蒼碧のヴェンデッタ
「おいリース! 仕事もしないで何やってんだバカ!」
不意に自分の後方から声が降ってきた。青々と広がる限りなく自由な空に、その声は消えていく。
僕は座った状態のままゆっくりと後ろを振り返る。
「……やあ」
そこにいたのは眩しいくらいの赤い長髪を後ろで束ねた、がっしりとした体つきの青年だった。
「やあ、じゃねえよ。一国の王が仕事もしないでこんなとこで座ってるだなんて……」
なぜか彼はその後続くはずの嫌味を飲み込んでしまったようだ。そして次に彼の口から出てきた言葉は、嫌味とは程遠い、少々奇妙な訊ねごとだった。
「……お前、泣いてるのか……?」
彼があまりに呆けた表情をしていたので、僕は思わず小さく笑ってしまった。
「どうしてかな? 僕の目は濡れてなんかいないだろう。まさか君、目がおかしくなってしまったのかい?」
彼――アランはため息を一つつくと、僕の隣へと歩いてきて腰を下ろした。
「……いや、なんでもねえよ。俺の見間違いかな」
アランはそれ以上何も言わなかった。
柔らかく頬を撫でていくそよ風が気持ちいい。雲ひとつない空は限りなく青を映し出している。
どうしてだろうか。空を見に来たはずなのに、僕は青を見ているのが辛くなった。顔を伏せて目を閉じる。それなのに網膜に焼きついたあの青が、離れない。
……ああ、どうしてかなんて、下らなかった。理由なんてもうわかっている。
僕が顔を伏せたのに気がついたのか、アランはそっと僕に言葉をかけた。
「空、青くって気持ちいいな。お前の髪と瞳の色にそっくりで綺麗な青だ」
滅多にない彼の褒め言葉は、皮肉にも僕の心をよりいっそう苦しめる。
「……アラン、君にはまだ話していなかったね」
唐突に僕は切り出した。一体何だ、とでも言いたげにアランは僕を見ただろう。僕は気にせずに話し続ける。このまま黙っていたら、きっと泣き出してしまうだろうから。
「もう、十二年も昔の話になるのかな…」
***
「ようやく終わったー!」
僕は思わず声を出して喜んだ。羽ペンを机の上に置き、大きく伸びをして凝り固まった肩やら腰やらをほぐす。全くボルダー先生も人が悪い。この国の歴史を全て書き写しなさいだなんて、僕を一生部屋に閉じ込めておくつもりだろうか!
その課題を頂いた当初は不満たらたらだったしいつ終わるのかだって検討もつかなかったけれど、終わりっていうものはいつかは来るものなんだね。数日間無我夢中で手を動かして、なんとか終わることが出来た。先生には後で提出するとして、とりあえず外で体を動かしたい。
僕は繊細な装飾を施された銀のイスから立ち上がり、美しい金のライオンが堂々と佇むその扉を押し開ける。日の光が降り注ぐ広い廊下を歩きながら、足を動かすということの喜びをじっくりと味わった。手を動かすのも確かに大切だけど、体を動かすっていうのも同じくらい大切なことだよ、ボルダー先生。
先生への批判を少しだけ込めて、僕は心の中で小さく呟いた。
たどり着いたのは質素だけれど丈夫そうな一つの扉の前。ノックを二回する。
「シアン、僕だよ」
すると返事の代わりに扉が開いて、扉の向こうから少女が姿を現す。
「リース王子!? 課題のほうはもう完成させたのですか?」
彼女は驚いたようにその青い瞳を丸くした。
彼女と僕はよく似ている。同じ青い髪に青い瞳、彼女は髪を後ろで縛っているから、前から見たときは僕との髪型もよく似ている。ああ、だけど、僕は納得できないんだけど、少しだけ彼女のほうが背が高い。男の僕のほうが背が低いだなんて恥ずかしいじゃないか。そう言ったらシアンは、今に私より大きくなりますよ、と笑ったけれど。
「まあなんとか、ね。シアン、外に行かないか? 体を動かしたくて仕方ないんだ」
僕は彼女と気が合った。小さいころからよく二人で遊んでいたんだ。二人で鳥を追い掛け回したり、木に登ったり。父様にはすごく怒られたんだけどね。
