大きなブナの木の下で
夢を見ている。
体は軽く、どこと無く清々しい気分だ。
前を見てみると一本の道があり、周りには緑の森が広がっている。
私はどこか懐かしいその道をまっすぐ歩く。
しばらく歩くと、そこには一軒のログハウスが建っていた。
かすかに違和感を覚えるが、私はそれに近づいていった。
すると、ログハウスの前に置かれたロッキングチェアに少女が座っているのが見えた。
長い黒髪に白いワンピースと言った格好の少女は、私が近づいてくるのを確認すると微笑を浮かべて立ち上がった。
「いらっしゃい。疲れたでしょう、お茶を淹れるわ」
少女は鳥が歌うような優しい声で私にそう語りかける。
私は少女と面識は無いはずなのだが、少女は私のことを知っているらしい。
訳が分からない。いったいこの少女は何者なんだろうか?
「あはは、不思議そうね。何で私があなたを知っているか、知りたい?」
少女はそう言って私のほうを見て笑う。
花の様に笑う少女に頷いて答えると、少女は可愛らしく舌を出した。
「今は内緒よ。でもね、私はあなたのことをずっと小さいころから知ってるわ」
私はそれを聞いて一瞬考えたが、よく考えたらこれは夢なのだということを思い出した。
そう納得していると、少女は私の手を引っ張り始めた。
「さ、中に入りましょ? 暖かいお茶が待ってるわ」
私は少女に手を引かれながら小屋の中に入る。
小屋に入るとそこには机と椅子があり、机の上には既にお茶の入った湯のみが置かれていた。
「どうぞ。そのお茶、あなたのものよ」
少女は私の対面に座り、頬杖を付いて笑顔を向ける。
湯飲みを手に取ってみるとちょうど良い温度のようだ。
何か入っていてもどうせ夢なので飲むことにする。
一口飲んだ瞬間、私は言葉を失った。
「どう? おいしい?」
そんな私に、少女はにこやかにそう問いかける。
正直、味が薄くてお茶としてはいまいちだ。
しかし、それは涙が出るほど懐かしく、優しい味だった。
私は感想を素直に言うことにした。
「懐かしい?」
首をかしげる少女に、私は頷く。
すると少女は優しい笑みを浮かべた。
「そう。気に入ってくれたみたいで良かった。そうだ、良かったらあなたのお話してくれる?」
私の話か……そうだな、この懐かしいお茶のお茶請けには最適だ。
ここは一つ、私の昔話でも聞かせることにしよう。
私は小さい頃、両親を事故で亡くした。
そんなに大きな事故ではない、単なる自動車事故だ。
それからと言うもの、私は歳の離れた兄と二人きりで生活することになった。
当時はまだ戦時中で食料は配給制だったから、食い扶持には困らなかった。
それに、私は当時としては珍しく空腹に困ることは無かったのだ。
「ほら、ちゃんと食え。しっかり食べないと大きくなれないぞ」
そう言いながら、兄はなけなしの食料を私に分けてくれたものだった。
一度、兄に自分も食べないと大きくなれないぞと言ってみたが、
「俺は仕事の時にお前とは別にもらっているから大丈夫だ」
と言って、取り合ってくれなかった。
とは言うものの、すくすく育っていく私とは裏腹にどんどん痩せこけていくものだからすぐに嘘だと知れた。
それでも、兄はひたすらに私に食料を与え続けたのだった。
米の代わりに砂糖が配給された時は閉口したものだったが、兄はそんなときは取っておいた小麦粉等と混ぜて焼き、全て私にくれたのだった。
今になって思えば随分大事にされたものだとも思うが、もう少し自分の身を案じてみても良かったと思う。
まあ、そのお陰で体力が足りず、戦地に送られることが無かったからそれはそれで良かったが。
また、兄は休みの日には良く私に構って遊んでくれたものであった。
「秘密基地に連れて行ってやる」
そう言って、まだ小さい私を近くの雑木林の中にある少し開けた場所に生えている大きなブナの木のところに連れて行ってくれたものだ。
この木がまた大きな木で、周りの木よりも一回りも二回りも大きい木だった。
木登りが得意な兄はそのブナの木をあっという間に登って私を呼ぶのだが、私は木登りが得意ではなかった。
だから、兄は私と一緒にそこに行くときは木の下で話をしてくれたものだった。
話といっても兄は物語をいくつも知っているわけじゃなかったから、大体は取りとめのない世間話だった。
それでも、私はそんな兄とブナの木の下で話をするのがいつも楽しみだった。
「優しいお兄さんだったんだね」
少女はここまでの私の話を聞いてそう呟いた。
私はそれを頷いて肯定する。
あれほど人の良い人間も滅多にいないと思う。
どこかの誰かの歌ではないが、その優しさが時々怖いこともあった。
「そういえば、このお茶が懐かしいって言っていたけど、いったい何があったの?」
このお茶の話か……このお茶に関する話は決して忘れられないものだ。
ある日から、兄の帰りが突然遅くなった。
兄曰く、仕事が急に忙しくなったとのことだった。
しかしそんな日があんまり長く続いたものだから、不審に思って兄に問いただしてみようとした。
そんな矢先、兄がものすごい浮かれ調子で帰ってきたのだ。
そして帰ってくるなり、
