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ACT3 『ある雨の日のこと』


 その日、青海は昼前に目を覚ました。寝起きは悪くない。手早く身支度を整えると、パンを咥えながらカレンダーに目をやった。不登校宣言をしてから数日が経っていた。友人からは早く復帰しろとメールが来ていたが、今日もジーンズベースの軽い私服で、学校に行く気はまるでない。かといって特定の趣味もない青海は、うーんと唸ってから、夢大の部屋に向かった。

 声をかけながら夢大の部屋に入ると、主は死体のように眠っていた。手元に本が転がっているのを見ると、読書中に眠気が襲って来て倒れたようだ。よくある光景だけに、今更何も言う気は無い。だが、不満が無い訳でもない。家にいる宣言をしたんだから、少しくらい遊びに付き合ってくれてもいいではないかと思う。たまには、そっちから誘ってくれてもいいじゃないか、と。珍しく誘ってくれたから楽しみにしていたら、殺伐とした仕事だったじゃないか、と。

(期待してたのに……新しいパジャマも買ったのに、このバカやっぱ許せないわ)

 もちろんそれは、ブラックバイバル……BB壊滅戦のことを指している。楽しみに旅行気分で出掛けたら、いきなり戦闘、殺戮開始。しかも騙して。怒るのも無理ないといえる。

 だが夢大にも言い分はある。一度仕事を受けた以上、まっとうするのが裏世界で長く活動する人間のオーソドックスなポリシーだ。夢大もそれを美徳としている。だが青海はまだ活動暦が浅いためか、元からの性格的にか、やりたくないと思うと、途中で放棄することが多々ある。BB壊滅戦の時も『好きな歌手のコンサートの日と被るから』という理由でキャンセルしようとしていた。そこで夢大はしかたなく、騙しながら連れて行ったわけだ。

 自分にも非があることは青海も理解している。だけど、騙すことないじゃないか。普通にお願いすればいいじゃないかと、だんだんと腹が立ってくる。腹立ち紛れに、読みかけの本を捨ててやろうかとも思ったが、前にそれを実行した時は、三日ほど口を利いてくれなかった。構って欲しいのにむしろ遠ざける結果になるようなことをしては本末転倒。そして同じことを繰り返すほど幼くも無い。故に書置きに『今日の晩御飯は蛙の生け作り』と目覚めの悪い言葉を残しておいた。加えて、夢大が起きた時用に、おにぎりを握っておく。優しさからではない。証拠に、必要以上に塩加減を工夫してある。むしろ一つは砂糖加減だ。起きてから一連の不愉快そうな夢大を想像して、それなりに苛立ちを解消させると、コートを羽織り、家を出た。

向かったのは、電車に乗って少し行ったところにあるアーケード。最高級品が揃っているわけではないが、自宅付近の商店街と比べると華やかで賑やかだ。服や靴といったオーソドックスな店から、美術店や映画館などもあり、週末でなくとも人が行き交っている。

 端から順に店を眺める。手に取るものは多いが、買うには至らない。仕事のおかげで、平均的女子高生よりも莫大な資金があるが、それとこれとは違うらいし。たった一つ、天然石をあしらったブレスレットを買うか、かなりの間悩んだが、結局それも戻した。理由は、近くにいたカップルの会話に腹が立ったから。『ボクが買ってあげるよ』『じゃぁ私がこっちを買うわ』『ならボクが両方買うよ』『あーん私が買ってあげたいの』『ありがとう愛してるよ』『私もよ』『じゃぁお揃いにしようか』『いやん恥ずかしい』。そんな痛い会話を延々傍で聞かされれば不愉快にもなるというもの。思わず蹴りの一発でも入れてやろうかと思ったが、それで店を出入り禁止にされてはたまらない。数少ないお気に入りの店なのだ。

 疲れ切った青海は、その店を最後に、アーケードの反対側に出てしまった。この先は駅から離れ過ぎるため、店は無くなる。代わりに、住宅街の中ほどに、かなり大きな公園がある。緑豊かな地域だったことを生かし、街の中にある自然、をテーマに作られた公園だ。遊具は少ないが、川が流れていたり、自生の木々に合わせてベンチがあるなど、趣が感じられる場所だ。

 映画もカラオケも好きだが、一人で行く気にはならない。ならばせっかくだし、と公園の方に足を伸ばす。友人に言わせると意外らしいが、青海は海も山も、自然的なものに好意的だ。

 商店から民家、民家から緑へと町並みが変わり、目当ての公園へと到着した。公園の入り口にして一番広い広場は、ベンチに木陰が降り、風が吹き抜け、木々の隙間から日が差し、水の音が聞こえる風情ある場所。これで季節が春夏であれば人もいただろう。だが温暖化してるとはいえ冬に入ったこの季節、わざわざ寒さが際立つような場所に落ち着く人間は稀だ。

だが稀なだけで皆無ではない。ベンチにはコートを着た一人の少年が、辞書ほどの本を読んでいた。その姿に何を思ったのか、気配を殺してベンチの後ろに回る青海。そしていきなり少年のすぐ横に顔を突き出すと、本に記されているセリフを音読した。

「勇者の剣を受けてみろ!」

 慌てる少年。笑う青海。いきなり現れた相手が青海だと分かると、少年は最初とは違う意味で慌てた。顔が赤くなり、すぐ近くに異性がいることに不慣れなことが分かる。

「おひさ。虐められてた時ぶりね」

 少年は青海の級友……虐められていた生徒だった。小柄な彼は、学生服から私服になると更に頼りなげな印象が目立つ。色白な肌や成熟しきらない顔つき、染めてもいないのに茶色がかった髪もそれを後押しする。もっと厚手の服を着込んだら、少女のように見えるかもしれない。

「別に……虐められてたわけじゃないよ」

「じゃぁ何されてたのよ?」

 そう改めて質問されると、なんとも答えようが無い。苦笑する少年の複雑な顔に肩をすくめると、青海は隣に腰掛けた。

「で、なーんでこんな薄ら寒い場所にいるの? マゾ? 一人我慢大会? 精神修行?」

「違うよ。単に家が近所だから、暇だとたまに読書しに来るんだ」

 番地を聞かされるが、詳しい場所は分からない。が、聞いたことのある地名ではあったから、確かに近いのだろう。夢大の家から歩くには少し遠いが、行けない距離ではなさそうだ。

「青海さんは何でこんなところに? 学校は?」

「暇潰し。学校は休む宣言したでしょ? だから有言実行中。そっちこそ、学校は?」

 少年の言葉がつまる。言うべきか言わないべきか悩んだのか、視線が本に落ちた。が、青海の沈黙に耐え兼ねたのか、視線はそのままに言葉を口にした。

「先生と相談してね、暫く休むことにしたんだ」

「何で? あのバカたちを停学にでもすればいいことでしょ?」

「それができないんだって。あいつ、空手部なんだけど、今度の都大会で優秀候補なんだ」

 つまり学校は男子生徒が優勝し、学校の名前を広めてくれることを優先し、少年のことを二の次にしたということだ。酷いと言えば酷い話しだが、運営やビジネスに関して言えばシビアにならざるを得ない私立校としては珍しい話しでもない。

