第10話「結婚の申し出」①
秋風が立ち始めた九月の朝、珈琲茶屋「春庵」に得体の知れない重苦しい緊張感が暗雲のように立ち込めていた。
空気が刃物のようにひんやりとして、格子戸から入る風には桂の葉の湿った匂いが不気味に混じっている。店先の軒下に吊るした風鈴が、時折まるで警告のように不安な音色を響かせて秋の訪れを告げていた。いつもなら涼やかで心地よい音なのに、今朝は何かの前触れのように聞こえる。
お春は七輪で珈琲豆を焙煎しながら、父の春之助の様子を深く気にかけていた。昨日の夕方から、父の表情が石のように硬く、何度も身を裂かれるような深いため息をついている。いつもなら朝の準備を手伝いながら楽しげに話してくれるのに、今朝は奥の部屋で帳面を見つめたまま一歩も動かない。
パチパチと豆の弾ける音が響く中、春之助は時折顔を両手で覆うような仕草を見せる。その姿があまりにも憔悴し切っているので、お春の胸に氷のような不安が募った。まるで世界の終わりでも来るかのような、絶望的な表情を浮かべている。
「お父上、どこか具合でも悪いのですか」
春之助は店の奥で帳面を眺めていたが、娘の心配そうな声に顔を上げた。五十を過ぎた顔には、以前よりもさらに深い皺が刻まれ、髪にも白いものが目立つようになっている。呉服問屋の看板を下ろしてから、まるで十年も年を取ったような痛ましい変わりようだった。
「いや、心配いらん」
そう答えたものの、春之助の手は枯れ葉のように微かに震えていた。帳面を閉じる音が、いつもより大きく響く。まるで運命の扉を閉じるような、重く、絶望的な音だった。
お春は眉をひそめた。父の様子があまりにもおかしいのは確かだ。普段なら「今日はどんな客が来るかな」と楽しそうに話すのに、今日は口数も少なく、まるで死刑宣告を待つ囚人のような表情をしている。
その時、店の格子戸が地震のように重々しい音を立てて開いた。
現れたのは五十歳前後の威圧的な男性だった。上等な紺地の羽織に縞の袴、腰には重厚で高価な金細工の印籠を下げている。顔つきも鷹のように鋭く、明らかに身分の高い商人の威厳を全身から放っていた。足音さえも大地を踏みしめるように重々しく、一歩一歩に成功した商人の絶対的な自信と権力が込められている。その存在感だけで、店の空気が一変した。
「春之助さん、お約束の件でお邸いに参りました」
男性の声には、成功した商人特有の余裕と威厳が鋼鉄のように込められている。しかし、どこか急き込んだような、獲物を前にした猟師のような計算高い焦りも感じられた。まるで既に勝利を確信した将軍のような、鋭い光が目に宿っている。
春之助の顔が一瞬で死人のように青ざめた。血の気が完全に引き、唇も紙のように白くなっている。全身から生気が抜けて、まるで幽霊を見たような表情を浮かべた。
「あ、はい。近江屋さん」
近江屋。お春は記憶を必死に辿った。確か日本橋でも指折りの豪商で、呉服や薬種を扱う大店の主人だったはずだ。父がまだ呉服商をしていた頃、「あそこには永遠に敵わない」と何度も溜息まじりに名前を聞いたことがある。まさに雲の上の存在だった。
「こちらが娘のお春でございます」
春之助の声が上ずっている。普段の落ち着いた父とは別人のように、明らかに激しく動揺している様子だった。手も足も震えて、まるで借金取りに追い詰められた者のような狼狽ぶりだった。
近江屋の男性はお春をじっと見つめた。まるで高価な着物を選ぶ時のような、商品を品定めする冷酷な視線だった。顔立ち、立ち居振る舞い、着物の質、そして将来性。すべてを天秤にかけて計算高く値踏みしている。その目には人間を見る温かみがまったくなかった。
お春の背筋に、毒蛇に見つめられたような嫌悪感が電流のように走る。前世で田中美咲として生きた時代では、こんな風に女性を品定めするような男性は軽蔑の対象だった。その時の記憶が洪水のように蘇り、胸の奥に火山のような怒りがふつふつと湧いてくる。
「ほう、評判通りの美しいお嬢さんですな。年は?」
「十六でございます」
「十六か。ちょうど良い年頃だ」
近江屋の口元に、満足そうな笑みが浮かんだ。しかし、その笑みには人間的な温かみが微塵もない。まるで良い商品を見つけた商人の、計算づくの冷たい笑いだった。獲物を捕らえた狩人のような、残酷な満足感がそこにあった。
その笑みを見て、お春の胸に南極の氷のような冷たさが広がった。この人は自分を何だと思っているのだろう。人間ではなく、売買される商品としか見ていないのではないか。
「お春、お客様に珈琲をお出ししなさい」
春之助の声が激しく震えている。娘の目を見ることができずに、罪人のように俯いたままだった。その姿からは、父親としての威厳が完全に失われていた。
お春は慣れた手つきで珈琲を淹れた。しかし、心は嵐のように荒れ狂っていた。豆を挽く音も、湯を沸かす音も、いつもより何倍も大きく聞こえる。この近江屋という男性の訪問が、単なる商談でないことは火を見るより明らかだった。空気そのものが、何か恐ろしい運命を予感させていた。