成長してからも、シアンは剣が上手かったから僕によく稽古をつけてくれていた。よく二人で馬に乗って出かけていたし、彼女は今まで僕の誘いを一度も断ったことがなかったから、今回も無条件で首を縦に振ってくれると思っていた。
「王子……今日はちょっと……。明日にしませんか?」
彼女は少し困ったような顔をして僕を見る。
「明日? どうして? もしかしてシアン、体調でも悪いのかい?」
こんな風にシアンが言葉を濁すのは初めてだ。いつもはちゃんと理由を言ってくれるというのに。
「いえ、私は大丈夫です。ですが……今日は城にいましょう」
そうして僕を見た真剣な眼差しを、特に深くも考えずに軽くあしらって、
「シアンが行かないなら一人で散歩でもしてくるよ」
彼女の目の前で踵を返した。
正直驚いていた。まさかシアンが僕にこんな態度をとるなんて。いや、もしかしたらこのどうもすっきりしない気持ちの奥底には、驚きだけではなく怒りというものが混ざっていたのかもしれない。
シアンが何かを言っていたようだったけれど、石畳に響く僕の足音が邪魔をして、彼女の声はずっと遠くに聞こえた。
一度自分の部屋へと戻り、部屋の壁に並んで掛けてある三本の剣のうち、一番質が悪いものを手に取り腰へと提げる。一瞬もし危険が起こったら、という嫌な想像が頭をよぎるも、ただの散歩だからと自分に言い聞かせてその考えを振り払った。
再び部屋を後にして敷地内の隅にある馬小屋を目指す。日の光や靴が床を叩く音は空中で弾けて跳ねて、気分はよりいっそう高まる。建物から出て、日の光を全身で受け止めたときには、感動で思わず笑みがこぼれた。空を見上げると雲ひとつない青空が延々と広がっている。
いつもは不快に思う料理長の鼻歌だって(彼の音痴具合は国宝レベルだ)今なら何度でも聞いて拍手を贈れるかもしれない。
浮かれた気分で柔らかい草を踏みしめ、馬小屋へと足を踏み入れる。入った途端、あの独特な動物臭さとワラのにおいが入り混じった香りが鼻をついた。そうそう、これが外の世界だ、と一人満足しながら自分の愛馬のほうへと歩みを進める。ハティは変わらず元気だろうか。
数日前に見たきりの美しい黒馬の姿を思い浮かべながらいつもハティが繋がれている場所へと歩を進める。早く一緒に駆け回りたくて仕方がない。
しかし、僕の期待を裏切って、そこには自分の思い浮かべた馬はいなかった。
ぽっかりと空いた空き部屋。僕は首をひねった。誰かが勝手に僕の馬を連れ出すなんてことはないはずなのに、一体どこへ行ってしまったんだろう?高揚した気分は一気にもやに包まれて、思わず眉間にしわが寄った。馬番は誰だっただろうか。後で問いただしてやらなければ。
確かに気持ちは落ち込んだけど、それならこのよどんだ気持ちを吹き飛ばすためにますます馬に乗って大地を駆けたくなった。誰かの馬を借りようか。借りるなら、一番仲の良く、足も速いシアンの馬だ。他人の馬を勝手に拝借するのは気が引けるけれど、この際仕方がない。ほんの少し出てくるだけだし、シアンは外へ出たくないようだから構わないだろう。
そう考えがまとまり、シアンの馬がつながれている小屋へと移動する。そこはハティが繋がれている小屋よりも狭く、少し薄暗かった。しかしながら彼女の馬はちゃんとそこにいて、僕の顔を見ると、落ち着かなさそうに地面をかいた。シアンの馬は確かアーツって名前だったかな。
「アーツ、僕を乗せてくれるかい?」
独り言のように呟くと、アーツはじっと僕を見つめた。つぶらな黒い瞳に真っ直ぐに自分の姿が映っているのが見える。
アーツはそれ以上何もしようとしないので、僕は了の意味ととって、近づこうとした、その時。少女の声が小屋に響いた。
「王子!」
姿を見なくてもわかる。この聞き慣れた声はシアンのものだ。
「……何?」