「ま、しょうがないよ。あいつはボクみたいなのと違うから。それに、休んでても出席扱いにしてくれるっていうからさ。ほんと、大戸さんのおかげ」

「あたし何かした?」

「大戸さんが暴れ……えと、立ち上がってくれたおかげで、岡部先生が気付いてね、校長にかけあってくれたんだ。おかげで行きたくない学校に行かずに、こうして本が読んでられる」

 全てが本心ではないだろうが、本が好きというのは確かなようだ。でなければ、辞書のような厚さの本を読んだりはしない。開いたままで題名は分からないが、文字で埋め尽くされたページは、それだけで小難しい空気を漂わせている。その本を見た青海は、暗くなった少年の為……というよりは、暗い空気の中にいるのが億劫になり、違う話題を振ることにした。

「よくそんな本読めるわね。あたしはギリギリ絵本かマンガかな」

 言い切る青海に、少年は僅かに目を丸くする。

「意外……大戸さんは、本好きだと思ってた」

「まさか。こんな文字ばっかの本読もうもんなら、三分で破くわよ」

「え、でもこの前、本が投げられたのが嫌で怒ったんじゃないの?」

 驚く青海。観衆のほとんどが、虐めに腹が立って仲裁したと思っている。そこに、少年は別の見解を持ち出した。そしてそれは正しかった。青海の行動理由は『本が投げられたから』だった。しかし『本が好きだったから』ではない。パーフェクトな答えではないにしろ、近くまで迫った少年に興味を覚えた青海は、せっかくなので本当のことを教えることにした。

「本じゃなくて、あの本を書いた作家のことが好きなのよ」

「作家って……夢大さんのこと?」

「そそ。で、夢大の本名って知ってる?」

 少年が思案する。本好きなだけあり、作家に関する知識もあったようだ。その知識の中には、夢大の本名も入っていた。そこから質問の意図することを読み取った少年の顔が大きく変わる。

「夢大さんのペンネームの由来は、本名の『奈々氏』から『名無し』、『無題』って連想して……で苗字は……大戸だよね?」

「あったりー。で、あたしの苗字も大戸。ということは?」

 呆然とする少年に、青海が説明する。学校に通うために親戚の夢大の家に居候していることを。もちろん本当は親戚などでなく、仕事のパートナーだとは明かしていないが。

「そっか。夢大さんの親戚だったのか……そりゃ本が好きじゃなくても怒るよね」

「小難しい本って、読んでると眠くなるのよ。実際、授業中は寝ちゃってるしね」

「知ってるよ。大戸さん、授業中は起きてることの方が珍しいし」

「そこまで言う?」

 青海の目に鋭さが混じるが、それは友達に冗談めかしてやるものだと知っていたのか、少年はくすくすと笑った。その嫌味の無い素直な笑いには好感が持てる。静かな印象から、もっと暗く近寄りがたいタイプと思っていたが違うらしい。話していると、静かというよりは落ち付いていると言った雰囲気がする。暗く見えていたのは、虐めに関連した精神的事情からだろう。

「でも納得したよ。そんな人と付き合ってたら、告白されても受けるはずないね」

「あれ? そんなこと話したことあった?」

「教えられなくても知ってるよ。青海さんは目立つからね。噂もいっぱい流れてるし」

「……あたしって目立ってるの?」

「……自覚無いの?」

 青海が俯く。冗談かと思ったが、顔色からして本気らしい。少年は慌てて、自己反省会を始めそうな青海に違う話題を提供し、無理矢理会話のペースへ巻き込んだ。

 不登校中という妙な仲間意識か、夢大という共通の話題があるせいか、今までろくに会話もしなかった二人の間にあった緊張感のようなものが、あっという間に消えた。作家夢大へのイメージと現実のギャップ。級友や教師への不平不満。そんなものを切っ掛けに、自然と会話の量が増え、笑いの量が増える。周りからすれば他愛無い話だが、本人たちにとっては楽しいものだ。だが充実するほどに時間の流れも早い。気がつけば一時間近くが経っていた。

「……一雨来るかも」 

 雨の匂いを嗅ぎ取った青海は、会話を中断すると、反動をつけるようにして立ち上がった。今から晩御飯の材料を買って帰路につけば、自宅まではもつだろう。その頃には夢大も起きているかもしれない。そしたら、トランプでも付き合わせようと思い、少年に帰宅を告げる。

「そっちも帰った方がいいわよ。たぶん、あと一時間くらいで降るから」

「うん。じゃぁもう少ししたら帰るよ」

「あー、ごめん。読書の邪魔しちゃって」

「ううん、ボクも楽しかったし」

 その言葉が嘘でないのは、表情が証明している。作り物でない柔らかい笑顔だ。その顔を見て更に好感を持った青海は、帰り間際に質問をすることにした。

「名前教えてくれる?」

 持ち上がりの学年だけに、すでに一年と半分ほど一緒にいる。だからこれも冗談かと思った少年だったが、ジョークでもなんでもなく、名前を知らないらしい。青海の顔は真顔だった。

「えっと、鶴来ツルギ 勇輝ユウキ

「おっけ、覚えた。それじゃまたねユーキ」

 それだけ聞くと、勇輝を残して公園を離れる。去り際に振り返ると、まだ勇輝はベンチの前で手を振っていた。その姿も入り口を出ると、すぐに公園の植え込みに遮られて見えなくなる。そして緑から民家、民家から商店、商店からアーケードへと移る。

 だいぶ雨の匂いが濃くなった。思っていたよりも早く降るかもしれない。買い物をして帰るか、それとも真っ直ぐ帰るべきか。アーケードに入った所で悩んでいると、伝ってきた寒気に背筋を震わせた。そして空模様を確認してから、百円ショップに近づく。並んでいる商品の中から青いビニール傘を買って店を出る。そして、アーケードから少し離れたスーパーに向かう。自宅付近のスーパーよりも広い、小型デパートのような店だ。

(出来合いのおかずって嫌いなんだけどな……)

 地下にある食品売り場を、時間をかけて回り、渋々といった感じで選んだ惣菜を買って外に出る。その頃には青海の読み通り、小さな雨がぽつりぽつりと灰色の地面を濡らしていた。

「あーめあーめ、ふーれふれー」

 青いビニール傘の下、童謡を口ずさみながら歩く。その通りの良い清涼感のある歌声への賛辞か、雨の勢いが増していく。雨が傘を使って拍手する音を聞きながら、商店から家屋、家屋から緑、そして公園へと辿り着く。先ほど勇輝と別れた公園だ。公園にはすでに誰の姿も見えなかった。寒々しいものを感じさせる公園の更に奥へと進む。そこは公園というよりも、雑木林といった様相だ。もともと日差しが悪いところに、木々の合間から落ちる水が土に染み込んだせいで、足元がぬかるんでいた。そんな林の中、割合に広いスペースがある場所で立ち止まる。足に力を入れると少し土が凹んだが、足場が悪いというほどではない。それを確認すると、手近な木の枝にビニール袋をかけ、傘を閉じ、今まで歩いて来た方向へ振り返った。

