18.変わるココロ
「お前、また?」
五月の連休に入る前の曜日、会社帰りにうんざりとした口調で正義が言った。駅の出口前で、慌ただしく人が行き交う。電車の踏切の音が耳に響く。ホームに着いた電車の窓に陽光が反射して眩しく、一瞬目を細めた。明日は何の映画を観に行こうかと、予定を話していた私たちは、通りすがりの人にちらっと一瞥される。私は、僅かに背が高い彼を見上げた。まっすぐに見つめた視線の先には、彼の困惑した表情が映し出されていた。
「この前だって恋愛もの観たのに。なんでまたそうなの。俺は、たまにはホラーが観たいのに」
紺の背広のネクタイを緩めてはずし、ため息交じりに一言一言区切るように、ゆっくりとこぼした。自分の趣味を強要しない彼からすると、珍しい。
怒り始めたかな、と頭の隅で思った。短気な性格の私とは違って、割と穏やかな性格の彼の口調が少しずつ強くなり、だんだん不機嫌になる。どうやら今日は疲れているようだ。だけど、まだ大丈夫だという気もしていた。
「夏でもないのに、やめてよ。怖いじゃない」
言って私は露骨に顔をしかめた。
ホラーは苦手だ。あんなに血や何かが出る映画を観て、何が面白いのだろう。
「いい! だったら、観に行かない」
いつものように、引き止められるのを期待して、きっぱりと言う。栗色の柔らかい髪が、風により頬を撫でる。
正義は、太い眉をひそめてもう一度、ため息をついた。そして、陽に焼けた右手で、こめかみをおさえる。困った時の彼の癖だ。
「彩は……、ホントに我がままだな。……分かった、明日の映画はなしにしよう」
……え?
あきれたように言った彼の言葉に、僅かに動揺する。今まで私が言ったことに、彼は同意してくれていたのに。キャンセルなんてなかったのに。だけど、今更引き下がれない。落胆の表情を見られたくなくて、気を遣う。
「いいわよ。正義が、そんなに心の狭い人だとは思わなかった」
今更「思わなかった」も何もあったものじゃないと、自分でも思いながら、強い口調で言った私に対して、何か反論しようと口を開きかけた彼に、映画の恨みを込めて睨みつけた。そして思いっきり顔をそむけて、踵を返し、歩き出す。高いヒールの踵がカツンと響いた。
「勝手なことばかり言って……」
呟くように、でもはっきりとしたその声を、背中越しに聞いた。怒っているというよりも、もう付き合いきれないというような、そんな風に聞こえた。
三歩歩いたのに、追ってくる気配もない。余計悔しくなって、歩く速度を速める。
肩までのウェーブをかけた髪が、さらりとなびいた。綺麗なカーブを描き、頭の形を綺麗に出すそのシルエットは、私のお気に入りだ。顔を小さく見せる効果もある。
正義と私は、大学四年の頃からの付き合いで、もうかれこれ一年半になる。根が我がままのせいか、交際期間がいつも短い私からすると、一年半は長い月日だ。
当時就職活動している時期に恋人と別れ、それなりにショックを受けていた頃、友達に紹介された。
スポーツ好きという彼の、しっかりとした体格とは裏腹に、会ってみて清潔そうなさっぱりとした印象と、人懐っこい笑顔に好感を持った。
お互いに就職活動をしつつも、その合間に、二人で出かけ、三回目に誘われた時、「一目ボレした」と純情な少年のように照れた顔で、告白された。友達に聞いた話だと、「二重のパッチリした瞳がくりくりして、可愛かった」らしい。化粧に十分な時間をかけていた私は、内心ガッツポーズした。
もちろん、出会った頃に映画の好みは伝えていたし、実際、今までは一緒に観に行ってたりしたから、理解されてると思っていた。いや、実際されていたのだろう。今まで。そりゃ、時には嫌な顔をしていたのには気付いていたし、友達にも「相手のことも考えるように」とは言われていたけど。これはもちろん、映画のことだけではないだろうが。
耳障りな車のクラクションが鳴って、顔を上げた時、いつの間にかデパートのある大通りに来たことを知った。通りにある店には、看板やネオンの光が薄く光り始めている。