僕は声がしたほうを振り返る。アーツが身じろぎしたのがなんとなくわかった。走ってきたのはやっぱりシアンで、もしかして僕を探して走り回ったのだろうか、軽く息が切れている。
「よかった、ここにいらっしゃったんですね。私もご一緒致します」
そう言って柔らかく笑った。少し乱れている髪も紅潮した頬も、彼女の笑みを綺麗に飾り立てていて、僕はついこれから何を言おうとしていたのか忘れてしまった。なんとか言葉をしぼり出して、代わりに出てきた言葉はなんともそっけないものだった。
「急にどうしたの? さっきは行かないって言ったのに」
言ってから少し後悔した。彼女が自分を探して走り回ってくれたであろうことは簡単に予測できるのに、こんな物言いはないのではないか。だけどシアンは気にする様子もなく、少し困ったような笑顔を浮かべた。
「王子は私がいくら止めても一人で行ってしまわれるでしょう? それなら私がついていったほうが安全でしょうから」
「別にそんなに心配しなくてもいいのに」
彼女は僕をよく理解しているなと感心する反面、自分と一緒に行くと言ったことが義務から来るものであったことに少々落胆した。確かに僕はこの国の王子であるわけだから、護衛される権利、むしろ義務というものが存在するのだけど。
そしてシアンは続けざまにこう言った。
「それに、私も王子と久々に遊びたいですから」
前言撤回。やはり彼女は僕の素晴らしい理解者だ。
思わず笑みがこぼれて、シアンもつられてかにこりと笑った。
「……危険なんて、起こりませんから」
その後シアンが小さく自分に言い聞かせるように呟いた言葉は、僕には届かなかった。
日に照らされて鮮やかな緑を発する草を、八つの蹄が踏みつけ蹴り上げ散らしていく。アーツが高くいななきこちらへと突進してくるのを確認すると、僕は自分の乗った三等兵用の黒馬の手綱を操り、方向を転換した。
ここは城から少し離れた小高い丘で、視線をずらせば城下町が一望できる、僕の大好きな場所だ。
「王子! 余所見は禁物ですよ!」
聞こえてきた声に、反射的に剣を持った右手を振り上げる。辺りに鈍い金属音が響く。僕は思った以上の衝撃に耐えられず、うっかり剣を取り落としてしまった。手が少し痺れている。僕の動揺を感じ取ったのだろうか、馬は走るのをやめて止まってしまった。
一度僕の隣を駆け抜けたアーツは方向転換し、優雅に駆足から並足へ、さらにスピードを緩めて、ついには僕の隣へと並んで止まった。
「余所見だなんて随分余裕ですね?」
楽しげな声でシアンが話しかけた。
「城下町がきれいなんだ」
僕はそう答えながら馬から降り、落ちている剣を拾って鞘におさめた。
馬は、基本的に誰でも使用可能とされている三等兵用の馬を借りることにした。ちなみに、自分の馬を持てるのは二等兵以上からだ。僕の馬、ハティは、どうやら父様がエリナイト叔父さんに会うために連れて行かれたらしい。まったく、自分の馬を持っているというのにどうして今日に限ってハティを連れて行くんだか。
シアンも、ご苦労様、と優しくアーツの首を撫でてアーツから降りる。
僕が賑やかな城下町を眺めていると、シアンが声をかけた。
「城下町、気になりますか?」
気にならないわけがない。
「……最近行ってないなあと思ってさ」
だってここは僕の町。
「普通王子というものはあまり城下町へ出かけないものですよ」
シアンがくすりと笑う。そんなものなんだろうか。
「僕の普通は町へ出かけることだよ」
「そういえば、よく王子が変装して町へ出かけるのにつき合わされましたね。その後城に帰ったらいつも王様に怒られて……。思い返せば私達って怒られるようなことしかしていませんね」
僕が町を見るのをやめて、後ろの彼女を振り返ると、やっぱり彼女は楽しげに笑っていた。
「でもいくら怒られても止める気はこれっぽっちもなかったね!」
