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第17話「珈琲の薬効」

 皐月も下旬となり、初夏の陽射しが日毎に強さを増す頃。商人組合での勝利から一週間が過ぎた朝、お春は春庵の奥で一心に筆を走らせていた。


 机の上には、前世の医学知識を江戸の人々に分かりやすい形でまとめた珈琲の効能についての覚書が広げられている。珈琲の苦味が頭をすっきりさせること、身体の疲れを取る働きがあること、胃腸を丈夫にする効果。現代の知識を江戸時代の人々に理解してもらえる言葉に置き換えるのは、想像以上に骨の折れる作業であった。


「お春様」


 お松が奥座敷に声をかけた。


「柳田玄白先生がお見えでございます」


「玄白先生が」


 お春は筆を置いて立ち上がった。昨日の夜、使いを出して相談したいことがあると伝えていたのだ。


 座敷に現れた玄白の表情は、いつになく真剣であった。


「お春さん、昨夜いただいたお話の件でございますが」


 玄白は座ると、懐から一通の書状を取り出した。


「実は、志学の心厚き青木昆陽という若き儒学者がおられまして、その方からお返事をいただきました」


「青木昆陽と申される方から」


 お春の胸が高鳴った。青木昆陽と言えば、本草の道に志を持つ学徒として玄白から聞いたことがある。日本橋で生まれ育った町人出身でありながら、学問への探究心が深い人物である。


「珈琲の薬性について、ぜひお話を伺いたいと仰せです」


「本当でございますか」


「はい。今日の午後、神田の昆陽さんの書斎にお越しいただけるとのこと」


 お春は心の中で思った。これは絶好の機会だ。本草の道に志を持つ昆陽ほどの学徒に珈琲の真価を理解してもらえれば、江戸の学問の世界に少しでも影響を与えることができるかもしれない。


