11.雲のような私
私は、雲に似ている。
「ゆかりちゃん、そろそろお昼どうぞ」
お昼時の忙しい時間を過ぎた後、片手でコップが沢山のってるトレイを片付けているバイト仲間に声をかけられた。
「ああ、はい」
メニューが置いてある、四角いテーブルをふきながら返事をし、私はお昼の休憩に入った。腕時計を見ると、もう二時を過ぎている。
お昼はランチサービスもある為、客はわりと多い方だ。しかも、駅は都心に近く、人通りが激しい。OL向きのメニューも客を呼んでいる。
高校卒業後、駅前にある、レストラン風の喫茶店でバイトをして、もうすぐ二年が経とうとしていた。店は、少しゆったりめに作られており、人気があるこの店で働けるのは私の誇りでもあった。
「お昼、入ります」
お客さんが減って、事務所に入る時、カウンターに居る先輩に向かって、一声かけてから、キッチンスタッフの先輩に食事をお願いする。思ったほどお腹が空いていなかった為、軽くサンドウィッチを作ってもらう。
ワイン色のネクタイの制服のまま、少し外に出て気分転換をしようと表に出た。
初夏、まだじめじめとした暑さはないものの、やはり動いていると暑く感じる。Tシャツ一枚でも十分だった。
蒼天だった。空には、雲間から太陽が見える。
大きく深呼吸をして、体の筋肉を伸ばし、中に入った。
「北沢さん、好きなツナサンド、出来たわ」
ついでにタマゴもつけといた、とカウンターの中から先輩が、サンドウィッチをトレイにのせて渡してくれる。
私はトレイを受け取りながら、ハキハキした感じで言う先輩にお礼を言い、事務所に向かう。
バイト生のロッカーや、タイムカードなどが無造作に置かれている殺風景な中で、二人ぐらいしか座れないソファーに座って、作ってもらったサンドイッチをテーブルに置いた。ドアに背を向けて座ったからか、肩の力が抜ける。
シャギーを入れているせいか、髪の量は少ないものの、セミロングの髪が、首筋にまとわりつく感じがして、気持ち悪さが、ちょっとあった。
ツナがたっぷり入ったサンドイッチを見て、私は顔がほころぶ。
表面が、茶色くカリカリに焼けた四角いサンドウィッチをかじろうとした時、事務所のドアのノブを回す音がして、思わず振り返る。
「陽子……」
安堵のため息をつき、軽い笑みを浮かべた。
陽子は、私が入りたての時からのバイト仲間である。私が入ったすぐ後に入って、同期みたいなものだったから、私たちは仲がいいと周りからも言われていた。
そんな彼女は私と違って、華やかさがあり、そのせいか堂々としていて、憧れや嫉妬心の汚い心が、私の心の中を占めていた。
彼女は、私の風のようだった。
静かに吹く微風のような、そんな風である。
陽子が、隣に座り、私達は急いでお昼を食べることにした。
アップにしてある、茶色がかった髪を直しながら、彼女は器用にフォークを使い、スパゲティを食べている。彼女も私と同じで高校を卒業して、しばらくしてからここで働いていた。
十時からの七時間労働を終え、夕方からのバイト生と入れ替わって、私と陽子は、少し事務所で休んでから、先に店を出て歩き始めた。
コンクリートの道路を歩きながら、車の音にかき消されないように、少し大きな声で、疲れたねぇ、なんて言った後、
「ねえ、デパート寄らない?」
陽子が、買いたいものがあるんだあ、と嬉しそうに言う。確かに、この間給料をもらった時もそう言っていた。
私は頷きつつ、遠慮がちに訊いてみる。
「寄るのはいいんだけど、屋上で待っててもいいかな? この時間帯の夕焼けってすっごいキレイなんだ。見てていい?」
一瞬、彼女はキョトンと目を見開いて、そして言った。
「あ、その方が気分的に楽かも。目の前で待っててもらうの悪いし。いいよ、もちろん。ゆかりのしたいようにしてて」
