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雨上がりの午後

作者: 雪乃兎姫
掲載日:2026/05/27

 雨が降るたび、私はあの日のことを思い出す。


 駅前の古い喫茶店。磨かれた木のテーブル。少し苦いコーヒーの匂い。窓ガラスを伝う雨粒をぼんやり眺めながら、私は三十一歳になったばかりの自分に、小さく溜め息をついていた。


「……もう、恋愛とか面倒かも」


 口に出してみると、思った以上に乾いた響きだった。


 大学時代から七年付き合った恋人と別れて半年。理由はありふれている。結婚観の違い。仕事の優先順位。未来への温度差。子供の有り無し。


 何もこれは誰が悪いわけでもなかった。

 だからこそ、終わったあとに残るものは怒りではなく、静かな心の空洞でしかなかった。


 スマホには友人たちの結婚報告が並び、母からは遠回しなお見合いの提案が届く。

 休日に一人でスーパーへ行くと、無意識に「二人分」の食材を買いそうになる自分に気づいて、余計に胸が少し痛んだ。


 その日も仕事帰りだった。

 広告代理店の企画部。華やかに見える業界だが、実際は地味な修正作業と終わらない会議の連続だ。


 もう私は疲れていた。


 恋愛にも、仕事にも、そして自分自身にも――。


「相席、いいですか?」


 低い声に顔を上げると、黒い傘を持った男性が立っていた。


 店内は満席に近かった。


「あ、どうぞどうぞ」


 彼は軽く頭を下げ、向かいに座った。


 年齢は私より少し年上の三十代半ばくらいといったところだろうか。白いシャツに紺色のコート。整った顔立ちというより、穏やかな空気が印象に残る人だった。


 彼は文庫本を開き、静かにコーヒーを飲み始める。

 普通なら、それだけで終わるはずだった。


 ――でも


「その本、お好きなんですか?」


 気づけば私は彼に話しかけていた。


 彼が読んでいたのは、私が大学時代に何度も読み返した小説だった。彼は少し驚いたように目を上げ、それから優しく笑った。


「ええ。落ち込んだ時に読む癖があって」

「あっ、落ち込んでるんですか?」

「……実はそれなりに」


 その返答がおかしくて、私は久しぶりに自然に笑った。


 彼の名前は榊悠真(さかきゆうま)と名乗った。出版社で編集者をしていて、担当していた作家が突然失踪し、締切寸前で実はかなりの修羅場らしい。


「それは……なんとも大変なお仕事ですね」

「笑い事じゃないんですけど、もう笑うしかなくて」

「わかります」

「あっ、わかりますか?」

「私も最近、色々終わったので……」


 言ってから、少しだけ後悔した。


 こんなこと初対面の相手に話すことじゃない。けれど、榊さんは余計な詮索をせず、「そっか」とだけ言った。その距離感が心地よかった。気づけば二時間近く話していた。


 本の話。仕事の愚痴。好きな映画。苦手な野菜。どうでもいい話ばかりなのに、不思議と心が軽くなっていく。


 店を出る頃には、雨は止んでいた。


「また会えますか」


 別れ際、榊さんがそう言った。


 なんかドラマみたいだな、と少し思った。

 でも不思議と嫌じゃなかった。


「……はい」


 私は静かに頷いた。


 それから私たちは、週に一度会うようになっていた。

 もっとも派手なデートではない。仕事帰りにご飯を食べたり、本屋を歩いたり、休日に美術館へ行ったり。榊さんは決して押しつけがましくない人だった。


 無理に励まさない。

 正論を言わない。

 沈黙を怖がらない。


 ある日、私が仕事で大きなミスをして落ち込んでいた時も、彼はただ黙って隣を歩き、自販機のカフェオレを渡してくれた。


「こういう時、何て言えばいいかわからないんですよね」

「これだけで十分です」


 私は缶を握りながら言った。


「……なんか私一人じゃないって感じるので」


 榊さんは少しだけ目を細めた。


 その横顔を見た瞬間、私は気づいてしまった。

 ……ああ、この人を好きになってる。


 でもそれと同時に怖くなった。


 また失うかもしれない。

 また期待して、傷つくかもしれない。


 恋愛は幸福と同じくらい、不安を連れ添ってくる。

 だから私は、あえて気づかないふりをした。


 けれど冬が近づいた頃、榊さんの方から言った。


「真緒さん」


 イルミネーションが淡く(にじ)む夜道だった。


「俺、あなたといる時間が好きです」


 胸が静かに震えた。


「……はい」

「急がなくていい。でも、今のこの気持ちだけはちゃんと伝えたかった」


 真っ直ぐな声だった。


 若い頃みたいな激しさはない。代わりに、丁寧に差し出される温もりがあった。私は少し俯いてから、小さく笑った。


「私、こう見えて結構面倒な女ですよ」

「知ってます」

「あと……わりとネガティブだし」

「それも知ってます」

「そ、それと……あっ、すぐ不安になるし」

「うん」

「……それでもいいんですか」


 榊さんは迷わず頷いた。


「完璧じゃない人と一緒にいたいので」


 その瞬間、張り詰めていた何かが、ふっと解けていくのを感じてしまう。私は泣きそうになりながら笑った。


 三十一歳の恋は、二十代の頃みたいに劇的ではない。運命みたいな雷も落ちない。

 でもだからこそ……冷えた指先をそっと包むみたいに、静かに人生へ入り込んでくる。


 それはきっと、若い頃には気づけなかった【愛】なのだと思った。


 春になったら、二人で旅行へ行こうと話している。


 まだ未来はわからない。また喧嘩するかもしれないし、不安になる夜もあるだろう。それでも今は、誰かと「これから」を話せることが嬉しい。


 雨上がりの街を歩きながら、私は榊さんの隣で思う。人生は、思ったより悪くないのかもしれない。遠回りしたからこそ、見える景色もあるのだろう。


 そして恋は終わりがあるからこそ、新たに始まるのかもしれない。


 恋を諦めず、生きることを諦めない限りは――

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― 新着の感想 ―
「笑い事じゃないんですけど、もう笑うしかなくて」 このセリフ、本当に好きです! 情景が浮かぶような作品でした
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