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第2話「珈琲との格闘」②

 神田への道すがら、源太は江戸の街について教えてくれた。


 歩きながら、お春は現代との違いを改めて感じる。車の排気ガスはないが、馬糞や炭の匂いがする。人々の足音、馬の蹄音、大八車の軋む音。すべてが人間の営みの音だった。


「薬師寺屋の主人は変わり者で有名なんです」


 源太の声が心地よい。話し方に誠実さがあり、聞いているだけで安心できる。


「蘭学の本を集めて、オランダの薬を研究している。若い医者たちもよく集まってくるそうです」


「どのような先生方ですか」


「新しい治療法を学ぼうという、熱心な方々だと聞いております」


 これは好都合だった。珈琲の効能を理解してくれる人がいるなら、話も通じやすい。


「お嬢様は、その薬湯をどちらで習われたのですか」


 源太の質問に、お春は一瞬詰まった。


「実は……夢のお告げで」


「夢のお告げ」


 源太は真剣に聞いている。疑うような色はまったく見せない。


「高熱で寝込んでいた時、不思議な夢を見ました。その中で豆を炒って粉にし、湯で煮出すやり方を」


「それは素晴らしい。神仏のご加護ですね」


 源太の純朴さに、お春は心を動かされた。現代では失われてしまった、素直な信仰心がある。


 薬師寺屋は神田の一角にひっそりと建っていた。


 店先には朝鮮人参、熊の胆、鹿の角など、さまざまな薬草が並んでいる。独特な薬草の匂いが店の前まで漂っていて、少し鼻をつく刺激的な香りがした。


「いらっしゃいませ」


 現れたのは細身の中年男性。学者らしい雰囲気で、目の奥に知的な輝きがある。手には墨の染みが付き、学問に打ち込んでいることが分かる。


「堺屋様のご紹介で参りました」


 お春が紙片を差し出すと、男性の顔がぱっと明るくなった。


「総兵衛さんの。私は薬師寺玄庵と申します」


「珈琲豆という豆から作る薬湯について」


「珈琲豆」


 玄庵の目が輝いた。学者特有の、新しい知識への飢えが感じられる。


「どのような効能が?」


「頭が冴えて眠気が覚め、胃の調子も良くなります」


「それは蘭学の文献にも似た記述があります」


 玄庵は本棚から一冊取り出す。オランダ語で書かれた医学書だ。皮装丁の表紙は使い込まれ、何度も読み返された形跡がある。


「頭脳の働きを活発にし、疲労を回復させる効果があると」


「まさにその通りです」


「実際に作っていただけますか」


「はい、ぜひ」



 薬師寺屋の奥で、お春は珈琲を淹れた。


 持参した少量の豆を七輪で焙煎する。炭火の赤い色が美しく、熱気が頬を撫でていく。パチパチと音を立て、香ばしい匂いが立ち上がる。薬草の匂いが支配していた店内に、まったく違う香りが広がった。


