第18話「将軍献上」
水無月に入り、梅雨の合間の晴れた日。珈琲薬性考の研究が始まってから三月が経った頃、青木昆陽が春庵を訪れたのは、いつもより早い朝の刻であった。
その表情は、これまでにない緊張と興奮を湛えている。
「お春さん、重大なお話がございます」
昆陽は座ると、懐から一通の書状を取り出した。その書状には、見たこともない格式高い封印が施されていた。
「これは」
「町奉行所からでございます」
お春は息を呑んだ。町奉行所からの書状など、町人の身では滅多にお目にかからぬものである。
「実は、珈琲薬性考の研究成果について、江戸南町奉行大岡越前守忠相様がお調べになっておられました」
昆陽の声が震えている。
「町奉行様が、目安箱への複数の投書を通じて、この件を詳しくお聞きになられたのです」
「目安箱への投書、と申しますと」
「はい。春庵の常連である医師の方々が、『珈琲という薬湯が江戸の人々の健康に大いに役立っている』と、それぞれ投書されたのです」
お春は心の中で思った。目安箱は今年、享保6年に設置されたばかりの制度だ。将軍吉宗が庶民の声を直接聞くために作った画期的な仕組みである。まさか自分たちの研究がその制度を通じて上に届くとは。
「その結果」
昆陽は慎重に続けた。
「大岡忠相様が、珈琲についてさらに詳しくお調べになりたいと仰せです。ただし、これまで二月にわたって慎重に検討され、ようやくこの度お呼び出しとなりました」
「町奉行様が、そのようなお時間をかけて」
お春の声は掠れた。江戸南町奉行、大岡越前守忠相。享保の改革を支える名奉行として知られ、江戸の治安と民政を司る方である。
「ただし」
昆陽は慎重に続けた。
「女性が直接奉行様にお目通りするのは叶いません。私が代理として参上いたします」
「もちろんでございます」
お春も頷いた。江戸時代の制約は理解している。
「しかし、珈琲の淹れ方や効能について、詳しくお教えいただかねばなりません」
「承知いたしました」
その日から、お春と昆陽、そして協力する医師たちは、町奉行所への報告に向けた入念な準備を始めた。
珈琲の淹れ方、効能の説明、想定される質問への回答。すべてを完璧に整えねばならない。
「大岡忠相様は非常に学問を重んじる方でいらっしゃいます」
昆陽が説明した。
「特に実学を尊重され、民の役に立つ学問を奨励されている。しかし同時に、非常に慎重でもいらっしゃる。軽々しく物事をお認めになることはありません」
心の中でお春は思った。それは当然のことだ。幕府の要職にある方が、一町人娘の発見を簡単に認めてくださるわけはない。それでも、この機会をいただけるだけで十分に光栄なことである。
一週間後、江戸南町奉行所での報告の日がやってきた。
お春は昆陽と共に、奉行所の近くまで同行した。女性は奉行所内に入れないため、ここで別れることになる。
「昆陽さん、どうかよろしくお願いいたします」
「お任せください。お春さんの珈琲の真価を、必ずや忠相様にお伝えいたします」
昆陽は上質な珈琲豆と、お春が用意した薬性の詳細な説明書を携えて奉行所内に向かった。
江戸南町奉行所、大岡忠相の執務室。
大岡越前守忠相は、質素な衣服を着て、昆陽の前に座していた。四十を過ぎた働き盛りのその風貌は威厳に満ち、しかし親しみやすさも感じさせる。享保の改革を支える名奉行の風格である。
「青木昆陽と申すか」
忠相の声は穏やかだが、確固たる威厳がある。
「はい。お忙しい中お時間をいただき、恐縮至極に存じます」
昆陽は深々と頭を下げた。
「珈琲という南蛮の薬湯について、詳しく聞かせてくれるそうだな」
「はい。この珈琲は、頭脳を明晰にし、疲労を回復させる効果がございます」
昆陽は慎重に説明を始めた。
「これまで三月にわたり、医師の方々による詳細な観察により、その薬性が確認されております」
忠相は興味深そうに頷いた。
「実際に淹れて見せてくれるか」
「承知いたしました」
