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第3話「最初の客」①

 朝露が残る中、お春は手作りの看板を磨いていた。


「珈琲茶屋 春庵」


 墨で書いた文字は決して上手ではないが、心を込めて一画一画丁寧に書いた。夜なべして何度も練習した成果だった。筆先に込めた想いが、かすれた文字の中にも宿っている。


 家の一角を改装した畳二畳ほどの店。質素ながらも清潔に掃き清められ、古い畳に手ぬぐいを敷いて、一輪の花を活けた小さな徳利が朝光を受けて静かに輝いている。


 小さな座卓が二つ、座布団が四枚。


 それだけの設備だったが、お春にとっては希望に満ちた場所だった。手作りの暖簾が朝風に優しく揺れ、新しい人生の始まりを告げている。


「お春、本当に大丈夫なのか」


 春之助が心配そうに声をかける。眉間の皺が深く、昨夜また借金取りに厳しい言葉を浴びせられたばかりだった。「いつまで待たせる気だ」という怒声が、まだ耳に残っている。


「はい。きっと上手くいきます」


 お春は微笑んで答えたが、胸の奥には小さな不安もあった。本当に江戸の人々に珈琲が受け入れられるのだろうか。


 すべての準備を整え、看板を店先に掲げる。手作りの暖簾が風に揺れて、いよいよ開店だった。


「さあ、始まりです」



 しかし、現実は想像以上に厳しかった。


 一日目。朝から夕方まで、誰一人として店に入る人はいなかった。


 通りかかる人々は看板を見て首をかしげ、「珈琲って何だ」「聞いたこともない」と素通りしていく。中には「怪しげな店だ」と眉をひそめ、わざと大回りして避ける人もいた。


 お春は店先で座布団を叩き、茶碗を磨き、何度も暖簾を整えた。しかし、足音が近づくたびに期待しても、誰も立ち止まってくれない。


 昼過ぎ、ようやく声をかけてくれたのは、隣の長屋の大工職人だった。


「お嬢ちゃん、珈琲って何だい」


 汗まみれの作業着に、日焼けした逞しい手。誠実そうな人柄が顔に表れている。


「頭がすっきりする薬湯でございます」


「ほう、どんな味だい」


「少し苦いですが、身体も温まり、疲れも取れます」


「いくらだい」


「一杯十五文で」


 職人の顔が曇る。十五文は普通の茶代の三倍以上だった。一瞬迷ったような表情を見せたが、首を振った。


「そんな高い薬湯は飲めないなあ。一文二文の茶でも十分だよ」


 苦笑いしながら去っていく。お春の胸がきゅっと締め付けられた。


 二日目も同じだった。


 好奇心で覗く人はいても、実際に注文する客はいない。値段を聞くと皆躊躇し、結局は去っていく。


「変な匂いがするねえ」


「得体の知れない薬だって」


「高いし怖いわねえ」


「南蛮の毒かもしれないよ」


 ひそひそ話が聞こえる。お春の頬が熱くなった。通りすがりの人々の視線が刺すように痛い。


 夕方になると、お春は膝を抱えて座り込んだ。涙がこぼれそうになるのを必死にこらえる。


 三日目の朝。


 心は重く、足取りも重い。このまま客が来なければ、借金が膨らむばかりだ。父の期待を裏切り、お松にも迷惑をかけている。


 珈琲豆も残り少なくなってきた。もし売れなければ、追加購入する資金もない。


 諦めかけたその時だった。


「失礼いたします」


 振り返ると、若い男性が店の前に立っていた。


 二十代前半で、質素だが清潔な着物を着ている。学者らしい雰囲気で、手には医学書らしい本を抱えていた。顔色は青白く、夜更かしの疲れが目の下に浮かんでいる。


 しかし、その目には知的な輝きがあった。好奇心に満ちた、温かい眼差しだった。

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