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第4話「口コミの威力」①

 柳田玄白の来店から三日後の午後、お春は茶碗を磨きながら不安を感じていた。


 初売上の興奮は落ち着いたものの、その後は再び静寂の日々。玄白が約束した「仲間の紹介」は、まだ実現していない。


 手の動きが止まる。あれは社交辞令だったのだろうか。


 茶碗に映る自分の顔が不安そうに歪んでいる。


「失礼いたします」


 振り返ると、三人の男性が店の前に立っていた。


 皆、玄白と同世代で学者らしい雰囲気。手に医学書を抱え、質素だが品の良い着物を着ている。その中の一人は眼鏡をかけ、もう一人は背が高く痩身、最後の一人は小柄ながら鋭い目つきをしている。


「玄白から聞いて参りました。珈琲という薬湯をいただけると」


 先頭の痩身の男性が言った。知的で落ち着いた声だった。


「はい、いらっしゃいませ」


 お春の心が躍る。玄白は約束を守ってくれたのだ。胸の奥で小さな感動が広がっていく。


「私は津川、こちらは木村、奥が佐藤と申します。皆、蘭学を志す医者です」


 三人は丁寧に頭を下げる。津川は内科、木村は外科、佐藤は本草学が専門だと自己紹介した。


「どうぞ、おくつろぎください」


 狭い店がにわかに賑やかになった。ようやく店らしい活気が生まれる。畳の上に座る三人の重みで、い草の香りがふわりと立ち上った。


「玄白が申すには、頭が驚くほど冴える薬湯だとか」


 木村が興味深そうに店内を見回す。


「昨夜も徹夜で解剖図を写していたのですが、朝には頭がぼんやりして。手元が震えて線がうまく引けませんでした」


「蘭書の翻訳は集中力が続かないと、読み進められません」


 津川が身を乗り出す。


「特にオランダ語の医学用語は、一つ間違えれば治療法が全く変わってしまう」


 佐藤が真剣な表情で頷く。


「薬草の効能を調べる時も、集中が途切れると命に関わる間違いを犯しかねません」


「では、お作りいたします」


 お春は台所に向かった。三杯分の珈琲。少し緊張するが、今度は自信もある。


 七輪に炭を足し、豆をパチパチと炒る。香ばしい匂いが店内に広がると、三人から感嘆の声が上がった。


「これは素晴らしい香りですね」


「薬草とは違う、なんとも言えない良い匂いだ」


 すり鉢で豆を挽く音がゴリゴリと響く。より濃厚な香りが立ち上がり、三人の表情が期待に満ちてくる。急須で蒸らし、三つの茶碗に注ぐ。


「お待たせいたしました」


 津川が茶碗を手に取り、まず香りを楽しむ。慎重に口をつけて、しばらく味わってから目を見開いた。


「これは……確かに頭がすっきりしますね」


「眠気が一気に飛んだ。驚くべき効果です」


 木村も驚いている。眼鏡の奥の目が輝いている。


「苦味がありますが、不思議と後味が良い。胃にも優しい感じがします」


 佐藤が満足そうに言った。


「この薬湯の効能について、詳しく教えていただけませんか」


 津川が身を乗り出す。医者としての学問的関心が全身から滲み出ている。


「眠気を覚まし、頭脳を明晰にし、疲労を回復させます。胃の働きを助ける効果もあります」


「興味深い。オランダの医学書にも似た記述がありました」


 木村が感心している。


「『コフィー』という名前で、イスラムの医師たちも使用していたとか」


「我々のような者には、まさに必要な薬ですね」


「ところで」


 津川が周りを見回した。


「こちらでは、学問の議論もできるのでしょうか」


「もちろんです」


「それでしたら、少し相談があります」


 三人は顔を見合わせて微笑んだ。


「我々は定期的に勉強会をしているのですが、いつも適当な場所がなくて。寺子屋は子供がうるさいし、料理屋は酒が入って真面目な話ができません」


「こちらなら静かで、頭も冴える。勉強会には最適ですね」


 津川が提案する。


「もしよろしければ、定期的にお邪魔させていただけませんか」


 お春の胸が高鳴った。定期的な客になってくれるなら、これほど嬉しいことはない。


「ありがとうございます。心よりお待ちしております」


 三人は満足そうに珈琲を飲み干し、それぞれ代金を支払った。四十五文。これまで最高の売上だった。手のひらに重なる銭の温かさが、成功の実感を運んでくる。


「また明後日、伺います」


「お待ちしております」


 翌日の夕方、三十代半ばの女性が現れた。


 上質な絹の着物を着ているが、少し疲れたような表情。目の下にうっすらと隈があり、肩が重そうに下がっている。足音も元気がない。


「こちらで、心を落ち着ける薬湯をいただけると聞きましたが」


 声に震えがある。何か深い悩みを抱えているのが伝わってくる。


「はい。どうぞ」


 女性は恐る恐る腰を下ろした。座布団に座る姿勢も、どこか遠慮がちだった。


「お絹と申します」


 お春は特に丁寧に珈琲を淹れた。この人には、心を込めて作ってあげたい。豆を焙煎する音、挽く音、すべてが優しく響くよう心がけた。茶碗を差し出すと、お絹は慎重に受け取る。


「不思議な香りですね」


 そっと口をつけ、味わう。だんだんと表情が和らいできた。固く結ばれていた口元が、少しほころんでいる。


「確かに、心が落ち着くような。気持ちが軽くなります」


 声にも温かみが戻ってきた。


「よろしければ、何かお悩みでも」


 お春は優しく声をかけた。田中美咲時代のカウンセリング技術を思い出し、聞く姿勢を整える。


「実は……後妻の立場で、先妻様のお子さんとの関係が難しくて」


 お絹の目に涙が浮かぶ。声が震え、手も小刻みに震えている。


「十二歳の男の子なのですが、どれだけ優しくしても、よそよそしい態度で。時には『お前は僕の母親じゃない』と」


 涙がひとしずく頬を伝った。


「お辛いですね」


 お春は心から同情した。お絹の痛みが、自分の胸にも響いてくる。


「でも、お子様も複雑な気持ちを抱えていらっしゃるのでは。失ったお母様への想い、新しい母への戸惑い」


 お絹が小さく頷く。


「まずは、お母様の代わりになろうとせず、お絹様らしく、良い友人のような関係から始めてみては」


「私らしく……」


 お絹の目に希望の光が宿る。


「お子様の好きなものを一緒に楽しんでみてください。無理に母親らしくしようとせず、お絹様の得意なことで」


「甘いものがお好きなようで」


「それでしたら、一緒にお菓子作りはいかがでしょう。作りながら自然に会話もできますし、完成した時の喜びも共有できます」


 お絹の目が輝いた。暗かった表情が、まるで朝日が差したように明るくなる。


「素晴らしいお考えですね。ぜひ、試してみたいと思います」


「大切なのは、お子様を変えようとするのではなく、まずお絹様が楽しむこと。その楽しさが伝われば、きっと心も開いてくれます」


「ありがとうございます。こんなに心が軽くなったのは、久しぶりです」


 お絹は嬉しそうに珈琲を飲み干し、十五文を支払った。立ち上がる姿勢も、来た時とは見違えるほど軽やかだった。


「また伺わせていただきます」

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