僕も思わずにこりと笑う。なんだか懐かしい。
「……昔に戻りたいと思ったこと、ありますか?」
唐突に、なんとなく不安そうな雰囲気を帯びた声でシアンが訊ねる。
確かに今はほとんど自由に遊びまわる時間はなくなった。シアンとの楽しい思い出を思い返すと、昔のように自由になりたいと願うときは今までにもたくさんあった。だけど。
「もちろんあるよ。だけど僕がふらふら遊び歩いてたらこの国は終わってしまうよ、そうだろう?」
すると彼女はふんわりと微笑んだ。
「安心しました。私はこれからもあなたの傍に仕えさせていただきます」
「仕えるだなんて! 僕たち幼馴染だろ? そんなこと言わないでよ」
彼女は少し困ったように微笑み続けただけで、何も言わなかった。
「僕がしっかりした大人になってさ、今度は自分で自由な時間を作れるようになったらまた二人で遊ぼうよ!」
「はい、楽しみにしています。……王子なら大丈夫ですよ」
なんでそんなこと言い切れるんだ、と訊ねようとしたけれど、彼女の優しげな瞳になぜか何も言えなくなって、言葉を飲み込んでしまった。
風が吹き、太陽の光が、いつの間にか出てきていた雲に遮られて弱くなる。
「そろそろ、戻りましょうか」
シアンがそう言った、そのときだった。
僕の後方――城下町の方から、突然爆音が轟いた。シアンは体を強張らせ目を見開いて僕の後ろをただ見つめていた。その表情は確かに恐怖を映し出していたけれど、僕は一瞬、何が起こったのか理解できず、ただ後ろを振り返った。
瞬間目に入ってきた光景に、体中が凍りつく。
先ほどまでの美しかった光景とは反転し、その場は、燃え盛る炎を映し出して不気味なオレンジに染まった煙がもうもうと立ちこめている。人々は恐怖に逃げ惑い、その煙の奥からはゆらゆらと人影が映し出されている。まるで、美術館で見たことがある、平和な町に悪魔が降りた絵のようだった。
それらが誰なのか、何なのかはわからなかったが、理解していることは一つ。
――この国は今、攻められている。
「くそっトフィアか!? アースリアか!? 休戦条約は結んでいるというのに!」
アースリア国は先日の内乱でごたごたが続いているはず、攻めるほどのまとまりはないだろう。だからといって、実質王よりも王子のほうが権力が強いトフィア国のライナス王子がこの国を裏切るなんていうことは考え難い。じゃあ誰が?
しかし僕はこの考えをすぐに振り払った。誰が攻めているのかなんて考えたところで町が焼かれているという事実は何も変わらない。僕は行かなければ!
「シアン、行くぞ!」
そう言って馬に飛び乗ろうとした僕を、シアンは制止した。
「お待ち下さい! 王子!」
唇を噛み締め、幾分か青ざめて、それでもきりりとした表情で僕を見つめた。そして次に彼女の口から発せられた言葉に僕は絶句した。
「行ってはなりません」
真剣な表情で彼女は言う。
「どうして!? 今、目の前で町が、人が焼かれているというのに!?」
ほとんど叫ぶように、僕は訴えた。シアンの意図が全く理解できなかった。やっぱり、今日のシアンはおかしい。
「落ち着いてください、王子。これは罠です」
妙に冷静な口調でシアンは話す。いや、実際彼女だって動揺していたのだろうけど、その動揺を押し殺して、彼女は話す。シアンの声が震えていたような気がするのは気のせいだろうか。
「……罠?」
突拍子もない発言に眉をしかめる。
「よく見てください。炎が上がっているところの奥の崖の上です」
早く行かなければいけないのに、と焦る気持ちをこらえてシアンの言うとおり崖の上を見る。人影が――三つ? 各々手に何か持っている。黒く、細い棒のようなもの。それぞれ棒を目の近くに、前へと突き出すように構え、身動きもせず町を覗き込んでいる。
「人がいるのが見えますよね? 手に持っている物はわかりますか?」
僕はただ首を横に振った。あれは何だ?
