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5.心の海

 潮の香りは、人の心を素直にさせる。

 海の波は、人の心を洗い流す。



 上京して五年。

 露中実月つゆなかみつきは、いいかげんに慣れた混みいった電車の中で、わりと整っている顔をゆがめ、心の中で大きくため息をついた。

(まいったな、髪の毛上げて来れば良かった)

 今朝の通勤ラッシュと同じことを考える。

 確かに今はもう七月の初夏である。暑さも普通の倍はあるだろう。

 まぁもう少しで着くだろうといいかげんな事を考えて、我慢する。

 一つの駅に止まる度、あと何コ目かなどと計算しそのまま家で寝転びたいと思うのだ。

 最寄り駅に着いた時、実月は電車の真ん中から出て来て、パーマがかかっている肩より少し長めの髪をかき上げながら、少しは、暑さをまぎらわそうとするけれどほとんど変わらない。

 くたくたになってる足を必死に持ち上げ、マンションまで歩く。

 しかし少し高めのハイヒールを履いて姿勢がいい彼女は逆に、はつらつとさえ見える。

 マンションが見えてくると元気になってきて、歩く速度も自然と速くなる。

 そしてマンションに着けばごく自然とポストを開ける。長い爪のマニキュアもポストの色に合っていた。

 その、ポストからは合計三通の手紙とハガキである。五階までのエレベーターに乗りながら、興味なさそうにハガキに目を通す。

 チーン! エレベーターが五階で止まり実月だけが出てくる。

 パーマをかけてる髪が、家の鍵を開ける 時に邪魔になる時があって、多少不愉快になる。実月は素早く鍵を開け、まだ見ぬ手紙を読む為に、バックをソファーに投げ置き、クーラーのリモコンに手をつけた。

「露中 実月様、か。誰かしら?」

 口に出して言った瞬間、彼女はあわててペーパーナイフを取り出し手早く中の手紙を読み始めた。宛て名が懐かしい字だったからである。

 手紙の内容は、高校時代の友人が結婚するので結婚式に来てほしいとの事であった。ここまでは別に大した事ではないが、その友人の名前が桜井(さくらい)花南(かなん)だと知って実月は驚きを隠せないでいた。そして更にその結婚の相手が野田(のだ)雅之(まさゆき)と書いてあるのを見た実月は言葉が出なかった。

 力を無くして床に座り込み、心臓が早鐘のように打っているのを実月は自分で感じていた。

(野田雅之――――――? 何で彼と……? 花南がどうして……?)

 頭の中に浮かぶのは疑問ばかりである。

 桜井花南。クラスの中でも可愛い方で、ロングソバージュがよく似合った子である。実月とも仲が良く、渡瀬(わたせ)桃子(ももこ)という子を含め、三人でグループを組んでいた。花南はクラスの男子にも受けが良く、とてもよく笑う子だった 。

 そして野田雅之。クラスでもハンサムというには少し遠い存在で実に目立たない男子でいた。

 しかし実月は、高校三年の最後の一年に彼を見て好きになったのである。

 実月自身「どこが好きなの?」と訊かれても答えられなかったかも知れないが、彼の雰囲気や何気ない仕草等が好きなのかも知れなかった。


 やっと少しずつ落ち着いてきて、花南と野田が結婚する事は理解できるようになったが、やはり何でよりによって野田なのかは全く判らなかった。

(でもまさか花南に訊く訳にはいかないし、だけど、一体どういういきさつで結婚なのか知りたいわね……。高校時代の時には何もなかったのに、いつの間に……)

 落ち着いてきたら、今度はそれが気になって仕方がない。

 結婚式の招待状を見つめながら、しばらく座り込みつつ、やがて電話帳を見て桃子に電話をする。

(いればいいけど……)

 不安げに受話器を握り締める。

“トゥルル”

 呼び出し音が五回目で実月は不安が的中したと思う。

(あと三回呼び出し音が鳴ったら切ろう……)

