だが何度撃ちこんでも、勇輝にダメージが重なるはずもない。勇輝はせっかくだから、と相手の攻撃を回避と防御し続け、体術の練習相手に使い始めた。

 連日の特訓のおかげか、飲み込みが早い。すぐにほとんどの攻撃を捌けるようになる。生徒にとって、それが気に食わないのは当たり前。苛立ちは手数と破壊力を増す代わりに精密さを失わせ、ますます回避を楽にする。そして、勇輝がそろそろ買い物に戻ろうと思った矢先、それは降ってきた。水の塊だ。塊は生徒だけを狙ったように落下すると、全身水浸しにして、排水溝に流れて行った。生徒は突然のことに何が起きたのかも分からず、呆けている。

 勇輝は笑いを堪えながら路地を出た。生徒が何かを叫んだが、立ち止まるはずもなく、すぐに声も聞こえなくなる。そして、前より少しだけ早くなった足音に、別の足音が近づいて来た。

「ごめんね青海さん。ジュース遅くなって」

「まぁいいわ。憂さ晴らしできたし」

 青海が勇輝に並んだところで、二人の速度は緩まり、歩きへと変わった。

「ハンバーグできたの?」

「あとはソース煮るだけ。ついでだから、買い物付き合って欲しくてさ」

「あの……洋服とかなら、ボクじゃ役に立たないよ?」

「期待してないから大丈夫。それに、服じゃなくてスーパーで買出し」

「つまり荷物もちってことだね」

 ウィンクする青海に、嫌な気はしない。食事は青海が作っているのだから、それくらいはやって然るべきだし、そもそもどんな理由にしろ一緒にいる時間があるのが嫌なわけがなかった。


 夜、勇輝は家に電話をした。勇輝が共同生活を送る為に、欠かせない連絡だ。現在勇輝は、『一人旅をしている』という嘘の報告を家に入れている。実際には、もうなんとも思っていないが、虐められていた気分をすっきりさせたい、という名目でだ。母親はかなり反対したが、父親は『バカなことは考えてないな?』と念を押して確認した以外は『なら楽しんで来い』と、驚くほど簡単に許してくれた。加えて、先日担任の岡部が訪問してきた際に、成績が足りていれば出席日数はカバーしてくれるという話も教えてくれた。

 勇輝は親や担任に感謝しつつ、自分の嘘に心苦しさを覚え、でもこの生活を続けたいと思いながら、電話を切った。そして、自室の片隅にある旅行雑誌を手に取る。言い訳する為に用意したものだ。この中から旅先を選んでは、どこそこにいる、と言い張っているわけだ。ページを捲りながら、お土産をねだった妹に何を送るかを考える。どの程度なら怪しくないか、実際に手に入れることが出来るか……。そうこうするうち、リビングから物音が消えた。勇輝が厚手のタオルケットを持って、部屋を出る。リビングでは、ノートパソコンを開きっぱなしで、座ったままの姿勢でカレンが寝ていた。器用だな……と関心と呆れが混じったような面持ちで、カレンの肩にタオルケットをかけるのと、女子部屋の扉が開くのは同時だった。

「……夜這い?」

「ちが、違う! ない、絶対そんなことない!」

「ジョークよ! 大きな声出さないの! カレンが起きるでしょう!」

 本人も十分大声を出しながら、勇輝を蹴る青海。ダメージがないと分かっているからか、手加減無い。ちなみに傷は無くとも音は出る。その音の凄まじさに、カレンが目を開いた。が、辺りを見渡すと、無言でノートパソコンのスイッチを切り、再び眠りの世界に旅立った。

「……あれで疲れ取れるのかな?」

「大丈夫なんじゃない? カレンが疲れてるところなんて、見たことある?」

 戦闘訓練が五回。実戦が二回。そのどれも、カレンが疲れているところは見ていない。主に動いているのが小人だからというのもあるのだろうか、見た目よりも体力があるらしい。

