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15.私の中の強さ


――――誰だって、心に強さを秘めている。



     1


 仕事が終わると、いつもながら疲れが押し寄せる。月曜だから、お客を多く感じたせいかも知れないが、それだけではない。なんであの人はあんなにも冷たいんだろう。今日も辛い一日だった。また私は、あの人に無視された。

 あの人、というのは有田いずみさんという、この店で一番のキャリアを持つ先輩である。世間一般でいうお局さま的存在だ。年は私より二つ上。二十四歳だ。

 私はそれでも、笑顔を作りながらブルーな気持ちで、「横口佐和子」と書き込んである自分のタイムカードを取り出しつつ、ロッカーから水色のトートバックに手をかけ、真っ先に携帯のメールをチェックした。手を動かした時、パーマをかけたショートの髪が揺れた。

 新着メールが届いていた。

 彼からだ、私は一人ほくそ笑む。ブルーな心に光が見えた。

 早く見たくて、事務所の中の空いている濃い茶色のソファに座る。幸いなことに人はいない。座りごこちはややかためだが、弾力があって気持ちいい。座る時、さらりとした風がジーパンの裾から入ってくる気がした。

 古いビデオテープが乱雑に積み重なっているのを、横目でちらっと見てから、すぐさまメールに目を通す。気持ちを落ち着かせて。

《お疲れ。今日のバイト明日にずれこんだから、ドトールにでもおいで》

 亮ちゃん、また今日が何曜か覚えててくれたんだ……。

 いつもいつもありがたいなぁ、嬉しくて思わず携帯を両手で握り締め、安堵のため息をつく。

 思わずにやけそうな化をごまかしながら、挨拶を早々として、バイト先を後にしようとする。

 このバイト先には、もう一年半働いている。

 二十一になる前、転々とバイトを変えていた当時の私は、時給千円という価格にすいよせられ、このバイト先に落ち着いた。チェーン店のビデオレンタル屋というブランドに憧れていたのも事実だった。

 駅の通りにあるこのビデオ屋は、毎日かなりの人達が出入りする。純粋にビデオを借りにきた人や、時間つぶしにきた人、待ち合わせをする人が多い。

 三十坪はある店内が明るいのも、好印象らしい。

 自動ドアの、やけにゆっくりとした開き方に、いささか腹を立てそうになもなるが、ドアが開いて外の風を体にうけ、私は解放感に満たされた。夕方にもなると、五月の風も心地よい。

 付き合って二年にもなる、亮ちゃんこと堀田亮介は前のバイト先で知り合った私の大切な人である。彼は未だ、そのカラオケ屋のバイトを続けているが、私は付き合うと決めた時に、辞める決心をした。公私混同していると言われるのが嫌だったし、彼に嫌な思いもさせたくなかった。その時私は、二十で彼は二十二だった。

 彼はとにかく気さくで明るく、そして誠実な人だ。不定期な時間のバイトを続けていることが、それを実証している。

 私は、店員用の自転車置き場で自分の自転車を見つけ、サドルによっかかるような形で、彼に電話をし、「今からドトールに行くね」と伝えた。聞きなれた声を聞いて安心し、ほっとする。ましてやバイトの後だから、なおさらだ。

 そして、自転車をゆっくりとこぎ始める。もう古くなってるから音がわずかにするのは仕方ない。それにどうせ、高架線の下にあるバイト先は、駅の中にあるドトールまで五分もかからないから、気にしないようにした。