話しながらデパートに着くなり、私達は別れて、私は屋上へと足を運ぶ。疲れているのに、足早になってしまい、思わず笑ってしまう。
周りの人達も、仕事帰りに寄るのだろうか。人が多く感じる。
最上階までエレベーターで行き、階段を上り、屋上から景色を見る。他に人は少なく、私は自分だけの場所のような嬉しさを抱いた。
丸い太陽がぼやけて、ゆっくりと傾いていく。茜色がかった、みかん色の夕焼けを見て、自然と体の力が抜けて楽になる。
まるで、レースにオレンジジュースをこぼしたように、太陽の周りで、色がぶれて見える。そんな夕焼けはとても美しく、私は気に入っていた。
この空に、私がいる。
あの雲は、私だ。
いくつかの浮雲を見て、私はその雲の行く先を目で追う。ゆっくりと、ゆっくりと流れる、雲の行方を。
私のように流れている雲を。
どれだけそうしていただろう。
肩をたたかれ、耳元で名前を呼ばれて、我に返った。
「ゆかり? どうしたの?」
はっとして、私はあわてて謝り、その後ちょっと笑った。今の自分の姿を想像したら、なんだかおかしかった。
「陽子、私ってね、雲だと思うの」
唐突に言い出す私に、彼女は不思議そうな顔をする。
「雲? あの空の?」
指を指す陽子に対し、頷きつつ、私は続けた。
「見て。雲が流れて行く……。キレイだよね。流れる雲って、風と一緒じゃない?
だから私は雲に似ていると思うの。例えばさ、世の中とか人が風とすれば、私はそれに流される雲だわ……。陽子は風だよね、流されることなんてないもの」
ゆっくりとした口調で言った後に、陽子を見る。
彼女は、話を聞きながら、雲の行方か、それとも、沈みかけてる太陽のキレイな夕焼けを見ているのか、分からなかった。
笑いもせず、陽子は真面目な顔をして、しばらく無言だった。切れ長の目をさらに細くする。
「そんなこと、考えてもみなかった……」
一言、そう言ったきり、彼女はまた黙ってしまった。
多分、そうなんだろう。
空なんて普通はあまり見るものではないし、ましてや雲を見て、それに自分が似ていると考えること自体、ないかもしれない。
なにしろ私は彼女と大きく違うから。
彼女は、人に流されることはない。
それから三日後、私はバイト先でミスをした。
本当に初歩的なミスだった。一度した注文を替えたいというのに、返事をしつつ、客にはそのメニューを持っていったものの、伝票に書き直し忘れ、レジの計算を間違えたのである。
いつも、シフトに入っている女の子が、風邪の為に欠席だった上、そういう時に限って店が忙しかったりするのだ。
そうなると心にゆとりがなくなり、他のことが考えられず、仕事をするだけで、あたふたしてしまう。おまけに、今日はいつもより暑さが増していただろう。
「もうどのくらいここで働いているんだ」
と、店長に事務所で怒鳴られ、私は頭を下げて謝ることしかできなかった。陽子も肩をたたいて励ましてくれたものの、正直みじめな気分で、陽子にすら何も話したくなかった。
けれど、お昼の時間は忙しいのは当たり前。言い訳は通用しないが、この時ばかりは、誰かにこのことを聞いてほしくて、高校時代の友達の令に電話をしたら、バイトが休みだから、と彼女は家まで駆けつけてくれた。
共働きで誰もいない家に、彼女が来てくれるのは救いだった。
令とは、高校を卒業してからも、よく会っていたけれど、よっぽどひどい声だったのだろう。
あまりにも単純なミスだった為、私の落ち込みのダメージは、すさまじかった。
しかも二年働いて、最初の頃よりは、確実にミスが減ってきたのに、その努力を台なしにしてしまったのだから。