「青海さんもだけど、カレンさんも十分超人だよね……」

「『も』って何よ、『も』って」

「ジョークだよ」

「へぇ〜、言うようになったじゃない」

 青海が蛇口を捻ろうとした瞬間、勇輝は全力で阻止した。両手を掴み、じりじりと水道から離して行く。そして壁際まで移動させられると、青海も観念したのか、力を抜いた。

「降参。参った。あたしの負け」

「か、勝った……」

「もう、こんなことで意地になって……おかげで咽乾いちゃったじゃない」

 言いながら、冷蔵庫から缶ジュースを取り出す青海。その瞬間、口元がニヤリと上がったのを見て、慌てて勇輝が動いたが、もう遅かった。青海はプルタブを開けると、ジュースを操り、勇輝に向けて発射した。間一髪勇輝が弾丸を避ける。が、弾丸は壁に当たる前に停止し、再び勇輝に向かう。そんなことを大騒ぎしながら、数分も続けていただろう。その時、寝ていたカレンが急に立ち上がると、キッチンの棚を開け、うろんな目つきで包丁を握り締めた。

 薄暗い部屋の中、おかっぱ頭の少女が包丁を握り締めるという光景に、勇輝どころか青海の身の毛すらよだった。カレンは何を伝えたいのか、首を傾けたり、唸ったりしている。二人はその度に、とりあえず首を横に振って、否定を表した。だがその懸命な否定はカレンには届かず、むしろ状況を悪化させた。小人までもが、果物ナイフや出刃包丁を抱え出した。

「……今夜、誰かが死ぬ」

 不穏当な発言をつぶやくカレン。青海はとっさに勇輝を自分の前に引っ張り出した。

「勇輝、GO!」

「い、嫌だよ!」

「攻撃無効化できるんでしょ!」

「でも呪いとかは食らうってカレンさんが言ってたよ!」

「カレンに呪いは使えないから大丈夫!」

 カレンを見る。何やら呟いている。あまり聞き取りたくない言葉なのは、まず間違い無い。

「いや、無理!」

 勇輝は諦めた。

「あたしも無理!」

 青海も諦めた。

「がああああぁぁぁぁぁぁ!」

 そしてカレンが切れた。勇輝は慌てて扉を開け、青海と一緒にカレンから逃れた。ワンテンポ遅かったら、青海の手によって、勇輝が犠牲にされていただろう。だが何とか逃げ込んだ二人に、カレンの追撃はなかった。耳をそばだてると、ガチャ、カチャ、パタンという音がしてから、リビングは静かになった。おそらく包丁をしまって寝たのだと思われる。が、それでもすぐに部屋を出て行く気にはなれず、青海はずるずると扉に背を預けるように座りこんだ。

「マジ怖かったわ」

「青海さんでも怖いものがあるんだね」

「そりゃあるわよ……っていうかユーキ、あたしをなんだと思ってるの?」

 思わず黙り込む勇輝。軽い質問のはずなのに、すぐに返答が来なかったことに青海は疑問を浮かべたが、やがて勇輝は真顔でこう返した。

「女の子、かな」

 今度は逆に青海が沈黙する。勇輝は、何か変なことを言っただろうか、と不安になり、気遣わしげに見つめた。が、青海はすぐに下を向くと、小さく笑い始め、そして顔を元の位置に戻した時には、普段の表情になっていた。隠しきれずに、嬉しさが滲み出ているが。

「ありがと、ユーキ」

 何が嬉しいのかさっぱり分からない。だが本人が喜んでいるのだから、それでいいかと思う。

 そして、部屋は静かな夜の空気に満たされる。繊細で暖かい……毛布や羽が空気に混じって身体を包んでいるような、そんな柔らかさに包まれる。青海は窓の外に浮かぶ月を見るように。勇輝はそんな青海を見るように……夕方の居たたまれない沈黙とは違う、語らずとも繋がっている……そんな、心地よい静寂に包まれていた。

 だが、その静寂を解くように、青海の声が空気に解けこむ。それはさっきまであった柔らかい空気を払拭し、冬の海の中に身を沈めていくような感覚を作り上げる。

「ねぇ……なんで夕方ん時、あいつ殺しちゃわなかったの?」

 びくん、と胸が勇輝の心臓が跳ねた。

「誰も見てなかったし、消し炭にしちゃえば証拠もなかったでしょ? なのになんで殺さなかったの? 虐められてて悔しくなかったの?」

 糸を解く。絡まった糸を解き、その端にある答えを探る。青海の質問に答えるために。自分の心を知るために。そして、足元が埋まるほどの糸を解き、ようやく答えに辿り着いた。