 のんびりと自転車をこいで、風で首までの髪を、さらさらととかしていく。とても気持ちが良くなる。

 駅の人込みの中から、すりぬけるようにドトールに入り、まばらにいる店内のお客の中で素早く彼を見つけた。ブルーの鮮やかなTシャツが目立っていた。

 自動ドアから入ってアイスコーヒ―を注文した時に、彼が私に気づき、ここだよというふうに軽く手を振る。

 私はそれに応えるように笑顔で彼のもとへ、アイスコーヒーをこぼさないように持って行き、イスをひき腰掛けた。

 一八〇センチある長身の彼の、薄く染めてある茶色の髪が夕陽を反射してきらめいている。

「大丈夫だったか? 今日、例の人と一緒だったんだろ?」

 コーヒーを飲みながら、開口一番彼が言う。

 涙が出そうになった。

 この人はどうして私の辛い時が分かるんだろう。どうしてこういう言葉を言えるんだろう。

 だから彼は、私にとって大切な人なのだ。

「大丈夫、もう慣れたから。亮ちゃんの方こそ、よく覚えてるね、曜日」

 明るく言った私に、彼は困ったような表情を見せた。細い茶色の瞳が苦しそうに見えた。

「お前がバイト先で無視されてるのに、忘れられる訳ないだろ。もう一年半か……。長いな。よく辞めないな、お前。頑張ってるよな。月曜、金曜、土曜」

 続けざまに言葉を発する彼に向かって、わざとらしく大きな声を出す。言葉を遮るかのように。

「亮ちゃん、大丈夫だってば。私もう二十二だよ? もう大人になりました。強くなってるのよ」

 ふざけた口調で言った私に、彼はまだ疑うような様子だった。目をそらさずに、真っすぐに私を見つめて。その目を見つめ返すのが怖かった。私が辛い時、カラ元気を出すのを彼は知っている。

「本当にな」

 その言葉は、ボソッと言った一言だった。注意していなければ聞き逃していたかも知れない。けれど、その言葉には妙な説得力と優しさがこもっていて、私はその場で泣き出しそうになった。

 だけど必死にそれを我慢したのは、そうでないと、自分で言った《強さ》が嘘になってしまうような気がしたからだ。

 辛かったよ、本当は。心がつぶれそうだった。でもバイト先のことは、今話したくなかった。せっかく会っているのに、そんな話題をしたくなかった。

 彼は、そんな私の表情を見てか、一度席を立ち、私の好きなチーズケーキを買ってきてくれた。とても食べる気がなかった私に彼は「一口でも」と言った。その声は、私の今日の辛さを吹き飛ばしてくれるかのように、優しかった。

 私は二口、ケーキを口にした。とてもとても甘かった。彼の想いのように。

 こらえきれず、涙が出そうになる。彼に「どうした?」と訊かれたけれど、私はかぶりを振った。

 どうもしない。ただ、人ってどうして、本当に辛い時に優しい言葉をかけてもらうと心が動くのだろう。海の波のように、静かに落ち着くのだろう。

 そして私は泣き出さないように、今見ているテレビドラマの話をし、一生懸命話題を変えた。

 彼はもちろん、そのことに気が付いていた。

 そして、話題にのった。自分が主に見るのはバラエティーなのに。

 その気配りが、余計心に染みてきた。



          2


 毎日働いている十時から五時のバイトも、有田さんがいないだけで、こんなにも心が軽くなるものなのか、と毎度ながら思う。心からほっとする。

 レジのカウンターの横で、貸し出されたビデオにゴムをつける作業をしている時、中島さんが声をかけてきた。一応同期だから、気兼ねはしない。

 長いストレートの黒髪を一つに束ねて、一六五センチを超えるスタイルの良さを上手に見せている。

 ビューラーでキレイに上げられたまつ毛が、マスカラの黒に染まっていた。エプロンの下からは、真っ赤な七分丈のカットソーが見える。下は白いジーパンだ。

 彼女もまた私と同じ年である。

「有田さんいないから、今日楽でしょー?」

 私の顔をのぞき込むように、身をかがめて含み笑う。

 悪気はないのだろうが、不快な気分になる。ここで、私がどういう反応をすればいいのか、全く分からない。

 だから私は、冷静を装い、作業を続けていた。

「一緒の日って最悪よねー。気に入らないと、一言も口聞かないんだもの。よく続けていられるよね、横口さん。私は辞めるなあ。だって他の人が言うには、前の人は一週間で辞めたらしいよ?」