「ぜひ、参らせていただきます」


 午後、お春は玄白と共に神田の昆陽の書斎を訪れた。古い町家の一角を改装した小さな部屋は、漢籍や薬草の標本で埋め尽くされている。


 奥座敷で待っていたのは、二十代前半の知性あふれる男性であった。鋭い眼光の中に学者としての探究心がひしめいており、一目見ただけで志学の士であることが分かる。


「青木昆陽にございます」


 深々と頭を下げる昆陽に、お春も慌てて挨拶をした。


「春庵のお春と申します。お忙しい中、お時間をいただき恐縮でございます」


「いえいえ、珈琲という南蛮の薬草について詳しい方にお会いできるとは、こちらこそ光栄です」


 昆陽の声には、学者特有の知識への渇望が滲んでいた。


「柳田殿から伺いましたが、珈琲には頭の働きを良くする効果があるとか」


「はい。私の店では多くのお客様にお試しいただき、その効果を確かめております」


 お春は懐から覚書を取り出した。ただし、あまりに詳しすぎては怪しまれる。慎重に言葉を選ばねばならない。


「こちらに、気づいたことをまとめてございます」


 昆陽は覚書に目を通すと、次第に表情が変わっていった。


「これは…興味深い記述ですね」


「ありがたき幸せにございます」


 昆陽の声に感嘆の色が宿った。


「この『苦味の成分』というのは」


「珈琲豆に含まれる苦い部分の一つでございます」


 お春は前世の知識を慎重に江戸時代的に翻訳して説明した。


「この成分が頭の働きを活発にし、眠気を払い、物事をはっきりと考えられるようにするのです。ただし、これは私が不思議な夢で南蛮の医師に教わったことでして…」


「夢で、ですか」


 昆陽は興味深そうに頷いた。江戸時代では、夢でのお告げや啓示は十分に信じられる話である。


「何度も同じ夢を見まして、だんだんと詳しいことが分かるようになりました。まことに不思議なことでございます」


「それにしても、これほど詳しい観察記録とは」


 昆陽は感心した様子であった。


「それから、この『疲労を取る効果』についてですが」


「はい。珈琲を飲むことで、身体の疲れも心の疲れも和らぐように思われます」


 お春は続けた。


「これは珈琲の薬性が気血の巡りを良くし、五臓の働きを盛んにするためかと…ただし、私は学問を正式に学んだ者ではございませんので」


「いえいえ、その考えは本草の理に通じるものがありますな」


 昆陽の目が輝いた。


 心の中でお春は思った。江戸時代の医学体系で理解してもらえる表現を選ぶことが重要だ。そして、あまり知識を披露しすぎてはいけない。


「そして、胃腸への効果についてでございますが」


 お春は覚書の別の箇所を指した。


「珈琲は胃腸の働きを活発にし、食べ物の消化を助けるように思われます。これにより身体に栄養が行き渡り、体力の向上にも繋がるのではないでしょうか」


「実際に、どのような方法で確認されたのですか」


「私の店にお越しいただいたお客様の様子を注意深く見て、記録いたしました」


 お春は別の帳面を取り出した。


「こちらが実際の記録でございます」


 帳面には、客の職業、症状、珈琲を飲んだ前後の変化が記されていた。ただし、現代のような詳細すぎる医学記録ではなく、素人の女性が気づく範囲での観察記録という体裁を保っている。


