第12話「年末の奇跡」①
霜月も半ばを過ぎた頃、珈琲茶屋「春庵」に思わぬ客が訪れた。
「お春、ちょいと話があるんでな」
見覚えのある男の声に、お春は七輪から顔を上げた。立っていたのは近江屋の番頭、藤吉である。その後ろには二人の男が控えている。
「どのような御用でしょうか」
お春は丁寧に会釈したが、胸の奥に嫌な予感がよぎった。藤吉の表情は普段の愛想とは程遠く、氷のような冷たさを湛えている。
「旦那様からの仰せです」
藤吉は懐から一通の書状を取り出した。
「年内に、父上様の借財を全額お返しいただきたく」
お春の手が止まった。春之助の借財のことは以前から気になっていたが、具体的な金額や返済期限については詳しく聞かされていなかった。
「父の借財ですか」
「左様。三十両です」
「しかし、そのような大金を急に」
「急にとは心外ですな」
藤吉の口元に薄い笑みが浮かんだ。
「もとより年内返済のお約束だったはず。今さらお忘れとは申されますまい」
お春は返す言葉を失った。父から詳しい話を聞いていなかったとはいえ、商家の娘として借財に対する責任は理解している。
「もしお返済が滞るようでしたら」
藤吉は声を潜めた。
「月割の利足も含めて相談させていただくことになりましょう。この見世の権利も含めて、な」
藤吉の言葉に、お春は身体が震えるのを感じた。春庵を失えば、常連の皆様にも、太助やお雪にも迷惑をかけることになる。
「少々お時間をいただけませんでしょうか」
「年内までと申し上げております。師走も半ばを過ぎましたゆえ」
藤吉は冷たく言い放つと、連れの男たちと共に見世を後にした。
お春は七輪の前に座り込んだ。手が震えて、珈琲豆を掴むこともできない。
「お春さん、どうしただい」
背後から夕霧の心配そうな声がした。相変わらず文字の稽古に通っているのだ。
「実は」
お春は事情を説明した。夕霧は眉をひそめて聞いていたが、やがて小さく舌打ちした。
「近江屋のやり方は汚いねぇ。歳暮の時期に取り立てなんて」
「でも、借りたお金は返さなければなりません」
「そうだけど、普通はもう少し融通をきかせるもんよ。これじゃあまるで」
夕霧は言いかけて口を閉じた。だが、お春にもその先は分かっていた。まるで追い詰めるような、意図的な仕打ちに思える。
その夜、春之助が帰ってくると、お春は事情を話した。
「すまない、お春」
父は深く頭を下げた。
「わしの不甲斐なさで、お前に迷惑をかけて」
「お父上のせいではありません」
だが、お春の心は重かった。どう考えても三十両という大金を年内に工面する方法が思いつかない。
翌朝、お春はいつものように見世を開けた。だが、心配事が頭から離れず、珈琲の味にも集中できない。
「おや、今日は元気がないようですな」
最初の客は柳田玄白だった。彼はお春の表情を見て、すぐに気づいたようだ。
「少々、困りごとがありまして」
「差し支えなければ、お聞かせください」
お春は迷ったが、玄白の誠実な表情に押し切られるように、事情を説明した。
「なるほど、それは困りましたな」
玄白は珈琲碗を置いて考え込んだ。
「三十両となると、確かに大金です。しかし」
彼は顔を上げると、意外にも穏やかな表情を浮かべた。
「お春さん、この半年間、あなたがどれほど多くの人を助けてきたか、ご存知ですか」
「助けるなど、そのような」
「いえいえ、確実に助けておられます。私もその一人です」
玄白は静かに語り始めた。
「あの薬湯を初めて飲んだ時の驚き、今でも忘れません。頭が冴えて、患者様の診察にも集中できるようになりました」
お春は玄白の言葉を聞きながら、胸が温かくなるのを感じた。
「津川先生も、木村先生も、皆同じことをおっしゃっています。お春さんの薬湯のおかげで、より良い治療ができるようになったと」
「そのようなことが」
「それだけではありません。お絹さんの後妻の悩み、夕霧さんの自立への道筋、太助くんとお雪ちゃんの手習い。どれも大切な人助けです」
玄白は立ち上がると、深く頭を下げた。
「世話になりっぱなしでは、医者の名が廃ります。しかし、三十両という大金は」
「一人では難しくても、皆で力を合わせれば」
その時、見世の戸が開いた。堺屋の源太である。
「お春さん、玄白先生もいらっしゃるんですね」
源太はいつもより早い時刻の来訪だった。
「実は、気になることがありまして」
源太は腰を下ろすと、真剣な表情になった。
「近江屋が、珈琲豆の仕入れに圧力をかけているという話を聞きました」
「圧力、ですか」
「ええ。長崎の問屋に、お春さんへの豆の卸しを止めるよう働きかけているらしいのです」
お春は驚いた。借財の催促だけではなく、商売そのものを潰そうとしているのか。
「しかし、うちの旦那は義理堅い方です」
源太の表情が明るくなった。
「お春さんには世話になったから、むしろ特別に安く卸すと申しております」
「そんな、とても」
「それに」
源太は声を潜めた。
「旦那が申すには、近江屋のやり方は商人の道に外れているそうです。同じ商人として見過ごせないと」
昼過ぎ、亀屋の甚兵衛が息を切らして駆け込んできた。
「お春ちゃん、大変だべぇ」
「どうされました」
「噂を聞いただよ。近江屋が無理な取り立てをしているって」
甚兵衛は額の汗を拭いながら続けた。
「あの野郎、商人の風上にも置けねぇ真似をしやがって」
「甚兵衛さん」
「お春ちゃんにはお菊も世話になってるし、うちの和菓子だって珈琲のおかげで売り上げが伸びただ」
甚兵衛は懐から小さな袋を取り出した。
「これは先月の利益の分け前だ。お春ちゃんがいなければ生まれなかった銭だからな」
「そのようなお金は受け取れません」
「遠慮するねぇ。それより、皆で相談したいことがある」
甚兵衛は声を潜めた。
「講を作らねぇか」
「講、ですか」
「ああ。春庵講ってな。お前を中心にした頼母子講だ」
お春は息を呑んだ。講とは江戸の町人たちが互いに助け合うための組織で、毎月決まった金額を出し合い、順番に大金を受け取る仕組みだ。
心の中で思った。前の世の知識では、これは現代でいう相互扶助組織のようなもので、江戸時代の庶民が大金を調達する、最も現実的な方法の一つだった。
「でも、そんな大金を」
「一人一両ずつなら、なんとかなる」
甚兵衛は指を折って数え始めた。
「俺、源太、玄白先生、清吉、豆腐屋のおかみ、八百屋の親父、米屋のおかみ、魚屋。これで八人。あと二十人ほど集まれば」
お春は驚いた。こんなに多くの人が自分のことを思ってくれているとは。
「しかし、皆様にそのような」
「何を言ってるんだい。お前のおかげで、俺たちの商売も良くなった。恩返しってもんだろう」




