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第3話「最初の客」②

「いらっしゃいませ」


 お春は慌てて立ち上がる。三日ぶりの客に、心臓が早鐘を打った。声が震えそうになるのを必死に抑える。


「珈琲茶屋、と看板にありますが」


 男性の声は穏やかで、知識人らしい品がある。


「はい。珈琲という薬湯をお出ししております」


「薬湯……」


 男性の目に興味深そうな光が宿る。他の客とは明らかに違う反応だった。


「実は薬師寺屋の玄庵先生から、こちらのお話を伺いまして」


 お春の顔が輝いた。玄庵が紹介してくれたのだ。


「どのような効能が?」


「頭がすっきりと冴えて、眠気が覚めます。学問をされる方には特に」


「学問を……」


 男性は驚いたような顔をした。まるで自分の事情を見透かされたような表情だった。


「私は医者の卵で、柳田玄白と申します。夜通し本を読むことが多く、眠気と疲れに悩んでおりました」


 玄白の声には、学問への真摯さが込められている。


「それでしたら、ぜひ」


 お春は座布団を勧める。玄白は恐る恐る腰を下ろした。古い畳の匂い、い草の香りが鼻をくすぐる。


「少々お待ちください」


 台所で珈琲を淹れる。七輪で豆を焙煎し、パチパチと弾ける音が静寂を破る。すり鉢で挽き、急須で蒸らす。今までで一番丁寧に、心を込めて。


 焙煎の香ばしい匂いが店内に広がると、玄白の鼻がひくひくと動いた。


「これは……なんとも良い香りですね」


 驚いたような、そして感嘆するような声だった。


「香りも薬効の一つと考えております」


「お待たせいたしました」


 湯気の立つ茶碗を差し出す。珈琲の深い茶色が美しく、湯気が立ち上る様子が神秘的に見える。玄白は慎重に受け取り、まず香りを楽しんだ。


「医学の観点から申しますと、この香りだけでも何らかの薬効がありそうです」


 そっと口をつけ、少しずつ味わう。最初は戸惑ったような表情だったが、だんだんと驚きの色が浮かんできた。


「これは……」


 しばらくして、目を見開いた。


「確かに頭がすっきりします。眠気も飛びました」


 お春の胸に希望の光が差し込んだ。ついに、珈琲を理解してくれる人に出会えた。


「素晴らしい。これなら夜通し勉強しても疲れませんね」


 玄白の表情が明るくなる。学者としての知的好奇心が満たされたような顔だった。


「実は……」


 玄白は茶碗を置いて、困ったような表情を見せた。


「私にも悩みがございまして」


 お春は身を乗り出す。田中美咲としてのカウンセリング経験を思い出し、聞く姿勢を整えた。


「よろしければ」


「蘭学を学んでいるのですが、周りの理解がなくて。特に縁談の話になると、相手の方が困惑されるのです」


 玄白の声に苦悩が滲んでいる。


「お相手の方は?」


「商人の娘さんで、とても美しく聡明な方です」


 玄白の目に恋する人特有の輝きが浮かぶ。頬がわずかに紅潮し、声も優しくなる。


「しかし、身分も違えば考え方も違う。蘭学を学ぶ変わり者とは結婚できないと」


 お春は深い共感を覚えた。身分や立場の違いで理解されない辛さは、現代でも変わらない。


「玄白さんは、なぜ蘭学を?」


「より多くの人を救いたいのです」


 玄白の目が輝いた。使命感に燃える、医者としての魂が宿っている。


「日本の医学だけでは限界があります。オランダの新しい知識があれば、今まで治せなかった病気も治せるかもしれない」


 学問への情熱が言葉の端々に表れている。拳を握りしめ、身を乗り出す姿に真摯さが滲んでいた。


「素晴らしい志です」


 お春は心から感動した。


「きっと理解してくださる方がいらっしゃいます。玄白さんの真摯な気持ちは、必ず伝わります」


「そう思われますか」


 玄白の声に希望が宿る。


「はい。大切なのは、相手の気持ちを理解し、自分の想いを誠実に伝えることです」


 現代でのカウンセリング経験を活かし、お春は優しく答える。


「まず、お相手の不安を聞いてあげてください。蘭学への偏見の根っこには、きっと心配があるはずです」


 玄白の表情が明るくなった。


「ありがとうございます。なんだか気持ちが軽くなりました」


 肩の力が抜け、表情も和らいでいる。


「お役に立てて幸いです」


「それに、この珈琲は本当に素晴らしい。ぜひ仲間の医者たちにも紹介したいのですが」


 お春の心が躍った。ついに珈琲の輪が広がる可能性が見えてきた。


「ありがとうございます」


「お代はいくらでしょうか」


「十五文でございます」


 玄白は躊躇なく代金を支払った。お春は震える手で銭を受け取る。


 初めての売り上げだった。


 たった十五文だが、何にも代えがたい価値があった。胸が熱くなり、目頭が潤んでくる。手のひらで銭の重みを感じながら、込み上げる感動を抑えきれない。


「また伺わせていただきます」


「心よりお待ちしております」


 玄白が去った後、お春は銭を握りしめて座り込んだ。


 涙がぽろぽろと頬を伝う。嬉しくて、安堵して、希望に満ちた涙だった。


 ついにやった。初めての客、初めての売り上げ。珈琲の素晴らしさを理解してくれる人に出会えた。三日間の苦労が、この瞬間にすべて報われた。


「お春様、どうされました」


 お松が心配そうに声をかける。


「初めてのお客様がいらしたのです」


 声が震えている。涙で上手く話せない。


「珈琲を喜んでくださって、また来ると」


「それは何よりです」


 春之助も現れて、娘の様子を見て安心したような顔をした。


「やっと道筋が見えてきたな」


「はい。きっと上手くいきます」


 お春は銭を大切に懐にしまった。この十五文は、新しい人生の第一歩を刻む記念すべき収入だった。手のひらに残る温もりが、希望の証しのように感じられる。



 その夜、お春は一人で珈琲を飲みながら今日のことを振り返っていた。


 玄白の真摯な人柄、学問への情熱、身分違いの恋への悩み。すべてが印象深い出会いだった。


 そして何より、珈琲を心から喜んでくれたことが嬉しかった。あの感動した表情、驚きの声。すべてが宝物のような記憶だった。


「必ず成功させる」


 小さくつぶやく。


 玄白が仲間の医者たちに紹介してくれれば、きっと客も増える。蘭学に興味のある知識人なら、珈琲の価値を理解してくれるはずだ。


 茶碗を両手で包み、最後の一滴まで味わう。今日という日を忘れないよう、珈琲の香りと味をしっかりと記憶に刻んだ。


 月が昇り、夜が深くなっていく。しかし、お春の心は希望で満ちていた。


 珈琲茶屋「春庵」の歴史が、今日から始まったのだ。


 遠くで夜鷹の声が聞こえ、夜警の拍子木が響く。「火の用心、火の用心」という声が夜風に乗って流れてくる。江戸の夜が静かに更けていく中、お春は明日への期待に胸を膨らませていた。


 小さな一歩だったが、確実な一歩だった。


 田中美咲として培った経験と、お春として身につけた江戸の知恵。二つの人生が重なった今だからこそ、新しい道を切り開けるのだ。


 珈琲の香りが夜風に乗って、希望の明日へと向かっていく。


 台所の珈琲の香りが、静寂の中でひっそりと輝いていた。江戸の夜空に星が瞬き、新しい物語の始まりを祝福するように輝いている。


 三日間の苦労と、ようやく掴んだ成功。その対比が、珈琲の味をより深く、より尊いものにしていた。

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