ハロウィンの話 下
がさ、と青年の踵が菓子の袋に触れた。それはもはやこの場には無用の長物である。
あげた時の笑顔もいいが、それ以上にあげなかった代償の方が欲しい。
「お、にいさん、あのっ、うぇっ、えと」
「……洋輔」
「はひっ!?」
顔を真っ赤にして、けれど逃げようとはしない少女の顔は最早蕩けそうだった。辛うじて緑色の眼は潤みながらもしっかりと青年を見ている。
「俺の名前」
「あっ……は、はいっ、し、知って」
知ってます、と続けようとして少女はますます顔を赤くし、口を噤む。相手は自分の名前も知らないのに、こちらだけ知っているなど、恥ずかしくてたまらない。
だって、好きだったのだ。
わざわざ母に、あの家のひとって何て名前なの、と聞いた8歳の日。
好きだと気づいた10歳の日。
年を重ねていくうち、少しずつだが会話するようにもなった。けれどそれは世間話の域を出ず、町内会のイベントで軽く挨拶して、ほんの少しだけ話すくらいだった。
「フランシスカ」
だから、頭上から降ってきた声に、心臓が停止しそうなほど驚いた。
「えっ、あ、はいっ」
なんとなく大仰な感じのする名前をあまり気に入ってはいなかったのに、今この瞬間、全部塗り替えられて自分の名前が好きな言葉のトップに君臨した。
フランシスカは、どこか言い辛そうに名前を紡いだ洋輔の顔を見上げる。
「……で、いいんだよな?」
「はいっ! あ、あのっ、シスカって、みんなは呼びます」
「へー」
興味なさげな声に、フランシスカははうっと詰まったような声を漏らした。嬉しさに任せて、なんて事を言ってしまったのだろうか、と。
「なら俺は、フランって呼ぶかな」
「……~~っふぁい!」
思わず赤い顔のまま、嬉しさを露ににっこりと笑うフランシスカの顔を見て、う、と洋輔が呻く。
拒絶されていない事が嬉しすぎる。しかし更に、この笑顔が死ぬほど嬉しい。
猫というよりは、むしろ犬が尻尾を振っている幻覚が見える。洋輔はこの時ばかりは、無愛想だと親に散々言われる自分のポーカーフェイスがありがたい。
先ほど見せた笑顔は、それはもう久々のもので。不覚すぎて赤面しそうだったが、生憎とあまり顔には出なかった。
「あ、え、えっと、洋輔さんっ」
フランシスカは蕩けてあまり意味を成さない思考のまま、今ならいけるっとばかりに背伸びをした。今を逃してはもう後は無い。抱き締められていることすら忘れ、むしろ彼女はハロウィンの本分を果たした。
「い、いたずらですっ!!」
ちゅ、と柔らかな、マシュマロのような唇が洋輔の唇――ではなく、迷った末、Vネックの襟から覗く鎖骨のあたりに押し当てられた。
一瞬、沸騰したように洋輔の思考が停止する。
身長が足りなかったのだろう。どう頑張っても自分の顎や唇や頬や唇や唇には届かない、と洋輔は緩慢に理解する。理解したが、もう我慢の限界とも言えた。
「トリックオアトリート」
早口で言う。それはもう早口言葉かと突っ込みたくなるレベルの早口だった。フランシスカは一瞬潤んだ眼を見開き、そして次の瞬間、肩をびくんと跳ねさせた。
床に転がるお菓子を拾って渡す暇もない。迅速に甘味よりも更に甘いものを選択した洋輔が、僅かに背を曲げて視線を合わせ、
唇が、触れ合った。
◆
「シスカちゃん、どうぞどうぞ寄ってって、ほら、洋輔! あんたそろそろ離しなさい! 何時間そうしてるつもり!?」
もう何もかも忘却の彼方に追いやって唇をくっ付けるだけの簡単なお仕事に従事していた青年と猫娘は、はっと我に返ってぎこちなく離れた。
もはや扉に背中を押し付ける状態でフレンチやらディープやらと甘い空気を撒き散らしていた彼らである。途中に「好き……」とかそういう台詞が挟まったのもご愛嬌。むしろ、よくもまあ長時間キスだけに留められたものだ。
「げ、四時間ものの映画見てた筈じゃ」
「馬鹿ね。四時間なんてとっくに過ぎたわよ」
洋輔の母はおっほっほと腰に手を当てて高笑いした。フランシスカは暫し衝撃のあまり停止していたが、はっとして玄関に散らばる菓子類を拾い集めた。
「あああええっとあのっ、お、お暇します!」
「やあだ、寄ってきなさいよ。お家には連絡してあるわ」
「「!?」」
なんという早業だ、と2人は衝撃を受けた。40台に突入して尚も若々しい洋輔の母は、ほらほら、と引き戸を開けて中に入り、腕だけ出して手招きする。
「今日は5人分作ってあるのよねー」
そしてこの台詞に衝撃を受けたのは洋輔である。
母と自分の二人暮し。父親は単身赴任中である。つまり残りは、
――ピンポーン。
間抜けにも聞こえるインターホンの音に、またも洋輔とフランシスカは停止した。