「なんという良い香りでしょう」


 玄庵が感嘆する。鼻をひくひくと動かし、初めて嗅ぐ香りを堪能している。


 焙煎した豆をすり鉢で挽く。ゴリゴリという音と共に、より濃厚な香りが立ち上がってくる。急須に入れて湯を注ぎ、しばらく蒸らしてから茶碗に注いだ。


 湯気が立ち上り、珈琲の深い色が美しい。


「これが珈琲という薬湯です」


 玄庵は恐る恐る口をつけ、しばらく味わってから驚いた表情を見せた。


「確かに頭がすっきりします。苦味もありますが、不思議と後味が良い」


 目を閉じて、じっくりと効果を確かめている。


「いかがでしょうか」


「素晴らしい。蘭学を学ぶ医者たちにも喜ばれるでしょう」


 お春の胸が高鳴る。


「ぜひ、扱わせていただきたい」


「ただし……」


 お春の表情が曇る。


「豆が非常に高価でして。一袋で米一俵分も」


「それは確かに高い」


 玄庵は考え込む。指で机を叩きながら、計算しているようだった。


「しかし、効能が確かなら、学者や医者の中には多少高くても欲しがる方がおります」


 希望が見えてきた。暗雲の中から、一筋の光が差したような気持ちになる。



 帰り道、源太が声をかけた。


「うまくいきそうですね」


「おかげさまで。源太さんのおかげです」


 源太の顔がぽっと赤くなる。照れたような笑顔が愛らしい。


「また何かお手伝いできることがあれば」


「ありがとうございます」


 お春は微笑む。源太の真摯な態度が心地よかった。現代では出会えない、純粋な優しさがある。


 家に戻ると、春之助が待っていた。


「どうだった?」


「薬として売れる可能性があります」


 一日の出来事を話すと、春之助の顔に久しぶりの笑顔が戻った。


「それは素晴らしい。では早速」


「いえ、まだです」


 お春は首を振る。


「もっと技術を磨かなければ。一杯一杯を最高の出来にしないと」


 妥協は許されない。田中美咲として培ったプロの意識が、そう告げていた。


 その夜から、お春の格闘が始まった。


 わずかに残った豆で、焙煎と抽出を繰り返す。江戸時代の道具で、どれだけ美味しい珈琲を作れるか。


 まず七輪での焙煎に苦戦した。


 現代の電気焙煎機とはまるで違う。炭火の熱量は一定でなく、風向きで温度が変わる。少し気を抜くと真っ黒に焦げ、慌てて火から下ろしても時すでに遅し。


 最初の夜は五回も失敗した。


 焦げた豆の苦い匂いが台所に充満し、煙が目にしみて涙が出る。がっかりして座り込み、膝に顔を埋めた。


「これじゃだめだ」


 つぶやいて、立ち上がる。田中美咲はこんなところで諦めるような人間ではなかった。


 二日目、炭の配置を変えた。風の通り道を考え、熱が均等に回るように工夫する。炭を小さく砕いて、熱源を分散させてみた。


 しかし、今度は火力が弱すぎて、豆の芯まで熱が通らない。


 三日目、ようやく焦がさずに焙煎できた。


 しかし今度は抽出で苦労する。江戸の水質は現代と違う。ミネラル分が多く、同じやり方では思うような味が出ない。


 四日目、豆を挽きすぎて苦味が強くなった。すり鉢の目が細かすぎて、微細な粉になってしまったのだ。


 五日目、湯の温度が高すぎて酸味が飛んだ。温度計のない時代、手の感覚だけで温度を測るのは至難の技だった。


 六日目、抽出時間が長すぎて渋みが出た。


 七日目、豆を挽く粗さを変えて、また失敗。


 失敗を重ねながら、少しずつ改良していく。現代のカフェにはない、手作りの醍醐味があった。しかし、同時に歯がゆさも感じる。機械があれば簡単なことが、なぜこんなに難しいのか。


 豆が減っていくのが心配だったが、この技術習得は必要な投資だと自分に言い聞かせる。


 一週間目の夜。


 ついに満足のいく一杯ができた。香り高く、苦味と酸味のバランスが絶妙。現代のカフェに出しても通用する品質だった。


 茶碗を持つ手が震える。嬉しさで胸がいっぱいになった。


「お松、飲んでみませんか」


 そっと声をかけると、年配の女中が驚いた顔を見せる。


「私がですか?」


「お客様の反応を知りたいのです」


 お松は恐る恐る茶碗を受け取り、鼻を近づけて香りを嗅いだ。それからそっと口をつける。


 最初は戸惑ったような表情だったが、だんだんと驚きの色が浮かんできた。


「これは……なんとも不思議な味ですね」


「いかがですか」


「最初は苦いと思いましたが、だんだん美味しく感じます。それに確かに頭がすっきりして」


 お松は茶碗を大切そうに両手で持っている。湯気で顔がほころんでいる。


「身体も温まりますね。これなら高いお金を払っても飲みたいという方がいらっしゃるでしょう」


 お春は確信を得た。


 この珈琲なら、きっと江戸の人々にも受け入れてもらえる。品質に自信が持てた。


「お松、ありがとうございます」


「いえいえ。本当に良い薬湯ですね」


 夜空を見上げると、星が美しく輝いている。


 明日から本格的に商売の準備を始めよう。珈琲を武器に、この江戸で新しい道を切り開くのだ。


 台所に珈琲の香りが漂い、希望に満ちた夜が更けていく。


 夜警の拍子木の音が遠くから響いてきて、平和な江戸の夜を物語っていた。「火の用心、火の用心」という声が、夜の静寂に溶けている。すべてが希望に満ちて見える。


 お春は茶碗を大切に洗いながら、明日への決意を新たにしていた。


 一歩一歩、着実に前進している実感があった。田中美咲の技術と、お春の商売感覚。二つの人生の経験が重なって、新しい可能性を生み出している。


 珈琲の香りが夜風に乗って、希望の未来へと運ばれていく。

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