12.写真
その写真は今も色あせず、私の部屋に残っている。
六畳ほどの部屋の、丸いベージュのテーブルの上には、アロマキャンドルが淋しげに光り輝き、棚の上にある写真の中の私たちの笑顔を照らしていた。
一七〇センチの長身で少し痩せ気味の彼と、一五〇センチちょっとで、背の低いぽっちゃり系の私とのツーショットは、不釣り合いにも見えたけれど、笑顔は最高のものだった。
木の温もりが伝わってきそうな、四角い写真立ての中にある写真は、小さな動物園に行った時のもので、それは今でも鮮明に憶えている。
*
去年の七月、動物園に行った約半年後にこんな事が起こるなんて、予想もしていなかったし、また彼自身、その理由にきっと悩んでいたのだろう。
出会いは三年前。
私がちょうど二十二の時、コスモスが可愛く咲く頃、新しく会社に入り事務をする私に、細かい配慮を示し、励ましてくれていたのは、私より一つ年上の彼一人だけだったような気がする。
前の職場の人間関係に悩んで辞め、この会社に入った私は嬉しかった。
運送会社の、ドライバーをしている彼は、定時に必ず連絡をよこし(もちろんそれは、彼だけではなかったが)、ハスキーだけどその明るい声に、私は幾度も勇気づけられた。
電話の内容は、もちろん仕事関連で、あと何個配達するものがあるというものだったけれど。
私は毎日、会社に行くのが楽しみになった。
何の洋服を着て行こうかと、うきうきしながら朝起きていた。
二ヶ月もしないうちに、自然にお互いの電話番号を交換するようになり、会うようになったのも、ほとんど違和感がなかった。
会社の人に見つからないように、会社から離れた場所でデートの待ち合わせをしたり、手紙を書いたりしたりする喜びと、そのスリル感に私の恋心はますます燃えていった。
そして、プリクラを子どものようだと嫌がる彼に「だったら写真を!」と強く言って二年も付き合ってやっと、二人の写真を撮れた時の嬉しさは並じゃなかった。言葉よりも彼の笑顔はとても素敵だったから。
喜ぶ私を見て、彼は小さく笑った。
でも、全くケンカをしなかった訳でもない。
何気ないことで言い合ったり、仕事のグチを、お互いに八つ当たりのようにぶつけたりしたこともあった。
その度にいつも妥協したのは私の方だった。彼は優しい人だったけれど、芯の強い人でもあったから。
それは、時に私を傷つけたけど。
なんでいつもは謝るのが私なの?
イライラしては、ストレス発散に髪の毛を切りに美容院に行っては美容師さんに喜ばれてもいた。おかげで今は、ロングストレートヘアがセミロングの長さに変わっている。
別れは、そんな時にやってきた。
幸せなはずだった、動物園の写真が唯一、二人の写真だったのに。
人の気持ちは、どうして変わってしまうのだろう。
永遠と思っていた心と時間は、どうしてなくなってしまうのか。
「別れてくれないか?」
いつものデートの帰り道、北風が冷たく残り、マフラーをなびかせる中、静かに彼は言った。言いにくそうに、辛そうな表情で。
「どうして?」
何言ってるの? そんな気持ちで今日一日過ごしていたの?
「冗談でしょ?」
口をついて出た言葉に、彼は立ち止まり、焦った感じでポケットからタバコを取り出し、右手でその袋をクシャクシャにした。それは困った時にする彼のクセだった。
そういえば、気づかないようにしていたけれど、最近、そのクセを多く見るようになっていた。私は自分から目をそらしていたのだ。
ここ一ヶ月の間に。
「いや……。他に気になる子がいる。そんなんでお前と付き合って行くっていうのは、ズルイだろ?」
「気になる子って誰? 同じ会社の子? 私と同い年の子?」
くってかかるような私の言い方に、彼は戸惑いながら答える。
「……同い年じゃないな。一つ年下だ。名前は言わなくてもいいだろ?」
「会社の子なのね?」
わかったわ、もう訊かない。
消え入りそうな声で、私は呟く。
だけど、頭の中では全然解ってなんかいなかった。
だんだん怒りが込みあげてきた。
どうして私から離れるの?
