10.空を見上げて
この作品は、私に関わってくれた全ての人へ捧ぐ
私には、中学の頃から、空を見上げる癖があった。
嫌なことがあった時、バイト先での先パイに対する気遣いにイライラしてしまった時には、よく空を見ていた。
今も空を眺めている。
けれど今は、お昼からのバイトまでに時間があったことと、今日は珍しく五月にしては、気持ちよい風だったからだ。
セミロングの髪が風になびく。
空を見ると、いつも忘れがちな優しさや穏やかさを、思い出す。
青く晴れ渡る空に、雲が流れて行く様を、車一台も通らない細いジャリ道の中で、自転車を止め、そのサドルに軽く腰掛け、長い間見ていた。
道は細いけれど、周りは割りと気に入っている。
木造の家の前に、私が子供の頃から見ている、立派な桜の木が一本あり、それは新緑の最中で、他の草木も植え込ませており、緑を感じていた。
さらに、その緑は私の後ろにあり、目の前は広い空き地で草が茂っている。
広い空を、何も考えずに立って見ているのが、本当に好きだなと、思った時だった。
ふと、後ろで石と石をこすり合わせたような音がして、私は驚きながらも、そっと振り返った。
足元から見た時に、煙草の煙が鼻に入り、むせ返る。
知っている人、だった。
内山みどりという名前の彼女は、今年卒業したばかりの高校のクラスメートだった。
高校時代、プライドばかり高く、周りに抜かれまいと、必死で勉強して、皮肉にも周りに流されかけていた私と、正反対の性格をしていたのである。
授業にもほとんど出ず、出ても寝ていたり、マンガを読んでいて、よく先生に怒られていたのだった。
しかし、自分というものがなく、優柔不断な私は、そんな、周りのことを気にせずに行動している彼女はクラスでも目立っている気がして、実は憧れてもいた。その彼女の親が、卒業間近に離婚したという噂は、友達づてに聞いたことがあった。
「離婚もだけど、彼女、どちらを選ぶかで泣いたらしいわよ」
友達は、声をひそめて、噂に尾鰭をつけて私に言った。私には信じられなかった。
離婚というのは本当だったようで、内山さんは春になる前に、新宿の方に越した。
ということは、新宿からわざわざ、ゴールデンウィークを利用して、都心から離れたこの町へ、父親に会いにきたのだろうか。
彼女は母親と一緒になる、ということも聞いたことがあったけれど、私はその友達の話に正直びっくりしていた。
そこまで彼女は、話したのだろうか?
私が彼女の方を向いた時、内山さんは空を見ている訳でもなく、うつむきがちにウェーブの強くついた茶髪で、両耳にピアスをしていた。茶髪は、簡単に銀のバレッタで止め、アップにしてある。
「内山さん?」
そのすりきれたジーパンをはき、紺のTシャツ着ている彼女に、多少怖がりつつ尋ねる。実際声は本当にか細い声だった。
心の中で、自分がこの人と話す日があるなんて思わなかったな、と思いながらも。
内山さんは、一七〇センチぐらいの長身で、遠くにある建設中のビルを見ていたらしく、声をかけたことに、目を見開いて驚いた。その瞳が、あまりにもぱっちりしていて、まるで心の中を見られる気さえしていた。
「ああ、えーと、山村さんだっけ?」
うなづく私をよそに、彼女はジーパンの中からごそごそと音を立てながら、煙草を取り出し、箱に入れていたライターで、素早く火をつけた。
その行動を見て、高校時代から煙草を吸っていたかを、頭の中で思い出そうとしたけれど、それは無理だった。
彼女の赤く塗っていた唇は、アメ玉のように艶があった。
ジャリ道で煙草を吸いつつ、上目使いに私の方をちらっと見て、口を開く。
「で、こんな所でなにしている訳?」
それは、お互い様じゃないのだろうか? という言葉を飲み込んで、私は明るい気分になる。
