9.歌声にのせて
登場人物
・沢見 愛音 ・堀池 雅
・雪園 とおこ ・沢見 音子
「沢見さん、堀池さん、休憩入ってください」
コンビニの中でおにぎりの整理をしていた私と、レジで細かい小銭などをしまっていた雅は、声をかけられ、素早く元気に「はい」と返事をしたのが、雅だった。あわてて、小銭をしまった彼女は、先程から時計を気にしていた。
「愛音、時間。入ろうよ、早く」
せかすように私に言った雅に対して、私は苦笑しながらうなづいた。
早速事務所に入りながら、財布を出して弁当を買う。
ここのコンビニは、オープンしたてなので駅に近く、お客の出入りも激しい。そして時給も良い。けれどさすがに弁当を買う時は、安くて胃に持つものを選ぶ。
「やっとだよ、休憩。ここまでが長いんだよねぇ」
なんて、年を取った人の口まねをしつつ言う。そして私も首を縦に振る。
「そうだね。……ところで劇団の方はどうなの? 相変わらず?」
サンドウィッチを食べている雅に訊く。
雅こと、堀池雅は、私と同様高校を卒業してから劇団に入り、フリーターになり、奇遇にも同い年で私は歌を習っているという、お互いに好きなことをしている点では、かなり共通点があり、私達はすぐに親しくなれた。
私は趣味で習っている程度だけど、いつかは劇団から女優になるのが夢の雅は、日本人離れした顔立ちで、目が大きく、その色は薄いブルーがかかっている。要するに父が日本人、母がフランス人というハーフなのだが、スタイルの方は特別とびぬけているわけではない。しかし髪型は見事に天然パーマがかかっていて、一つに束ねていてもその栗毛色の背中までのびている髪は、一際目立っていた。
「役はまだもらえそうにないんだよね。そんなに甘いものじゃないし」
暗くなりがちなセリフを明るく言って、にっこりと笑った。
「でも、必ず役取ってみせるから」
これだ。
私と雅の違いは《自信》だと感じた。
性格の問題だと言われれば、それまでなんだけど。
どんなに共通点があったとしても、これだけは真似できない。
彼女は常に明るく前向きで、自分の自信を態度で表す。
その自信はどこからくるのだろう。
私はと言えば、生まれた時、音楽好きな親に『音楽を愛するように』愛音と名付けられ、小さい頃にピアノを習っていたが、二年でやめた。面白いと思わなかったからである。けれど姉は十五年も習い続け、今は音大に行きプロを目指している。
同じ姉妹なのに、私はそれが出来なかった。
そのコンプレックスが、私の心の中を占めている。
自信がなかった。
ジーパンの上にハンカチを置き、小さめな弁当を食べてる私に、今度は雅の方から訊いてきた。
「歌は? ちゃんとやってる? 今日レッスンなんでしょ?」
一気に喋りだす雅に、私は時計を見て、休憩の時間がわずかなのに気が付いた。そして、半袖の制服を着ながら、気が重くなっているのを感じていた。
「一応、練習はしているけど……それが上手くなっているか分からない。だってまだ二年半だし」
唇をとがらせて、仕方なく答える。
「それでも、自分から習おうと思ったんでしょ? だったらいいじゃない。私たちは今が旬の二十一。好きなことするのが一番!」
鼻歌を歌いながら、制服を着る彼女を見て、私は皮肉交じりに言ってみた。
「……雅はいつも前向きで、うらやましいわ」
「何言ってるのよ。時間は前に進むんだから当然じゃない」
高笑いしながら返事をされたけど、あえて無視して「時間だよっ!」と事務所から出る。
その間に、肩まであるストレートのセミロングの髪を少しひねってバレッタで留めておく。こうしておけば暑さもしのげる。遠くに蝉の声が聞こえる。
「あと四時間。頑張るか」
力強く雅が言って、そのまま続ける。
「レッスンまでしっかりやろうね」
手を洗いながら言った彼女に対して、私は独り言のように小さく呟いた。