「知ってるー? 可愛い女の子を追い回すのは犯罪なのよ?」

 雨音しか聞こえない林。青海は目を細めると、やおら自分の背後に水の塊を噴射した。その塊が砕かれる音を聞きながら体を反転させ、相手の姿を確認する。いたのは男。年は夢大とそう変わらない。血走った目の男に目覚えは無い。その男は片手で、岩も砕けそうなハンマーを握っていた。豪奢で、細部に宝飾が施されている。実用性は薄いが、単なるハンマーでないことはよく表せている。そして、そのハンマーを握る男もまた普通でなく、特別な人間。

「いつから気付いてた?」

「アーケードから。あんなビシバシ殺気放たれたら、嫌でも分かるわよ」

 身体を震わせたのは、寒気ではなく、男の放つ殺気にだ。狙われていると知った青海は、対峙するため、雨が降るまでの時間稼ぎをし、この場所まで移動した。何故なら……青海は水を操る。だが操る水は無尽蔵に涌き出るわけではない。池や川、海、雨などの水を引き寄せているに過ぎず、生み出しているわけではない。つまり、近くに水が無ければ、青海の水を操る能力は使えない。だから時間を稼いだ。まさしく自分にとっては恵みたる雨が降るのを。

 追っていたようで、実は誘導されていた事実に舌打ちする男。そして憎らしげに顔を歪めると、大きく息を吸って、ハンマーを握る手に力を入れた。

「……死んでもらう!」

「ナンパならもっと上手に誘ってよ。もっとも、百年経っても願い下げだけどね!」

 青海が水を呼ぶ。雨粒が水弾へと姿を変える。そしてそれを飛ばすと見せかけて、雨よりも更に細かい粒に変え、霧のように吹き付けた。突然の攻撃の変化。だが男は動揺せず、ハンマーを振り下ろした。地面に触れる瞬間、ハンマーから飛び立つ黄色の蝶。蝶は羽ばたきと共に霧を吹き飛ばし、無へと帰る。目隠しとしての効果は発揮しなかった。が、相手にワンアクション起こさせることには成功した青海は、その間に水弾を用意していた。三つの水弾が飛ぶ。

 だが水の塊は、大きさからは信じられない速振りで打ち砕かれ、地面に飛び散った。舌打ちする青海に詰め寄った男は、反撃とばかりにハンマーを横に振る。が、青海はその攻撃を軽く避けながら距離を取り、再び水の塊を発射する。塊は周りの雨を呼び込みながら、瞬時に人を飲み込むほどのサイズへと変化した。それは弾どころか、転がってくる大岩のようですらある。

 だがその大岩は、ハンマーが雷色に輝いた瞬間、難なく砕かれた。しかしハンマーの変化はそれだけで終わらない。今のは単なる余波。真価はこの後。雷色の輝きは、男がハンマーを握る腕を回すたびに強まり、膨大なエネルギーを蓄えていく。それを崩すため連続して水弾を出すが、ことごとくが粉砕され、粉砕する度に輝きが増す。やがてそれは空気が許しを乞うような音を発し、そこにあるだけで落ちてくる水滴が消え去るほどとなった。そして……打ち下ろす。地面を穿つと同時に、這うように雷が放出され、大蛇のように青海へと延びる。青海はとっさにジャンプし、同時に足元に水を出し、ジェット噴射の要領で空高く跳ね上がる。その下を通過した蛇は、若い木を食い破りながら消失した。それを見ながら、着地する青海。その時、足に痺れに近い痛みが走った。避け切ったと思っていたが、掠っていたようだ。

 与えたダメージの少なさから青海の実力を推し量り、再びハンマーを構える男。今の一撃に費やしたエネルギーが大きかったのか、すぐには発動態勢に入らない。だが、いつまたチャージされるとも限らない。そしてまた避けられるとも限らない。

「……殺さないで捕まえるのは無理、かもね」

 水弾を頭上に放つ。天に向かって放たれた水は、枝葉を吹き飛ばし、林に穴を空けた。その穴から、雨が降り注ぐ。軌道を捻じ曲げられた雨が、シャワーのように青海に注ぐ。髪の先まで濡れる。肌にシャツがへばりつく。靴もずぶ濡れで、踏むと湿った音が漏れる。

「いまさぁ……けっこう機嫌悪いんだよねぇ」

 笑う。苛立ちを交え。そして両手を広げ、踊るように回転する。そこに大量の水が集まる。集まった水は高速回転すると、落ちてきた葉を切り裂いた。回転のこぎりのような水の円。

「シ、ネ」

 水の満月が飛ぶ。男が避けると、月は反転し、男へと戻って来る。それも男は避けたが、月は更に反転した。その動きから、追尾能力があることを見取った男は、ハンマーを握り締め、対峙する姿勢を見せる。打ち間違えれば死。そのプレッシャーをものともせず、男は避けると同時に、月の中心に雷をまとったハンマーの一撃を食らわせ、粉砕した。

「この程度……」

 男が震えた。青海を見て。濡れた青海の前髪は顔に張り付き、片目を隠している。それだけでも不気味なのに、残った目が、殊更鈍く輝いていた。雨雲よりも黒く深い瞳。深海よりも尚深い海の色。それは表から裏へ、女子高生からアオヒメへ、戯れから本気へとシフトした証。

 動揺する男。それを嘲笑う青海を彩るように、雨が集まる。一本一本は細く頼り無い雨が、寄り合って糸になり、腕や足、腰のラインを滑るように流れる。糸は次々に増え、別々のラインを描きながらたゆたう。その姿は、空から垂れる糸を纏う女を描いた絵画のようだ。思わず目を留めてしまう魅力がある。その裏に溢れんばかりの殺意が隠れているというのに。

「キレイでしょ? でも惚れないでよ、うざいから」

 ハンマーを構え、無理を押してエネルギーを蓄え始めた。だが何度振っても、どれだけ溜めても、汗が止まらない。不安が消えない。攻撃に耐えられるという確信が持てない。

「あーめあーめ、ふーれふーれ、かーさーんがー」

 残酷なまでに透明な歌声に合わせ、加速度的に糸の量が増え……跳ねた。一本の糸が伸び、男に触れる。次の糸が足に飛びかかる。指が、額が、胴が、糸が弾ける度に皮膚が裂かれる。傷は浅く、骨まで達するような深手はない。が、次々に襲ってくる水糸の斬激は、ハンマーで防ぎ切れるものではない。ましてや、全ての糸が一斉に男を襲ったら……青海が笑う。