「医師の方が三名、学者の方が二名、商人の方が十五名ほど…」


 昆陽は帳面をめくりながら、その記録に目を見張った。


「これは立派な観察記録ですね」


「ありがとうございます。ただし、私は女子の身でございますので、学問的なことは良く分からず…」


「しかし、これだけの記録をおまとめになるとは。お春さんは、何かお勉強をなさったことが」


「いえ、まったくの独学でございます」


 お春は慎重に答えた。


「先ほど申しました不思議な夢と、お客様との会話から学ばせていただいたことばかりです」


 その時、玄白が口を開いた。


「昆陽さん、実は他にも興味を持たれた方がおられまして」


「と申しますと」


「津川先生、木村先生も、後ほどお越しいただく予定でございます」


 お春は驚いた。


「皆様に」


「はい。珈琲の薬性について、江戸の医師が力を合わせて確かめてみる。これは学問の発展にとって意義深いことかと存じます」


 間もなく、二人の医師が到着した。皆、お春の覚書を興味深く読み、丁寧に質問を投げかけてくる。


「この苦味の成分の効果はどのくらい続きますか」


「人によって違うようでございますが、おおよそ四半刻から半刻ほどかと思われます」


「薬毒はございませんか」


「飲み過ぎますと夜眠りにくくなることがございますが、程よい量でしたら問題ないようです」


「程よい量とは」


「一日に茶碗一杯から二杯程度が良いのではないでしょうか」


 医師たちは次々と質問を投げかけてきたが、お春は常に謙遜の姿勢を保ちながら、前世の知識を少しずつ披露していった。


「驚くべき観察力ですね」


 津川が感嘆の声を漏らした。


「これだけの薬性が確かなら、珈琲を薬草として考えることも可能でしょう」


「薬草として、ですか」


「はい」


 昆陽が頷いた。


「我々が力を合わせて、珈琲の薬性を詳しく確かめる。そして、いずれは江戸の医師の先生方にもお伝えできれば」


 お春の胸が高鳴った。これは思いもよらない展開である。


「それは、可能なのでしょうか」


「享保の改革により、実学が重視されております」


 昆陽の声には確信があった。


「将軍吉宗様は、民の役に立つ学問を奨励なさっている。珈琲の薬性が確かめられれば、いずれはお認めいただけるかもしれません」


「将軍様に」


 お春は息を呑んだ。


「そうです。ただし、これは長い道のりとなるでしょう」


 木村が続けた。


「まずは我々が十分に確かめ、他の医師の先生方にもご理解いただかねばなりません」


「それは当然のことでございます」


 お春は感動で声を震わせた。


「では、まずは私どもで珈琲の薬性についてさらに詳しく調べさせていただきましょう」


 昆陽が立ち上がった。


「お春さんの観察記録と我々の医学的な見方を合わせれば、必ずや説得力のある報告ができるはず」


 それから二時間にわたって、学者たちとお春は珈琲の薬性について詳細な話し合いを続けた。


 苦味の成分の頭への働き、気血への影響、胃腸への効果。現代医学の知識を江戸時代の医学体系に翻訳しながら、一つ一つ慎重に説明していく。


「これは注目すべき発見ですね」


 津川が目を輝かせた。


「珈琲薬性考とでも呼ぶべき新しい研究の始まりです」


「珈琲薬性考」


 お春はその響きに感動した。


「素晴らしいお名前ですね」


「では、今度私どもの薬草談義の会でも話題にさせていただきましょう」


 昆陽が提案した。


「ただし、お春さんは女子でいらっしゃいますから、直接ご参加いただくのは難しゅうございます」


「もちろんでございます」


 お春は頷いた。時代の制約は理解している。


「しかし、お春さんの春庵で、私どもが定期的に珈琲の薬性について話し合わせていただくのはいかがでしょう」


「それは願ってもないことです」


「お春さんには、実際の観察結果をお聞かせいただき、我々が医学的な見地から検証する」


 木村も頷いた。


「きっと有意義な研究となるでしょう」


 夕刻になり、話し合いが一段落すると、昆陽がお春に向き直った。


「お春さん、一つお願いがございます」


「何なりと」


「来週から、春庵にて『珈琲薬性の吟味』を定期的に行わせていただきたいのです」


「薬性の吟味ですか」


「はい。江戸の医師、学者の方々に少しずつお集まりいただき、珈琲の真の価値を確かめていく」


 昆陽の提案にお春は胸を躍らせた。


「それは願ってもないことです」


「お春さんには、実際の効果について詳しくお聞かせいただく」


「私などが、そのような大それたことを」


「いえいえ、珈琲についてこれほど詳しく観察された方は他におりません」


 津川も頷いた。


「我々医師が医学的な検証を行い、お春さんが実際の様子をお話しいただく」


「きっと多くの先生方にもご理解いただけるでしょう」


 木村が最後に言った。


「そして、その成果をいずれは江戸の医学会にもお伝えする。道は長うございますが、珈琲の正式な認可も夢ではありません」


 お春は深々と頭を下げた。


「皆様のお心遣い、心よりありがたく存じます」


 家に戻る道すがら、玄白が感慨深く呟いた。


「お春さん、今日は記念すべき一日でしたね」


「記念すべき、ですか」


「はい。珈琲が単なる異国の飲み物から、薬草としての地位を得る第一歩が踏み出されました」


 お春は夕空を見上げた。薄紅色に染まった雲が、希望に満ちた明日を象徴しているように見える。


「玄白先生、この珈琲の研究が江戸の人々の健康に役立つものとなるでしょうか」


「きっとなります」


 玄白の声には確信があった。


「お春さんの観察力と我々医師の学問。この組み合わせがあれば、必ずや江戸に新しい薬草の知識を広めることができる」


 その夜、春庵に戻ったお春は、一日の出来事を振り返っていた。


 心の中で思った。青木昆陽という志学の心厚き学徒と知り合えるなど、夢にも思わなかった。ただし、女性の身として慎重に事を進めねばならない。時代の制約の中で、できることを一歩ずつ積み重ねていこう。


 明日からは、薬性の吟味の準備に取りかからねばならない。珈琲の薬効を、さらに多くの人々に理解してもらうために。


 そして、もしかすると将来は将軍吉宗様にもお認めいただく日が来るかもしれない。享保の改革で実学を重視する吉宗なら、珈琲の価値を理解してくださるはずだ。ただし、それは遠い未来のことだろう。


 お春は窓の外を見た。江戸の夜空に星が瞬いている。


 今日という日は、珈琲が江戸の学問の世界に受け入れられる記念すべき第一歩となった。そして、お春自身にとっても、転生後の人生で最も充実した一日の一つとなった。


「珈琲薬性考」


 お春は心の中で呟いた。


「この新しい研究が、どれほど多くの人々を救うことになるだろうか」


 初夏の夜風が、希望と共に珈琲の香りを運んでいく。江戸の街に、新しい薬草の知識が生まれ始めていた。


 そして信之さんは今、どこで何をしているのだろうか。お春の胸に、青葉のような思いが舞った。きっと信之さんも、この学問的な成果を喜んでくださるだろう。いつか再び会える日を信じて、今日という一歩を大切にしよう。


 珈琲の新しい時代の幕開けに、お春の心は希望で満たされていた。

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