「あれは"銃"と呼ばれるもので、遠距離攻撃が出来るという点では弓と似ていますが、弓よりもっとずっと強力な武器です。現在、東の島国アカツクニが独占している武器で、最近この国に密輸入されたという情報があります」
シアンは早口で簡単な説明を行う。疑問はたくさんあったけど、今は聞いている場合ではないとわかっていたので黙ってシアンの言葉を聞いていた。
「彼らがどうして身動きせずにずっとああしているかわかりますか?」
再び僕は首を横に振る。こうして確認を取りながら話を進めるのはシアンらしいな、とこの状況に似つかないのんきなことが頭をよぎった。
「恐らく、待っているのです。王子があの場に出て来るのを」
その言葉で、僕は彼女が言わんとしていることがなんとなくわかってしまった。
「……つまり、僕を殺そうとしていると?」
彼女は言いにくそうに、だけどしっかり、そうです、と肯定した。
命を狙われるようなこともあるだろうと思っていた。だけどまさか、今日その日が来るなんて。
突然、頭の中でパズルが完成したときのように、頭に残る疑問の欠片が合わさって一つの考えがひらめいた。
「もしかして……わかっていたのか?」
きっと、そうなのだ。だからシアンは外に行くのを拒否した。僕が一人で行こうとすると一緒に行くと言ってきた。突然の攻撃をすぐに罠だと見破った。見たことがあるはずのない彼らの"武器"の説明ができた。ボルダー先生の突然の無茶な課題だって、僕を外に行かせないためだと考えれば辻褄が合う。
シアンは静かに頷いた。
「……ここ数日、不穏な動きがあることは確認していました。まさか、こんな間接的な方法で来るとは思いませんでしたが…」
どうして僕にそれを言わなかった、と怒鳴りつけたくなるのを必死に我慢する。今はまだ言うべきではない。
「誰が、仕組んだのかは?」
すると彼女はね言うか言わないか決心がつかないようで何度か口を閉じたり開いたりしていたが、時間がないことを思い出したのか一呼吸おくと、切り出した。
「……あなたの叔父、エリナイト様です、リース王子」
僕は衝撃に眩暈を覚え、無意識に一歩後ろへと片足が動いた。まさか身内から命を狙われるなんて。
「理由は、おわかりですよね?……王子が亡くなれば次の王位継承権はエリナイト様のお子様に」
理由なんて聞きたくない。何も聞きたくない。
「どうして……どうして言わなかったんだ……」
我ながら弱弱しい声だと、情けないものだと思った。うろたえるんじゃない。今辛いのは僕じゃない。
「皆が言うな、と。言わないほうがいいと……」
シアンは申し訳なさそうに地面を見た。皆というのはいわゆる僕の護衛隊――恐らく父様も含めて――のことだろう。
しかしそれではだめだ、わかっていれば対策なんていくらでもとれたのに。それとも僕はまだ皆の中で力のない幼いリース坊やだということなのか? 怒りが沸いてくる。
再び僕は考えを振り払う。こんなの後で考えろ。今はそれどころじゃない。
「ですから王子、早く城へ」
シアンが急かした。僕は驚く。自分の中に、"城へ逃げる"という選択肢はなかったから。もう、僕の心中は決まっていた。
「シアン、ごめんね」
彼女は小さく疑問の声を漏らす。
「僕は戻れない。命が狙われているとわかっていても、僕は行かなきゃいけない。国民が苦しんでいるというのに、僕だけ逃げるなんてことはできない」
わかってくれるよね? と彼女を見ると、今にも泣きそうな顔で僕を見返した。シアンの泣き顔なんていつ以来だろうか。正確にはまだ泣いてはいないけれど。
「……リース王子。王子の守るべきものは何でしょうか」
泣きそうな表情のままシアンが問いかける。声が震えているのは今度は気のせいなんかじゃない。
突然の質問に戸惑うも、決まりきっていることだ。僕は答える。
「そんなの決まっているよ。この国の誇りと、国民たちだ」
シアンは一瞬微笑んだかと思うと、今までにない真剣な眼差しで僕を見つめた。あまりの真剣な眼差しに、僕は息ができないかと思った。
「私の守るべきものは、あなたです。あなたなんです、リース王子」
彼女は、ひたむきに、真摯に、そう告げる。
僕はその言葉を噛み砕いて脳中に居座らせるのに時間がかかった。ようやく理解できたかと思うと、彼女はいつの間にか自分のマントを取り外し、さらには僕のマントまで取り外しにかかる。
一体何がしたいのかわからず頭上にはてなマークをたくさん浮かべていると、どうやら取り外し終わったようで、なぜかシアンは自分のではなく僕のマントを身につける。そして今度は僕らの後方で控えていた二頭の馬を呼んだ。
「アーツ」
シアンが馬の名前を呼ぶと、栗毛の馬は静かにシアンの近くへ歩み寄る。
「アーツ、大好きだよ」
シアンはそう言って優しくアーツを撫でた。アーツは気持ち良さそうに瞳を閉じる。その姿は、なんとなく悲嘆を表しているような気がした。
そしてシアンは、今度は僕のほうを向く。
「リース王子、王子の剣と私の剣、交換していただけませんか? 私の剣のほうがよく切れますよ」
「へ? あ、ああ……」
さっきからさっぱり彼女の動向がつかめない。曖昧な返事をすると、彼女はそれを肯定と受け取ったらしく僕の持っていた剣とシアンの持っていた剣を取り外し、交換する。彼女の剣はずっしりと重い。鞘と柄には美しい装飾が施されている。だけど、確かこのシアンの剣は親からもらった大切なものだって、聞いていたのに……?