「はい、渡瀬ですが」

 ホッと胸をなでおろすのは実月である。

「もしもし?」

 訝しそうな桃子の声が聴こえた。

「桃子? 私、実月」

 心の中の動揺を懸命に隠しながら明るく言う。

 一瞬の沈黙の後、二人は同時に口を開いた。

「久しぶりー!」

 そしてその後の笑い声。

「どうしてたの?今まで。全然連絡取れなかったじゃない」

 笑いながら言う桃子の顔が、実月には目に浮かぶ。顎の所までのストレートのボブに、真っ赤な口紅。長いまつげ。桃子は花南とは反対に美人タイプで、同い年なのに年上を感じさせるところがあったのだ。

「……うん、ごめんね。ここんトコずっと忙しくて、帰ってくれば疲れてダウンだし、だから……」

「あぁ、そうよねー。同窓会にも来れないぐらい忙しかったんでしょ?」

「うん、まあね」

 話しながらいつ、花南のことを切り出そうか迷っていた。

(さりげなく話をふれば……)

 そう思った実月は声が震えない様に一生懸命に花南の事を切り出した。

「あの……さ、花南の結婚式の事なんだけど」

「え? ああ届いたのね、実月の所にも。当然だけど。うん、それがどうかしたの?」

「……いつの間に、野田君と?」

 そう、これが訊きたかったんだ、と実月は思いつつ桃子の反応を待つ。

「あ、そっか。実月、同窓会こなかったものねぇ。二回ぐらい前の同窓会の時にね、何か告白タイムみたいのができちゃって。っていうより高峰君が三条さんに告白したのよ。それでもう皆で、盛り上がっちゃってね。その後、野田君が花南に告白したっていう訳なの。花南も好きだったらしいし、いいんじゃない?」

「そんな事があったの……」

(じゃあ、野田君は花南のことが好きだった訳なんだ……。私ってば片想いしてたんだ……)

 実月がそんな事を考えている間にも、桃子は話を進めていた、それが実月を傷つけるとも知らずに……。

「だけどさー、花南たら野田のどこが良かったのかしら? だって野田ってパァーとしないし、地味な方だったのにね……」

 実月はあやうく泣きそうになった。

(私だって好きだったのよ、私だって……!)

 一方的に桃子が喋る以外、実月は何も言わずに声を出さずに泣いていた。

 桃子はこういう面ではカンが鋭く、落ち着きを払った声で実月に問いかける。

「ねぇ実月、あなた、もしかして……」

 実月はそれに答えず、無理に明るい声を出した。

「三週間後よ、結婚式! ドレス買わなきゃね、初めてだし」

 実月がそう言った後、杏子が静かに呟いた。

「あなた、自分の事は何も話さないのね、あの高校時代の時から。私にさえも……」

 その言葉はあまりに悲しい絞り出すような言葉のように、実月には聞こえた。

 電話を切った後、実月はソファーに座りながら目を赤くしていた。

(どうして野田が? 花南も好きだったというの? 私たちは同じ人を好きになっていたの?)

「でも、こんなフラレかたってないよね……。高校時代のことは今はもう忘れかけてたし、どうしようもないのだから」

 実月は小声で、まるで自分自身に言い聞かせているように呟いた。


 心の中の声が聴こえる。淋しさと悲しみの声が、心の中から耳に入ってくる気がした。

 実月は、あまりにもすごい現実を身体中で感じ、腕を押さえながら、これからおこりうる現実を受けとめようと努力してみる。

 腕の震えが止まらない。仕方なく実月は冷蔵庫からビールを取り出し、プシュっという音を立てて開ける。冷たい苦味が喉を通り、大きくため息をつく。

(……ヤケ酒じゃないわ……。花南の結婚祝いよ……)