「……勇者になりたかったんだ」

 青海は軽く相槌を打つと、勇輝の目を伺うように見据えた。

「小説に出てくるような……夢大さんが書いた小説に出てくる勇者のような、そんな人になりたかったんだ。殺してやろうって思ったこともあるよ。でも……なりたかったんだ」

 語る勇輝に、青海は何も返さない。ただその目をじっと見ていた。だが勇輝が語り終えると、ゆっくりと視線を外し、机に乗っていた文庫本に目を向けた。勇輝も視線を追うように本を見る。『愚かな勇者様』……夢大の書いた、青海との距離が縮まる切っ掛けとなった本。

「それ、どんな話なの?」

「知らないの?」

「知ってたら聞かないわよ」

 目を吊り上げる青海に苦笑すると、勇輝は本を手に持ちながら、あらすじを話して聞かせた。

 勇者の名前はノォマル。彼は自分が勇者であると疑わず、日夜勇者になるべく努力し、勇者らしい行動を心がけていた。だが時代は、魔王もとっくに滅びた平和な時。予言にも魔王が現れるとは書かれておらず、勇者を必要とするようなこともなかった。だが彼は勇者であろうとし続けた。幼い頃はそれも、かわいい勇者様ごっこであったが、歳を重ね成長するに連れ、扱われ方が変わり始めた。正しく在ろうとする彼の言葉を疎む者が増えた。正しく在ろうとする彼の行動を鬱陶しく思う者が増えた。そして彼はいつしか孤立し、迫害されるようになった。

「それでもノォマルは、勇者であろうとしたんだ」

 自分が勇者であると信じて、全てに耐えた。そして、変わらず勇者であることを貫いた。それが周りからの迫害を強烈にし、自身の心と身体を削り落としいくことだと知っていても……。

「そして彼は、一人の子供を助けるんだ。村人に厄介者扱いされて、虐められていた子供をね」

 二人は疎まれながら、避けられながら、迫害されながら暮らした。そして物語りはラストへと迫る。長年の責め苦に、勇者が病に伏す。村人はそれを助けようともせず、むしろ厄介者がいなくなることに喜びを感じる者すらいた。子供はそんな村人たちを呪った。そんな村人たちのいる世界を呪った。そして全てを呪った。だから、全てを消してしまおうと思った。

 そう、子供こそが魔王だったのだ。預言者に気付かれぬほどの力を秘めた存在。その魔王が、真の力を発揮しようとした時、ノォマルは病床から立ち上がった。そして自分の手を切り落とし、切り落としたナイフで、魔王の腕に切り傷を作り、最後に自分の胸に剣を突き刺した。

「知りなさい。そして忘れてはいけない。それが、痛みというものだから」

 目の前で死に行く勇者を抱きとめ、魔王は泣いた。その涙は呪いを溶かし、声は勇者が天国に上るための階段を作り上げた。魔王はやがて泣き疲れると、目を閉じ、勇者の魂に抱きしめられながら、眠りに就いた。そして村人は……世界は、彼が本物の勇者であったことを、魔王を作り出したのが自分達であったことを知ったのだった。

「夢大さんの本の中では賛否ある方だけど……好きなんだ。今まで読んだ本の中でも、かなりお気に入り。だから、何度も読み返して、あいつらに貶されるたび、何度も救われて……」

 語り終えた勇輝は、本を丁寧に机の上に置いた。

「だから、いつか作者に会ってみたいと思ってたんだけど……」

 それがまさかこんな形で会うことになるとは思っても見なかった。と、言葉は繋げなかったが、言わなくてもそれくらいは青海も察する。

「また会えばいいじゃない」

「でも……その時は敵だし」

「だから、全部終わってから会えばいいじゃない。ストアを捕まえて、シスターに突き出して、その報酬に許して貰えばいいのよ。勇輝もホルダー続けられるし、夢大とも話せるし。ね?」

 勇輝はその提案に、曖昧な笑みを返すだけだった。

「……そろそろ寝ないと、明日が辛くなるね」

「あ、ゴメン。寝る邪魔しちゃって」

「ううん、ボクは青海さんと話せて嬉しかったから」

 青海は、気の利いたお世辞だとでも思ったのか、笑いながら扉を開けて、部屋を出た。

 部屋には、「おやすみ」という青海の言葉の余韻だけが残り、勇輝が一人取り残される。勇輝はベッドに倒れるように寝転ぶと、天井を見上げながら呟いた。「……終わったら、青海さんは帰っちゃうじゃないか」……と。


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