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第15話「女商人連合」

 卯月の夕刻、お春は丸屋を訪れた。藤の花が咲き始め、若葉の緑が美しく映える頃である。上品な暖簾が夕風に静かに揺れていた。


「お春さん、お待ちしておりました」


 お久が現れると、いつもの凛とした表情に温かな笑みが加わっていた。


「奥へどうぞ」


 案内された奥座敷には、既に四人の女性が席についていた。皆、それぞれ異なる商いを営む女房たちで、着物の質や帯の結び方にも個性が現れている。


「皆様、こちらが春庵のお春さんです」


 お久の紹介で、お春は深く頭を下げた。


「薬種問屋、加賀屋のお花さん。米問屋、越前屋のお鈴さん。油問屋、近江屋のお竹さん。茶屋、吉野屋のお民さん」


 近江屋と聞いて、お春は一瞬身を強張らせた。


「あの近江屋と申しますと」


「主人の兄が、あの近江屋の主です」


 お竹は苦い顔をした。


「しかし、兄弟とはいえ考え方は全く違います。兄のやり方には、以前から不審を抱いておりました」



「さて」


 お久は座り直すと、真剣な表情になった。


「お春さんのご難儀については、皆さんにお話しいたしました」


「ひどい話ですね」


 お花が眉をひそめた。


「新しい商いを潰そうとするなんて」


「まず、珈琲豆の件から」


 お久は小さな帳面を取り出した。


「お花さんのところで、長崎からの薬草仕入れの筋がありますね」


「ええ。薬草として珈琲豆を仕入れることは可能です」


 お春は目を見張った。薬草としての仕入れなら、問屋仲間の統制を受けない。


 心の中で思った。これは前の世でいう、既存の流通経路の盲点を突く方法そのもの。業界の枠を超えた調達という発想だ。しかし、この時代では「薬草」という別の名目で迂回するのが現実的な解決策だろう。


「ただし」


 お花は慎重に付け加えた。


「薬草問屋にも仲間内の申し合わせがございます。あまり大量に、頻繁にというわけには参りません」


「もちろんです。お心遣い、ありがたく存じます」


「次に、砂糖の件」


「米問屋でも、上方から取り寄せる砂糖がございます」


 お鈴が明るく答えた。


「甚兵衛さんにお分けすることは可能です。ただし」


 お鈴も慎重な表情になった。


「こちらも、一度に大量というわけには参りません。少しずつ、他の仕入れに紛れさせる形で」


「皆様、なぜそこまでしてくださるのでしょうか」


 お春は涙ぐんだ。


「当然のことですよ」


 お久は微笑んだ。


「女房同士、助け合うのは自然なことです」




「そこで提案があります」


 お久は立ち上がった。


「『江戸女房講』を作りませんか」


「女房講、ですか」


「はい。講とは、もともと村や町で行われてきた相互扶助の仕組みです」


 お久の瞳が輝いた。


「男衆には株仲間がありますが、我々女房にも昔からの智恵があります」


「ただし」


 お久は声を潜めた。


「あくまで女房同士の私的な助け合いとして。表立った組織ではありません」


「それに」


 お竹が慎重に付け加えた。


「主人たちには詳しく話さず、単に『女房同士の井戸端会議』程度に思わせておく必要があります」


 お春は江戸時代の女性の立場の難しさを改めて実感した。


「それなら、誰にも咎められません」


 お花が頷いた。



「具体的な活動を決めましょう」


 お久は帳面を開いた。


「第一に、仕入れの相互支援。ただし、少量ずつ、目立たぬよう」


「第二に、情報の共有。どこで何が起きているかの情報」


「第三に、お客様のご紹介。ただし、自然な形で」


「そして第四に、不当な圧力への共同対処。智恵を出し合って」


 お春は感動で胸がいっぱいになった。


「皆様、本当にありがとうございます」


「礼には及びません」


 お竹が微笑んだ。


「お春さんの珈琲茶屋は、我々女房にとっても大切な場所です」


「それに」


 お花は真剣な表情になった。


「太助という子の教育の話も心を打たれました。身分に関係なく学べるということの素晴らしさを、多くの人に伝えたい」


「しかし」


 お民が心配そうに言った。


「近江屋のことですから、我々の動きに気づけば、必ず反撃してくるでしょう」


「それは覚悟の上です」


 お久は毅然と答えた。


「ただし、表向きは何事もないかのように振る舞うことが肝心です」



 翌朝、早速変化が現れた。


「お春さん」


 お花が小さな包みを持ってやってきた。


「薬草として少しだけ仕入れてきました」


 豆を確認すると、品質は以前より良い。ただし、量はそれほど多くない。


「長崎の信頼できる薬草商から直接取り寄せました。ただし、毎回は難しいかもしれません」


 昼過ぎには、お鈴がやってきた。


「甚兵衛さんへの砂糖です。少しですが」


 包みの中には上質な白砂糖が入っているが、以前ほど潤沢ではない。


「しばらくはこれで凌いでください。次は来月になります」


 夕方には、思いがけない客が現れた。


「お春さん、お久さんからお話を伺いまして」


 上品な身なりの女性が、恥ずかしそうに頭を下げた。


「珈琲というものを、一度試してみたくて」


 その日だけで、二人の新しいお客様が訪れた。皆、女房講のメンバーからのご紹介だった。



 太助も元気を取り戻していた。


「お春お姉ちゃん、明日から新しいお客様に教えることになりました」


「新しいお客様、ですか」


「お民さんの茶屋の常連の方で、倅さんの算用を習いたいと」


 太助の瞳に、再び希望の光が宿っていた。


「ただし、お民さんから『決して目立ちすぎないように』と言われました」


「それは大切なことですね」


 お春も慎重に答えた。



 その夜、春之助が帰宅すると、一日の出来事を報告した。


「女房講、か」


 春之助は感心したように頷いた。


「母さんも、そういう繋がりを大切にしていた」


「お母さんが、ですか」


「商いは男だけでするものではない、といつも言っていた」


 春之助は遠い目をした。


「女房の智恵と人脈があってこそ、商いは成り立つのじゃと」


「お母さんらしいお言葉ですね」


「ただし」


 春之助の表情が急に真剣になった。


「近江屋も黙ってはいないじゃろう。女房同士の繋がりに気づけば、必ず手を打ってくる」


「はい。十分注意いたします」



 その夜、お春は日記に今日の出来事を記した。


 心の中で思った。前の世でも、女性のネットワークの力は知っていたが、江戸時代では更に慎重に、智恵深く進めなければならない。表向きは何事もないかのように振る舞いながら、密かに支え合う。これこそ、江戸の女房たちが培ってきた生き抜く智恵なのだろう。


 現代知識と江戸時代の現実を融合させることで、新しい可能性が生まれる。しかし、それには時代の制約を十分理解し、慎重に行動する必要がある。


 近江屋との戦いは、まだ始まったばかりである。しかし、もう一人で戦う必要はない。


 信頼できる仲間たち。それは何よりも心強い支えだった。


 そして、女房講の誕生は、きっと江戸の商業社会に静かな変化をもたらすだろう。


 女性の智恵と結束の力で。


 外では卯月の夜風が吹いている。藤の花の香りを運んでくる、新しい季節の風だった。


 お春は窓から見える星空を見上げた。


 信之さんにも、この喜びを伝えたい。いつか再び会える日まで、しっかりと春庵を守り続けよう。


 江戸女房講と共に。


 ただし、近江屋の反撃も予想される。明日からは、より一層の注意深さが必要になるだろう。


 春庵の小さな灯りは、江戸の夜に静かに、しかし確かに輝き続けていた。

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