昆陽は慣れた手つきで珈琲を淹れ始めた。お春から何度も教わった通りの手順である。豆を焙煎し、挽いて、湯を注ぐ。
執務室に珈琲の香りが広がった。
「良い香りだな」
忠相が感嘆の声を漏らした。
「この香りもまた、薬性の一つとされております」
昆陽は珈琲を差し出した。
忠相は慎重に口をつけ、しばらく味わった。
「確かに、頭がすっきりする」
忠相の表情が明るくなった。
「これは興味深い。どのような経緯で江戸に伝わったのか」
「日本橋の商人の娘、お春という者が、夢でのお告げにより知ったと申しております」
昆陽は慎重に説明した。
「その後、医師の方々と協力して薬性を詳しく調べ、多くの方にお試しいただいた結果、確かな効果が認められました」
「夢でのお告げか」
忠相は興味深そうに頷いた。
「神仏のご加護と学問の探究が結びついた、誠に興味深い話だ」
昆陽は懐から説明書を取り出した。
「こちらに、詳細な観察記録がございます」
忠相は丁寧に読み始めた。お春が前世の知識を慎重に江戸時代風に翻訳した、珈琲の効能に関する詳細な資料である。
「これは実に詳しい記述だな」
忠相の目が輝いた。
「頭脳活性化、疲労回復、消化促進。そしてそれぞれの仕組みまで説明されている」
「はい。お春という娘は、夢で南蛮の医師に教わったと申しており、その知識の深さは我々医師も驚くほどです。ただし、娘は常に『私は学のない女子ですので』と謙遜しており、決しておごった様子はございません」
「謙虚な心根も大切なことだ」
忠相は感動した様子であった。
「このような実学こそ、享保の改革で目指しているものだ」
昆陽の胸が高鳴った。名奉行の理念と珈琲の価値が合致している。
「お尋ねしたいことがあるが」
忠相が口を開いた。
「この珈琲は、どのような人々に効果があるのか」
「はい。学者、医師、商人、職人、武士の方々。身分を問わず、多くの方にお試しいただき、皆様から良い結果をお聞きしております」
「身分を問わず、か」
忠相は深く頷いた。
「それは重要なことだ。改革において最も大切なのは、すべての民が恩恵を受けることだからな」
心の中で昆陽は思った。さすが名奉行と呼ばれるだけのことはある。民のことを第一に考えておられる。
「それから」
忠相は続けた。
「この珈琲の普及により、どのような効果が期待できるか」
これはお春から入念に教わった質問の一つであった。
「まず、学問に励む者の能率向上により、江戸の学術水準が向上します」
昆陽は自信を持って答えた。
「次に、商人や職人の作業効率が上がり、経済の発展に寄与します」
「なるほど」
「そして、疲労回復効果により、人々の健康が保たれ、医療への負担軽減にも繋がるかと存じます」
忠相の目が大きく輝いた。
「実に素晴らしい考えだ。単なる嗜好品ではなく、国の発展に役立つ薬草として位置づけることができる」
「恐れ入ります」
「昆陽よ」
忠相が身を乗り出した。
「この珈琲について、さらに詳しく調査を進めたい。ただし、これは重大な件故、慎重に事を進めねばならぬ」
昆陽は緊張した。
「まずは、奉行所内で一月ほどかけて詳しく確かめよう。同心や与力にも効果を実感してもらい、十分な確証を得た上で、次の段階に進む」
「次の段階と申しますと」
「将軍様へのご報告だ」
昆陽は感動で声が震えた。
「ありがたき幸せにございます」
「それから」
忠相は慎重に続けた。
「このお春という娘だが、直接お目通りは叶わぬが、その功を何らかの形で認めたい。ただし、これも慎重に進めねばならぬ」
「忠相様のお心遣い、恐縮至極でございます」
「珈琲を商う者に、町奉行所からの後援を与えよう。将来、将軍様にお認めいただければ、さらなる御沙汰もあるやもしれぬ」
昆陽は驚きと感謝に満たされた。ただし、忠相の慎重さも理解できる。
「そのような恐れ多いお言葉」
「いや、これは当然のことだ」
忠相の声には確信があった。
「新しい学問を生み、民の健康に寄与し、国の発展に役立つ。しかし、それが確かなものかどうかは、十分に確かめねばならぬ」
