雨降り 傘無し 上機嫌
7月上旬。
梅雨も半ば終わりに差し掛かろうとしていた。
相変わらずのどんよりとした曇り空だか、3日続いた雨も上がり、今日は1日傘無しで過ごせそうな空模様だ。
「良かった。今日は傘いらない。」
窓から見える空とテレビの天気予報を確認しながら、正人は今日1日傘を差さずに済みそうな天気に安心した。
「行ってきます。」
キッチンに居る母に声を掛けて玄関へと向かう正人。
「うわぁ。暑っ。」
玄関を開けると高い気温と雨上がりの湿気が混ざった、ムッとした空気が正人の体に纏わりついた。
全身ぬるま湯に浸かっているような、そんな心地の悪い感覚。
「学校に着く頃には汗だく。」
5分程歩いて学校まで半分の距離なった頃には、額に汗が浮かんで、背中を伝わる汗を3つ4つ感じることが出来た。
さらに進んで学校まであと1分のところで、正人は赤信号に引っ掛かる。
額の汗を拭いながら道路の向こう側を眺めていると、傘を差した女性が学校の方へと歩いてる姿が正人の目に映った。
長袖のシャツ、膝下まである長めのスカート。
そして腰の辺りまである、黒く艶やかな長い髪。
今は曇り空ではあるが雨は降っておらず、傘だと思ったものはどうやら日除けのためのものらしい。
「日焼け対策かな?」
女の子は大変だと思ったところで信号が青変わり、正人は学校までの最後の直線を歩き始めた。
正人の前を行く傘を差した少女は、この暑さを感じさせないような凛とした涼やかな歩き姿が印象的な少女だった。
「綺麗な人。」
一瞬、暑さも流れ出る汗も忘れてしまうくらいな、そんな凛々しい後ろ姿に見とれている間に、気が付くと正人は校門を通り抜けていた。
その日最後の授業も終わり、帰宅する生徒達、部活動に向かう生徒達、教室に居残り談笑する生徒達。
皆思い思いの放課後を過ごす中、正人も帰宅する準備をしていた。
机の整理も済ませ、さあ帰ろうと立ち上がった丁度その時、窓の外がピカッと光り、直後激しい雷音が鳴り響いた。
正人がしまったという表情で窓の外を見ると、ポツポツと雨粒が落ちてきて、さらに2度3度雷が鳴った後にはもう土砂降りの雨になっていた。
屋外で部活動中だった生徒達は校舎の中に緊急避難。
帰宅中だった生徒達は、傘の有る者は傘を差し、傘の無い者はずぶ濡れになりながら走り出す。
最初の雷からどれ程も経たない内に、外には誰も居なくなった。
「困ったよ。」
傘を持ってきてない正人は、仕方なく雨が落ち着くまで教室で課題をして待つことにした。
教室には正人の他に、談笑していた生徒や、正人と同じように雨をやり過ごしている生徒が居たが、雨がやむ気配がないと思ってか、1人、また1人と土砂降りの中帰っていった。
課題も半分程片付いた頃には、教室に残っているのは、正人を含め数名になっていた。
外は相変わらずで、雷や土砂降りまではいかないものの、傘無しでは辛いくらいだった。
「もう濡れても良い。」
やむ気配のない雨に正人も諦め、教室を出ていった。
階段を降り1階の正面玄関に着くと、そこに今朝の傘の少女が居た。
傘立ての前で困った表情の少女。
どうやら傘を探しているらしいが、おそらくは傘を忘れた誰かが黙って少女を傘を持っていったのだろう。
もう一度会えたことに正人は嬉しく思いつつ、困った表情の少女に見かねて声を掛けた。
「傘、探してるの?」
突然声を掛けられ少し驚いた様子だったが、正人の方を向き答える。
「うん。誰かが間違ったのかな。」
正人に声を掛けられ最初こそ驚いていたものの、どのくらいの間1人で探していたのか、少しばかり表情が弛んだように見えた。
「私の傘普通の傘じゃなくて日傘なんだ。間違った人が濡れてなければ良いけど。」
やはりあれは日傘だったんだと正人は思いながら少女にこう返した。
「一緒に探そうか?」
「ありがとう。でももう諦める。」
少女はそう言い、正人に微笑んだ。
自分の傘がなくなって残念な思いと、困ってる自分に声を掛けてくれて嬉しい気持ちが混ざった、少し切なくも見える笑みだった。
今朝見掛けた凛とした涼やかな姿とは違い、今の少女は少し寂しげでどこか儚げな、そんな印象だった。
「濡れちゃうけど大丈夫?」
正人が少女に尋ねる。
「それなら大丈夫。このくらいの雨なら私傘は差さないの。」
そう言いながら少女は正面玄関のドアの向こう側に出ていった。
「ほらね。」
少女は両手を広げ、全身雨に濡れることも構わず、クルリと1回りして見せた。
「君は?」
少女に尋ねられ、正人も同じようにドアの向こう側に出ていきこう答えた。
「天気予報に騙された。」
水溜まりも気にせず、正人はバチャバチャと雨の中を2歩3歩進んでいった。
「何それ?今日は君と同じような人がいっぱい居そうだね。」
少女は正人の答えにクスクスと笑った。
さっきの切なげな笑みとは違い、今度は本当の笑顔だった。
最初見た時の困った表情が、少しだけど笑顔になった。
傘は見つらなかったが、正人は少女の表情の変化に声を掛けて良かったと思った。
正人と少女は今朝の信号まで一緒に帰ることにした。
時間にして僅か数分のことだが、正人は少女のことについて少し知ることが出来た。
夏なのに長袖と長いスカート。
日傘。
直射日光を浴びれない少女にとって、今日みたいな日が一番過ごしやすい天気となる。
話のところどころで空を見上げる少女の横顔は、満足げな笑みを浮かべていた。
少女は空を見上げる僅かな機会を大切にしたいために傘は差さない。
2人が別れる信号まで着いた時、丁度赤信号に変わった。
「2人ともビチョビチョだね。」
少女はたくし上げたスカートの裾を絞りながら、ニッコリ微笑む。
膝上まで上がったスカートの下から、驚くほど白く透明感に溢れる肌が覗かせる。
普段少女がどれ程気を遣っているか伺い知ることが出来る白さだった。
信号が青に変わったところで、正人と少女はそれぞれの帰る方向へと歩き始めた。
正人が家に着く頃には雨は上がり、辺り一面にモワッとした空気が溢れ出していた。
だが、全身ずぶ濡れで生温い空気に包まれても、不思議と正人に不快な感情は無かった。
大勢にとって憂鬱な出来事も、誰かにとっては幸せなこともある。
雲の切れ間から夕焼けの陽が差し込み、辺りを赤く染め上げる。
自分にとってマイナスな出来事でも、どこかで誰かが笑顔になっていたら、それはそんなに悪いものでもないんじゃないか。
「雨降り 傘無し 上機嫌」
正人は茜色の空を見上げながら微笑んだ。