そのことと、彼女の今までの奇妙な行動の真意を確かめるために、僕は口を開いた。けれど、すぐにそれは彼女の言葉によって制止された。
「リース王子」
彼女の青い瞳には、揺ぎ無い決意が映し出されていて。思わず僕は彼女の前に姿勢を正した。
彼女はそっと僕の左手をとる。彼女の手には小さな傷がたくさんあって、お世辞にも綺麗とはいえないけれど、その手は彼女がずっと戦ってきた証であり、僕にとってはただの綺麗な手よりももっと優美であり、尊く、温かなものだ。
彼女はゆっくりと身をかがめ、そして優しく、触れるように僕の左手にキスを落とした。そして僕を真っ直ぐ見据える。
「愛しております、リース=サファイア王子」
優しく握られた左手が温かくて心地よい。彼女が一輪の花のように微笑む。今日見せた中で一番柔らかく、温かく、そして、少しだけ寂しさを含んだ笑みだった。思わず僕は彼女の表情に見とれてしまった。視線が逸らせない。
「アーツ!」
シアンがアーツを呼んだ。すぐに彼女の馬は駆け寄ってきて、僕は彼女はアーツに乗って城へと戻るのだろうかと考えた。しかし、次に起こったことは僕の予想とは大いに反することだった。
「アーツ、よろしくね」
シアンがそういうと、アーツは静かにシアンを見つめて、そして、自分に乗れといわんばかりに僕の服を引っ張り始めたのだ。
「リース王子、アーツに乗って下さい」
シアンがそう言ったのが聞こえた。さっぱり状況がつかめない。どういうことだ、これは。
そうこうしているうちにアーツはより強く引っ張り始め、シアンに押し上げられて、混乱した状態のままアーツの上に乗せられた。シアンは、さっき取り外した自分のマントを横向きにしてばさりと僕の真上から掛けて、端をアーツにハミと一緒に噛ませ、僕はほとんどマントに隠れる状態になった。
「王子、自分を責めないで下さいね。責任は全て私にあるのですから」
僕はよくわからずに眉をしかめる。彼女は続けざまに、噛み締めるように弱弱しく小さく呟いた。その表情は隠れていて、よく見えない。
「……今までありがとう」
最後の別れのように。敬語ではない彼女の言葉は初めてだった。
そして僕のマントを翻し、傍に立っていた黒い馬へと飛び乗る。
「リース王子、恐らくエリナイト様はあなたが現れないときのことを考えて追っ手を配置しているでしょう。リース王子があの場に現れれば、追っ手は必要なくなります」
「何を、」
何を言いたいんだ、そう言いかけて、ここでようやく気がついた。遅すぎる、あまりに遅すぎる理解だった。
シアンは先ほど僕と交換した、僕の剣を右手で引き抜き、後ろでまとめて縛っている髪を左手でつかんだかと思うと、剣を一振りして、思い切りその青い髪を切ってしまった。はらはらと髪が落ちる。髪は丁度肩の上の長さになった。正面から見た姿は、そう、僕にそっくりだった。
黒い馬に乗り、僕の剣を持ちマントを翻す、青い髪に青い瞳の精悍な顔つきの人間。僕をよく知らない人だったり、遠くから見たりしたら僕と間違えてしまうのは仕方がない。それくらい今の彼女はよく似ていた。
ああ、やっぱり。
「アーツ、行って!」
彼女は僕の身代わりになるつもりだ!