その時、控えていた与力が進み出た。
「忠相様、この件について、気になる報告がございます」
「どのような」
「近江屋という呉服商が、この珈琲商売に対し様々な妨害を行っていたという報告です」
忠相の表情が厳しくなった。
「妨害とは」
「商人組合での圧力や、不当な競争を仕掛けていたようです」
与力が続けた。
「民に有益なものを私利私欲で妨げる行為として、問題視すべきかと存じます」
「許せぬ」
忠相の声が厳格になった。
「享保の改革の理念に真っ向から反する行為だ。民の利益よりも私利私欲を優先するなど、商人として失格である」
忠相は昆陽に向き直った。
「昆陽よ、この件については、しかるべき処置を取る。悪質な商人には注意を促し、お春という娘には正当な保護を与えよう」
「ありがたき幸せにございます」
一月後、奉行所での慎重な検証が終わり、昆陽から報告を受けたお春であった。
「お春さん、大成功でした」
「本当でございますか」
「忠相様は珈琲を大変気に入られ、奉行所内での検証でも素晴らしい結果が出ました」
お春は涙ぐんだ。
「そのような恐れ多いこと」
「それだけではございません」
昆陽は興奮した声で続けた。
「ついに将軍様へのご報告が決まりました。忠相様が直々にお話しくださるとのことです」
「将軍様に」
お春は言葉を失った。身に余る光栄である。しかし同時に、その重責に震えが止まらない。
「さらに、近江屋の妨害についてもお聞きになられ、適切な処置を行うと仰せです」
お春の胸に、安堵と感謝の気持ちが溢れた。しかし、心の片隅に不安もあった。こんな私が、将軍様のお耳に届くような功績を本当に成し遂げたのだろうか。
その後、忠相から将軍への報告が行われた。
大岡忠相は、定期的に行われる将軍への政務報告の際、珈琲の件について詳しく説明を行った。
「将軍様、興味深い薬湯の件でご報告がございます」
西の丸の一室で、吉宗は忠相の報告を聞いていた。
「珈琲という南蛮の薬湯でございますが、頭脳明晰、疲労回復に大変効果があることが、一月にわたる詳細な検証により確認されております」
忠相は実際に珈琲を淹れ、吉宗に献上した。
「確かに、頭がすっきりする」
吉宗が感嘆の声を漏らした。
「これは興味深いな。どのような経緯で発見されたのか」
「日本橋の町人の娘が、夢での神仏のお告げにより知り、医師や学者と協力して詳しく研究したものでございます」
「町人の娘が、か」
吉宗の目が輝いた。
「民の知恵と学問の力が結びついた素晴らしい例だな」
「はい。民の健康増進と、学問・商業の発展に大いに寄与するものと存じます」
「実学の精神にかなった、誠に素晴らしい発見だ」
吉宗の声には感動があった。
「この珈琲を広く民に普及させることで、国力向上にも繋がるであろう」
「恐れ入ります」
「忠相よ、この件について段階的に推奨を進めよ」
吉宗が慎重に言った。
「まずは江戸の医師や学者に広め、効果を十分に確かめた上で、正式な推奨とする」
「承知いたしました」
「そして、この発見をした町人の娘についても、将来的には何らかの形で功を認めることも考えよう」
忠相は深々と頭を下げた。将軍様の慎重さと寛大さに感動していた。
その夕方、春庵には多くの人が集まっていた。昆陽からの報告を聞いた医師たち、商人仲間、そして常連の客たちである。
「お春さん、おめでとうございます」
玄白が立ち上がった。
「将軍様のお耳に届くとは、夢のようです」
「皆様のお陰でございます」
お春は深々と頭を下げた。
「私一人では、とてもこのようなことは」
しかし、お春の心には複雑な思いもあった。このような栄誉をいただいて、果たして自分にその資格があるのだろうか。前世の知識を使っているとはいえ、それは正当なことなのだろうか。
「いえいえ、お春さんの珈琲への愛情と、人々を思う心があってこそです」
津川も頷いた。
「これで、珈琲は将来幕府からもお認めいただけるでしょう」
その時、春之助が嬉しそうに現れた。