 一生懸命、自分自身に言い訳しながら二本目のビールを口にして、ビールを持ちながら両手で顔を覆うが瞳からこぼれ落ちる涙の雫までは隠しきれなかった。

(花南……。ごめん。ごめんね、花南……。今日だけだから……)

 そう、泣いている時間など無いのだ。仕事の帰りにでも、パーティードレスを探さなければいけないのである。

 おまけに実月は、結婚式の招待などを受けるのは初めてで、結構戸惑っていた。


「おつかれさまー」

「おつかれさまです」

 軽くお辞儀もして会社を出る。

 その帰りにまた、店を見てドレスを探すつもりでいた。

 結構たくさん見ているつもりでも、自分の好みのがなかなか 見つからないのが、彼女を焦らせる。

 足早になりつつも「今日こそは」と思う。角の所に小さな店があるのを見つけた実月は、ウィンドウに飾られた、可愛らしいセンスの良さが見られるドレスを見つめる。

(素敵だわ……落ち着いてるし、こんな店があるなんて知らなかった。少し歩いたけれどたまにはいいかもしれない)

 自動ドアが開き、二十歳前半とみられる女性がにっこりとして言う。

「いらっしゃいませ、どうぞ見て行って下さい。お体にもあててみて下さい。鏡もありますのでどうぞ」

 流れるような声でそう言うのを聞いて、実月は軽く微笑んだ。

 そして早速、ドレスを手にとってみる。

 しかしどれも今イチという所だったので、ウィンドウに飾られていたドレスを頼み、試着してみる。

(少し派手かしら……。でも体にぴったりだわ)

 淡いオレンジのフレアミニスカートで胸元に小さなリボンらしきものがあった。

 実月は鏡を見てしばし悩んだ時、店員の褒め言葉につられて、カードでそのドレスを買った。

「ありがとうございましたー」

 店員の声を後ろに聞きながら、実月は花南に電話しようと思った。

 手紙が着いてから三日後のことである。

 手紙に載っている電話番号を見て、それから結婚式の日時、時間などを見る。

(七月九日、日曜日。十二時から、か。電話口で、ちゃんと「おめでとう」って言わなくっちゃ。言えるかな……。私の昔の想いが気づかれないようにしなくちゃな……)

 気分を割り切って花南の所へ電話する。

“トゥルル”

 この緊張は三日前にもあった。そう、桃子に電話した時も。けれど、桃子に電話した時の緊張とは、明らかに違うものであった。

「はい、桜井です」

 花南の声にも実月は動じないようにし、続ける。

「露中ですけど……花南?久しぶりー。あ、私分かる?」

 電話口の向こうで、えーっという驚きの声が上がる。実月が予想していた通りの、花南の反応だった。

(変わってないな、花南)