アーツがその瞳に強い光を宿らせ、城の方向へと駆け出すのと、シアンを乗せた黒馬が城下町へと駆け出すのは、ほぼ同時だった。
「シアン! 待てシアン! 僕は、僕は一言も良いなんて言ってない! 誰がこんなことを許した!!」
彼女の背中がどんどん遠ざかっていく。今まで出したこともないような大声で、僕は叫び続けた。一体誰がこんなことを望んだと言うんだ。
「シアン! シアンーっ!!」
すると一瞬、もう大分離れてしまったけれど、シアンは確かにこちらを振り返って、微笑んだ。まるで、心配しないで下さいと言うように。いつもみたいに、大丈夫ですからと言うように。だけどそれはいつもの自信に溢れた優しい笑顔ではなく、弱弱しい、不安と恐怖に彩られた笑顔だった。
僕は言葉を失った。何も、言えなくなった。ただ彼女のその表情が目に焼きついて、焼きついて離れない。いつの間にか彼女の姿は見えなくなっていた。
「アーツ、止まってくれ! 戻ってくれ!」
今度は必死にアーツに語りかける。先ほど急に走り出されたために手綱はつかめず、首にしがみついている状態だ。
「お前の主人のところに戻ってくれよ!」
しかし、いくら必死に訴えようと懇願しようとアーツは聞く耳を持たない。ただ黙々と走り続ける。
「お前は……主人の命よりも主人との約束を守ろうっていうのか……」
悲痛に呟いたその言葉にも、やはり反応することはなかった。
こんな中でただ青空だけが延々と広がり、僕を嘲笑っているかのように見え、その青が妙に気持ち悪いものに見えた。
途中、馬に乗った数名の兵を見かけた。手に手に武器を持ち、しかし誰かを探す様子はなくただ立っていた。
アーツはそんな輩など目に入らないようで、少しも気にかけずに走り去る。彼らの横を通り過ぎる瞬間、"王子"と"シアン"いう言葉が聞こえた気がした。彼女の読みは当たっていたのか。追いかけてくる気配はなかったから、僕が王子だとは気がつかなかったようだ。
しばらくして、ようやくアーツが立ち止まった。僕は始終しがみついていたのでここがどこなのかわからない。冷たくなった彼女のマントから這い出して、アーツから降りる。人がたくさんいる。ざわめきがうるさい。頭がガンガンと痛む。
周囲を見ると、純白の石畳と美しく整備された植物たちが並んでいる。人ごみに隠れてよくは見えないが、石畳が導く先には巨大な家。――ああ、そうだ、叔父さんの屋敷だ。
その事実が分かった途端、頭痛が余計酷くなった。そうだ、父様は叔父さんに会いに来ているはず。会わなければ。父様とエリナイト叔父さんに会わなければ。会ってどうするかなんて、そのときは何も考えていなかった。しかし会わなければいけないという衝動だけが空っぽの僕を突き動かした。
人を押し分け掻き分け、前へ前へと進む。玄関に近づくにつれてだんだんと前方の人は少なくなり、代わりに声が聞こえ始めた。父様と、叔父さんの声だ。
「町はどうなったのだ!? 一体何者が!?」
父様だ。酷く慌てている。
「わからない。何者が襲ったのかも、全くつかめないのだ。今、私の部下を使って調べさせているのだが……第一部隊の連絡によると、痕跡が全くないらしい」
何を飄々と。仕組んだのはお前だろう。
「それと……兄さんには非常に言いにくいことなんだが……」
叔父さんが声のトーンを落とし、うろたえているように話す。寒い演技だ。
「一体何だ?」
「生き残った町の住人の話によるとリース王子が現れて、町の状態を尋ねると馬と共に煙の奥へと姿を消した、と……」
「そんな、どうして……!?」
「まだ現場が混乱していて確認は取れていないが、あれだけの激しい攻撃だ。恐らく……生きていらっしゃる確立は……ほとんど……」
「な……何ということだ……! リース……! リースよ…!」
