第16話「商人大会議」
皐月の空が青く澄み渡る日の午後、春之助は身なりを整えて家を出た。初夏の陽射しが心地よく、街には青葉の香りが漂っている。
今日は江戸商人仲間の月次寄合がある日である。
「お春、すまぬが今日は大切な寄合がある」
春之助は朝から緊張した面持ちであった。
「昨夜、お久殿から使いが参りました。播磨屋様が、春庵のことについてお話をしたいと仰せで」
「春庵のことを、ですか」
「近江屋から申し立てがあったようじゃ」
お春は胸騒ぎを感じた。近江屋がついに本格的に動き出したのか。
「お父上、私も」
「いや、女子が商人の寄合に出ることはできぬ」
春之助は首を振った。
「しかし、お久殿のお計らいで、播磨屋の奥座敷から様子を窺えるよう手配してくださった」
「奥座敷から、ですか」
「屏風越しにな。直接は無理じゃが、話の様子は聞けるじゃろう」
日本橋の大きな商家、播磨屋の母屋では、既に二十人ほどの商人が座敷に集まっていた。呉服、薬種、米、油、茶、菓子。江戸を代表する商人たちである。
お春は奥座敷の屏風の陰から、静かに様子を窺っていた。隣にはお久が控えている。
「おや、春之助殿の娘の件とは、一体何の話でございましょう」
寄合の取りまとめ役、播磨屋主人が穏やかに申した。六十を過ぎた温厚そうな老人だが、その目には商人としての鋭さが宿っている。
「はい」
上座から、冷やかな声が響いた。近江屋主人である。
「春之助殿の娘が営む珈琲茶屋なる見世について、申し上げたいことがございます」
座敷に緊張が走った。
「この春庵なる茶屋は、身分を弁えぬ商いにて、江戸の秩序を乱しております」
近江屋の声は堂々としている。
「まず第一に、武士と町人の区別を曖昧にしております」
幾人かの商人が頷いた。
「第二に、遊女を客として迎え入れ、風紀を乱しております」
「第三に、女子の分際にて、商いの分をわきまえておりません」
座敷が静まり返った。屏風の向こうでお春は拳を握りしめた。
「春之助殿、いかが致しましょう」
播磨屋主人が問いかけた。春之助は深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。娘の不行き届きでございます」
「しかし」
その時、意外な声が響いた。薬種問屋、加賀屋の主人である。
「近江屋殿、少々お尋ねしたいことがございます」
「何でございましょう」
「春庵の商いについて、実際にご覧になったことはおありでしょうか」
加賀屋主人の問いかけに、座敷がざわめいた。
「見る必要などございません」
近江屋は鼻で笑った。
「噂で十分です」
「それはいかがなものでしょう」
今度は米問屋の主人が立ち上がった。
「私は実際に春庵を訪れたことがございます」
座敷の空気が変わった。
「あの娘御は、確かに若うございます。しかし、商いに向かう心は真摯そのもの」
「客の身分など一切問わず、ただ真心を込めて薬湯を淹れ、心の支えとなろうと努めております」
屏風の向こうで、お春は涙ぐんだ。
「私の女房も、春庵に通わせていただいております」
別の商人が立ち上がった。
「後妻として入った我が家で悩んでいた女房が、あの娘御のお陰で笑顔を取り戻しました」
次々に商人たちが立ち上がった。
「うちの倅も、春庵で算術を習っております」
「あの娘御の珈琲を飲んで、疲れが取れました」
座敷にどよめきが広がった。お春は驚いた。こんなに多くの方が春庵のことを知ってくださっているとは。
「皆様、それは商いの本分を見失った戯言にございます」
近江屋が声を荒げた。
「商いは利を得ることが第一。感謝だの真心だのは、商人には不要です」
その時、播磨屋主人が静かに口を開いた。
「近江屋殿」
「はい」
「あなた様は、商いを始めて何年になりますか」
「三十年でございます」
「その間、心から感謝してくれたお客様はおられますか」
近江屋の動きが止まった。
「商いをしてくださって、ありがたいと申してくれるお客様は?」
座敷が静まり返った。
「私は四十年商いをしております」
播磨屋主人の声は深みがあった。
「若き頃は、利ばかりを追い求めました。しかし、年を重ねて分かりましたのは、真の商いとは、人様にお役に立つことだということです」
座敷の商人たちが頷いた。
「近江屋殿、お聞きしたいことがもう一つございます」
「何でございましょう」