「お春、町中が大騒ぎじゃ」
「お父上」
「将軍様のお耳に届いたという話が伝わって、皆が祝福してくれておる」
春之助の目に涙が光った。
「お前の母さんも、きっと誇らしく思っているじゃろう」
「お母さん」
お春は母を思った。天国で見守ってくださっているだろうか。この栄誉を喜んでくださるだろうか。
夜になり、客が帰った後、お春は静かに珈琲を淹れていた。
心の中で思った。前世の田中美咲として学んだ知識が、この時代の人々の役に立ち、ついには将軍にまでお認めいただけるかもしれない。これほど嬉しいことはない。しかし同時に、この栄誉に見合う人間になれているだろうか。
享保の改革で実学を重視する吉宗様と、その改革を支える名奉行大岡忠相様がいたからこそ、珈琲の価値を理解していただけたのだろう。時代と人との巡り合わせの妙を感じずにはいられない。
そして信之さんは今、どこで何をしているのだろうか。お春の胸に、切ない思いが舞った。この栄誉を一番に報告したいのは信之さんだ。しかし、今はそれも叶わない。
「信之さん」
お春は小さく呟いた。
「あなたがいてくださったら、どんなにか心強いでしょう」
そして、近江屋の妨害も終わる。これで安心して商いができる。しかし、お春は思った。近江屋さんも、きっと自分なりに必死だったのだろう。商売の競争は厳しいものだ。許すことができても、忘れることは難しい。
お春は窓の外を見た。江戸の夜空に星が瞬いている。
今日という日は、お春にとって人生最大の転機となった。将来的に幕府からのお墨付きを得て、珈琲が正式に江戸の薬草として認められる道筋がついた。
しかし同時に、大きな責任も背負った。これからは、この栄誉に恥じぬよう、さらに精進していかねばならない。
「珈琲推奨への道」
お春は心の中で呟いた。
「この重い責任を、信之さんがいらしてくださったら、きっと一緒に背負ってくださるでしょうに」
翌朝、春庵の前には既に人だかりができていた。将軍様のお耳に届いたという噂を聞いた人々が、珈琲を試そうと集まってきたのである。
「お春さん、おめでとうございます」
「将軍様にお認めいただいたという珈琲を、ぜひ飲ませてください」
嬉しい悲鳴を上げながら、お春は珈琲を淹れ続けた。しかし、心の片隅では思っていた。まだ正式に認められたわけではない。これからが本当の試練かもしれない。
その中に、青ざめた顔をした近江屋の姿があった。
「お春さん」
近江屋は震え声で話しかけてきた。
「この度は、誠に申し訳ございませんでした」
「近江屋さん」
「町奉行所からお叱りを受け、商人仲間からも厳しく注意を受けました」
近江屋の顔には、完全な敗北感が漂っていた。
「私の浅はかさが招いた結果です。どうかお許しください」
お春は静かに頷いた。
「分かりました。これからは、お互い正しい商いを心がけて参りましょう」
「ありがとうございます」
近江屋は深々と頭を下げて去っていった。お春は彼の背中を見送りながら思った。人は皆、それぞれの立場で必死に生きている。憎しみよりも、理解を示すことが大切なのかもしれない。
太助が嬉しそうに走ってきた。
「お春お姉ちゃん、すごいね」
「太助も聞いたのね」
「甚兵衛のおじさんが、『お春ちゃんは江戸一の商人になるかもしれない』って言ってたよ」
太助の瞳に憧れの光が宿っていた。
「僕も、お姉ちゃんみたいに立派になりたい」
「きっとなれるわ」
お春は太助の頭を撫でた。
「努力を続けていれば、必ず道は開けるから。でも、私はまだまだ未熟者よ。これからが本当の勝負なの」
初夏の陽射しが、希望に満ちた明日を照らしている。江戸の街に、新しい時代の風が吹き始めていた。
そして信之さんは今、どこで何をしているのだろうか。お春の胸に、青葉のような思いが舞った。この栄誉を、いつか信之さんと分かち合える日が来ることを信じて。
「幕府推奨への道」の看板が、初夏の風に静かに揺れていた。それは希望であると同時に、重い責任の象徴でもあった。