「空を見てるとね、ああ自分はこんな所にちゃんと存在しているんだなぁって、思うの。月とか星でもそうなんだ。一人じゃないって実感するって言ったら変かもしれないけど」
一言一言ゆっくりとした口調になった。思いを込めて、のんびりと言った、という方が当てはまるかも知れない。
他の人に、こんな事を言うのは初めてだ。それをどうして、彼女に話す気になったのかは、すごくさりげなく訊かれたからかも知れない。
けれど、その時だった。彼女が笑ったのは。
「バカみたい」
一言、そう投げられた。明らかにそれは鼻で笑った、冷たい様子だった。
胸の奥から怒りが込み上げてくる。
「どういう意味?」
声が震える。先程の怖さも気にならなかった。きつく彼女を睨む。
「暇なんだねって、ことよ。じゃなきゃ、あんたは、空を見なくちゃ生きてる気がしないの? 自分が今いるのは、空があるからじゃないでしょ。しっかり自分で思っていればいいじゃない」
淡々とそう言い捨て、煙草の煙を吐き、吸い殻を捨てる。
私は、自分の信じているものを否定された気がして、悔しくなった。
何で、そこまで言われなくちゃいけないんだろう。
我慢できなかった。
思わず拳を握り締め、反論する。
「じゃ、内山さんはそうしっかり考えてるんだ? 自分一人でしっかり出来てるんだ?」
あまりの悔しさと怒りに、声が裏返る。けれど、強い口調でそう言ったのにも関わらず、彼女はそれでも顔色を変えなかった。そして二本目の煙草に火をつけて、大きく息をはく。
「そうだよ。大体何でそんな事言われなきゃいけないの? 私の勝手でしょ。人の心の中に入って来ないで」
今度は強く言ってくる。その迫力に言葉が出ない。
「邪魔」
うんざりした様子で、早口でそう言い、首でどいてほしいと合図を送った彼女は、私をよけて、背を向け去って行った。
歩いて去る彼女のその背中は、とても遠く感じた。
一つ小さなため息をつく。
バイトの時間が近付くにつれて、私ももやもやした気持ちのまま、自転車を走らせる。
自転車をこぎながら、彼女の言葉が、急に悲しく思えた。
だって、私たちはこの大きな空の下で、生きているのだから。
空がなければ、私たちは生活出来ないかも知れない。
私は確かにここにいる。一人ではなくて。
この世の中に。
そして、気が向いた時や、落ち込んだ時に、空を見上げる。
ここにいる自分を、しっかりと見据えるために。
だけど、何故彼女はあんな事を言ったんだろう。
目の前の景色がにじんで見えた。
大通りに出る前、一旦自転車を止めて、もう一度空を見上げた。
風の中で、スカートがなびく。
けれどもしかしたら、内山さんは、私と似たようなことを感じたかもしれない、そういう思いが頭の中をかすめた。強がっているのではないかと。高校時代から、一所懸命大人になろうとしている、そんな雰囲気があったから。だから《自分》を持とうとしていたのかもしれない。
それは、そうあってほしいという、わつぁいの願望なのだろうけど。
翌日、昨日とは変わって、バイトまでギリギリの時間だったため、近道を通って、スピードを上げながら自転車をこいでいたら、内山さんの姿が見えた。
またどうして、ここにいるのだろう?
そんな私の疑問をよそに、彼女は一人で立っていた。その姿が何故か、淋しそうに見える。
彼女は相変わらずの、紺のTシャツと色あせたジーパンを着て、煙草を吹かし、空を見上げていた。
雲一つない晴天を。
この五月の空を。
何で彼女が空を見上げていたのかは、わからない。
私は自転車を走らせながら、その姿を見た後、嬉しくなり、バイト先へ向かってスピードを上げた。
明日も晴れるといいなと、思いつつ。
―終―
《初出》
1999年4月18日発行「空を見上げて」




