16.彼女のタイミング
世の中には、偶然とかタイミングと呼ばれる出来事が存在する。
本人がそれと知らずに、出会うことや、必然的に奇跡のように出会うこともある。
彼女もその一人だった。
*
照りつく太陽の暑さにも慣れてきた頃、涼しげな風が吹く。秋の訪れを感じる、そんな季節だった。長い髪が少しわずらわしく思える。一五〇センチの小柄な体の背中までの髪を、一つに束ねているだけだから、無理もない。
早苗は家路へと急ぎながらも、一日の終わりにため息をついた。
漆黒の夜、まるで、自分の心を映したかのような、わずかな街灯の明かりの下で、静寂な夜道の中、彼女の足音だけが響いて行く。空を見上げれば、数えるくらいの星たちが、力強く瞬いていた。
夜、電車での人混みにまぎれながら、最近のことを思う。
なんで、自分は会社に行くのだろう。
自分一人くらい行かなくても、代わりはいくらでもいる。
ただお金のため。それだけのために、好きでもない仕事をし、生きていくのか。疲れすぎているせいか、働くのに何か特別な理由が欲しかった。
「就職できただけでもいいんじゃない?」
フリーターの友人は、そう言った。
だけど、好きな仕事をバイトにしている。
やはり、羨ましい。嫉妬にも似た感情が、彼女の心を占め、複雑にする。
自分は、人の目を気にしつつ、二年間もの間、会社員という肩書きにしがみついているのではないか、という不安と焦りが早苗の体を震わせた。
変わらない仕事。デスクに向かってパソコンでの、書類整理。
先輩との人間関係。何かに怯えている気さえする。
定時に帰ることも少なく、残業して過ごす生活も、もうどのくらい続いているだろう。仕事を家に持ち帰ることもあった。
片手でコンビニの弁当を持って、ひたすら歩く。不衛生だと思いながらも、自分で夕食を作る気にもならなかった。
夜の道にも慣れつつあった。裏の道を通るため、当初、一人で夜道を歩くのは怖いな、と思っていたのが嘘のように。
駅から十分ほど歩いて、アパートに着きリビングで、クッションにカバンを投げるように置き、弁当を開けた。座り込んだ絨毯のひんやりとした感覚が足に伝わる。
最後の幕の内弁当を見て、ようやく口元に笑みを浮かべ、冷めないうちに食べようと箸をとった。
ゆっくり食べようにも、お腹はすいていて、ものの十分しないうちに食べきり、満足して時計に目をやると九時をまわったところだった。
どうして、こんなに疲れるのに仕事するのだろう。と、また同じ疑問が脳裏をよぎった。せめてプライベートが充実していれば、気分はまだ楽だったろう。付き合っていた恋人とは、二か月前に別れたばかりである。原因は彼の浮気だったが、その当時は自分のことで精一杯で、そのことにすら気付かず、また相手のことも気遣う余裕もなかった為、自己嫌悪も少なからず残っていた。
会社では、どれだけ頑張って仕事しても、さらに、もっと頑張るように、と、上司には言われる。プレッシャーをかけられる。小心者の彼女にとって、それは大きな心の負担になっていた。
精一杯やっているのだ。本当に。
頑張れなんて聞きたくない。我慢している感情が、爆発しそうだ。
なぜそれが、相手に伝わらないのか、彼女はいつも悔しい思いと悲しい思いの二つを体験する。
こんなに努力して、それでも足りないというのか。思い出して、傍にあるクッションを投げつけたくなった。
と、その時、カバンの中から携帯のメールの音が響いた。一人で休んでいたかったから、その時間を少しでも奪われたことに、少々腹が立つ。ベッドによっかかりながら、けだるそうに上半身だけ横になりつつ、手を伸ばす。時間の合間に気分転換に塗ったマニキュアが、部屋の電球から反射して、微かに光った。
今の時間によこす友達は誰だろう、とふと思ったが、表情を変えずに携帯を押す。
が、知らないアドレスだ。名前が出ないからすぐに分かったが、一瞬迷いながらもメールを見た。メールアドレスを変えた友達からかも、と思ったのだ。
『話、聞いたよ。大丈夫か? 肩の力抜いて無理するな。お前のいい所はちゃんと知ってる。いつもの元気なお前になれよ from アキラ』
読んで、理解するのに多少時間がかかった。
アキラ? 誰だろう?
一瞬、ポカンとしていたが、すぐに悟った。
ああ、そうか。
メールアドレスを間違えたのか。
この間違えられた人のメールアドレスは、携帯の電話番号なのだろう。なぜなら自分のアドレスがそうだから。
たぶん一文字、打ち間違って送信してしまい、それが自分の所に届いたのだ。
自分も気をつけているだけに、その行為は理解できた。登録してしまえば、そんな心配はないのだろうが。よほど、急いでいたのだろうか。
電話番号のアドレスには、十分あり得る。
思いもよらない出来事に、少し困惑したのは確かだった。
しかし、それにしても、と早苗は思う。
なんていう偶然だろう。なんていうタイミングの良さだろう。
まるで、自分宛てに着たメールのようだ。
メールの内容から察するに、送られた人は、失恋でもしたのだろうか。その慰めのメールだったのかも知れない。または仕事でミスをしたのか。でなければ「いい所は知ってる」という書き方はしないだろう。
けれど、そんなことはどうでも良かった。
疲れて帰宅して、自信を失くしかけ、このままの生活になんの希望が見えなくなっていた。
それを、このメールは光をくれたのだ。
真っ暗に閉ざされた道に、わずかな光。乾いた心に水が染み込む。
このまま頑張りすぎなくてもいいこと、もっと楽に生きていいことを、教えてくれたことのように。
知らず知らず、涙がこぼれていた。
そして、誰かが、魔法をかけてくれたかのように彼女の心は落ち着いていく。水で流したかのように。
そういえば、泣くのも随分久しぶりのような気がするな、と早苗は気付く。
とりあえず、今は間違って届いたメール主の言葉に甘えて、泣こうと決めた。
早苗は、送信してきた見知らぬ人に、深く深く感謝した。間違いメールもたまにはいいな、と思いながら。
それから、半年近くの月日が流れ、街はすっかり雪景色に変わっていく。凍えるような冷たい風が頬を打つ。この寒さだと、明日もまた、雪が降るかもしれない。アスファルトの地面にこびりついた、汚れた雪たちを、リズミカルに避けながら歩く。
でも、不思議と前のように、投げやりな気分にはならなかった。仕事も、自分の負担にならないようにこなせるようになったせいか、友人の言葉も冷静にとらえられるようになっていった。
早苗は、あのメールで救われた。
焦らないこと、自分のペースで生きればいいことも、学んだ気がした。その思いが、彼女の仕事に対する気力を変えたのだ。
そうしたら、一つの目標が出来た。ちゃんとした名前も顔も知らないけど、もしいつか、いつの日か、あのメールの人に出会えた時、恥ずかしくない自分でありたい、と。堂々と胸を張れるようになりたい、と。会うことはないだろうと、分かっていたけれど。そのためには、今何をし、どう生きて行こうか。マイナスではなく、プラスに考えるようになった。
そう、あのメールは、彼女にとって必然だったのである。
*
世の中には奇跡と呼ばれることがある。
携帯のメモリーには、まだ見知らぬ人からのメールが密かに残っていた。
【終】
《収録一覧》
2003年2月23日発行「彼女のタイミング」(初出)
2012年8月12日発行「宝箱」(再録)
※ 掲載データは「宝箱」版を使用しました