「洋輔ー、出てちょうだい、ほら早く」
「は!? ……あ、おう」
がらりとドアを開ける。そこにはいい笑顔でラップの掛かった料理の皿を持つ、初老に差し掛かるような夫婦が立っていた。
「ぱっ……パパ! ママ!? な、なんでっ!?」
叫ぶフランシスカ。しかし洋輔もまた後ろの戸に向かって叫ぶ。
「仕組んだな!?」
「何の事ぉー?」
おちゃらけたような母が父に対して行ってきた権謀術数の数々を知らない訳では無い。
常人には及びも付かぬ神算鬼謀でもって父を射止めたこの母は、時々恐ろしい。ちなみにミステリー映画では開始20分までに答えを言い当てる女だ。
結局5人揃って食卓に並び、親たちだけは和やかに談笑している。
洋輔とフランシスカは会話もせず、ぼんやりと手だけを動かしていた。
「種明かしすると、18歳にもなったんだしそろそろお付き合いくらいしてみたらどうかしらと思って。この前スーパーで偶然会ったのよね」
「そうそう。それで意気投合してたら、まさかシスカちゃんのお母さんだなんて」
もう何も言えない。親の強さというものを痛感しながら、洋輔はご丁寧にカボチャだらけを機械的に口に運んでいた。
「……知ってたの?」
隣のフランシスカが情けない声を出す。彼女の両親はにこにこと笑っていた。
「だって、最初の年も名前聞いてきて、貰ってきたチョコも1日1つずつ大事に――」
「きゃあああ!! い、言わないでよっ、ママ!」
手痛い仕返しに涙目で手を振り回す。洋輔は恐る恐る母に顔を向け、浮かべられた艶やかな笑顔に頭を抱えたくなった。
「親を舐めないでよねー、洋輔」
「アンタって人は……」
「父親にそっくりだもの! でもねえ、あんたの方が意気地なしね。折角テレビ見てるふりでスルーしてあげてるのに、寝室に連れ込まないなんて――」
「わ゛ーー!! 食卓でそういう事言うなっ!!」
今度こそ本気で頭を抱えた。自由すぎる母親に悩まされて21年、これほど恥ずかしくなったことは始めてである。
奔放でいて一途なのだから、父親も自分も見捨てられないのだが。
「ああ、そうそう。お母さんたち親睦を深めるために旅行に出るからね。今から」
「「えっ」」
「2日くらい帰って来ないから、よろしく頼むよ、洋輔くん」
「え?」
「女の子を1人にしておく訳にはいかないからね。泊まっていってちょうだい」
「へっ?」
唖然とする2人を他所に、手際よく食器を片付けて食器洗い機に入れてスイッチを入れる。洋輔の母はしっかりと旅行鞄を手に持ち、ばっちーんとウィンクを残して出て行く。
フランシスカの父母もそれに続き、暫くして車が走り去る音が聞こえた。
「……マジで?」
「ふ、ふぇ……え、えっと、その」
洋輔はまじまじとフランシスカを見る。未だに猫耳のついた彼女は死ぬほど可愛い。赤く染まった頬に触れると、ふにゃりと柔らかい。そのまま本能に従って抱き上げてみると、軽い。
「あ」
思わず抱き上げてしまったが、後の祭りである。まあいいか、と洋輔は深く考えずに居間のソファにぽすんと降ろした。
「ひゃううぅぅぅ……」
潤んだ眼ごと舐め上げたくなる愛らしさだが、そこは我慢する。
洋輔は首を振り、とりあえず母親に叩きつけられた数々の衝撃は宇宙の彼方に投げ飛ばす事にして、そういえば言っていなかったな、と口を開く。
「結婚してくれ」
間違えた。いや間違いではないが、行き過ぎである。
「……じゃない。好きだ」
と言うにはどうも気持ちが強すぎて収まりが付かない。
「というよりは愛してる」
十年越しの想いを吐き出しきると、フランシスカはもう涙目と言うか泣きながらこくこくと頷いていた。首が引き千切れそうだ、と洋輔はその頬を持って固定する。
「ひゃうっ」
ああ、キスしようとしているみたいじゃないか。
洋輔は浮かれた脳みそでそう思いながら、じっとフランシスカを眺める。一生眺めても飽きない光景だ。下はミニスカートにニーソックスで絶対領域が眩しいし、上は上でワイシャツの白さと2つめまで開いたボタンが魅惑的である。
古めかしい感じのする吊りスカート。サスペンダーが片方落ちているのも最高だった。
「フラン、は」
フランシスカはごくりと唾を飲んで、唇を僅かに開けた。
「す、すき……です」
消え入りそうな言葉は再び塞がれる。
もう言葉はいらんとばかりに、洋輔はひたすら唇を貪り、ついでにそのけしからぬサスペンダーと胸の下に出来た隙間に指を突っ込んでみたりしてフランシスカをどぎまぎさせた。
その後はまあ、お察しの通り。
日付が変わる前、思い出したように洋輔が呟く。
――ハッピーハロウィン。