「今日、お前誕生日だろう? ちょっとした祝いの品をやろう」
と言って取り出したのが、茶の缶だった。
兄曰く高級な茶を奮発して買ったのことで、今まで帰りが遅かったのはこれを買う金を作るためだったと言う。
私の誕生祝で何故茶を選んだのかは理解に苦しむところではあったが、気持ちは嬉しかったので素直に受け取ることにした。
そこで試しに飲んでみようと言うことになって、兄が躍起になって茶を淹れ始めた。
ところが、私も兄も茶の淹れ方なんぞ全く分からん上に、揃いも揃って貧乏性と来たものだ。
そのせいで、出来上がった茶は色付きの水にちょいと茶の味が付いた程度と言う惨憺たる有様だった。
それでも茶には変わりなかったし、貧乏舌もいいところだったので美味いと答えると、
「そうか」
と、満足げに笑いながら頷くのだった。
これに気を良くしたのか、兄はそれ以来私と出かけるときは水筒にその薄いお茶を入れて持ち歩くようになった。
流石に途中から茶葉の質は落としたようだが、それでもあのブナの木の下で兄と飲むそのお茶は最高に美味かったと思う。
「そっか。お兄さんとの思い出の味なんだね」
少女はそう言って優しく微笑んだ。
何故かは分からないが、私にはその笑みが子供を見守る母親のような表情に見えた。
「ねえ、他にはどんな思い出があるの?」
それからと言われても……兄に関してはほとんどそんな思い出ばかりだ。
普段兄は仕事で忙しかったし、私は学校に通っていた。
後あると言えば……別れの思い出くらいだ。
「お別れの?」
そう……別れの時は存外早く訪れたものだった。
別れのきっかけは当時の小学校における集団疎開の話だった。
戦争の火の手は本土に空襲と言う形で現れ、皆で避難する事になったのだ。
その話を兄にすると、
「そうか……仕方の無いことだな」
と言ってしょげ返ってしまった。
やはり、家族が居なくなるのは寂しいらしかった。
それから疎開するまでの間、兄は出来るだけ私と過ごす時間を長く取るようになった。
ブナの木の下で話す時も、口数の少ない兄が普段より饒舌だった。
疎開する前日、兄はいつもの通り私をブナの木の下に連れてきた。
今日は何の話をするのかと疑問に思っていると、兄は木を登り始めた。
ある程度登ると、兄はロープを木に結び付けて下に垂らした。
「登って来い」
兄は私に短くそう告げた。
私が何とかそのロープを伝って木に登ると、兄は枝を伝ってどんどん上へと登っていく。
兄の真似をして登っていくと、あるところで兄が立ち止まって手招きをした。
私が兄のところへ行くと、兄は前方を指差した。
するとそこには、周囲を見下ろす景色があった。なかなかに綺麗だった。
「別れる前に、一度見せてやりたかった」
兄は私に短くそう告げた。
その日、兄はあまり喋らなかった。
今にして思えば、話したいことが色々ありすぎて困っていたのだと思う。
そして疎開する日、兄は私を見送りに来てくれた。
一緒に駅に向かったのだが、兄は何も喋らなかった。
私も何か喋ろうかとも思ったが、気の利いた言葉も掛けられないまま駅に着いてしまった。
最後の最後、私が乗った列車が発車する時になって兄はようやく、
「元気でな」
と俯いたまま私に短く声を掛けた。
列車が動き出し、遠ざかっていく兄は異様に小さく見えた。
そして、これが私が最後に見た兄の姿となった。
最後に聞いた兄の情報は、住んでいた町が空襲にあったという話であった。
「……悲しいね。それからもうお兄さんには会えなかったんだ……」
悲しげな表情で私を見る少女。
……今でもあの時何故もっと兄と話をしなかったのかが悔やまれる。
話したいことは山ほどあったが、どれも話せずじまいだ。
「やっぱり、お兄さんのことは好きだった?」
嫌うはずが無い。残されたたった一人の家族だったのだから。
もし今でも生きていると言うのならば、是非とも会いたいものだ。
「そっか……そうだよね、あんなに仲が良かったんだものね」
少女は何か懐かしむような口調でそう話す。
……どういうことだろう?
「私ね、ずっと一人だったんだ。周りには誰も居なくて、一人でずっと立ってたの」
少女は静かに自分のことを話しだす。
その表情は穏やかで、当時のことは思い出に昇華されている様であった。
「そんなある日、私のところに一人の男の子がやってきました。男の子は探検中だったみたいで、私を見て眼を輝かせました。そして、こう言いました。「秘密基地見つけた」と」
……まさか。
「男の子は頻繁に私のところに来るようになり、いつしかもう一人の小さい男の子を連れてくるようになりました。それからと言うもの、男の子は小さい男の子と一緒に私のところでお話をするようになりました」
少女はそう言って微笑みながら私のことを見つめてくる。
……ああ、もう間違いない。この少女は……
「うふふっ、もう分かったよね? そう、私だよ。あなたがお兄さんと話をしていた、あのブナの木だよ」
少女は悪戯が成功した子供のように笑う。
……全く、夢にしても出来すぎだ。
今日の夢は、どうしてこんなにも懐かしいのだろう?