「そういえば、何か話があるとか言ってたな」
何だろうと思いつつ、私もレジの側で手を洗う。
残りの時間に、うんざりしていたけれど午後は割りとお客が多く、時間が早く感じ、すぐに上がれた。
「お先に失礼します」
ロッカーのハンガーに制服をかけながら、雅と声がハモってしまい二人で目を合わせて笑う。
「それじゃ。またね、愛音。何かあったら電話いつでもOKだから。親、うるさくないし」
優しい雅の言葉に感謝しつつ、「ありがとう」と言葉を返した。
歌の教室は、コンビニの近くなので教材は持ってきていた。
夏の暑さを、木々の陰に隠れて自転車を走らせる。
車が一台通るか通らないかわからないくらいの道を、ゆっくりとこいだ。
知らずに習っている歌を口ずさむ。流行りの歌よりも歌いやすい気がする。
今、習っているのは『出船』である。一番を歌い終えない時に、先生の教室に着いた。足に力を入れ自転車を止めて、カギをかける。
「こんにちはー。沢見です」
かん高い声でドアを開けると、声が反響する。
「ああ、沢見さん。いらっしゃい」
ふくよかな顔立ちをした先生に「はい」と返事をしつつ、クーラーが効いている広い部屋をありがたく思う。
「暑いわねえ……。もう夏だものね。……じゃ、発声からしましょう」
楽譜台の高さを調節した私に、先生が声をかけて下さり、「お願いします」といつものあいさつをして始める。
鏡を目の前にし、頭を上げ、肩幅と同じように足を開く。
鏡の後ろに少しウェーブの入ったショートカットの先生の後ろ姿が見える。
四十代前後の先生は、白髪を隠すためか、茶色く髪を染めていた。
ポロン、とピアノの音が部屋中に響く。かなり調律をまめにしていると思う。ピアノの上には、譜面が何枚か置いてある。
大きく息をはいて吸う。私はこの発声の時が一番好きだ。思い切り声を出せる。
《あ》で発声していく。ドレミレド、半音階ずつ上がっていく。高くなるにつれ、お腹に力が入る。息を吸ってはいて、だんだん声が高くなり、声が出なくなる。
はぁーと、私は大きく息をはいた。
「今日はここまでかしらね」
先生が微笑む。先生の声は、そのままお腹から出てくるくらいのびがあった。
「じゃ次は歌、何ページだったかしら?」
穏やかに先生が言う。まるでソプラノのその声を、ピアノのキィにあわせたように、とてもキレイに。
フレアースカートをピアノのイスから立った時に、なびかせて、そんな先生にページ数を答えて背筋をのばす。
「『出船』ね。さあ、お腹から息を吸ってみて。景色を思い浮かべて。じゃいくわよ」
ポロン、高い音が出る。そして低い音。この出だしは哀愁があってとても美しい。そしてそのまま歌に入る。
「ちょっと待って。そこで発音をしっかりね。出だしは特に。これはすごく大切よ」
はい、注意された所を楽譜に書き込みながら返事をする。
しばらく約三十分後の練習を終えて、「ありがとうございました」と言った後、とおこ先生はピアノから手を離して私の方を見た。
「今度、わたしの母校でコンサートがあるの。もちろん参加するのは後輩達だけど、行ってみない? 必ずあなたのプラスになると思うわ」
突然の話だった。大事な話ってこれだったのかなと、ふと頭をかすめた。
「とおこ先生の母校って……?」
「有美音楽大学よ」
音楽ではかなり名の知れている大学を、先生は実にあっさりと答え、私はそんな立派な音大にと迷ったけれど、私のプラスになると聞いて、勇気を出し「行きます」と答えた。
正直言って怖かった。
姉に対するコンプレックスで、そう答えたのかも知れない。
五日後、土曜日の午後六時からの会場で、先生はさすがにグレーの上下のスーツを着て、胸の方には赤い花のコサージュをつけている。
私は安物の青いノースリーブのワンピースだったし、髪もいつものようにバレッタで留めていただけだったので、場違いのようでとても恥ずかしかった。