「今際でおーむかーえ、うーれーしーなー……ってね」


 青海が家を出て暫くして、夢大はようやく眠りから覚めた。ただし、自発的にではない。雷と雨の音も一役買ったが、最終的には人為的なものだ。

「起きてくだちゃい、おにいちゃま」

 という甘ったるい喋り方と、感じる重圧。元々起き抜けが悪いのに、無理やり起こされた夢大は、かなりのしかめっ面で目を開けると、耳元で囁き声を放った男を問答無用でどついた。

「いってぇ! なにすんだ、お前は!」

「やかましい。耳元で気色悪い発言をするからだ」

「かわいかっただろう! セリフは!」

「己の性別を考慮してからセリフを吐け」

 目の前にいたのは、夢大よりは若そうだが、どうみても成人は迎えている男。愛嬌のある顔立ちだが、けして女っぽい顔ではないし、体つきにいたっては夢大よりしっかりしているくらいだ。そんな男から起き抜けに甘ったるい……ケーキなのにあんこの味がするような甘さで囁きかけられれば、よっぽど変な人間か、その手の趣味がなければ気分を害するだろう。

 夢大はその後、自分の上から重みが消えてないことに気付き、視線を動かした。視線の先には、正座で座る女性がいた。銀白の長い髪に癖のある、二十歳前後の女性だ。

「おはよう、アン。できればどいて欲しいのだが」

 アンと呼ばれた女性は、どつかれた男に目だけでどうする? と尋ねると、手で作られたバツ印に頷き、夢大の方を向いて首を横に振った。瞳には謝罪と使命感が宿っていた。が、

「アイスを買ってあげよう。だからどいてくれ」

 早い。瞬間移動でもしたのではないかと思える早さで、どつかれた男の隣に移動するアン。

「子供のご褒美程度で買収されるなよ」

 だがアンは聞く耳持たないのか、男の方を見ようともしない。むしろ手招きした夢大に近寄り、財布から取り出した百円を受け取って喜んでいる。

「愛はお金じゃ買えないなんて嘘なのね!」

 女言葉で打ちひしがれて床に手をつく男に蹴りをかましながら、夢大が眼鏡に手を伸ばす。眼鏡のすぐ脇には青海が書き残したメモがあった。夢大はそれを見ると、隣の青海の部屋にも下の階にも人気がないのを察して、泣き真似をしている男を再び蹴り倒しながら、尋ねた。

灯影トウエイ、青海は見なかったか?」

「見てねーなぁ。声かけて無反応だったからこそ、こうして家宅侵入してるわけだし」

 許可も無しに入るな、というツッコミはしない。その手の発言が、虎屋トラヤ 灯影トウエイという男に対して何の効き目もないことは、長い付き合いで十分に理解している。

 夢大は眼鏡をかけながら、脇に置いてあった携帯を手にして、青海にコールした。だが何度コールしても留守番電話に繋がり、本人は出てこない。仕方なく電話を諦めると、携帯にアンテナのような付属品を差し込んだ。するとディスプレイに青い点と、地図が浮かび上がった。青海の現在地を示すものだ。有事の際を想定して、メグに秘密裏に付けて貰ったシステムだが、もっぱら機嫌を損ねて帰ってこない青海を迎えにいくための機能と化している。

 携帯を元に戻し、着替えを始める夢大。アンはそれを察して、とっくに外に出ていた。

「でかけんのかい?」

「ご立腹のようだからな。公園にいることからして、本気でカエルを捕まえてくる恐れがある」

「ご機嫌取りたぁ、大変だ」

「機嫌が取れる相手がいるだけ幸せ者と思うべきだろう」

 着替え終え、そのまま玄関に降りる夢大に合わせて、灯影とアンも靴を履いた。

「待っていてもいいぞ? どうせろくでもない用事だろうが、話だけなら聞いてやる」

「いやいや、お願い叶えて貰うためにも加勢したるよ。それに、今日の晩御飯が蛙になるのは嫌だし、何より普段ふてぶてしい夢大先生が女の前だとどうなるのか興味もある」

「それは助かるな。アンがいてくれると心強い。お前はオマケだが」

「食玩の例をご覧あそばせ。オマケは、えてしてメインとなるものよ?」

「主役を抑えて出張るような脇役しかできん役者は舞台に立つな」

「脇役に味があるから主役が引き立つのよ!」

「濃すぎるサイドメニューは、主菜の味を損ねるといってるんだ」

 軽口を叩き合う二人の横で、声も無く笑うアン。三人はそんな調子のまま、傘を差し、街を行く。夜と呼ぶには早いが、雨のせいで人通りは薄く、すれ違う人はごく僅か。それでも駅まで行くと人はいる。帰宅中のサラリーマンや、恋人を迎えに来た若者など。だが待てど暮らせど、青海の姿は混じらない。雨風に体温が低くなり、身震いが起きた。その震えは悪寒のよう。

 ふと夢大は携帯を取り出し、もう一度コールした。が、やはり出ない。しかし、現在位置を出してみると、公園から移動していた。それも駅から離れた場所を……人通りの薄い道を選んでいるように見える。いちおう自宅へと戻って来ているようだが、不自然な動きといえる。

「どうやら、想像以上にご立腹なようだ」

 携帯に文字を打ちながら、灯影の袖を引く。灯影は夢大の携帯を見、ディスプレイに打たれた伝言を黙読しながら、勤めて明るい調子で会話を続けた。

「あらまぁ、こりゃ酷い。アンも見てみろって」

 呼ばれたアンも携帯を覗いたが、すぐに画面から目を離し、興味を無くしたのか、二人から少し離れると、ぼーっと街の中を見渡した。だが街の風景はあまり変わらない。アンは、まだ携帯を見ている二人を横目で見ると、自分の携帯を取り出して、メールを打ち込んで送信した。

 その直後、夢大の携帯が、メールの着信を表す震えを見せた。

「……駅で待ってるんじゃなくて、直で迎えに行った方がいいんでないか?」

「かもしれんな……悪いが、少し二人で話すことにする。先に戻っていてくれないか?」

「じゃオレはアンと散歩しながら戻るとするよ。話がまとまったら連絡しておくんなまし」

 手を振りながら、灯影がアンを連れて遠ざかる。夢大は二人が見えなくなるまで待つと、駅から離れ、時折携帯で青海の位置をチェックしながら、なるべく人通りの薄い道を歩き始めた。

 その足取りが速くなる。早歩きから小走りに、小走りから疾走へ。どんなに心配していたとしても、雨の中を走ったりすることは稀だ。しかも、傘も閉じている。

 事情を知っていれば、青海の身を案じて足早になっていると思うかもしれない。が、速度を上げたのは、青海を心配したからだけではない。雨を跳ねながら、後ろを振り返らずに、ガードミラーで後方を確認する。目深に被った帽子と厚手のコートを着た男が走っていた。鏡越しに、二人の目が合う。瞬間、男の速度が跳ね上がった。一気に差を詰めようと迫ってくる。