連休前だからだろうか、人が結構いて、デパートの前には待ち合わせしている人たちが埋めていた。雑誌に載っているような、今流行の似たようなファッションが目につく。特に夕方過ぎのため(とは言ってももう六時近く)、仕事帰りのOLや、学生、カップルが視界に入った。少し、陽がのびてるせいもあるのだろうか。そう考えて、空を仰いだ。まだ明るさが残る雲一つない空に、白い月が見える。
明日は、私もデートだったはずなのに。
ポツンとした月を見て、そう思ったら、急に正義の言葉が蘇り、気分が悪くなった。
こうなったら、絶対謝ってなんかやらない。日数はかかるだろうけれど、正義から連絡があるだろう。早ければ、明後日ほどには。妥協するのは、いつも正義の方だ。
風も冷たいものに変わり始め、クリーム色のジャケットを着ていても、白いワイシャツの襟元からひんやりとしたものが入り込んで肌寒い。黒いタイトスカートの下からも、風が撫でつける。少しだけ暖かくなろうという思いと、ムシャクシャしている気分を晴らすためにデパートに入った。
ストレス発散をするには、買い物が一番だ。
人混みをぬうようにして入った時、人の多さで、中はちょっとむっとした空気が漂っていた。
特に買おうという目的があった訳でも、見たいものがあった訳でもなかったため、店内で、人の流れに逆らうようにしてブラブラと歩く。すれ違った人の、甘い香水の香りが鼻についた。
そういえば、前、欲しいと思ったあのポーチ、バーゲンで安くなってるかも。
方向を変え、人と行き交うその中で、ふと一人の女性と目があった。欲しいと思った、ブランドのポーチの手前に、その人がいたのだ。身長は一六〇センチくらいだろうか。私よりも低い。
紺色のジャケットを着て、中からはピンクのカットソーが覗き、下には足にピッタリフィットしたデニムのジーンズ。同じくデニム素材のバックを肩からかけている。さりげない服装なのに、スタイルの良さを感じた。
背中まである長い茶髪の中から、プラチナのハートを模った小さなピアスが光っている。綺麗に化粧をして、細い一重の目の上にパープルのアイシャドウがひかえめに塗られ、華やかなピンクの口紅をナチュラルにつけていた。グロスも塗っているらしい唇が、つやつやしてふっくらしている。一見、優しそうなお姉さん、といった感じだ。
彼女は私を見てから、その細い目を大きく見開き、少し驚きながらも、胸の辺りで小さく手を振るように動かして、笑顔を見せた。
一瞬、思考が止まる。
誰だっけ? こんな女の人、私、知っていたっけ?
考える時間もなく、声をかけられた。見た感じよりも、声のキーが低く、落ち着いている。
「野村さんね? お久しぶり」
自分の名前を言われても、驚くだけでピンとこない。
「えっと……」
しどろもどろになってしまい、上手く言葉が見当たらない。
「あ、私今井。そう言えば分かるかな。今井明美。今はもう苗字変わって、吉野明美になってるんだけど。中学で一緒だった……」
ふっくらした唇から発せられた言葉を理解した私は、瞬間声を上げた。
「ああ! えー! ホントに今井さん?」
かん高い自分の声に驚いて、手で慌てて口元を押さえる。周りで買い物をしている人たちの、冷やかな視線を浴びたからだ。
ちょっと目を伏せ、肩をすくめた私に、彼女はおかしそうに小さく笑った。
「そう。もう何年ぶりになるのかしらね? 十年くらいかな?」
細い指を折って数える彼女を、私はまじまじと見つめる。透明のマニキュアすら塗っていない指に、結婚指輪が光っていた。
今井明美という子は、確かに同じ中学だった。けれど、こんなにスタイルが良くて、笑顔を見せる子ではなかった。
クラスの中でもぽっちゃりと太り気味だったし、黒い髪もこけしを連想させるような毛先がそろっているおかっぱで、無表情のままいつも教室の隅っこの方にいた。本を読むわけでもなく、ただ外を眺めたり、グループの中に入りたいのか、羨ましそうに、はしゃぐ級友たちを見ていた。その様を、暗いと笑う、意地の悪い人もいた。話したことも少なかったから、こんな声だということにも、気付かなかった。
でも、こんなに人は変われる…?