ピアノの演奏が続き、その後に歌がプログラムに入っていた。
ピンクかそれともオレンジか、どちらとも言えない色の胸元が大きく空いてスパンコールを散りばめられたドレスを着た人が出てくる。髪の長さはアップでキレイにまとめられているため、分からなかったけど、そのドレスと髪飾りは同系色でとてもよく似合っていた。
一人だった。
曲名は「オーミオバッビィーノ」だった。私自身、初めて聴く曲でもある。
伴奏が始まり、私は歌を歌う人を凝視し、思わず息をのんだ。
なんて声を出す人なんだろう。
曲を聴くのが初めてだから、上手い下手は分からなかったけれど、澄んだ声、幅があり感情移入の素晴らしさ、そして盛り上げる所を自然にさらりと上げていて、何よりも自信があった。堂々としてた。
自信なんてない私に、それは強烈に心の中で印象づけられた。
本当に上手い人っているんだなと、強く感じてしまう。当たり前のことなのに。
誰なんだろうとあわててプログラムを見る。
“前川 優乃 二年生”
二年生? ということは十九歳。
習い始めたのはいつの頃か。
歌も歌えず、感情移入もできず、まだ歌を二年半しか習っていない私が妙に空しかった。
そんな事を考えていたら期待していたアンサンブルを聞き逃し、あっという間に終わってしまった。
「どお? 楽しかったでしょう?」
とおこ先生が明るく話しかけて下さったのに、私は堅い表情のままでいてしまう。
そして唐突に言われる。
「あなたも、うちの発表会に出てみなさいな」
え? 驚きながら聞き返す。
「発表会ですか? 無理です! 私、歌えないです!」
あんな素敵な歌みたいに歌えないし、恥をかくだけ。
そう目で訴えたけれど、あくまでとおこ先生は笑う。
「『出船』歌えるじゃない。とにかく、そういう場に出るのも必要よ。去年も一回出たじゃない。初めてじゃないでしょう?」
「でも」って言いかけた私の言葉は、先生の声にかき消された。
「あと三ヶ月あるから、九月まで頑張りましょう。それにね、ピアノだけじゃつまらないし」
そこまで言われて、私はもう後戻りできなくなった。
あの十九歳の声が、まだ耳に焼き付いているというのに。
電車に乗って、暗くなり始めた道を歩き、私は先生にあいさつをして別れる。
外はむし暑い。時々吹く風が心地よい。
その夜、この情けない気持ちを誰かに話したく、雅に電話したら、彼女も用があったらしく、私から電話した事に喜んでいた。
何でも今日、劇団の中での役をもらえたと言うのだ。
それを聞いた時、私はすごくみじめになり話すのをためらったほどだった。
普通なら素直に「おめでとう」と言えたのに、わざとらしく言ってしまう。
そして私自身、今日の出来事一気に話した。前川優乃のというすごい歌い手がいること、その上、自信を無くした私に発表会へ出るということなどを、なるべく分かりやすく説明した。
雅は時折あいづちを打ち、静かに聞いてくれたけれど、彼女が言った事は、私にとってすごいショックだった。
「何でそこであきらめるの? 愛音ってそうだよね。自分は何も出来ないっていう話し方するね。そりゃ、お姉さんのことを考えちゃうとそうかも知れないけど。けど、違うでしょ? その上手い子のことを気にして、怖がってどうするの?」
そうきっぱり言われた次の瞬間、私は電話口で雅に向かって叫んでいた。
「それは、雅が、雅が役もらえたからそんなこと言えるんじゃない。役もらえて自信ついたからでしょ? そうよ、私は自信ないわ。だけどどうして、そういうことを言うの?」
言い終えたと同時に涙があふれた。
雅の言った言葉が、すごく悔しかった。
でもそれは多分、当たっていたから……。
雅は「心配してるんでしょ!」と強く言ってくる。