 夢大は事件が起きたことを確信すると、曲がり角で直進を取る……と見せかけて、サイドステップしながら脇道に逸れた。もっと距離が詰まっていれば有効な手段だったかもしれないが、今の距離では応対する時間は十分にある。男はバカにしたような笑いを漏らすと、夢大と同じ方向に曲がった。だが曲がると同時に、大きく後退した。もしそのままつっ込んでいたら、下がった拍子に落ちた帽子のように、屈んで待ち構えていた夢大の蹴りを食らっていただろう。

 男は夢大を侮った自分を戒めると、すぐに反撃へと打って出た。動きと切り替えの速さから、かなりの場数を踏んでいることが伺える。だが、それは夢大にも言えること。

 喋ることもなく、打撃戦を繰り広げる両者。蹴りをガードし、拳を傘で打ち払う。めまぐるしく入れ替わる攻撃と防御。だが互いに、単なる小手調べでしかないことを感じていた。男は奥の手を隠して披露せず、一方の夢大も指先に闇を灯しながらも召還を行わない。

 互いに決め手を隠し持つ攻防の末、競り負けたのは夢大だった。フェイントを組み合わされた攻撃をガードできずに一撃を受け、そこから連続攻撃を叩き込まれる。最後の攻撃に対し傘を広げて投げつけ、目隠しに使いながら間を広げるが、かなりダメージを受けてしまった。

(……やはりこいつもホルダーか。さて、どんなブックを宿しているのやら……)

 不可思議な本、ブックを体に宿した人間の総称、ホルダー。宿したブックによって能力は変わるわけだが、どんなホルダーにでも言えることがいくつかある。例えば、身体能力、防御力、回復力の向上などだ。能力上昇専門のブックに比べれば微々たるものだが、一般人と比べれば、丈夫で回復の早い体質になり、それに伴い、多少の運動能力の向上が見られる。もちろん召還タイプのブックしか持たぬ夢大も、その恩恵に与っている。なのに単なる打撃でここまでのダメージを受けるということは、相手もまた、ブックを宿していることを示している。

「想像以上に強いな、テイル・イーター」

「嫌味か?」

「いや、素直に驚嘆している。やはり自分がこちらに来て正解であった。もう察しているだろうが、アオヒメには別の人間が向かっている。どちらが勝つか、そろそろ決するだろう」

 男がコートを脱ぐ。そして力を込めると全身の筋肉が盛り上がった。服が破れそうなほどに……実際にシャツのボタンは弾け飛んでいる。これで金棒でも持とうものなら、昔話に出てくる鬼そのものだ。夢大はその姿を見て、相手が誰であるかを悟った。

「元BB所属の『鬼』か……何の用だ? よもや新しい編集者というわけでもあるまい」

「我らが新たな組織の……あるお人のため、その命もってして礎になって頂きたい」

「そういうことなら、私を殺すよりも仲間にする方が得策だと思うが?」

「あの方もそう言っていた。が、お前が素直に仲間になるわけがない」

 鬼が構える。あえて有り触れた言葉を用いるなら、まるで隙の無い構えだ。

「危険だと分かっている男を近づけるわけにはいかぬのだ」

「例えそれが、主の命令に反していてもか?」

「罰なら甘んじて受け入れよう」

「たいした忠義だ」

「……参る」

 鬼が地を蹴る。雨を吹き飛ばしながら迫る拳を、夢大はぎりぎりで避け、裏拳を放つ。その攻撃は今までと違い、見事にヒットした。なのに夢大の方が顔をしかめ、大きく距離を開けた。その姿に笑う鬼を見ながら、夢大は裏拳を繰り出した左手を、痛みを払うように揺らす。

「平常ならいざ知らず、一度ブックの力を解放したこの身に、生身で傷を付けるは不可能。時間をやろう。何者でも良い。本より登場人物、召喚するがよかろう」

 わざわざ忠告した上に、召喚する時間までくれるという鬼。それは好敵手のような対応のようだが、夢大は鼻で笑い飛ばすと、辞書を引いたようなセリフを鬼にぶつけた。

「元BB所属。通り名は、鬼。ブック名、羅生門。タイプ、トランセンド。身体能力を大幅強化し、見た目はまるで鬼。が、真価は身体強化ではなく、召喚されたキャラクターの服を剥ぎ取り、吸収することで、相手と同様の力を追加することができる能力」

 鬼の口から小さく舌打ちが漏れる。。

「BB壊滅戦の時に念の為調べた情報が、こんなところで役に立つとはな」

「半年も前に抜けた人間のことをわざわざ調べるとは……よほど臆病と見えるな」

「用意周到と言え」

 夢大が構える。といっても、僅かに身体が傾いたくらいのもので、大きな変化は無い。だが鬼はその構えに感心したように頷いた。そして、シャツを脱ぎ捨てる。露になった上半身は爛れたように黒ずむと、違う色へと変化し、最終的に緑色をした一枚のジャケットとなった。

「できれば殺す前に、ヌシの持つ人物の服も欲しかったのだが」

 鬼が拳を振り下ろした。何も無いところに腕を振って何が楽しいのか……と思っていたら、夢大はやられていただろう。空気の塊が、雨を吹き飛ばしながら夢大に迫っていた。夢大が避けると、空気の塊は壁にぶつかり、アスファルトを抉り取りながら軌道を変え、天に登っていった。これがキャラクターから奪った能力の一つ。緑のジャケットに宿る能力。

「近くば拳。遠くば技。ヌシだけでは如何様もなるまい。召喚しては如何かな?」

 夢大は自慢げに胸を張る鬼に向かって、呪詛のように単語を吐いた。

「黙れ変質者」

 再び空気の塊が飛ぶ。先ほどよりも速く、大きな空気の塊を避ける夢大。

「怒るということは、自覚があるということか。それも仕方あるまい。中年男が笑いを浮かべながら『お前の服を寄こせ』と迫る姿など、変質者以外の何者でもないからな」

 鬼は空気弾に、体術を混ぜる攻撃へ移った。体術も空気弾も、威力は高い。だが連携は上手いとは言えない。しかも、夢大の発言が癇に障るのか、攻撃は大ぶりだ。おかげで攻撃と攻撃の間には隙ができ、回避を許してしまう。鬼がこの調子なら、まだ暫くは避け続けられるだろう。とはいえ、いつまでもこのままでいられるはずがない。打破するためには攻めるしか……召喚するしかない。が、下手に召喚して、相手に力を与えてしまうのは得策ではない。

「さぁ、どうするイーター! 呼ぶか、潰れるか!」

「潰れる気はない。かといって、彼女たちを変質者の目前に晒す気もない」

 両手の拳から空気弾が飛ぶ。が、やはり隙があり、しかも何度も打たれているため、回避もスムーズに行われる。晴天ならば話は違うが、今は雨天。空気弾は雨を吹き飛ばすことで、その弾道をありありと示してしまっている。そんなことが分からないほどに鬼が単純だとは思えない。なのにこの攻撃を多用していると言う事は、何かの思惑があるということだろう。

(本当は私を捕獲する気か、または能力を狙っているだけか……とかく、持たせるしかないな)

 夢大は待っていた。現状維持のまま、自分に有利な戦局に変わる一手がやって来るのを。

(何を企んでいるイーター! 召喚しかあるまい!)

