第14話「近江屋の本格攻勢」
弥生も半ばを過ぎた頃、江戸の街には桃の花がほころび始めていた。しかし、珈琲茶屋「春庵」には冷たい風が吹き始めていた。
「お春さん、申し訳ありません」
堺屋源太の声に、いつもの明るさがない。顔も青白く、まるで病人のような様子である。
「どうされましたか」
「珈琲豆の件です」
源太は深々と頭を下げた。
「旦那から申し伝えるよう言われました。来月から、豆の値を上げさせていただくことになりました」
「値を、ですか」
「これまで一斤八百文でお卸ししておりましたが、来月からは一斤千五百文になります」
お春は息を呑んだ。一気に二倍近い値上げである。
「長崎からの仕入れ値が上がったそうで」
源太の言葉は歯切れが悪い。まるで偽りを述べているような、居心地の悪そうな様子だった。
「それに」
源太はさらに声を潜めた。
「月にお卸しできる量も、半分に減らさせていただくことになりました」
「正直にお話しください。何があったのでしょうか」
お春は静かに声をかけた。源太の様子から、これが単なる相場の変動ではないことを理解していた。
「実は」
源太は困った表情で周りを見回した。
「十組問屋の寄合で、春庵への卸しを控えるよう申し合わせがあったようなのです」
「十組問屋の、寄合ですか」
お春の心に氷のような冷たさが広がった。十組問屋。江戸の物流を支配する問屋の組合である。幕府公認の株仲間で、その決定に逆らうことは商いを続けることを諦めるに等しい。
「近江屋さんが音頭を取って、『身分を弁えない商いを野放しにしていては、江戸の秩序が乱れる』と申しているそうで」
その日の夕方、さらに悪い知らせが続いた。
「お春ちゃん、困ったことになっただよ」
亀屋の甚兵衛が息を切らして駆け込んできた。
「砂糖問屋の仲間内で、甚兵衛には売るなって決められてるんだ。春庵と付き合いがあるからってな」
お春は愕然とした。珈琲豆だけでなく、和菓子作りに欠かせない砂糖まで。
「それだけじゃねぇ」
甚兵衛の声に怒りが込もっていた。
「お菊の縁談も急に破談になった。相手の家から、『春庵と関係の深い家とは縁組できない』って言われただよ」
お春は拳をきつく握りしめた。商いへの妨害だけでなく、協力者の家族にまで害が及んでいる。
翌日の朝、太助が青い顔でやってきた。
「角屋の竜之助さんが来ないのです。昨日の約束の刻限になっても現れません」
「太助」
「角屋さんを訪ねてみましたが、門前払いでした。『もう来るな』と言われました」
太助は涙ぐんでいた。
「越後屋からも、大名家の指南は取りやめにしてもらうと連絡がありました」
お春は言葉を失った。太助の天才ぶりが認められ、ついに大名家からも依頼が来るまでになっていたのに。
昼過ぎ、柳田玄白がやってきたが、いつもの穏やかな表情ではない。
「お春さん、実は医師仲間から忠告を受けました」
「忠告、ですか」
「春庵に通い続けると、患者を失うかもしれないと。有力な商人たちが、春庵と関係のある医師には患者を紹介しないと言い出しているそうです」
お春は愕然とした。医師たちにまで圧力をかけているとは。
「しかし、私は春庵を見捨てるつもりはございません」
玄白は毅然と言った。
「ただし、他の医師たちは」
「分かりました。玄白先生にまでご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
その夜、春之助が深刻な表情で帰宅した。
「今日、問屋街を回ってきた。どこも同じ返事だった。春庵との商いは控えるようにとの達しが回っているそうじゃ」
「お父上」
「近江屋が十組問屋の寄合で根回しをしているらしい。『珈琲という怪しい薬物を扱う見世』とも言いふらしているそうじゃ」
お春は怒りで身体が震えるのを感じた。珈琲を薬物扱いするとは。
その時、太助が心配そうに声をかけた。
「僕のせいでしょうか。僕が身分を超えて教授なんかしたから」
「違います」
お春は太助の肩に手を置いた。
「太助は何も悪くありません。悪いのは、新しいものを認めようとしない古い考えの人たちです」
お春は一人で今後の対策を考えていた。
心の中で思った。前の世で経営していた店でも同業者からの妨害はあったが、ここまで組織的ではなかった。江戸時代の株仲間制度の結束力と排他性は想像以上である。
しかし、これは同時に弱点でもある。あまりに結束が強すぎるがゆえに、一度ひびが入れば崩壊も早い。新しい繋がりがあれば、必ず対抗できるはずだ。
江戸には、男性中心の株仲間に属さない人々がいる。特に、商いに関わる女房たちだ。
「お春お姉ちゃん」
太助が不安そうに声をかけた。
「お姉ちゃんは、必ず勝てると思いますか」
「必ず勝ちます」
