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第10話「結婚の申し出」④

「しかし、母さんが亡くなってから、すべてが狂い始めた」


「お父上」


「一人では何もできなかった。母さんがいかに大切な存在だったか、失ってから初めて気づいた」


 春之助は拳を握りしめた。後悔と自責の念が、その表情に深く刻まれている。まるで自分を罰するような、苦しい表情だった。


「それで無茶な商売に手を出して、大火で店を失って、今の状況だ」


「それは」


「お春、父さんはお前に同じ苦労をさせたくないんだ」


 春之助の声には、娘への深い愛情が込められていた。しかし、同時に自分の失敗への恐怖も混じっている。その複雑な感情が、声に震えとなって現れていた。


「近江屋なら安泰だ。跡取り息子の嫁になれば、一生食べることに困らない」


「でも、私は珈琲茶屋が好きなんです。そして、母上も商売の才能を認めてくださったんでしょう?」


「好きだけでは食べていけない」


「そんなことはありません」


 お春は立ち上がった。膝立ちになって、父の目をまっすぐに見つめる。その瞳には、母譲りの強い意志が燃えていた。


「実際に多くのお客様に喜んでいただいて、商売として成り立っています。日に十杯売れれば一日百文、月に三十両の売上になります」


 具体的な数字を出されて、春之助の表情が変わった。商人としての経験が、その計算の正確さを理解していた。


「三十両?月に?」


「はい。材料費を引いても、月に二十両の利益は残ります。借金の三十両なら、一年半で返済できる計算です」


 お春の冷静な計算に、春之助は驚いた。商人の娘らしい、確かな計算能力がそこにあった。妻譲りの商売の才能が、確実に受け継がれている。


「ただし、近江屋からの妨害があれば話は別です」


「妨害……」


「はい。でも、それに負けない方法もあります」


 お春の目に、強い決意の光が宿った。それは母親譲りの、意志の強さを表す美しい光だった。


「医師の先生方、甚兵衛さん、夕霧さん。多くの方が支えてくださっています。一人じゃないんです」


 春之助は娘を見上げた。その瞳に宿る光は、確かに妻譲りの強さがあった。同じ意志の強さ、同じ美しい決意が燃えている。まるで亡き妻が娘の中に蘇ったような感覚に、胸が熱くなった。


「母上なら、きっと私の選択を理解してくれるはずです」


「お春……」


「お父上の借金なら、私が返します」


「そんな大金を」


「時間はかかりますが、必ず返します。だから、お願いです」


 お春は深く頭を下げた。額が畳に触れそうなほど深く。その姿には、娘としての愛情と、一人の女性としての誇りが込められていた。


「この縁談は、お断りください」


 長い沈黙が流れた。


 春之助は徳利を置き、深くため息をついた。娘の決意を感じ取り、自分の心の中で何かが劇的に変わっていくのを感じていた。妻の言葉が蘇ってくる。「女でも商売の才能があれば、男に負けない」。その言葉が、今は重い意味を持って心に響いていた。


「わかった」


「え?」


「お前の気持ちはよくわかった。母さんも、きっと同じことを言うだろう」


 春之助は立ち上がった。その背中は、先ほどより確実に真っ直ぐになっているように見えた。娘の意志の強さに背中を押されたような感じだった。父親としての責任感が蘇ってきた。


「明日、近江屋に断りの返事をしよう」


「お父上」


「ただし、条件がある」


「はい」


「一年半以内に借金を返すことだ。そして、近江屋からの妨害にも負けないだけの力をつけること」


「わかりました」


 お春の目から、安堵の涙がこぼれた。今度は嬉しさの涙だった。父に理解してもらえた喜びが、心を満たしていた。


「ありがとうございます」


「礼を言うのは父さんの方だ」


 春之助は娘の頭にそっと手を置いた。その手は温かく、深い愛情に満ちている。


「お前の強さを見て、母さんのことを思い出した。きっと天国で喜んでいるだろう」


 父娘は静かに抱き合った。互いの温もりを確かめるように、失いそうになった絆を大切に抱きしめるように。その瞬間、二人の間には新しい信頼関係が生まれていた。


 翌朝、春之助は約束通り近江屋を訪れた。


 お春は店で父の帰りを待っていたが、心配で仕方がない。近江屋のような大店の主人を怒らせて、大丈夫だろうか。もしかしたら、恐ろしい嫌がらせをされるかもしれない。商売ができなくなるかもしれない。


 昼過ぎ、春之助が戻ってきた。その表情は複雑だったが、以前より確実に堂々としていた。


「どうでしたか」


「やはり、激怒していた」


 お春の心臓が跳ね上がった。


「『商売ができなくなっても良いのか』と脅された」


「それで?」


「『娘が自分で商売をして借金を返すと申しております。近江屋様のお情けに甘えるわけにはまいりません』と答えた」


 春之助の声には、父親としての誇りが込められていた。娘を守るという強い決意が感じられた。


「最後に『後悔するぞ』と言われたが、もう迷いはない」


「お父上……」


 お春の目に涙が滲んだ。父が自分のために、大きな決断をしてくれたのだ。その勇気と愛情に、深く感動していた。


 その時、格子戸が開いて夕霧が現れた。約束通り、朝の勉強をしに来たのだ。以前より確実に明るく、希望に満ちた表情をしている。


「おはようございます」


 夕霧の表情は以前より遥かに明るく、希望に満ちている。文字を覚え始めて、少しずつ自信をつけているのが手に取るように分かった。その変化が、お春の心を温かくした。


「夕霧さん、いらっしゃいませ」


 お春は珈琲を淹れながら、昨日の出来事を思い出していた。自分も夕霧と同じように、自立への道を歩もうとしている。きっと、お互いに支え合えるはずだ。


「今日は何を学びましょうか」


「お春さん」


 夕霧は少し躊躇してから口を開いた。


「実は昨日、清吉さんから素晴らしい知らせがありました」


「どのような?」


「大きな仕事が決まって、身請け金の半分は工面できそうだと」


 夕霧の目には、輝くような希望が宿っていた。その光は、見ている者の心も明るくした。


「それは素晴らしいことですね」


「はい。でも、お春さんに教えていただいた文字の勉強も続けたいんです。清吉さんと一緒に商売ができるように」


 お春は深く頷いた。夕霧の成長が、自分の決意をさらに強くしてくれる。女性同士、支え合って生きていこう。


「もちろんです。一緒に頑張りましょう」


 春之助は店の隅で帳面をつけていたが、時々娘と夕霧の方を見て微笑んだ。その顔には、不安もあったが、同時に深い誇りも宿っていた。


 自分の娘は、確かに妻の血を引いている。きっと、立派にやっていけるだろう。そして、もう父親として逃げることはしない。


 珈琲茶屋「春庵」に、また平穏な日常が戻ってきた。しかし、それは新しい決意に支えられた、より強靭なものになっていた。近江屋との対立という試練も待っているが、今度は負けない。家族の絆と、多くの仲間の支援があれば、どんな困難も乗り越えられる。


 秋の風が格子戸を揺らし、風鈴が涼やかな音を響かせる中、三人の未来への歩みは静かに、しかし確実に続いていった。


 お春の胸には、母から受け継いだ商売の才能と、前世から持ち込んだ現代的な女性の自立意識が、しっかりと根を下ろしていた。どんな困難が待っていようとも、もう迷いはなかった。愛する人たちと共に、新しい時代を切り開いていくのだ。

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