「結婚おめでとう、花南。一番先になんてやるじゃない。もう二十三だもんね。同窓会で告白されたんだって? 桃子から聞いたわ」

「そう、そうなの。同窓会でね。実月も来れば、誰かからプロポーズされたかもしれないのに。ねぇ、二組一緒の結婚式って素敵だと思わない?」

「まるで夢みたいな話だわ」

 実月は小さく笑った。今のセリフを言った花南の表情は目に見えてる。子供のように、高校時代の時のようにきっと、瞳を輝かせている。実月の予想は多分当たっていただろう。

「今日ね、丁度結婚式に行くためのフォーマルドレス買ったのよ。私には派手かもしれないけど」

「えーっ。結婚式に来てくれるのぉー。わー嬉しい。でも、仕事忙しいんでしょ? 平気なの?」

「なーに言ってるのよ、日曜日だから会社は休みよ」

「えっでも、桃子が連絡取れないって言っていたから……」

「大丈夫!」

「ありがとうっ!」

 きゃー嬉しい等という声が聴こえて実月は微苦笑した。

「それにしても七月だなんて、珍しくない?」

 実月は最初に思っていた疑問を口にする。

「私もね、六月が良かったんだけど、ほら六月ってジューンブライダルだから予約がいっぱいで、仕方なく延ばして七月にしたの……」

 残念そうな声で答えが返ってくる。

 そこへ実月が意外なツッコミをする。

「でも花南って、野田君の事好きだったとは知らなかったな。野田君って冴えなかったじゃない? だからびっくりしちゃったわ」

 一瞬、花南が呼吸を止めたのを実月は感じた。

「うん……。好きっていう、そんな気持ちはあまりなかったような気がするの、高校時代はね。でも告白されて、何か一緒にいるとホッとするのよ、優しいし。だからプロポーズ受けたの」

「はいはい、ごちそうさま」

 実月は明るく言い放ち、今の身の回りの事等を話して電話を切った。約一時間程の長電話である。

 実月は受話器を置いた後、大きくため息をつき、うつむきがちになりながらも低く声を出して笑っていた。それはまるで、自嘲の笑いのように見えた。

『冴えてないのにどこがいいの?』

 これは、実月の自問でもあった。そして実月自身、それを感じ取っているかのようでもあった。


 結婚式があるといえど、会社はいつも通りである。

 仕事に、そして結婚式のことに頭を悩ませながらも、時間は容赦無く過ぎていく。

 実月は、花南に電話したすぐ後に往復ハガキを「出席」に丸をつけポストに入れた。

 仕事の忙しさに目が回りながらも刻々と時間は経ち、暇さえあれば花南のきっと可愛いだろうウェディングドレス姿を目に浮かべ、結婚式までの日付は残り少なくなっていた。

 けれど実月は勝手なもので、花南と野田が一緒にいるのは、正直あまり見たくはなかったのである。

 前日の七月八日土曜日に実月は実家へ帰り、前もって連絡していたので、親には色々と質問攻めになった。それは、実月の体調や悩み事、そして元気に東京で頑張っているかを、心配していた。

 実月は、買ったばかりのフレアードレスを綺麗にハンガーにかけて、明日の予定を考えながら静かに眠りについた。


 一面のステンドグラス、正面には少し大きめな十字架、床には真っ赤なジュータン、パイプオルガン……。

 そんな派手でもなく、かといってひそやかでないその教会はまさに花南のイメージだった。

 実月は早めに着いて、友人を待っていた。

 パーマがかっている髪はキレイに束ねてシニヨンにし、ドレスに合わせて、ピンクがかったパールのイヤリング。それが実月の、結婚式での服装だった。

 かすかな物音が、近づいてくる。

 懐かしい声、桃子と桃子に多分偶然会ったんだろうクラスメイト達の声だった。

 桃子が一早く実月の存在に気づき近寄る。

「久しぶりー。そのドレス可愛いじゃない」

「変じゃない?」

 顔を赤らめて言う実月。

「ううん、良く似合ってるわよ」

 桃子の明るい口調に実月はほっとする。そして桃子は、普通のボブカットに(しかしキレイにそろっていた)シースルーの割りとシックな黒でまとめているドレスである。

 お喋りしている間に一瞬一瞬が短くなる。

 結婚式に出席することは、実月にとっては昔の野田と彼に片想いしていた自分自身を忘れるためのけじめでもあった。時間間近、一同席につき、己のクラスメートの結婚式姿を見たがる。


 パイプオルガンでウェディングマーチが流れ出し、実月は姿勢を正した。

 キィと小さな音が響き、ドアが開く。

 後ろを振り返りながら、実月と桃子は息をのむ。

 花南は昔より綺麗になっていた。

 ソバージュを綺麗に上の方でまとめて白いバラを飾り純白のベールをおおっていた。そして、胸からの白いドレスはウエストがキュッとしめられ、その上から首もとから足元まで刺繍のはいったシースルーは花南と花南の雰囲気に良くあっていた。肩がふわっとしていて腕の所は肘を少しいったところまでの綺麗な花の刺しゅうはキレイに花南の腕を見せた。けれど足元まで割りとボリュームがあり、そして手には白いバラだけでまとめた丸いブーケを持っていた。

