8.電話
その音に、私はすごく緊張する。
“トゥルル トゥルル”
三回目のコールが鳴った時には十一時前である。私は急いで、ソファから立ち、聞いていたCDを止めた。
「もしもし?」
心臓がどくんと鳴っているのが分かって、今、自分がどんな声を出したのか覚えていない。
「あ、由香? 私、美樹」
肩ががっくり落ちる。そしてため息一つ。
この電話の主であるOL仲間の美樹は、電話でテンション高く、私がいつも期待している時にがくんと落ちこまさせてくれる達人である。この間なんか、私が彼と一緒に居るのを知りつつ電話をして来た。その時の彼の態度は言うまでもない。
さすがにここまで来ると、ある意味、尊敬してしまうけれど、彼女曰く「だって人の幸せ聞いてたり、みたりするのって楽しいじゃない?」だそうだ。少しは遠慮してもらいたい。
だから、未だに付き合っている人がいないのは、多分きっとそのせいだろうと、思ってしまう。
悪気があってのことではないから、付き合いが長い分、その点は私も慣れて来た。
しかし、今回の電話の内容は意外だった。
「ねえ、好きな人ができたの。どうしよう」
どうしようも何も、初耳であるし、いつも私たちのことをからかっているくせに、と電話口で声を立てずに笑ってしまった。
「あなたね、どうしようって好きだって言えばいいじゃない」
私は少々呆れながら、高校生のような悩みを抱えている彼女に言ってみる。
「うん……。だけどね。由香の彼の友達で、何かこう、言いにくくってさ……分かるでしょ? 誰だか?」
え・・・・。
電話の向こうの彼女の声がだんだん暗くなってきて、彼女が真面目に考えているのが見てとれた。
その彼の友達というのは、山里君といって彼との仲はすごくいい。
顔立ちは確かに整っている方だと思うし、身長もあり仕事もできるそうだ。
美樹が好きになるのも分かる気がする。クールだから言いにくいっていうのもわかる。
ノロケて言えば、私の彼よりかは劣ると思うけど。色んなことをぐるぐる頭の中で考えながら、美樹に訊いてみる。
「もしかしてさ……」
一回そこで言葉を切って、今美樹がどんな表情をしているかを想像してみた。
綺麗にカールがかかっている髪を指で軽くいじりながら、頬を赤く染めてるだろうか。
そして続ける。
「この間、四人で飲みに行った時に、酔ってるところを送ってもらったから……とか?」
うーん、と電話の向こうで彼女がうなっている。どうやらそれだけではないらしい。
「それもあるんだけど、この前電車の中で、人込みがすごくてホーム に降りられなかった時に、人をかきわけておりやすくしてくれたのよ」
その時のことを思い出したのか、声に明るさが戻って来ている。
私は軽く羽織るものを持って、子機をにぎり直す。簡単にバレッタで留めて いた髪をストンとおろす。そしてしばらく無言でいて、それからすっきりとした感じの声で、
「そうだね、考えるより実行しなきゃね」と実に彼女らしいセリフを言い、「誰にも言わないでよ」と強く、念を押すように私に言った。
「そのほうがいいよ。私だってそうしたんだもの」
電話の子機を右手で持ったり左手に変えたりしながら、部屋の電気をもう一つつけてみる。
いきなり明るくなり視界がぼやけて見えた。
ちょうど、その時。
“プッ プッ”
とキャッチの知らせが鳴り、美樹に短く「ごめん、ちょっと待ってて」と言い、キャッチに変える。
「もしもし、小宮ですが」
つい電話だと声が変わってしまい、心の中で怖い女の性だなあと思いつつ。
「あ。由香? 俺」
ちょっと迷ってしまった。司さんからの電話を私はずっと待っていたから。けれど今は仕方ない。
「ケイタイにかけていい?」と訊いてみつつ唇をかんだ。
悔しい。
やっと電話がかかってきたのに……。
司さんは私より五つ年上で、仕事がかなりハードで、こっちからの電話は、ほとんどあきらめていたから。彼が「いいよ」と言うのを聞いてキャッチを素早く片手の指で、元にもどす。
「ごめんね、長く待たせてしまって」
多分、言葉通りに聞こえなかったと思う。
ずるいな、私って。厭味入ってなかったかな。そう自問自答する。
だけど彼女は、私が彼と話しているうちに、踏ん切りがついたらしく、また少しテンションが上がった声で言う。
「ううん。いいわ。彼からだったんでしょ」
珍しく茶化さずに、そのまま続ける。
「私、明日言ってみる。……仕事終わるまで待って、ケイタイに電話してみる。……でも失恋したら、また電話付き合ってくれるわよね。その時は会ってお酒でも飲みながら」
その声を聞いて私は、いつも彼女に戻ったことに安心しながら
「もちろんよ」と答え、電話を切った。
そして、一分も経たないうちに司さんのケイタイの電話番号をプッシュする。
「もしもし?」
「あ、由香です。さっきはごめんなさい。友達と大事な話してて」
側で電車の音が聴こえた。
「いやいいよそこがお前のいいトコだもんな。……実はさ今度の日曜日空いてるかと思ってさ」
「ええ、平気だけど」
デートかなって思ったけど、そんな感じではなかった。
「お前のこと、両親に紹介したいんだ」
彼が少し照れながら、はっきりとそう言うのを聞いて、私は突然の話に戸惑ってしまった。
「ずいぶんと急な話じゃない?」
「悪い」
彼が素直に謝るから、怒れずに、私はその日の予定を尋ねてみた。
「何時頃?」
「できれば、昼間のうちに指輪もかっておきたいからな、昼からでいいか?」
びっくりした。美樹の電話よりも。
指輪とか、紹介とかはもっと先の気がしていたから。けれど驚きよりも嬉しさの方が、何倍も強かった。彼の声を聴きながら、私は電話口でうなずく。瞳を閉じてゆっくりと頷いた時、涙がひとすじこぼれ落ちた。
「司さん……」
「何?」
彼のその優しい声が私の心に溶けていく。
「ありがとう……。多分私、今世界で一番幸せだわ……」
電話の向こうで彼が笑って「ばかだなあ。大げさだよ」と、耳の遠くで聞く彼の顔が頭に浮かんだ。
部屋の明かりが、涙でイルミネーションのように輝く。
その夜、私はベッドをずらして電話の側で眠ることにした。
その時の彼の声、耳に残しておきたくて。
三日後、美樹から、あのいつものハイテンションに磨きがかかった電話が来るとも知らずに。
《END》
《初出》
1997年12月29日発行「電話」