 そう思っているなら、一緒にいなければいいのに。すがすがしい気分が一気に冷めた。

 彼女は、有田さんがいる時には有田さんの肩を持ち、いない時は私に同情するという、ある意味ポリシーがなく、都合よくふるまっている、実に苦手なタイプの人だ。

 だけど、こうじゃないと世の中渡れないのかも知れない、そう思ってしまう自分も嫌な人間なのだろうか。

 私は、有田さんに気にいられようと、何したことはない。

 普通に挨拶し、普通に仕事をお願いする。けれど、どれも第三者によって済まされる。

 例えば、時間になって私が上がる時も、直接私に声をかけることは一度もない。全て、「横口さんに上がっていいって、言っておいて」と、こうくるのだ。すでに耳に入る位の声で。何がそこまで嫌なのか分からないけれど、初めからだ。

 特に嫌われるようなことも、した覚えはない。仕事も真面目にしているつもりだ。

 その有田さんは、実に端正な顔立ちをしている。身長は、私に近い一六〇前後だけれども、栗色のロングのソバージュもカッコ良く決まっている。だから、私の何かに嫉妬してるというのも考えられない。

 けれど、彼女は口をきかない。とは云え、中島さんとも世間話をする程度である。仕事を見る限りでは、人に冷たい印象を受ける。キャリアがあるせいなのだろうか。積極的に話しかけたりしないし、笑顔を見せることも少ない。

 それでも、中島さんと話している所を見ると、やはり羨ましい。一人、とり残されているような気になる。

 私とは、ウマが合わないのだろうか。それとも、機嫌をそこねるようなことをしたのだろうか。

 私は間違ったことはしていないはず。

 そう信じているけれど。

 だから週五日、月・火・木・金・土のうち、月・金・土と三日間も一緒でも、まだ辞められないのだ。

 もちろんそれだけではない。時給千円の魅力にもとりつかれていた。作業は慣れてしまえば、体力的にキツイ以外は平気だった。返却されたビデオを元に戻し、また貸し出し中のにはゴムをかけ、後はレジと店内整理が主だった。だから、辞められない。せめて二年、あと半年はいたい。

 逃げたくない、という気持ちも強い。

 私は変な所で負けず嫌いで、しかも正しいと信じていることは、いつか必ず報われるという考え方をしている。だから今辞めたら、後で後悔するのではと思っているのだ。

 悔しいから負けたくない。辞めたら、負けだ。心の中で繰り返し思う。

 しかし、一人の人に嫌われるというのは、生きる気力さえ無くさせる。そして、居場所さえも。

 本当に自分は間違っていないか、不安になる。

 自分の欠点や仕事ぶり、どれをとっても自信をなくし、自分を見失いそうになる。

 私は彼女に嫌われるようなことを、知らずにしていたのだろうか。妙な罪悪感が、少しずつ心に積もっていく。

 バイトしていた当初は、本当によく泣いていた。彼の前でさえ。

 冬の二十一の誕生日の日にもバイトが入っており、ずっと無視されていて、私の苦しさや辛さは分からないよ、と泣いて亮ちゃんに訴えていたのを思い出した。彼は部屋で泣きじゃくる私をなだめて抱きしめ、ホットココアをいれてくれた。あのホットココアの味は、多分忘れることはできないだろう。特別なプレゼントは、その態度で十分だと思った。