少し気持ちを落ち着かせてから、私は小さく「ごめん」と言った。
雅も気分悪そうに「お互い様ね」と返した。
自信がないと言っても、これから大切な発表会があるというのに。
日時は一日も変わらず、過ぎて行く。
それからの日は、バイトが終わり次第、家へ帰り、歌の練習をするようになった。
分からない点があれば、先生の所へ走り、教えてもらった。
発表会のためなら、暑さも我慢できる。
毎日一時間ほどの練習は、大変だとか思う暇もなく過ぎて行き、コンビニで仲直りした雅との会話がオアシスのように感じられ、そして夏のこの季節に風邪だけはひくまいと、うがいをしたり努力していた。
レッスン日、毎回とおこ先生に出だしを注意され、歌を録音し、発表会へ備える。
「発音をしっかり。今宵の『こ』おなごりの『お』、そして最後の方のこうたは『お』に聞こえないようにきちんと『こ』と発音して。後は声は大体出てきてるから、もっと前に出して。……そうね、難しいけれど感情移入をしっかりと。『夜、船が出る。これが最後かもしれない。その海の波間に雪が舞い落ちる。もう会えないかも知れない淋しさ、悲しみ』……悲しい美しい景色でしょう? それをもっと自分で感動して。本人が感動しなければ、周りも感動しないわ」
言われたことをしっかりと聞きながら歌ってみるけれど、どうしても上手くできない。
あの子はできるんだろうな。
「先生、この間のコンサートで歌ってた人、すごい上手でしたよね」
唐突に言った私の言葉に、先生はえ? という顔をしたけれどすぐ見当がついたようだ。
「ああ……。優乃ちゃんのこと? 彼女は上手いわよ。小さい頃から習っていたし、その世界に入ろうっていうんだから」
驚いた。どうやら先生はその子を個人的に知っているらしい。
「先生、ご存知なんですか?」
「ええ、昔、近所に住んでいたのよ。そんな長い間でhばなかったけれどね」
そうなんですか、なるほどと思って呟いた。
「あなたも素質あるわよ。頑張らなきゃ。本当にいい線まできてるんですもの。発表会まで、もう二ヶ月を切ったわ。一ヶ月くらい。やってみましょう」
励ましてくれた先生の言葉に感動して、私は笑って返事をした。
その帰りに、テープだけでなく、姉の伴奏で歌を歌いたいと、姉のピアノを聴いてみたいと思った。
……そう、何故か急に。
ただいまを言って、台所にいる母に話しかける。
「音子姉さん、二階?」
母は、細かくネギを刻みながら「そうじゃない?」と呑気な声で言った。
二階にすぐ上がり、音子姉さんにお願いしてみる。大学での勉強中か、何か調べ物をしていたにも関わらず、すんなり受け入れてくれた。片付けもせずにそのまま部屋を出る。
部屋から出て下に降り、居間のピアノの所へ行く。お世辞にも広いとは言えない居間の中で、姉がピアノの音を取る。
ピアノをやめてから私は、音程を取るぐらいしかしてなかった。姉が弾いているのは、もちろん聴いていたけれど、それでもなるべくピアノから離れていたのは事実である。私は、ずっと辛くて逃げていた。歌を練習していたのは、家族皆、気づいていたけれど。
姉が軽く鍵盤を叩いて、小さく口元で笑う。鍵盤を叩く時に背中の方まである、パーマがかかっている髪の毛が揺れた。どちらかというと、雅よりきつくパーマがかかっている。
「久しぶりじゃない。愛音から言うなんてね。それで何の曲?」
「『出船』なんだけど……。ほら、今度発表会で歌うんだ」
楽譜を持ちながら言う私に、
「ああ、いつも歌っている歌ね。愛音はいいわよ、声が通るから。歌に合ってるわよね」
ひらりとベージュのプリーツスカートを直しながら、意外な事を姉が言った。
「そうなの?」
姉の発言にびっくりしながら訊き返す私に、姉が鍵盤を叩くのを止め、驚くように割りと細い瞳を、更に細くして怪訝そうにした。
「そう思わないの? ……なんだ、私はてっきりそれに気づいたからだと思ったのに」