僕が人ごみを掻き分け、ようやく最前列に出たときには、父様は地面に崩れ落ちて頭を抱えこみ、叔父さんがそっと父様の肩に手を乗せていた。はたから見れば、子を失った兄とそれを慰める弟との美しい兄弟愛と目に映ることだろう。しかし僕には、それはただの偽りの寒々しい劇にしか見えなかった。
僕は、最前列から父様たちのほうへと一歩踏み出す。最前列から父様たちのいる玄関までは数段の階段を挟んで少しだけ空間があった。僕は息を吸い込み、大きな声で周囲の空気を支配する。
「エリナイト=レ=グランディア」
出てきた声は自分が思っていた以上に低く、凄みがあり、自分でも内心驚いた。
ざわついていた周囲はしんと静まり返る。そのせいで靴の音が冷たく辺りに響いた。
父様がゆっくりと顔を上げ、瞳に歓喜の色を映し出し、叔父は体を強張らせ、まるで化け物でも見るかのように怯えた瞳で僕を見た。
僕は真っ白な石畳の上を歩き、階段を上る。靴が石を叩いた音だけが妙に周囲に響き渡り、他には何も聞こえない。そして叔父の目の前で歩みを止めるやいなや、腰の剣――シアンの剣を勢いよく引き抜き、叔父の首元へと突きつける。見事な刀身。周囲の光を反射して一閃した。叔父の恐怖に引きつった表情が、妙におもしろかった。
父様が何かを言おうと口を開きかけたのを感じて、僕は先に自分が言葉を発することでそれを制した。
「エリナイト。僕を殺そうとしたその罪」
不敵に笑みをこぼしたのが自分でもわかった。普段ならこんな表情は出そうとしても出ないのに、今は自然と、それが当たり前のように、ぞっとするような笑みを浮かべていた。
「どうやって償ってもらいましょうか?」
石畳が濡れた。どうして雨も降っていないのに濡れたのか、そのときの僕にはわからなかった。
後から父様から聞いた話によると、そのときの僕は酷く冷酷な表情で、ひたすら涙を流していたのだという。
***
「で、親父は殺されたってわけか」
アランは他人ごとのようにそう言った。
「……謝らないよ」
「別に、あんな親父、死んでくれて逆に清々しいよ。そもそも俺って親父との愛人の子だからなー。別に親父に執着はなかったし」
ああ、彼にそんなことを言わせたかったわけではないのに。
「で?」
僕が黙っていると、アランは話を切り替えた。
「で、って。別にそれだけだよ」
本当にそれだけだ。深い理由なんてない。いや、それだけだと感じるのは、自分の気持ちをわかっていなかっただけだからかもしれない。
「嘘付け。お前慰めて欲しいんだろ。どうでもいいなら別に話さなくていいだろうが」
確かに、その通りだ。
「それじゃあ、慰めてくれと言ったら慰めてくれるのかい?」
試しに言ってみる。結果はわかっているけれど。
「だ・れ・が慰めるかバァーカ!」
ああ、やっぱり。僕は苦笑する。それで終わりかと思ったら、意外なことにアランは続きを話し始めた。
「俺はお前を絶対に慰めたりしないけどな、そこで立ち止まらないようにケツ蹴り上げて無理やりにでも前見させてやるよ! 人間後ろ向いてちゃ何にもならんの! 特にお前はな、過去に囚われてそこで座り込んじまったら全部が全部お終いなんだ」
この男は、一見いつも遊び歩いて何も考えない阿呆のようだけど、たまにこうやって僕を勇気付ける。なんと器の大きい男だろうか。
「今の、大臣が聞いたら侮辱罪で禁錮五年は固いよ?」
「おい、言ったらお前の恥ずかしい秘密あちこちにばら撒くからな」
ふざけてアランを脅してみると、アランに逆に脅し返されてしまった。それが妙におかしくてくすりと笑う。そして、
「……ありがとう」
小さく呟くと、聞こえたのか聞こえなかったのか、アランは一言こう言った。
「お前、ようやく顔上げたな」
青空が眩しい。あの空は、今はもうただ自由に広がっているだけだった。
2008年に書いたお話。ほんの少し修正しました。