狭い六畳ほどの自分の部屋で、そのことを全て、例に話した後に、ため息をつきつつ、呟いた。ベッドに、ごろんと横になりながら。
「お客さんも風なのかな……やっぱり私が流されちゃったのかな」
周りの、その忙しい雰囲気に、私が流されてしまったのだ。
せわしなく店の中を動き回る人達は、まさに風そのものだった。
本当に、私は雲に似ている。
独り言のように言ったにも関わらず、耳のいい令は、聞き逃さず、その理由を訊かれたので、仕方なく陽子に話したことと同じことを、令にも話す。面倒だったけれど。
令も陽子と同じように考えていた。
シルバーの丸いピアスが、よく見えるほど短いショートカットの頭を抱えて、思いついたように、ふっと頭を上げる。私はベッドから身を起こした。
「ミスのことはちょっとおいといて。私はその、風に流される雲っていうのに興味があるなぁ。ゆかりが言ってるのって、周りが風で、流されやすいのが雲で、つまりゆかりってことでしょ? うーん。でも何かそれ、違う気がする」
一旦、そこで区切り、ほおづえをついて、もう一度考える仕草をする。
「だってさ、ゆかり。ちゃんと空見てる? 私なんかは忙しくって、自然に空を見上げる機会も、ほとんどないけど。でも私のイメージとしては、曇って流されてるっていうより、自分の意志で動いてるって気がしない? 私には風に流されるっていうより、雲が自分の意志で動いているように見えるよ。そう感じる」
「自分の意志で、動いてる……?」
今度は、私がびっくりする番だった。
ベッドの上に座り直し、彼女を見る。
そんな風に考えてもみなかった。
令は優しく、はにかむようにして微笑んだ。
「ねぇ、ゆかり。今、ゆかりがしていることって、ゆかりの意志じゃない。バイトをしていることも、今こうして私といることも。そうでしょ? だったら違う意味の雲なんだろうね。ミスしたことは、詳しく分からないけど、ゆかりの責任よね、それは。それは怒られても仕方ないよね、厳しい言い方だけど。でもね、だからって、周りのせいにしちゃだめだよ。周りは、風じゃないよ」
真っすぐに、そらさずに私の目を見て、彼女は言い切った。
「周りもね、雲なんだよ、きっと」
最後のセリフは、どうしてだか私の胸にずっかりと、重くのしかかった。
そんな私の様子を見て、テーブルのうえに置いたジュースに口をつけながら、令が言った。
「でも、今日はパァーと騒ぐ?」
思いっきり明るく、笑顔を見せる。彼女のその白い歯が、やけに眩しく見えた。
「そんな元気ないよ……。だけど、ありがと。何か落ち着いたな……」
私はできるだけ明るい口調で言い、彼女がにっこりと笑うのを見てから、立ち上がって窓から外を見る。
話してる間に、日は落ちて、空は暗くなってきていた。
雲はもう見えないけれど、開いた窓からは、さわやかな風が部屋に舞い込む。白いレースのカーテンが柔らかく揺れた。
「あとさ」
言いにくそうに令が口を開いて、私を見上げる。
「多分、そのバイトの友達も、私と同じように思ったのかも知れないね」
「え?」
言ってる意味が分からず、聞き返す。
「ほら。『そんなこと、考えてもみなかった』って言ったんでしょう? それって、ゆかりが、自分の意志で動いてるの知ってたからじゃないかな? だけど多分、上手い言葉が見つからなかったのかも……。ま、分かんないけどね」
陽子までが?
まさか、という思いで、私は小さく笑った。
けれど、もし、陽子が令と同じ感じ方だったのなら……。
感じ方が違うだけで、こんなにも変わるのか。
カーテンを閉めながら、私はまぶたを閉じた。
明日からの雲は、いつもと違うように感じるかも知れないと、思った。
私は、自分の意思で動く雲になりたい。
《終》
《初出》
2000年8月13日発行「雲のような私」