 だから強くなりたかった。

 どんなに無視されても、仕事を続けられる強さを。

 誰に何を言われても、はねかえし、気にしないような強さには今でも憧れている。

 泣くほどのその痛みを知っているから、彼は有田さんと、同じ曜日の日だけメールをくれる。

 カラオケ屋のバイト中にもだ。

「いい、大丈夫」と、どんなに言っても必ずくれる。

 付き合ってから一度も欠かすことはない。

 そのさりげなさが、彼の想いを示しているのは、分かりきったことだった。

 それによって、どれだけ私が救われているのか計り知れない。

 明日の水曜は、私のシフトは休みだ。

 何か作って持って行こうかな、それとも何か面白いビデオを探して貸そうかな、彼の顔を思い浮かべながら、そんな小さな幸せを、今確かに感じることができた。



          3


 幸せを感じると、一週間はあっという間に過ぎた。

 おとといまで仕事をして、昨日の水曜日は休みだった。

 楽しい休みの翌日だから、疲れが増す。特に先週は、彼がバイトを断れなかったから、その分楽しんだ。

 昨日は、二人でビデオを見た。とは云っても、亮ちゃんがバイトに行くまでの、二、三時間で、途中までしか見れなかったけど。

 それでも会えて良かったなぁ、とつくづく思った。

 まだまだ頑張っていけるから。

 大丈夫、今、有田さんの強い視線を感じたけど、まだ我慢できる。

 何で、自分だけがこんなに頑張らなくちゃいけないのか分からないけど、強くなってるから。我慢できてるから。

 そう自分に言い聞かせ続ける。

 矛盾も、もちろん感じていたけれど、年下のしかも後輩の私は、立場が低く何も言えず、何もできない。何か言えたとしても、小心者の私は、やっぱり何も言えないと思うけれど。

 バイトの時間がやけに長く感じる。

 まだ中島さんとの方がいい。あの人はお喋りだから、時間もそんな気にならない。話の内容には興味ないけれど。

 店もこんなに狭くなくてもいいのに、と、十分広い店内で、そんな風に感じてしまう。

 もくもくと仕事をしていても、頭の中はどうしてもそう考えてしまうのだ。

 もっと広ければ、有田さんの視界から姿を消して、自分を守ることができるのに。

 だけど何よりも、どうして今日有田さんがシフトに入っているのだろう。

 多分、誰かが休んだからなのだろうけど。

 今日は木曜日。明日も明後日も一緒だ。

 気が重くなる。今日はいないものと思っていたのに。

 昼休みの食事の休憩で、事務所のドアを開けた瞬間、体がこわばる。よりによって有田さんと一緒だった。こわごわとソファに座る。

 五人くらいしか入らない事務所の中で、緊迫した冷たい雰囲気をかもし出していた。私はなるべく、音をたてないように気を配りながら弁当の蓋を開けたけれど、母が作ってくれた弁当の味は全く感じられなかった。そんな余裕はなかった。