先程から涙が溢れて止まらない。
そんな私を見て、少女は苦笑いを浮かべた。
「あはは、大げさだよ。でも、あなたに会えてよかった。ちゃんとお兄さんの願いどおり、長生きできたんだね」
ああ、お陰で随分と長生きさせてもらった。
兄には感謝してもし切れない。
「……ぁ……」
……何だ? 誰かに呼ばれたような気がする。
ふと少女を見ると、少女は少し寂しそうな表情を浮かべていた。
「……これでお別れみたい。あなた、呼ばれてるよ」
そうか……目覚めの時なんだな。
でも私が目覚めたら、少女はまた一人になってしまう……
そう考えていると、少女は首を横に振った。
「大丈夫、私ならもう寂しくなんてないよ……私は一人じゃないから」
少女はそう言うと、花のような笑みを浮かべた。
その笑顔は、幸せに満ち溢れた素敵な笑顔であった。
……どうやら、私の心配は杞憂に終わったようだった。
「そうだ。起きるんだったら、来た道を逆にたどればいいからね?」
意味ありげな笑みを浮かべて少女は私にそう言う。
良く分からないが、あまり人を待たせるのもあれだからもうそろそろ行くとしよう。
「ばいばい」
手を振る少女に、私は手を振り替えしながらドアを開けた。
ドアから外に出ると、ロッキングチェアが揺れる音が聞こえてきた。
どうやら、少女と一緒に居る者が座っているようだった。
私はその場で立ち止まった。
「ふふっ、久しぶりだな」
横から声が掛かる。
その懐かしい声色に、私の鼓動は異様に高鳴る。
……ああ、本当にこの夢は出来すぎている。
予感はしていたが、夢でもまた会えるとは思わなかった。
……兄さん。
「……大きくなったな。あのちび助もこんなに大きくなるんだな」
兄さんは感慨深げにそう言って、私の頭を撫でる。
……言葉が出ない。顔だって見れたもんじゃない。
話したいことは山ほどある、それなのに何を話せばいいのか分からない。
そんな私に、兄さんは優しい笑みを向ける。
「さて、もっと話をしてやりたいところだが、お前は人を待たせているだろう? さあ、早く行ってやれ」
……また会えるかな?
「こうして会えたんだ、きっとまた会える」
私の質問に、兄さんは笑って答える。
それに対して、私も泣きながら笑い返す。
すると、兄さんは安心した表情で頷いた。
「……じゃあ、またいつかな」
兄さんはそう言うと、ログハウスの中へ入っていった。
私はそれを見送ると、来た道を戻っていった。
目覚めると、そこは病院のベッドだった。
周りには私の家族が居て、私の目覚めをホッとした表情で見守っていた。
医者の話によると、感冒が悪化して病院に担ぎ込まれたらしい。
ただの風邪に大げさなとも思ったが、実際に死に掛けていたし自分の歳を考えて仕方がないと思った。
退院すると、私はその足で故郷に直行した。
突然の帰省に家族は騒然としたが、私は気にせず故郷に向かう電車に飛び乗った。
故郷の町はそれなりに復興していて、閑静な住宅地になっていた。
私は酒屋でカップ酒を3つ買い、まだ残っていた雑木林に足を踏み入れた。
流石に長い年月が経っているため見慣れた風景とは行かないが、雑木林の中を歩き回る。
そしてしばらく歩くと、開けた場所に出てきた。
その中央には大きな枯れ木が立っていた。
その枯れ木には見覚えがあり、見た瞬間に当時の思い出が走馬灯のように甦ってくる。
間違いない、あれがあのブナの木だ。
近づいてみると、根元に見覚えのない大きく平たい石が置いてあるのが目に付いた。
私には、それが何なのか分かった。自然と笑みがこぼれた。
「ああ……ここに居たんだね、兄さん。随分捜したよ。あんまり時間を掛けたから、こんな爺さんになってしまったよ」
私は石の上に買ってきた酒を2つ置き、その隣に座って自分の分を開ける。
そして軽く乾杯すると、私は酒を飲んだ。
……安酒なのに、やたらと美味く感じる。
気がつけば、もう酒は空になっていた。
「……いつか、今度はしっかり顔を合わせて酒を飲もう。だから私がそちらに行くまでしっかり見ててくれよ、兄さん?」
私はそう言って立ち上がり、歩き出す。
ふと振り返って木の方を向くと、誰かが笑っていたような気がした。
書いている最中に、兄さんがものすごいかまってちゃんに見えてきて困った。
途中、兄を姉に変えて読んで見たりするとどうなるんだろとか思ってみたり。
まあ、書きたい事はあらかた書けたので満足しましょう。
後で書き直すかもしれませんが。