 鬼も、夢大に考えがあることは読める。何かは分からないが、状況をひっくり返すものだろうということも。ならば、できるだけ早く決着を付けたい。戦いの最中だというのに止まらない減らず口も我慢できない。実際、攻めるに向いた服はある。だが、それでは夢大を殺してしまうかもしれない。殺してしまえば、召喚させることはできない。それはダメだ。召喚させたい。もっと服が、力が欲しい。それも、裏の世界に名を響かせる男が使うほどのキャラの力が。

 二人の考えが、微妙なラインで現状を維持する。勝るのは夢大の粘りか、鬼の欲か……。

 その時、雷鳴が天から降り注いだ。その轟音と稲光を背に、電柱の上に人が現れた。

「今世紀最高峰のヒロイン! ……になる予定! マイネームイズ、アン! さんじょー!」

 バカみたいなノリで、頭の悪いセリフを喋りながら、微妙なポーズを取った、どこからどうみてもアンとしか思えない女の登場。しかも雷が落ちるのを待った上の、電柱からの登場。複雑な意味で、度肝を抜く登場の仕方に、夢大だけでなく、鬼すら口を開いたまま固まった。

「だめよ……そんな目で見られても、私には心に決めた人がいるのだから……」

 瞳を潤ませながら両手を握り、落ち着きの中に柔らかさを備えた響きのある声で、芝居がかったセリフを口にするアン。セリフと仕草だけ見れば、ラブロマンスの一幕にも見えなくないが、電信柱の上でそんなことを、しかも命のやり取りをする戦場でやられても微妙だ。

「バカをやってないで、さっさと降りて来い灯影!」

「何よその言い草! 失礼しちゃうわ! ぷんぷんですわ!! 鼻血で出血死の刑ですわ!」

 スカートを抑えながら、灯影と呼ばれたアンが電柱の上から地面に向かって飛び降りる。そして、たいした音も立てずに着地すると、夢大のすぐ隣までやって来て、突然泣き出した。

「えーん、このおじちゃんが、私のスカートの中、覗いたー!」

「死ね。アンの身体だけ置いて死んでしまえ」

「うっわ、女尊男卑ですか? お前だって男じゃねーのよ」

「お前は性別以前に、生き物として間違っている」

「人間としてどころか、生命体レベルで否定かよ」

 よく分からない相手だ。だがホルダーであることは間違いないと判断した鬼は、両手を握り、空気弾を発射した。相手の力量を探るために出した一撃だ。だがそれは、見事にアンにぶつかった。アンは空気圧にやられた後、電線を超える高さまで吹き飛ばされ、首からまッさかさまに落ち……地面ににぶつかって、ひしゃげた。手足や首が、関節を無視した方向に曲がり、壊れかけの玩具のような姿になって動かなくなる。その目からは、意識を表す光が消えていた。

 衝撃的な登場の割に、一瞬でひしゃげた女に、鬼がひどく困惑めいた視線を送る。

「……なんだこの女は」

「アンですわ」

 アンの口が開いた。ほぼ同時に、鬼が飛び退く。生物としてありえない形をしたアンの手が、ドリルのように伸び、今まで鬼が立っていた地面に穴を開けた。標的を外した腕は、逆回転しながら元の状態に戻る。いや、腕だけでなく全てのパーツがひしゃげる前の状態に戻っていた。

「職業は舞台役者。趣味は情報収集と人間観察。特技は体が柔らかいことです!」

 楽しげに自己紹介をしながら、右足を伸ばす。それは途中から三本に別れ、上中下の三段から鬼を蹴りつけた。上段はガードしたものの、他の部位の蹴りは受けきれずにクリーンヒット。

「ちょっと人とは変わってるね、って言われます。でもかわいいからOKですよね? ちなみにこれは自画自賛じゃなくて、中に入ってる人が言ってるだけなんで……私のこと……変な女だって……嫌いだなんて言わないで下さいね」

 伏目がちで、分かれた足を元に戻すアン。夢大はそんなアンの後頭部につっこみを入れた。

「悪ふざけは大概にしろ、灯影」

「あらーん、今はジョセフィーヌって呼んで。でなければ、ごすじん様」

「こちらだけでなく、青海の方も襲われている。大丈夫だとは思うが、急ぎたい」

 夢大の言葉を聞いたアンの表情が改まった。笑いでも憂いでもない。凛とした無表情。全ての色が無いのに、全ての色を見出すことができる、表情に溢れた無表情が現れる。

 夢大とアンがやり取りをする間に、鬼は緑色のジャケットから、坊主が着るような黒い装束へ着替えていた。そして手には、かなりの重量を持つ鋭い槍が握られている。これこそが、鬼にとって本気の臨戦態勢。物理的な破壊力をもっとも引き出せるスタイル。

「アン、と言ったな?」

「もう一度自己紹介致しましょうか?」

「結構。すでに聞き及んでいる。劇団アンヘルに所属せし、灯影というホルダーの名と、宿らせしブックの『アンヘル・エッグ』という題。そして……」

 鬼が槍を上段に構える。アンがその動きを注視する。

「ブックに宿る登場人物の名が、アンということもな!」

 下卑た凶悪な笑み。手に入る……新たな力が。そのことだけが鬼の心を震わせ、形相を作り上げる。アンがブックに宿るキャラクターである以上、その服を手にすればアンの能力……先ほど見せたような、耐衝撃性や、自由に身体が変化する能力が得られる。

 槍を握り、距離を詰める。アンはただその場に立つ。構える必要がない為だ。自由に身体を変形できるのなら、一本の槍程度いくらでも避けようがある。だが、鬼にとってはそこが付け所。接近戦に入る直前、槍を投げた。アンは身体を歪め、槍の通過点からずれる。が、槍が変化した。分裂する。太い槍は十本の細い槍に別れ、アンに突き刺さった。槍はアンの身体を貫通しながら地面に刺さり、動きを封じる。そこに走り寄る鬼。鬼はアンに向かって、赤く光る手を伸ばした。その手にキャラの服が触れた瞬間、服は分解され、鬼の能力と成り代わる。

「貰ったぁ!」

 確かに触れた。そして勝ち誇る。細い槍を一本に戻し、アンに出来た穴の向こうに夢大の姿を見る。あとはイーターだけ。召喚しないなら、なぶり殺し。呼んだなら剥ぎ取る。どちらにしろサモン系しかないのであれば、自分の有利に変わりない。さぁ、新たな能力を発動させて、イーターを殺そう……とする鬼だが、アンの服が出てこない。いや、服どころか、身体が動かない。なぜ? 足元を見ると、明度の高い流動体と鉛色の固体がまとわり付いていた。