お春は真剣な表情で答えた。
「太助、学問に身分は関係ありません。あなたが教えることで、多くの子供たちが学ぶ喜びを知ったのです。それは決して間違ったことではありません」
「はい」
「私たちには、近江屋にはない武器があります」
「武器、ですか」
「人の心です。珈琲の本当の価値を知っている人たち、春庵を支えてくれた人たちがおります」
翌朝、思いがけない客が現れた。見たことのない、上品な身なりの女性である。年の頃は四十ほど、堂々とした風格を持っている。
「失礼いたします。私は呉服商、丸屋の女房、お久と申します」
「お久様、いらっしゃいませ」
お春は慌てて迎えた。丸屋という名前に聞き覚えがある。日本橋でも名の知れた見世だ。
「実は」
お久は周りを見回してから、声を潜めた。
「女房仲間で、お噂を伺っております」
「噂、と申しますと」
「近江屋の件です」
お久の目に、鋭い光が宿った。
「あのようなやり方は、商人として看過できません」
お春は驚いた。
「実は、同じような思いを持つ女房たちが何人もおります」
「女房たち、ですか」
「はい。皆、近江屋のやり方には憤りを感じております」
お久は真剣な表情になった。
「江戸の商いは、男衆だけのものではありません。女房も、それぞれの見世を支えて参りました」
「そうですね」
「商家の女房は、帳場を預かり、得意先との付き合いを取り仕切り、時には主人に代わって商談もいたします」
お久の声に、強い誇りが込められていた。
「近江屋のように、十組問屋の力で新しい商いを潰そうとするのは、結局は男衆の妬みに過ぎません」
「そのようなことが」
「我々女房たちには、十組問屋とは違う繋がりがあります」
「違う繋がり、ですか」
「女同士の助け合いです」
お久は微笑んだ。
「子を育て、家を守り、商いを支えてきた女たちの知恵と人脈です。嫁入りで他家と結ばれ、実家との繋がりも保ち、近所付き合いも大切にする。そうした縁で結ばれた網の目のような関係があります」
お春は心の中で思った。これはまさに、前の世で学んだ女性の社会的ネットワークと同じ概念だ。時代は違っても、女性には独自の共同体を形成する力がある。
「江戸の商いで、女房の口利きがどれほど重要か、ご存知でしょうか」
「いえ、詳しくは」
「男衆は表の商談を取り仕切りますが、実際の信用や評判を決めるのは、多くの場合女房たちの評価なのです」
お久は続けた。
「『あそこの主人は良い人だが、女房が』とか『女房がしっかりしているから、あの見世は安心だ』とか。そうした女房同士の情報網が、実は江戸の商いを支えているのです」
お春は改めて江戸時代の商業社会の複雑さを実感した。
「もしよろしければ、一度お話ししませんか」
「はい」
お春は即座に答えた。
「ぜひ、お願いいたします」
「明日の夕刻、うちの奥座敷においでください」
お久は立ち上がった。
「他にも、五、六人の女房たちが集まる予定です」
「女房たちの、寄合ですか」
「そうです」
お久の目が輝いた。
「男衆には男衆の、女房には女房の商いがあります。近江屋が男の論理で攻めてくるなら、こちらは女の智恵で対抗いたしましょう」
お久が去った後、お春は胸の奥に希望の光を感じていた。
近江屋という強大な敵に立ち向かうためには、一人では限界がある。しかし、同じ思いを持つ仲間がいれば。
女房たち。江戸には、商いに関わる女性たちがたくさんいる。茶屋の女将、問屋の後妻、職人の妻。それぞれが商いを支え、時には主導している。
そうした女性たちが結束すれば、近江屋のような男性中心の十組問屋に対抗できるかもしれない。
お春は七輪で珈琲を淹れながら、新しい戦略を練り始めた。
近江屋は確かに強敵だ。江戸の商業制度を熟知し、組織力も資金力も桁違いに上である。
しかし、彼らには決定的に欠けているものがある。人の心を理解する力だ。
珈琲の本当の価値、教育の大切さ、身分を超えた人間の可能性。そうしたものを理解せず、ただ古い秩序にしがみつくだけでは、時代の変化についていけない。
「必ず勝ちます」
お春は静かに、しかし力強く呟いた。
近江屋との戦いは、これからが本番だ。しかし、お春にはもう迷いはなかった。
春庵が大切にしてきたもの、人の心を支えるという理念を貫き通す。それが勝利への道だと信じている。
外では桃の花が満開になり、弥生の風が吹いている。新しい季節の到来とともに、春庵にも新しい展開が待っているはずだ。
珈琲の香りと、女房たちの結束とともに。
そして信之さんは今、どこで何をしているのだろうか。お春の胸に、桃の花のような淡い思いが舞った。きっと信之さんなら、この困難を乗り越える知恵を授けてくださるだろう。
春庵の小さな灯りは、江戸の夜に温かく輝き続けていた。