 実月と桃子は異口同音に「きれい……」と呟き、心底花南に見入っていた。

 野田も勿論、タキシードでビシッと決めていて人目を引いていた。男子たちも驚いていただろう。

 式は形式的に行われた。それでもやっぱり、実月は花南に見とれずにはいられなかった。



 快晴、よく晴れた空に雲がはえる。

 ……舞い散る紙ふぶき。式が終わり、教会から腕を組んで出てきた二人を、皆がいっせいに褒めたたえる。

「花南、キレイー!」

「よう野田、ちゃんと倖せにしろよ」

「花南ー。倖せにね」

 花南と野田は、話しかけてくれる元同級生に微笑みながら「ありがとう」と答える。

 そして花南は、手に持っていた白のバラのブーケを空へ投げた。

 わぁっという歓声が起こり、そのブーケの落下点を見ようとする女性達。

 それは静かに、そうまるで映画のスローモーションの様に空へ上がり、実月の手元に花びらが舞うようにふんわりと落ちた。

「え……?」

 一瞬戸惑う実月。それを見てにこやかに微笑んで花南は頷いた。

 桃子が「良かったじゃなーい」と喜んでいる。

「だってさ、ブーケを受け取ると倖せになるって言うじゃない。あーあ、次の結婚式は実月かな?」

 冗談交じりに笑う桃子。

(何で私なの……?)

 実月は不思議で仕方なかった。


 カランカラン♪

 披露宴まで出た、実月と桃子は昔高校時代に三人でよく帰り道に寄った喫茶店にいた。

「なに、まだブーケのこと考えてたの?」

 桃子が足をくみながら言う。

「だって、桃子は何とも思わないの?」

 隣のイスに置いてあるブーケを見て答える実月。

「なにが?」

「一緒にいて、同じグループにいたのは桃子も同じ じゃない。その事について……ね、何も思わないの?」

 一瞬目を見開いて桃子が声を出して笑った。

「そんな理由ぐらい分かるからよ。本っ当―に実月って鈍いわね。ああそっか、花南が私にしか言わなかったんだっけ」

 一人で納得しながら桃子は話を続ける。

「花南ね、あの子、実月に憧れてたのよ」

「……え?」

 実月の、コーヒーカップを持つ手が止まり宙に浮いている。

「どういう意味?」

 少しの間をおいて桃子は答えた。カウンターに手をつきながら。

「何ていうのかな、実月って思った事とかばんばん言えてたじゃない?反対に花南は、実月と似たようなこと同じような考え持ってても言えなかったみたいなの。一回相談されたことがあるのよ、私。『どう思う?』ってさ。自分も同じ事思ってる。けれど言えない、そういう劣等感があったらしいわよ」