「お客様、いくらファンとはいえ、女優に手を出すなんてハレンチでございますですわよ?」

 アンが極上の笑みを浮かべる。穴の開いたまま、足元がスライム状になった身体で。困惑する鬼。その目の前で、穴が塞がっていく。かくして現われるは、攻撃を受ける前と変わらぬアンの姿。それは身体に開いた穴だけでなく、身に付けている服に関しても。

「馬鹿な、確かにこの手で触れたはずだ!」

「触られると、どーなんの?」

「キャラクターの服を剥ぎ取って、自分の力にするそうだ」

 夢大の説明を聞いたアンは頷くと、頬を染め、言った。

「わたし……常に裸なの」

 アンの服が溶け、水色の流動体に変わる。それは形を変えると、固まって鎧に、次は看護服に、十二単に、ドレスに袴に、モザイクに、次々に変わり、そして元の服装に戻る。

「これさ、服じゃなくて体組織なんだよねー」

 アンの下半身が、服ごと崩れ、スライムとなって鬼の身体を這い上がっていく。それは四肢を拘束し、完全に身動きを封じたあと、鬼の顔に張り付いた。鼻も口もぴったりと塞がれた鬼の身体から酸素の循環が失われ、苦しみが増してくる。顔に張り付いた流動体を剥がそうとするが、固形に変質したせいで、両手足は動かない。なんとか息を止めようと試みるが、アンから伸びたゲルが腹部を殴り続けるせいで、それも叶わない。雨が降りしきる中、五分ほどそうしていただろう。見た目よりも壮絶な戦いの末、鬼は酸素を使い果たし、意識を失った。力の無くなった鬼の身体を地面に倒して、アンの身体が元に戻る。そして夢大が拍手を送る中、ウエイターのようなおじぎをすると、二つの塊に分裂した。一つはアン。もう一つは灯影。

 これが、灯影の宿しているブック『アンヘル・エッグ』の能力。アンという言葉を話せないキャラクターを呼び出せることに加え、主人とキャラが同化して一つになれるという能力がある。その時、意識の主導権は灯影が握り、言葉を話せるようになる。故に灯影がアンの体で語ったように、アンが喋ってるいる時は、全て灯影が勝手に喋っているというわけだ。

「劇団アンヘル所属、灯影&アンによる特殊公演出張版、これにて終了」

「挨拶はそこまでだ。悪いが急ぐぞ」

「待った待った、こいつはどーするね?」

「処理する」

 夢大の全身から黒い霧が吹き出る。霧は鬼の全身を覆うと、何かを抽出し始めた。抽出された何かは、小さな星のように黒い霧の中に佇み、次第に増えていく。それがいっぱいになると、夢大へと霧ごと移動し、煌きも霧も共に吸い込まれるように消えていった。

 吸収を終えた夢大は、苦しげに蹲り、顔をどす黒く変貌させた。荒い呼吸を繰り返し、最後に深呼吸をして落ち着きを取り戻すと、心配げに自分を見るアンに微笑み、立ち上がった。

「……急ごう」

 携帯で青海の位置を確認して走り出す。鬼は完全に放置だ。

「走りながらでわりーんだけども報告。アンがメールで言った通り、こっちを監視してた女の後姿は捕らえた。だけど裏道で急にいなくなって、見失っちまった」

「仕方ない。そいつが襲撃の首謀者だ。そう簡単には捕まらんだろう」

「知ってるなら先に言えよ!」 

「今の鬼を喰って知ったんだ」

 灯影が納得し、会話が終る。代わりにスピードが上がり、予想よりも早く、地図に記される青海の位置と、夢大たちの現在地が重なる。ちょうど四つ角を曲がったところで、片腕を押さえた青海と出くわした。夢大が駆け寄り、腕を見る。青海は三人に軽い挨拶と一緒に笑いを浮かべたが、夢大に触られた腕の痛みに顔を歪めた。皮膚が焼け、黒ずんでいる。一番酷いのは腕だったが、足もふらふらとしている。うまく神経が伝わっていないような感じだ。真っ直ぐ立てずに、屈み込むように壁にもたれかかっている。もし一般人が見たら、即座に救急車なり警察が呼ばれるような姿だ。交通機関を使わず、人通りの薄い道を歩いて来たのも頷ける。

「どうして連絡しなかった?」

「そっちも相手してたんでしょ? 下手に連絡いれて気がそれたら、ヤバイじゃない」

 青海の判断は正しい。実力者同士の戦いでは、どんな些細な気の緩みも見せられない。

「にしてもむかつくわ……雷さえ落ちなければ勝てたのに」

「逃がしたのか?」

 唇を尖らせる青海。答えるよりも、雄弁に結果を語っている。それでも夢大は、青海が無事であったことに安堵した。その横で、アンが青海に近寄り、傷口の部分に手を触れた。アンの指先が溶け、薄い膜のように傷を覆う。膜は周りの皮膚の質感や色合いと同調し、本物の皮膚のようになった。傷が塞がったわけではないが、大怪我をしているとは思われないだろう。

「いろいろ確認したいこともあるが、とにかく今は帰るとしよう」

 夢大は、青海を騎士や王子が女性にするかのように抱き上げると、足早に歩き始めた。

「ちょ、まっ、自分で歩ける!」

 気にせず歩き行く夢大。その間、青海はずっと文句を言っていたが……灯影とアンは顔を見合わせて笑うと、小走りで夢大たちの後を追った。とりあえず夕食にカエルは出なかった。


 青海と戦った男……裏の世で雷人と呼ばれていた男は、住宅街の中をふらふらと歩いていた。血が流れすぎた。意識が朦朧としている。雨の冷たさも体温を奪い、消耗を後押ししている。

 敵に有利に働いた天気を憎々しく思ったが、最後の最後には落雷に救われた。付加されたエネルギーのおかげで、青海の放った一撃必死の水流を打ち破り、ダメージを与えることができた。だが……その運もここまでのようだ。雷人の足が止まった。目の前には女がいた。長い黒髪の女は、血みどろでふらつく男を見ると、驚いたように硬直し、そのまま動かなくなった。

「とーる、は、んまー」

 ハンマーが現れる。女は尚も動こうとしない。立ち尽くした女が握り締める傘に雨が……憎っき水の音が連なる。霞み始めた視界の中、音を頼りに雷人が近寄る。青海とは似ても似つかない女。だが、雷人の中でその女は青海だった。自分に深手を負わせ、恐怖を刻んだ相手。その相手に、同じような恐怖を与えないと、死んでも死に切れない。

声とは言えない音を搾り出し、大上段で振りかぶり、残りの全生命力を込める。最後に憎き相手が潰れることを願う。だが、願いは叶わなかった。雷人の後方から、少年が駆込んで来た。直後、ハンマーが落ちる。雷人の頭めがけて。自分の全生命力を込めたハンマーが、自分の手首ごと自分の頭に落ちてきて……メギィッ……それが、雷人が理解した今際の光景だった。