 せっかく作ってもらった、ほどよく焼けた厚焼き卵を、口の中に放り込むようにして、涙をこらえて食べていた。

 口の中で溶けていく卵が、まるで今こらえている涙の味がするようで、胸がしめつけられる。目の前に、私そのものを否定している人がいるのだ。

 思わずひざに置いたハンカチをあとがつくほど強くつかんでしまう。革のソファからは暖かさを感じられず、やたら冷たく思える。

 気にしなければいいのだろうけど、人の視線を気にする私には無理だった。

 私の何が不満なんだろう。

 今までこの一年半、ずっとずっと訊きたくて訊けない台詞を、私はまた喉につまらせた。

 でも、今訊いてみようか。

 小さく息を吸って、私は一大決心をした。じゃないと、ずっとこのままだ。その方がもっと嫌な気がする。

「あの……」

 聞こえてはいるだろうけれど、返事はない。顔も上げない。

 緊張で足が震える。だけどもう、後にはひけない。

「私のどこが嫌いですか? なんで無視するんですか?」

 上目使いに、震えるような声で私は有田さんに訊いた。涙が出ないように気をつけて。

 頑張って、彼女に聞こえる声の大きさで勇気を出した。

 なんて言われるか、すごく怖かった。ひざが情けないほど、小刻みに揺れている。私は、両手でひざをおさえつけた。

 けれど目の前でおむすびを食べていた有田さんは、ふっと、一瞬顔を上げてからまたうつむき、何も言わなかった。私を見つめたその目はとてもキツイものだった。

 そして席を立ち、明らかに私を避け事務所から出た。

 涙が出てきそうで歯をくいしばる。

 あんなに勇気を出したのに、それなのにどうして何も言ってくれないのだろう。どうして私がこんなに嫌われなきゃいけないのだろう。

 悲しみと同時に怒りがこみあげてきた。私が何をしたというのか。それさえも教えてくれずに。

 悔しい。

 背中まである、ロングソバージュは一つに束ねてまとめられているのが事務所を出るときに軽く揺れた。

 決して、目を合わせようとはせずに。

 なんでこの人は、あんなに割り切っていられるのだろう。

 自分のしていることが、私にとってどういうものか、分かってないのだろう。私がどれだけ傷つき、どれだけ勇気を出し、どれほど痛い思いをしているのか、彼女は知らないし、多分知ろうともしてない。

 私はハンカチを握り直し、何度も何度も深呼吸をした。

 私の居場所を探すために。

 もっともっと強くなるために。

 亮ちゃん、と何度も心の中で呼びかける。私はここに居ていいのかなあ、と。

 今日一日、有田さんとの会話は一回もなく、「お先に失礼します」と言っても返事のない私の挨拶だけが、店内に虚しく響いた。

 有田さんは私にだけ、何も言わなかった。



          4


 その噂の出所は分からないけれど、バイト先はその話でもちきりだった。

「横口さん、有田さんね、店長代理と付き合ってるって噂、聞いたー?」

 バイト中、レジの前で、お客がいないことを確かめた上で、中島さんが声をかけてきた。

 昼前は、まだ人はまばらだ。

「あんまり詳しくは聞いてないけど……。それ、本当なの?」

 眉をひそめながら、声を低めて私が返事をした。噂話は好きではない。

 店長代理は、文字通り、店長がいない時の代理である。が、その人には婚約者がいたはずだ。しかも、店にはよくビデオやCDを借りに来る。

「本当だよー。この前、私が見たんだもん。一緒にいる所。普通って感じじゃなかったけどなあ」

 どことなくうきうきした様子で、中島さんが言う。

「え? 中島さんが見たの?」

 びっくりして驚く私に、彼女は目を丸くさせて頷いた。

「そうよ、なんで?」

 人の噂好きな彼女に対し、私はほとんど投げやりに答える。

「いや、別に……」

 見たとしても、普通言うかなーと思う私に、彼女は微笑した。

「多分ね、有田さんもう来ないよ。良かったね、横口さん」

 高い声のトーンで早口に、でも正確にそう言うと、彼女は、ビデオを持って来たお客に向き直り、元気に笑顔を見せた。

「いらっしゃいませー。一週間でよろしいですか?」

 私はこの時、中島さんの言った言葉の意味が、理解できてなかった。

 もう来ないってどういうこと?

 本当に?

 疑問を持ちながら、私は今日のバイトを終えた。気になって、バイトに身が入らなかった。

 けれど有田さんは、中島さんの言った通りになった。

 どこからか、自分の噂話を聞いたのだろうか。二週間ほど無断欠勤が続き、そしてシフトから彼女の名前が消えた。

 あの噂は、本当だったのかもしれない。罪悪感があって来れなくなったのかも知れない。

 ふと、そんな風に感じた。

 もやもやと、心がざわつく。

 けれど、店長代理の方は、全く気にしていないかのように、表情に出さなかった。二股をかけるような人にも見えなかったし、それがすごく不思議だった。有田さんのことはどうでもいいのだろうか。でもそれは二人の問題だろう。

 私は正式に辞めた訳ではないから、いつまた店に来るかと不安で、同じ曜日の日は緊張して怖い思いが残っていたけれど、少し楽になったのは確かだった。もっと正直に言ってしまえば、中島さんの言った通りになることを、わずかながらも期待していた。汚い人間だな、と自分でも思う。