「劣等感……?花南が私に……?」

「そう。だから判ったの、ブーケの事。あれはきっと花南自身のけじめだったと思うわ、過去の自分自身との劣等感に対する。あの子らしいわね」

 桃子はコーヒーを飲みながらふふっと笑う。

 実月と花南の丁度真ん中にいた桃子。今は、貝のように口を閉ざしているあの頃とは違ってすごく気分が楽になっていた。胸のつかえがとれたように。

「懐かしいわね、ここ」

 黙ったままでいる実月に、杏子が静かに言った。

「学校帰りによく寄ったものよね」

「そうね」

 短く実月が呟いた。彼女は今、複雑な心境であった。

「古くなった感じがするよね、あの頃と今と年が経ったって気がするわ」

 周りを見渡しながら桃子が笑った。

「でもさ、ここから海が見えるっていうのが今でも嬉しいね」

 茶色くなった壁、キィキィ音をたてるドア、少なくなったイス、響かなくなった時計……。

「……そうだね、それが好きだったんだもんね」

 ぎこちなく笑う実月に、桃子が目で笑った。

「うるさくない学校で良かったわ、ホント。……なのに、海の家が出来てる!」

 少しずつ変わっていく。

 場所も人も。

「話したらスッキリしちゃったわ。あなた、これからどうする?私は帰るけど」

「海、海見てくわ」

 実月の声に明るさがもどっている。桃子は安心したように微笑んで、

「そうね、じゃ私はお先に」

 と言う。

「また電話ちょうだいね。それから大丈夫だと思うけど、考え込まないように。それじゃあ、また」

「気を付けてね」

 交わす言葉は相手の思いやり。心からそれを感じ取って実月は桃子の背中を見送った。


 しばらくして実月は、コーヒーを飲み終えた後、桃子に言われたことを心の奥でかみしめていた。

 そして店を出て海へと向かった。


 海の家の近くで実月はずっと海を見ていた。

 七月になれば季節の変わりめ、海の家もかせぎ時である。客もわずかだがいることはいる。

 しかし実月は、場違いなドレスやバッグやそしてブーケを持ったまま海を見つめているので、周りの人達の目にはどう映っただろうか。

 海の家を隔てて、通路がある。

 潮の香り、波の音。

 それらすべてに実月は耳を傾けていた。

 この海にある数々の思い出。

 思い出の箱を開けて 見る。例えば、桃子が失恋した時もここに来た。そして花南の成績が落ちたときも。

(懐かしいな。いつも気が付けばこの海を見てた気がする)

 実月は花南からもらったブーケをどうしようか? という事で頭がいっぱいであった。

 おまけにその理由も聞いたから尚更である。

 このブーケを置いて行く事も出来る。けれど実月にはそれが出来なかった。

 無意識のうちにブーケを軽く手で持て余していた実月は、その自分の手の動きに気づき、ブーケを持ち上げようとした。

 その瞬間、ブーケから何かが落ちた気がする。何だろうと、下を見てかがんでそれを見たとき、実月の手が硬直した。

 一目 で手作りだと分かるカードであった。心臓がどくんどくんと大きな音で波打っている。あわててカードを開けて見る。割りと小さいカードである。

「花南……?」

 思わず呟いた実月の瞳には大きな雫。

 カードは実月宛てのものであった。


『親愛なる実月へ

 今日はわざわざ来てくれて有難う

 どうか、貴女にも倖せがありますように。

                     花南』


達筆な字で書かれたカードをくいいるように見ている実月。

(あの子、本当に私にブーケを渡すつもりだったんだわ……。もし風が強かったりして私の所に来なかったらどうするつもりだったの……⁉)

あふれる涙がカードにポツンと落ちる。

「馬鹿……」

 流れる涙をあえてぬぐおうとしない実月。その言葉は、自分の昔の気持ちを知っていたか否かの友人に向けて言ったものか、それとも好きだと告白しなかった自分自身に行ったのかは判らない。

 ただ一つ確かなことは、ブーケカードを大事そうに抱えている実月の姿であった。


 ゆっくりと歩き始める実月。

 周りは実月の知らない間にいつの間にか暗くなっていた。海に遊びに来てる人がいなくなり静かな海。

 相変わらず聞こえる波の音、そして潮の香り。けれど今日ほどその波の音、潮の香り等、海のものすべてを愛しく感じるのは初めてであった。

 歩き始めた実月を優しい風が包み込む。彼女は小さく微笑んでいた。

 落ちてきた陽が実月のキレイば輪郭を照らし出している。そして人気のない静寂な海が彼女の心にいつまでもいつまでも輝いていた。そしてその中、おしよせる波音、かすかな潮の香までが、実月の喜びを祝福しているようでもあった。

 彼女が小さく呟く、心から。

 ――――おめでとう、花南。


 潮の香りは、人の心を素直にさせる。

 海の波は、人の心を洗い流す。




   《終》



《初出》

1996年2月12日発行「心の海」

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