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第10話「結婚の申し出」③

「お前の幸せを思ってのことだ」


 春之助は顔を上げた。その目には、深い悔恨と愛情が混じっている。娘への愛がある一方で、自分の不甲斐なさへの絶望も深く刻まれていた。


「近江屋は大店だ。跡取り息子の嫁になれば、一生食べることに困らない」


「私は幸せです。今のままで」


「今のままでは、いつまで続くかわからん」


 春之助の声が激しく震えた。拳を膝の上で握りしめて、自分の無力さに打ちひしがれている。その姿は、見ているお春の心を引き裂くように痛ませた。


「借金取りは日に日に厳しくなっている。来月までに三十両を返さなければ、家も店も取られてしまう。お前も、お松も、路頭に迷うことになる」


「でも、珈琲茶屋は成功しています。借金だって、時間をかければ返せます」


「時間がないのだ」


 春之助は拳で膝を激しく叩いた。その音が店内に響く。まるで運命に抗議する最後の叫びのような、悲痛な音だった。


「それに、近江屋のような大店を断ったら……」


 春之助の言葉が途切れた。しかし、その恐怖は十分に伝わってきた。全身が震え、顔は青ざめている。


「どうなるのですか」


「商売ができなくなる可能性がある。仕入れ先を止められたり、客足が遠のいたり」


 お春は愕然とした。これは単なる縁談の話ではない。生死をかけた選択だった。


「なぜもっと早く相談してくださらなかったのですか」


「娘に心配をかけたくなかった」


 春之助の目から、一筋の涙がこぼれた。それが畳の上に小さな染みを作る。その涙は、父親としての愛情と無力感の象徴だった。


「お前は一生懸命に頑張っている。その努力を無駄にしたくなかった」


「無駄になんてなりません」


「しかし、現実は厳しい。商売の世界では、女一人でできることには限りがある」


 お春の胸に、激しい反発心が火山のように燃え上がった。全身が熱くなり、頭に血が上る。前世での価値観が、強烈に心を揺さぶった。女性だからという理由で可能性を否定されることに、激しい憤りを感じていた。


「私は道具じゃありません」


 その言葉は、お春自身も驚くほど強い調子で出た。声が震え、感情が溢れている。まるで別人のような、力強い声だった。


「お父上の借金のために、知らない男性のところに嫁ぐなんて」


「お春」


「私には私の人生があります。珈琲茶屋を続けて、多くの人の心を支えていきたいんです」


 お春の目に涙が滲んできた。しかし、それは悲しみの涙ではなく、怒りと決意の涙だった。前世から受け継いだ女性としての自立心が、激しく燃え上がっていた。


 春之助は黙り込んだ。娘のこんな強い反発は初めてだった。いつも従順だったお春が、これほど激しい感情を見せるとは。まるで別の人間になったような変化に、驚きを隠せなかった。


「お前の気持ちもわかる。しかし」


「わかりません」


 お春の声がさらに強くなった。感情が爆発寸前まで高まっている。


「わからないから、こんな話を勝手に進めるんです」


 そう言い残して、お春は奥の部屋に駆け込んだ。障子を激しく閉めて、畳の上に座り込む。涙があふれて止まらない。怒りと悲しみと絶望が、心の中で激しく渦巻いていた。


 その夜、深夜になってもお春は眠れずにいた。


 父との言い争いが頭の中で何度も繰り返される。あんな風に父を責めて良かったのだろうか。でも、自分の人生を勝手に決められるのは我慢できない。前世で当たり前だった女性の権利が、この時代では奪われてしまうなんて。


 胸の奥で、夕霧から受け取った珊瑚の髪飾りが小さく光っているような気がした。女性の自立。前世で当たり前だったことが、この時代では何と困難なことか。でも、諦めるわけにはいかない。


 ふと、居間の方から物音が聞こえた。そっと障子を開けて覗いてみると、春之助が一人で酒を飲んでいた。


 父の背中は、こんなにも小さかっただろうか。肩を落とし、徳利を手に持ちながら何度も深いため息をついている。その姿があまりにも哀れで、お春の胸が締め付けられるように痛んだ。まるで世界に一人取り残された老人のような、深い孤独感が漂っていた。


「お父上」


 春之助は振り返った。驚いたような、それでいてどこかほっとしたような表情を見せる。娘を見て、その目に微かな安堵の光が宿った。


「起きていたのか」


「眠れませんでした」


 お春は父の隣に座った。畳の上に正座して、春之助の疲れ切った横顔を見つめる。春之助は徳利を手に持ったまま、愛しそうに娘を見つめる。


「お春、父さんの話を聞いてくれるか」


「はい」


「昔、父さんが商売を始めた頃の話だ」


 春之助は遠い目をした。記憶の中の若い頃を思い出すような、懐かしそうで切ない表情になる。その目には、失われた青春への郷愁が宿っていた。


「二十歳の時、一人で上方から江戸に出てきた。何もない、文無しの若造だった」


 徳利を傾けて、酒を一口飲む。その仕草にも、昔の苦労が深く滲んでいる。まるで苦い薬を飲むような表情だった。


「必死に働いて、ようやく小さな呉服店を持てるようになった。お前の母さんと出会ったのも、その頃だった」


「母上のお話は初めてお聞きします」


「美しい人だった。お前によく似ていた」


 春之助の目が優しく細まった。愛する妻を思い出している時の、男性だけが見せる特別な顔になる。その表情には、深い愛情と失った幸福への哀愁が混じっていた。


「母さんも商家の娘でな。最初は父さんのような田舎者を相手にしてくれなかった」


「それでも結婚なさったのですね」


「ああ。三年かけて口説き落とした」


 春之助は苦笑いした。若い頃の自分を振り返るような、照れくささも混じった懐かしい笑いだった。その笑顔に、一瞬だけ昔の輝きが蘇った。


「母さんは賢い人だった。店の経営も手伝ってくれて、一緒に商売を大きくしていった。『女でも商売の才能があれば、男に負けない』といつも言っていた」


「素敵なお母上だったのですね」


「そうだな。二十年間、本当に幸せだった」


 春之助の表情が急に暗雲のように曇った。幸せな記憶から、残酷な現実に引き戻される瞬間だった。その変化があまりにも劇的で、見ている者の心を痛ませた。

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