 有田さんが来なくなったよ、と、バイトの帰り、近くの小さな公園でベンチに座り、亮ちゃんに言った。ドトールにしなかったのは、有田さんと会う可能性を考えてだ。公園にはほとんど人がいなかった。バイト先と同じくらいの大きさだから無理もない。

 彼は、四角くて堅い木のベンチの隣に座り、一瞬難しそうな顔を見せた。

「そう。良かったな、って言っていいのかな」

「正直に言っていいよ」

 私は犬を連れてるおじいさんに目をやりつつ、足を曲げ、ひざをかかえる。ジーパンだから楽だ。そうしたら、彼がきつくかかえていた手をほどき、右手を握った。

「頑張ったな、お疲れさん。良かったな。でもさ、お前はどう思ってるの?」

「私は、やっぱりホッとしてる。いない今の状態が、すごく楽なんだ」

 実際、有田さんがいないバイトはかなり行きやすかった。重荷が下りた気がした。

「そっか」

 うんうん、と亮ちゃんは頷く。そりゃそうだよな、嫌な人だったんだもんな、と。

 手からは、彼の温もりが伝わってきて、私は嬉しくて嬉しくて、その手を握り返した。

 辞めないでいた自分が、初めて胸をはれる気がしたのである。

 こういう形を望んでいた訳ではなかったけれど、私の強さが実った気がした。

 有田さんが来なくなったから、強さが実るだなんて、後味の悪いものだけど。

 私を縛りつけていた細かい糸から、解放される気がした。彼女の存在は、それほど重いものだった。

 公園の緑が、妙に気持ち良かった。



          5


 その噂が消え去り、一ヶ月あまり経つ六月の中旬、梅雨の時期、久しぶりに空が笑顔を見せた。麗らかな陽気である。

 こういう時は出掛けたがるのが彼の性格だ。

 まぁ、ほとんど一日中ボックスの中にこもるバイトをしているので、その辺は仕方ないだろう。

 近くの公園まで、十時に駅で待ち合わせて、電車に行ったのはいいが、帰りの夕方にはくたくたに遊び疲れ、人が少なめの電車を何本か待っていた。ホームのベンチは満席で、座れない。