信じられない。おとなしそうな印象は残っているものの、内から放つ光のようなものを感じる。
「今、私東京にいないの。二年前に二十一の時に結婚して、あ、メールで知りあったんだけど。栃木にいるんだ。ゴールデンウィークだけ、実家に帰ってるの」
はにかみながら、ちょっと照れくさそうに微笑む。幸せそうなその笑みは、過去の彼女から遠く離れた印象だった。
「そうなんだ。変わってたから全然気付かなかったわ。何かあったの?」
興味津々に聞いた私に、彼女はちょっと首をかしげる。
「そうかな? うん。変わったかも。私、あの頃、中学の頃、もっと人の輪に入りたかったのに勇気がなくて何も言えなかったの後悔してたから。変わりたかったの。野村さんは変わってないね」
私はちょっと笑った。それは、いいことなのだろうか。
聞けば、そのメールで知り合った人に会ってから、自分は変わったという。
中学の面影などほとんどない、別人のような彼女の話を聞きながら、ぼんやりと思った。
自分を変えるほどの人だったのだろうか?
それとも、その相手の人と会うために、自分を変えたのだろうか?
今までの自分を捨て去り、生まれ変わるために。それは、簡単なものではないはずなのに。どれだけ努力したのだろう。
本当に、彼女は変わっていた。
どこか表情に余裕さえ見えた。
あの頃、そんな表情を見せる人はごく一部の人だけだった。早く大人になりたくて背伸びしていたあの頃。私も憧れていた一人だった。
けれど見かけよりも何よりも、性格が変わった。私に自分の方から声をかけた、その心。
変わりたいと思った、心。強く願った心。
小さなショックを受けた。
私は考えなかったから。自分の不満に対して、変わろうと思わなかった。
彼女が並々ならぬ努力をしていた頃、私は何もせず、何も考えず、毎日だらだらと過ごしていたのだ。自分の不満は、そのうち誰かが何とかしてくれるだろうと甘えて。
穏やかな微笑を最後まで崩さなかった、彼女と別れてから、私は一つのことにたどり着く。
私は、正義と出会ってから変わった…?
付き合ってきた人、みんなに言われた『我がまま』さを直そうとした…?
答えは明白だった。もう今は、デパートに入ってきた時の、もやもやした苛立ちはかけらもなかった。
連絡しなきゃ、正義に。
思ってすぐに、バックの中から携帯を取り出した。人混みで邪魔にならないよう、階段脇に移動する。
二番目に登録していた彼の番号を出して、メールを打った。
『さっきはごめんね。明日も会える?』
謝るのって、こんな感じで平気かな? と思いつつも送信する。
待つこと五分あまり。長い長い時間のように感じられた。今まで、正義がどんな思いでいたか、ほんの少し解ったような気がする。伝えたい言葉や気持ちを表したいという焦り。それを受け入れてもらえるかという不安。募る思い。
軽やかな音が、正義からの新着メールを知らせた。
すがるように見る。
『平気だよ。どこで会う?』
安堵して、ふうっと小さく息をはいた。笑みがこぼれる。
普段と変わらない文面が、彼の性格を表していた。穏やかな声も聴こえるような気もして、いつも行ってる喫茶店の名前を、素早くメールで打った。
階段脇から外の様子を下から見上げると、もう真っ暗になっている。風も先程より出てきたようだ。通りにある木々の細い枝が、左右に揺れている。腕時計に目をやると、もう七時前になっていた。
私は足早にハンカチ売り場に向かって、歩き出した。
明日、きちんと正義に謝る時に、お詫びに渡すハンカチを選びに。まずは、我がままさを直す第一歩を踏み出すのだ。
夕食を食べるのは、その後にしよう。
そういえば、誕生日とクリスマス以外、私の方から何か、プレゼントしたことはなかったかも知れない。金欠だと言い訳し、いつも、もらってばっかりで。
頭の中に、笑顔で喜ぶ正義の、出会った頃の彼の顔が浮かんだ。目を細めてにっと笑い、白い歯が眩しく見える、あの人懐っこい笑顔を。
明日、彼はきっとこう言うだろう。
「彩が謝るなんて……なんかあったのか?」
と。
そう言われるのも気持ちがいいかもしれない。
【終】
《収録一覧》
2003年5月 5日発行「変わるココロ」(初出)
2012年8月12日発行「宝箱」(再録)
※ 掲載データは「宝箱」版を使用しました