 雨の流れに沿って朱が広がる。その色が、線が、足元まで来た時、大剣を握る少年の膝が崩れた。華奢な少年の目は、雷人だった塊をぼんやりと眺める。なのに、神経は過敏に状況を捉えている。雨の一粒づつさえ把握できそうだ。その神経で実感する。人を……殺したことを。

 少年の目が塊から外れる。それは、目の前で立ち尽くしたままの女性へと向かう。

「……ゆぅき君?」

「……おかぁべ、せんせぃ?」

 互いに相手を見合う。少年……勇輝は女を見る。女……岡部は勇輝を見る。

「殺しちゃ……た?」

 勇輝の目に涙が浮かぶ。瞬間、岡部は傘を捨て、勇輝を抱き締めた。新しい本のような女性の香り。嫌いな香りではない。でもそれ以上に、血の匂いが鼻に付く。骨ごと肉を切った感覚がリフレインする。視界に入る塊が、脳を揺さぶる。歯がカスタネットのように音を出す。身体が小刻みに震える。手に力が入り、岡部の肌に爪が食い込む。岡部は、腕の痛みも雨の寒さも気にせず、更に強く勇輝を抱き締めた。それが、一番勇輝の心を救うと信じて。冷たい雨から守るように、巻き戻せない現実の痛みから守るように。ただ、ひたすらに抱き締める。

「ボク、やっちゃった……ダメだって、使わないって思って、た、のに」

 か細い声が漏れる。

「本、拾って、身体に入って、それ、で、使えるって分かって、でも、だめっておも、って」

 岡部は懸命に言葉を聞く。小さくても、細くても、一言一句逃さず、言葉を拾い上げる。

「がっこ、も耐えたの、に。や、ちゃった」

 溢れる。涙と一緒に気持ちが吹き出る。でも、どれだけ出しても、身体のもっと奥の方から出てくるものは止まらない。次から次へと涌き出てくる。そしてそれを抱きしめる岡部は、必死に考えていた。勇輝の心が潰れないように、導くため。何を言ったらいいのか。何をしたら良いのか、今までの人生や読んできた本の中から取捨選択する。

「……勇輝君」

 勇輝が自分を見る。

「勇輝君は、悪くないわ」

 ワルクナイ。片言の言葉が、勇輝の心の中に入ってくる。

「悪くない。だって、勇輝君は……私を助けてくれた。そうでしょ?」

「……そ、う?」

「そうよ悪くない。悪いのは、この人よ。勇輝君がしたのは、正しいことよ。間違ってない!」

 強い言葉が勇輝の罪悪感を少しだけ軽減する。

「……でも、ボクが、この剣、で、ころ、して」

 勇輝が握っている剣を見る。

「その剣は、どこで手に入れたの?」

「拾って……本を拾って、そしたら出せるようになって……」

 怪訝な顔をする岡部。一方勇輝は、岡部の身体を放すと、自分の胸に切っ先をあてがい、押し込んだ。慌てる岡部。だが勇輝の身体は切っ先を受け入れ、静かに飲み込んでいく。鞘に剣が収まるように。勇輝が剣を全て押し込めると、肌はもちろん服にも傷一つ付いていなかった。

「どう……なってるの?」

「……ボクにも分からないんです」

 岡部が勇輝の剣が入ったところを触る。だが、やはり血も傷跡も無い。

「本を拾ったら、なんか、出せるように、なって……」

 肉塊に守られるように佇む本……雷人が宿していたブック『雷神の鎚』を見ながら言う勇輝。岡部は勇輝とブックを見比べた後、ぶつぶつと呟くと、勇輝の手を取った。

「逃げましょう!」

 岡部が勇輝の手を取り走る。辿り着いたのは、ただでさえ薄暗いのに、雨雲で更に光を無くした裏通り。そこに誰もいないことを確認すると、岡部は勇輝の肩を掴んでから、話を始めた。

「勇輝君、今日のことは無かったことにするの」

「そんなことできるわけ……」

 学校ではけして見せない強い瞳に、勇輝が押し黙る。

「できるわ……いい? 普通に考えて、剣が胸から出たりするはずない。そもそもあれは、切られたんじゃなくて潰れて死んだの。だから、もし剣が見つかったって、勇輝君のせいになんかならない。ううん、そもそも剣が見つかるはずないわ」

「でも……」

「目撃者はいなかった。私は今日、学校の話をするために、勇輝君と会った。私たちは二人でずっと話をしていた。だから、こんなところで会わなかった。それにもし、警察に怪しまれても、証拠がなければ罪にはならないわ」

 その言葉を聞いた勇輝の顔が曇る。岡部は自分の発言が、遠まわしに勇輝を責めているような表現になっていたことに気が付いて、言葉を付け足した。

「ううん、そもそも罪なんかじゃない。だって、勇輝君は正しいことをしたんだもの。自分で言うのもおかしいけれど、困っている人が、殺されそうな人がいて、それを助けるために剣を使ったんだもの。そんな人が罰せられる方が間違ってるわ」

「ボクのしたことが正しいっていうんですか?」

「そうよ。それが許されないなら、社会の方が間違ってるわ。どこの世界に、弱い人の味方をする人のことを悪人呼ばわりする正義があるの?」

 岡部が断言する。その言葉が勇輝の中を巡る。血が回るように、言葉が全身に行き届く。

「勇輝君は間違ってない。今までだってずっとそうだったでしょ? 君が虐められるようになったのは、他の子を守ろうとしたからだったんでしょ?」

「なん、で、それを?」

「私はあなたの担任だもの」

 岡部が微笑む。責任感の強い笑みは、若いながらも信用を預けるに足ると思わせる力強さがある。それはきっと、情熱のせいだ。言葉を並べるだけの教師とは違う、と思わせる熱がある。その熱が、勇輝の涙を蒸発させ、恐怖と怯えで、冷えて震えていた身体を温める。

「学校がどう言おうと、世間がなんと言おうと、私はあなたの味方よ。正しい子の味方よ」

 真っ直ぐな言葉に、胸の奥が熱くなる。それは自分に宿っている本の熱。本に宿る剣の熱。

「だから、今日のことはなかったことにするの。そして、落ちついたら、また立ち向かいましょう? 悪いことは悪いって、きっちり教えてあげましょう?」

 岡部の情熱が勇輝に伝染する。ただしそれは、移る過程であり方を変え、勇輝が必死に抑えていた感情を押し広げていた。赤い感情が、抑えていた分だけ一気に広がる。広がった衝動は枷を次々と破壊する。そして心身に熱が行き渡った勇輝の目に火が灯った。それは決意の印し。今までの自分との決別を意味する証。胸に手を当てると、剣の脈動が伝わってきそうだった。

「ボクは……間違ってない」

 その剣は、ある日偶然手に入れたもの。道に落ちていた本の中に隠されていた、自分だけが使える最強の一振り。ただ、剣の強さも、使い道も理解し、使いたいという衝動もありながら、目的がなかった。だがこの瞬間、その目的が……決まった。


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