 久しぶりに歩いて、はしゃいだ気がする。

 今日の彼は紺のポロシャツにジーパンをはいて、割りとスリムに見せている。片手はジーパンに入れたままだ。

 私はピンクのカットソーにデニムのスカートをはき、スニーカーで歩きやすいようにした。ジーパンにしなかったのは、ここの所ずっとスカートをはいていなかったからである。

 電車待ちをしていた彼が、嬉しそうな声を出した。

「お、すいてる、すいてる。これ乗ろう」

 何本か見送っただけに、さすがに疲れたのか、手を引っ張り中に乗る。

「本当。すいてるねー」

 気持ち良くて声が自然に出る。

 電車の中の扇風機が、彼と私の髪をなびかせる。

 乗ってから、中を見回した時、心臓が止まるかと思った。

 有田さんが、いた。人が二人くらい、間に入るほどの距離で。しかも私の右手側に。一人で。

 ロングソバージュの髪を赤のクリップでアップにまとめ、片手で吊り革につかまりつつ、うつむいてウォークマンを聴いている。伏し目がちで、まつ毛が長く見えた。

 無造作にとめられたアップの髪は、プラチナのピアスを目立たせている。七分丈の白いワイシャツとカーキのフレアースカートは、彼女の端正な顔立ちを際立たせていた。

 ふと、恐怖感にとらわれる。これからどうしようかと悩んだ。

 握った手が、緊張で汗ばむ。

 鼓動が早く、バクンバクンといっている。

 どうしよう。

 けれど、無視するのも気分悪いし、知ってる人だし、という思いが頭を駆け巡る。

「こんにちは」

 頭を下げつつ、口に出してそう言った。努めて明るく、さりげなく。普通の声だった。左側にいた亮ちゃんが、いぶかしそうに、私の方を見るのが気配で伝わった。

 有田さんは、ふっと私の方を見て、一瞬驚いた顔をしつつも、会釈を返してくれた。

 初めてだった。

 有田さんが、私の言葉に反応してくれたのは、今が初めてだった。

 驚いた有田さんに対して、声をかけた私も自分で驚く。何があったのだろう、と思った。

 有田さんが会釈するなんて。

 人がいたからだろうか。

 急に泣きたくなった。鼻の奥がつんとなり、目頭が熱くなる。

 ああ、私はここまで彼女の愛に飢えていたのだ。そのことに今更ながら気づいた。

 今まで、彼女に対して不快な思いをさせていたかもしれなかったけど、今の会釈で赦されたような気がした。私の心に抱えていた罪悪感が消えさるかのようだった。

 私の全てが赦されたような気がしたのだ。

 そしてこの時、私は不思議な感情を抱いた。

 なんだろう、この気持ち。

 駅に着くまで緊張しながら揺られつつ、この言葉にできない感情は何だろうと思っていた。

 なんとなく分かったのは、有田さんが降りて行くのを見た時だった。駅に着くまでのわずか三つ程を気まずい思いで、とても長く感じていた。そして彼女は、人込みにまぎれて見えなくなって行く。

 淋しそうだな、ふとそう思った。

 そして、そう感じた自分に驚いた。

 今までは、自分のことだけで精一杯だったのに。そんなことを感じるなんて。

 有田さんには、有田さんしか知らない事情があったのかもしれない。私と口をききたくない、彼女なりの理由があったのだろう。

 私達は、彼女が降りた、次の駅で降りた。

 ホームに降り立ち、雑踏の中、真っ先に彼が口を開く。

「さっきの人……」

 私の口調で、きっと気が付いていたのだろう。

「そう、あの人が前言ってた先輩、有田さん」

 私は笑ってそう言った。

 こんな風に、有田さんと会った後に笑えるなんて思いもしなかった。すごくすごく嬉しかった。

 信じられない位、冷静でいられた。

 私は赦せたのだ、彼女のことを。

 彼女に赦してもらえたと思う気持ちもあったけど、逆に私も、有田さんのことを赦せたことを実感していた。今までずっと無視されていたこと、彼女に対する恐怖感を赦せたような気がした。

 今、やっと本人を前にして気が付いた。

「佐和……」

「ねぇ、亮ちゃん」

 彼が何か言おうとしたのを、私が遮った。

「大丈夫なの、本当に。強がりでもなくて。会わなくなったからかもしれないけど、私、あの人のこと赦せてる。赦してるの。亮ちゃん、今私、最高の笑顔を見せてると思わない?」

 嬉しさのあまり、一気にまくしたてた私の顔を、じっと見て、亮ちゃんはにやっと笑ってから、白い歯をのぞかせた。

「ああ。強くなったな、佐和。俺よりも。最高だよ」

 言って、私の髪をクシャッとし、笑顔を見せた。

 自分の気持ちに整理がついた、それだけで十分だった。

 その心に、人を赦せるという感情が残っているのに驚嘆し、素直に嬉しいと感じた。

 もうずっと長くある、心の中の氷が溶けていく。私の中にある感情が、その氷を溶かしていく。それはなんと温かい感情なのだろう。

 改札を通る時、亮ちゃんが振り向きながら言う。

「佐和、今日は特別にうまいもん、食べような!」

「うん!」

 心からの笑顔を返す。今までの感謝も込めて。

 亮ちゃんがいなければ、頑張れなかっただろう。

 温かいその背中を目で追いながら、私は彼に、何を返していけるだろうか、と思う。


 私の中にある強さ、それは今、輝きを増す。

 人を赦すことによって、強くなれる。

 私は、その強さに誇りを持ちたい。




   ―終―



《初出》

 2002年8月11日発行「私の中の強さ」

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