「春庵への商いの妨害について、どのようにお考えですか」
近江屋の顔が青ざめた。
「妨害など、致しておりません」
「加賀屋殿、いかがでございますか」
播磨屋主人は加賀屋主人を見た。
「実は」
加賀屋主人は重い口を開いた。
「近江屋殿から、春庵様への薬草の卸しを止めるよう申されました」
座敷にどよめきが起こった。
「さもなければ、今後の取引は一切致さぬと脅されました」
「それは本当でございますか」
播磨屋主人の声が厳しくなった。
「越前屋殿も同様のことを申されております」
米問屋の主人も頷いた。
「近江屋殿」
播磨屋主人が立ち上がった。
「他の商人に圧力をかけ、妨害を行うことは、商道に背く行いです」
座敷の空気が張り詰めた。
「春之助殿」
播磨屋主人は春之助に向き直った。
「お嬢様の商いについて、詳しくお聞かせください」
春之助は震える声で答えた。
「娘は毎日、心を込めて珈琲を淹れております。お客様の悩みに耳を傾け、少しでもお役に立てるよう努めております」
「身分を問わず、でございますか」
「はい。武士様も町人も、皆同じようにお迎えしております」
「それは素晴らしいことです」
播磨屋主人は微笑んだ。
「商いの本来の姿は、そのようなものだったはず」
座敷の商人たちも頷いた。
「近江屋殿」
播磨屋主人は近江屋を見据えた。
「あなた様の商いは、既に古きものとなっております」
近江屋の顔が真っ赤になった。
「利のみを追い、他人を蹴落とす商い。そのようなやり方では、真のお客様の心は動かせません」
「しかし」
「春之助殿のお嬢様の商いを、江戸商人仲間として正式にお認め申し上げます」
座敷に大きな拍手が響いた。
「そして、近江屋殿」
播磨屋主人は厳しい表情になった。
「今後、他の商人への妨害は一切おやめください。さもなければ、仲間より除名いたします」
近江屋は震え上がった。商人仲間からの除名は、商人としての死を意味するのだ。
「申し、申し訳ございませんでした」
近江屋は深々と頭を下げた。
「春之助殿、今後一切の妨害は致しません。どうかお許しください」
春之助は静かに頷いた。
「分かりました。こちらこそ、お騒がせ致しました」
寄合が終わり、奥座敷でお春は深々と頭を下げた。
「お久様、播磨屋様、皆様のお陰でございます」
「いえいえ、お春さんの日頃の商いが皆様の心を動かしたのです」
お久は微笑んだ。
「女房たちの根回しも効きましたが、最後は商人としての良心が勝ったのでしょう」
家に戻ると、春之助が興奮した様子で報告した。
「お春、やったぞ」
「お父上、お疲れ様でした」
「多くの商人が、お前の商いを認めてくれた」
春之助の目に涙が光った。
「お前の母さんも、きっと喜んでいるじゃろう」
夕方、珈琲茶屋に戻ると、既に何人かの客が待っていた。その中には、寄合に参加していた商人の使いの者もいる。
「春之助様からお聞きしました。おめでとうございます」
加賀屋の番頭が立ち上がった。
「今後ともよろしくお願い申し上げます」
「ありがとうございます」
お春は珈琲を淹れながら答えた。
「私は当たり前のことをしているだけです」
「その当たり前が、一番大切なのですね」
米問屋の番頭が感慨深く呟いた。
珈琲の香りが見世内に広がった。お客様たちの表情が和らいでいく。
夜になり、見世を閉めようとした時、太助が現れた。
「お春お姉ちゃん、おめでとうございます」
「太助も聞いたのね」
「甚兵衛のおじさんから聞きました。これで安心して勉強を教えられます」
太助の瞳に安堵の光が宿った。
「ありがとう、太助」
お春は窓の外を見た。江戸の夜空に星が瞬いている。
今日という日は、お春にとって大きな節目となった。商人として認められ、仲間を得た。そして何より、自分の信念を貫き通すことができた。
心の中で思った。前の世で学んだ「お客様を大切にする」という考え方が、この時代でも通じることが分かった。時代は違っても、人を思いやる心は変わらないのだ。
「お客様にお喜びいただける商い」
お春は心の中で呟いた。
「これからも、この気持ちを大切にして参ろう」
初夏の夜風に乗って、珈琲の香りが希望の明日へと向かっていく。江戸の街に、新しい商いの風が吹き始めていた。
そして信之さんは今、どこで何をしているのだろうか。お春の胸に、青葉のような淡い思いが舞った。きっと信之さんも、この勝利を喜んでくださるだろう。




