4.彼女
”彼女”こと木村由姫は何も見ようとしない。何も聴こうとしない。
“彼女”の瞳は、そのうつろな瞳から何を映し出そうとしているのか。
“彼女”の耳は、何を聴きとらえようとしているのか。
教師をのぞいて、その本当の理由を知る生徒は誰もいない。
ざわめき、そして歓喜の声。
四月、クラス替えのある時期。桜の花びらが舞う中、“彼女”のことを知ろうとする者はまだ一人もいなかった。
席が決まり、生徒はそれぞれの席に着く。
そして、いやいやながらもさせられる自己紹介が始まった。
窓ぎわに座り、外を眺めている“彼女”。風で桜が舞い上がって円を描いている様を、勿論“彼女”の瞳には映らない。
そして自己紹介の声も“彼女”の耳には届きはしない。
“彼女”の見るものは暗黒の暗闇の中か。
“彼女”の耳は音のないテレビのようなものか。
このクラスの担任。根本則子は生徒の自己紹介に一つ一つコメントをつけ“彼女”の所まで順番が回らないように慎重にし、何とかギリギリセーフでチャイムが鳴った。
則子は胸をなでおろし、けれど表情に出さぬように明るく言いはなった。
「じゃあ、チャイムが鳴ったからここまで。それとみんな、クラス替えをしたから休み時間は周りの人と話すように。以上、いいわね!?」
則子が言い終わらないうちに生徒達はざわめきはじめ、それを見ながら則子は教室を出る時、ふと手を止め静かに木村由姫こと“彼女”の方を見た。
誰かが“彼女”に話しかけることを願って。
まるで、則子の気持ちが通じたように、一人の生徒が“彼女”に話しかける。わりと明るい感じの生徒である。名を、福原優子という。
優子は、自分から話しかけたにもかかわらず反応がない“彼女”の態度に怪訝そうな表情を見せ、もう一度話しかけてみる。が、やはり反応がない。
“彼女”の視線が窓の奥の高い青い空にあるのを、優子は見た。優子はそのクレヨンで塗った様な青い空を、わずかに雲がかかったその空を、“彼女”が見えないと気づいていない。
やがて優子は一人の生徒に、“彼女”が何の反応もしないことを疑問に思い尋ねてみる。“彼女”と去年も同じクラスだった生徒にだ。その精とは大袈裟に肩をすくめて言った。
「無理よ、その子は。やめときなさいよ」
驚いた顔つきで優子は“彼女”を見た。
「ちょっ……と! 聞こえるわ!」
その生徒は手を振って周りの人達と笑う。
「大丈夫! 聞こえやしないわ。それとも……」
聞こえないふりをしているのかも、と言いかけた所で優子は身を反転する。
生徒じゃ話は判らない。
そう思い職員室へと足を運ばせる。
そしてすぐに則子の姿を見つけ、話し出した。
則子は一つ一つ真剣な表情で聞き、やがてゆっくりと話し始める。机の上を指でトントンと叩きながら。
「“彼女”はね、病気でちょっと休んでいた時期があったの。それから学校に来ても無口になったわ。たぶん、病気になってから学校に来るまでに性格が変わったのかも知れないわね。元々、無口な子だったから。声? 何言ってるのよ。聞こえてるに決まっているでしょ? これからも“彼女”に話しかけてあげてね」
優子は同情ぎみな表情をしながら返事をした。
翌日から優子は毎日“彼女”に話しかけた。則子はそれを微笑ましく眺めて祈る。
この状態が続きますように、と。
“彼女”を元にもどしてほしい、と。
けれど優子も二週間経っても反応がない“彼女”を見て、いらだたしく思ったらしく見事に則子の期待に背いた。そして別の生徒とお喋りの花を咲かせている。
則子は職員室に入るなり、溜め息を 一つもらした。
それから、目を閉じて思い出す。
その日の出来事をーーーーーー。
今からちょうど二年前。たまたま“彼女”は学校から一人で帰った。帰り道の時に運悪く、ビルの上から人が飛び降りたのを目撃したのである。ぶつからなかっただけ幸いだったかも知れない。けれど、“彼女”はその光景が頭の中に焼き付いてしまっている。
血まみれの死体。
救急車のサイレンの音。
何台ものパトカー。
恐怖と目の前にある死体を見て“彼女”は動けなかった。
これは悪夢だ……!!
よりによって第一目撃者とは……。
目を開いて「あの日」から現実に舞い戻る。
何とか、生徒が自殺者発見というのには学校から圧力をかけた。
だから“彼女”が発見した事を知っているのは教師だけという事になる。
何ていう事なんだろう……。
則子は自分の無力さに腹が立ってくる。
そう、「あの日」から“彼女”は何も見ようとせず、何も聴こうとしないのだから……。
毎年、クラス替えの度に則子は思うのだ。
あの生徒なら“彼女”を変えることはできまいか?と。
あの生徒なら“彼女”に反応するまで話しかけまいか?と。
そしてその願いはあっけなく壊される。
優子は変わった。もう“彼女”に話しかけることはない。
生徒は皆、変わっていく。
変わらないのは“彼女”だけ。
相変わらず窓の外を見つめている“彼女”。
しかし、その瞳は何も映そうとはしない。
いや、映しているのは二年前のあの出来事か……。
“彼女”に話しかける生徒は誰一人いない。
茜色かオレンジ色に染まる職員室の中で、則子は来年に望みを託す。
自分が出来なかったことの腹立たしさ。
そして。
そしていつの日か、この綺麗な空を“彼女”に見せてあげたいと思う。
朝の夜明けの日の出る景色を、かすかな雲が青い空にかかっている景色を、そして夕焼けの景色を、夜は月や星が光っている景色を、“彼女”に見せてあげたいと思うのだ。
いつか、“彼女”が自分から見ようとし、自分から聴こうとする日がくるならば……。
“彼女”の瞳は何も見ようとしない。何も聴こうとしない。
そして“彼女”は今日も窓ぎわに座って一言も言葉を発しないのだった。
《終》
《初出》
1995年5月30日発行「彼女」