「違うわ。私は歌が好きだから。ただそれだけ」
複雑な気持ちで言葉を返し「始めよ」と声をかける。
ポロン、初めのピアノの出だし。すごく好きだ。
息を吸って、発音をしっかりと。景色を思い浮かべて……始まる。
二番までを三回歌ってから、姉にアドバイスを求める。
「うん、いいんじゃない。やっぱり毎日歌ってると上手くなるわねぇ。ああ、でも一つだけ。もうちょっと感情移入できればいいね……」
ありがとう、私は言いながら冷蔵庫を開け、むぎ茶を出して、姉にも渡しながら自分も飲む。
夏が終わっても、外からは生暖かい風が入る。だから、歌を歌い終えた後の冷えたむぎ茶は、とても美味しい。
歌を歌うと、すごくのどが渇く。もう秋に入るというのに。
練習しているうちに、時が過ぎ発表会まで一ヶ月を切り、あと一週間という時に雅と休憩に入った。
髪の毛をくしでとかしながら、雅が言う。
「愛音、発表会に向けてどう? 調子は」
「難しい」
お昼の、おにぎりをほおばりながら訊いていた雅に、私は一言で返す。
「何それー? 心配してるのに。場所はレインタウンホールだっけ?」
「うん。あそこ広いんだよ。去年もそこでやったから知ってる。雅が来ても期待に応えられるかどうか」
そう。雅がわざわざ来てくれるというのだ。何も去年、来れなかったとはいえ気にすることはないのに、と思う。緊張もするし。
「おまけに、練習今日でラスト」
ため息をつきながら、小声でどうしようと言ってしまう。
「自分では、どう思っているの?」
手を拭きながら問いかけてくる。
「やっとねー、感情のこめかたとか分かって来たかなって思ったら、もう本番」
私はまた一つため息をついた。
バイトから上がって、先生の家へ向かいながら、歌のことで頭がいっぱいになっているのを感じた。
考え事をしていたので、すぐに先生の家へ着く。
発声から始め、発表会に向けての助言をもらう。
「すごくいいわ。この調子で本番迎えてほしいくらい。声が前よりものびてきてるし、感情も入ってる。最初の頃とは別人みたい。もう、季節変わってるんだから、風邪に気をつけて、本番を迎えてちょうだいね」
「はい、ありがとうございます」
そうかな。少しは成長しているのかな。心の中で問いかける。
私は発表会の時間を確認し、リハーサルの時間にも合わせて会場に行くことにした。
一日が過ぎるたびに、声の調子に気を使う。
当日、その日は穏やかで風が気持ち良い、秋の日だった。
リハーサルで当たるライト、大きなステージに立つ位置、そして青い実にシンプルなドレスを着る。首もとと半袖の所がシースルーで、足元まである丈の長さ、下の方には細かな刺繍が入っているだけであるが、ドレスはとおこ先生が貸してくれたものだ。
髪はセミロングを三つ編みに束ねて、アップにした。
歌だから声を響かせるため、グランドピアノの高さを低くする。
鍵盤の上で、あのいつもの旋律が流れ、まだ人が少ないとはいえ、十分に緊張した。
一応歌い終えた私に、先生が「本番もね」と声をかけて下さった。
リハーサルのように歌えれば、まだいいけど。リハーサルで緊張感が漂う。
本番では練習の半分も実力を発揮できないと聞いていたから。
すべてのリハーサルを終え、アナウンスが入り、発表会が始まった。
私の出番は十六番。
ピアノとピアノの間に歌を入れる。
歌を歌うのは私一人だ。
他の人達は、大体が保母さんらしく出たくない人が多いそうだ。
手が小刻みに震える。
順番が近付くにつれ、緊張が増してくる。
震え出してきたけれど、気をしっかりと持つ。
そして楽屋から出て、舞台裏に入った。
そこからこわごわと、客席の様子をうかがう。思ったよりも子供達が賑やかである。
私は歌詞を間違えないように、口の中で何度も何度も繰り返す。
次だ……!
