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第13話「天才の誕生」②

 藤吉は見世内を見回した。丁度、太助が竜之助に算用を教えている最中だった。


「身分も定かでない子供が、大見世の跡取りに物を教えるとは、世も末ですな」


「太助は優秀な子です」


「優秀、ですか」


 藤吉は冷笑した。


「しかし、身の程を知らぬと、思わぬ災いを招くものです」


「どういう意味でしょうか」


「商家の子弟教育というものは、単に算用ができれば良いというものではありません」


 藤吉の声が低くなった。


「商人の心得、得意先との付き合い方、暖簾の重み。そういったものを教えるのは、それなりの身分と学のある者でなければ」


「太助は一生懸命に」


「一生懸命なのは結構ですが」


 藤吉は嫌らしい笑みを浮かべた。


「世の中には、出る杭を打ちたがる者もおります。特に、新参者が調子に乗っていると思われた場合には」


 その言葉の裏に込められた脅しを、お春は見逃さなかった。


「それに」


 藤吉は太助を見つめて続けた。


「この子の素性について、詳しく調べさせていただきました」


「素性、と申しますと」


「親もない孤児ですな。どこの誰とも知れない子が、大見世の跡取りたちに物を教える」


 藤吉の目が光った。


「町奉行所でも、秩序を乱す行為として問題視しております。夜回りの与力なども、特に注意を払っているようですな」


 完全な脅しだった。江戸の治安を担う奉行所を使った威嚇である。


「春庵の皆様におかれましては、くれぐれもご注意くださいませ」


 藤吉はそう言うと、薄気味悪い笑いを残して見世を出て行った。



 しかし、太助への依頼は止まらなかった。翌週には、もっと大きな依頼がやってきた。


「恐れ入ります」


 現れたのは、格式高い羽織を着た男である。


「私は大名家御用達の商人、越後屋の用人でございます」


 越後屋。江戸でも最大級の呉服商である。


「実は、お得意先のお屋敷から、ご相談がございまして」


「いかなるご相談でしょうか」


 お春は身分の重さを感じて、より丁寧に応じた。


「若君の学問指南についてでございます」


 お春と太助は息を呑んだ。大名家の若君とは、想像を超えた話である。


「太助という童が優秀な指南をするという評判を、商人仲間から聞きまして」


「しかし、太助は身分の低い者で」


「それについては、越後屋を通じての依頼ということで、体裁を整えさせていただきます」


 用人は慎重に言葉を選んだ。


「ただし、正式な師範ではなく、算用の稽古相手という立場でございます。決して身分を超えた教育とは申しません」


 お春は用人の慎重さを理解した。確かに、身分制度の厳しいこの時代では、形式と体裁が何より重要だ。


「それでも、お引き受けいただけるでしょうか」


「はい」


 太助は緊張しながらも、きっぱりと答えた。



 二月が終わる頃には、太助の名前は江戸の商人層に広く知れ渡っていた。「春庵の太助」と呼ばれ、その教授法は「春庵式」として確立されていく。


 その日の夕方、柳田玄白が興味深い話を持ち込んだ。


「お春さん、津川先生と木村先生と相談して、『春庵式学習法』の正式な記録を作ることにいたしました」


「記録、ですか」


「はい。薬湯服用後の学習効果について、本草学的な観察記録です」


 玄白は小さな帳面を取り出した。


「これまでの記録では、薬湯服用後の学習者は、記憶力が二倍に向上し、算用能力が三倍に向上することが分かっています」


 お春は驚いた。そんなに具体的に効果が現れているとは。


「特に太助の場合、継続服用により、もはや大人の商人を上回る計算能力を身につけました」


「継続の効果、ですか」


「左様。薬というものは、一度の服用では効果が薄い。継続することで、気血の流れが根本的に改善され、天賦の才覚が開花するのです」


 玄白は続けた。


「ただし、これは本草学の立場から申し上げているのであって」


 玄白は声を潜めた。


「世間では、身分を超えた学問を危険視する向きもございます。慎重に進められることをお勧めいたします」



 その夜、お春は太助と話をした。


「太助、最近忙しくて大変でしょう」


「いえ、とても楽しいです」


 太助の瞳は輝いていた。


「僕が教えることで、皆が学問を好きになってくれます」


「それは素晴らしいことですね」


「お春お姉ちゃんのおかげです」


 太助は深々と頭を下げた。


「珈琲を教えてくれて、読み書きを教えてくれて。僕は本当に幸せです」


 お春の胸は温かくなった。太助の成長を見ていると、教育の本当の意味を改めて感じる。


 心の中で思った。前の世でも、薬草による学習効果は実証されていたが、それを江戸時代の本草学で説明し、実際に子供たちの能力向上に役立てることができている。これこそ、転生者として果たすべき役割かもしれない。


「ただし、太助」


 お春は真剣な表情になった。


「身分というものは、この時代では非常に重要です。決して驕ることなく、謙虚に振る舞うことを忘れてはいけません」


「はい」


 太助も神妙な表情になった。


「特に、大名家の方々への指南は、非常に責任重大です。一つ間違えれば、大変なことになります」


 お春は続けた。


「でも同時に、学問の素晴らしさを多くの人に伝えることができる、貴重な機会でもあります」


 太助の成長は、きっと多くの子供たちに希望を与えるだろう。身分や生まれに関係なく、学ぶことの素晴らしさを。


 しかし、それは同時に、既存の秩序を脅かすものとして、保守的な勢力の反発も招いている。


 転生者として、現代の価値観と江戸時代の現実の間で、どのように道筋を見つけていくか。それがお春に課せられた大きな課題であった。


 春庵から始まった小さな変化が、江戸の町全体に波紋を広げようとしていた。そして、その波紋は必ず、大きな嵐を呼ぶことになるだろう。


 だが今は、太助という一人の天才の誕生を、素直に喜びたい。


「春庵式」と名付けられた学習法。それは江戸時代の知恵と、前の世の知識が融合した、新しい教育の形だった。


 外では如月の雪がちらつき始めていた。新しい年の学問の季節が、静かに始まろうとしている。


 そして信之さんは今、どこで何をしているのだろうか。お春の胸に、淡い思いが雪のように舞った。

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三越
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