その子と私との違いは何なの?
悔しさと、ため息まじりに吐いた息が白くなって空気に溶けていく。
うずまく疑問に、あなたはきっと答えない。
「ごめん」
一言そう言って、彼は私の視界から姿を消そうと、身をひるがえした瞬間、私は彼のジャケットをつかんでいた。
彼は静かに、冷え切った私の冷たい手を離し、微苦笑して最後の言葉を言った。
「今まで楽しかったよ、ありがとう。会社で会うときは普通でいいような」
優しい言葉は、時に人を傷つけるということを、なぜ彼は知らないのだろう。
ずるい人。
どうしてそんな言い方をするの?
最後まで優しくて、自分の気持ちに正直で。
『会社にいる時は普通でいよう』
そんなこと、できるはずないでしょう?
いっそ、思いっきりハデなケンカをして、憎めたのなら。
私の気持ちを置いていって、あなたは私じゃない別の人の所へ行ってしまうのね。
そしてやがて、私のことなんか忘れて、自分の人生を歩くのでしょう?
「気になる子」なんて言わないで、「好きになった子がいる」って言ってくれれば、まだ少しは救われたかも知れないのに。
そう思った時、初めて涙が頬を伝わって落ちた。
冷たい風が吹く中、涙が妙に暖かくて、今の自分の状況を理解できた。
そしたら、ああ、私は泣きたかったんだって、心から思った。
誰のために泣くの?
彼に対しての怒り?
彼の心を動かした、私の知らない女の子への嫉妬?
それとも、彼にフラれたみじめな私自身の、プライドのせい?
答えはきっと、一つだけじゃなくて、全部が混じっているのだろうけれど、何かのせいにしなくては、家までの暗い夜道を歩く気さえ失ってしまっていた。
せめてもの救いが、私を家まで送ってくれなかった、彼の気配り。
きっと家に着いたら涙を親に気づかれてしまうから。
失恋したから髪を切るなんて、そんな風にはしたくなかったけれど、結局、翌日私は、ストレートだった髪にパーマをかけて気分を変えようと努力した。
これまで何度も、パーマの誘いを断っていた私の言葉に、美容師さんも驚きの色を隠さなかった。
できるなら、髪の毛と一緒に私の思いも断ち切り、新しい明るい心境にして欲しかったのに、人間の心というのは、なんと奥が深いものなのか。
それとも、私が彼と過ごした時間が忘れさせてくれないのか。
器用な手つきで髪をいじり、パーマをかけ終えて、鏡を見せてくれた時、急に、私は本当に彼のことが好きで、心の中を占められていたことに、今更ながら気づき、涙があふれた。
彼は、髪をかきあげる仕草をよくしていた。それがすごく愛しかった。
それをもう見ることができなくなるなんて。
*
写真立てに飾られた、たった一枚の写真が、倒れそうな私を支えている。
別れを言われてから、一ヶ月近くが過ぎようとしていた。
なのに、その後も、同じ職場での電話のやりとり。
その声が、私の心をつかんでいるということに気が付かないで。
あなたのその声は、今誰に向けられてるの?
その子と今、付き合っているの?
それなのに、別れを受け入れることのできない自分がいる。
砕けそうな心を必死で手で押さえ、この写真を見つめている。
親しい友達には「捨てなよ」と言われていたし、私もそれを見る度に切なくなる。
けれど、この頃のあなたは私を好きでいてくれた。
この写真だけがそれを思い出させてくれる。
後ろに写っている、二人で食べたアイスクリームのお店。
照れながら「写真撮ってもらえますか?」と、通った人に言った、私の言葉がふいに蘇る。
あなたと私の最高の笑顔。
きっとこんな笑顔を見せることは、もうないだろう。
私の顔を見て、微笑むあなたを見ることはない。
同じ髪型、同じ笑顔、同じ気持ち。
決して戻ることのできない歴史。
私が、あなたと付き合っていたという唯一の証拠。唯一の証し。
今でもその写真が、私の心を彼の所へと羽ばたかせ、この思いをつなげている。
《了》
《初出》
2001年6月10日発行「写真」