アナウンスが入る。
「十六番、沢見愛音さん、曲は『出船』」
心臓が今にも爆発しそうに波打っている。
ステージに上がる時、ドレスを踏まぬように、気をつける。
位置に立ち、肩幅と同じように足を広げた。そして、上を向く。
背筋をのばし、下の客席の方は見ないようにしつつ、頭を上げる。
ピアノを弾いてくださるとおこ先生と、目で合図して、お辞儀をしたあと、伴奏が流れ出す。
大きく息を吸う。
『発音をしっかりと』
『景色を思い浮かべて』
『感情をこめて』
あっ……!
緊張のあまり、声が裏返ってしまった。
しまった……!
けれど、なるべく顔に出さぬようにそのまま続ける。
やがてピアノがゆっくりと終わりを示す。
……まあまあ、歌えた方なのかな……。リハーサルのようにはいかなかったけれど。
そう思いつつ、先生とお辞儀をした。
顔を上げた時、まばゆいばかりの脚光を浴びた。
そして、信じられないほどの拍手が耳に飛び込んでくる。
これは何? こんな拍手もらったことがない。去年はこうじゃなかったもの。
ボーッと立ってたままの私が、慌ててステージから去ろうとした時、私の近くに小さいピンクのバラの花束が見えた。
誰だろう……?
雅だった。興奮して顔を赤らめて花束をくれた。
「すごいよ、これ。だって水を打ったように静かだったよ、客席。これのどこが自信ないの」
後ろからまた人が来たようである。
自分の目を疑ってしまう。音子姉さんだった。拍手をしてくれてる。
私は姉が来ていることに心の中でかなり動揺していた。
そして転ばないようにステージから離れて、小さな声で二人を楽屋に呼んだ。割りと小さな部屋で、机の上に子供の好きそうなお菓子がならんでいる。
そして私は、話を聞く体勢に入った。ドレスを汚さないように、すぐ着替えながら。
「何で……?」
何で音子姉さんがいるの? 何で来てるの?
家族には発表会のことしか話してなかった。ピアノをやめて歌を習ってるなんて気が咎めたし、妙な気を使ってほしくなかったからだ。
「私が教えたの」
いつの間に……。と思ったけれど、雅のことだ。私のいない時間に電話して教えたのだろう。
ドレスをハンガーにかけ終えて、座っている私に向かって姉が言った。
「上手だったわ。家での練習のかい、あったわね。家で私の言ったこと、覚えてる?
自信無くす必要ないじゃない。これだけ歌えれば」
優しく微笑みながら言う姉に、びっくりした。私が姉にコンプレックスを持っていたことに、姉は気づいていたんだ。
目頭が熱くなった。
ステージからピアノの演奏が微かに聴こえる。パンフレットが手元になかったから、何の曲だかは分からなかったけど、その演奏は、遠くから心の中に染みて来た。
ありがとう。
この日のこと、忘れない。忘れられない。
歌い終えたこの爽快感は、他の事では絶対味わえない。
あれだけ練習した日々が、一瞬のように終わる。でも、空しいとは感じなかった。むしろ逆に、とても充実した日々だった。私にも、何かが出来るかもしれないという事を教えてくれた、かけがえのない三か月だった気がする。
雅と姉、そして拍手をくれた人達が、私に無くしたものを取り戻してくれたようだった。
それは、これからきっと歌声にのせてふくらむだろう。
《自信》、プラスにつながるもの、それは私の歌の中にある。
《終》
《初出》
1998年5月4日発行「歌声にのせて」




